皆さんは、〝近代建築の三大巨匠〟の名をご存知でしょうか?
スイス生まれでフランスで活躍したル・ゴルビュジエ(1887-1965)、ドイツのルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエ(1886-1969)。 そして今日は、日本にも縁のある残りのもう一人、
フランク・ロイド・ライト
Frank Lloyd Wright
の命日・没後60周年にあたります。
ライトは1867年にアメリカ・ウィスコンシン州に住む牧師の長男として生まれました。
ウィスコンシン大学マディソン校の土木科を中退した彼はシカゴに移り住むと、叔父の紹介で建築家の事務所で働き始めました。
そして1年後、生涯にわたって師匠として尊敬することとなるルイス・サリヴァンがダンクマール・アドラーと共同設立したアドラー・サリヴァン事務所に移籍。
ここでその才能を見込まれ、1888年以降に事務所が請け負った住宅設計の殆どを任されるように。
まさに順風満帆の出世物語・・・という感じですが、ここからがハチャメチャというか、波乱万丈の人生が始まります。
同事務所で働き始めて7年目の時、事務所の仕事とは別に副業として直接住宅設計の仕事を請け負っていたことがサリヴァンにバレて、退職。
1893年に独立した彼は、以後17年間で200件近い建築設計を行い、プレイリースタイル(Prairie Style=草原様式)の作品で名を知られるように。
それは、当時のシカゴでは一般的だった屋根裏部屋や地下室をなくすことで建物の高さをチ抑えて水平線を強調し、室内も部屋を完全に区切らない独特な設計でした。
しかし有名になった彼に、またしても波乱が。
1904年に竣工した住宅の施主・チェニーの妻メイマーと不倫関係・・・つまりクライアントの奥さんと恋仲になってしまいます。
当時の彼には1889年に結婚した妻キャサリンとの間に6人の子供がいました。
その妻にライトは離婚を切り出しますが、当然ことながら拒否。
すると1909年、42歳の彼は設計事務所を閉鎖し家庭も捨てて、メイマーとニューヨークからヨーロッパへと駆け落ちしてしまいます。
2年後に帰国しウィスコンシンに戻りましたが、不倫と逃避行によって名声は地に落ち、仕事は激減。
それでも時と共に仕事が増えつつあった彼に、またしてもアクシデントが。
彼が使用人として短期的に雇った黒人の使用人カールトンが、辞める当日に愛人メイマーと彼女の連れ子2人、更にライトの弟子たちの合計7人を斧で斬殺した上邸宅に放火したのです。
たまたま仕事現場のシカゴに外出していたライトは難を逃れましたが、精神的に大打撃を被りました。
※メイマーからクビを宣告されたとか、弟子のひとりと確執があったとか、ライトの給料支払いが遅れた等々の説がありますが、カールトンが何も語らぬまま2ヶ月足らずで獄死したため、同機は不明。
そんなどん底の状態だった彼に新館設計のオファーをしてきたのが、日本の帝国ホテルだったのです。
これだけスキャンダルにまみれ打ちひしがれた彼によくぞ設計を発注したものだと感心しますが、プライベートのマイナスを差し引いてもその仕事ぶりを高く評価したという事なのでしょうネ。
1917年に来日した彼は、その後もたびたび来日して仕事を進め1919年に着工しましたが、予算超過と工期の遅れから帝国ホテル側と衝突し、結局完成を待たずに離日。
建設は彼の弟子・遠藤新の指導の元続けられ、1923年7月に竣工しました。
※この新館の落成記念披露宴が予定されていたのが、あの関東大震災が起きた9月1日でした。
開宴準備中の帝国ホテルは激震に襲われましたが、周辺の建物の殆どが倒壊したり出火する中、彼の設計した新館は小規模な損傷に留まり、結果的にライトの名声を日本で広める契機となりました。
なおこの新館は1968年に取り壊されましたが、その玄関部分は愛知県犬山市の『博物館明治村』に移築再建され、現在でも在りし日の姿を見ることが出来ます。
その後1930年代に入ると有名なカウフマン邸(落水荘)とジョンソンワックス邸の有名な2作を立て続けに発表し、彼は再び表舞台に返り咲きを果たしました。
カウフマン邸
帝国ホテル以外にも、日本でいくつかの設計を手掛け、また浮世絵の蒐集家でもあった彼が91歳でこの世を去ったのは、1959年4月9日のことでした。
果たして彼は、あの世で奥さんの元に戻ったのか、はたまた愛人ママーと再婚を果たすのか?
いや、泥沼の三角関係を続けているのかも・・・。