小さな巨人 | ナベちゃんの徒然草

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還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

・・・といっても、『ドカベン』の里中投手ではありません。

今日は、身長150cmに満たない小柄な体格ながら、明治時代後期の激動期に日本の外交を取り仕切った政治家・外交官、


 小村 寿太郎

の命日にあたります。

 

        

 

寿太郎は1855(安政2)年、日向国飫肥藩(おびはん=現在の宮崎日南市)の藩士・小村寛平の長男として生まれました。

1861年に藩校・振徳堂に入ると、そこで教鞭を取っていた藩きっての俊傑で、寿太郎より9歳年上の小倉処平に見込まれ、彼の推挙により明治維新後の1870年に長崎へ遊学。

※後に小倉処平は西南戦争に参戦し自刃しますが、小村はその遺児2人の面倒を見てその恩に報いています。

大隈重信が作った英語学校・致遠館で数ヶ月間英語を学ぶと、同年には藩の推薦を受けて大学南校(東京大学の前身)に入学。

 

                       

                     15歳の寿太郎

 

ここで成績優秀につき学費を免除される官費生となった彼は、5人の学友と共に政府に建白書を出すなどの留学運動を起こし、自ら第1回文部省海外留学生に選出され1875年にアメリカ・ハーバード大学へ留学し法律を学びます。

同大でも優秀な成績を挙げ、小柄ながら周囲から尊敬を集めた彼は弁護士を目指し、卒業後も現地に残って2年間法律事務所で実務研修をしました。

そして帰国後は1880年に司法省刑事局に入省し、翌年27歳の敵に旧幕臣の娘で17歳だった朝比奈満知子さんと結婚・・・後に二男一女をもうけます。

4年後には語学力と法律の知識を見込まれて外務省に転籍。

ところが上司は彼の卓越した能力を見抜けず、翻訳局という閑職に10年近く塩漬けにされ、同時期に父親が事業に失敗し小村家は破産・・・長男の寿太郎はその借金を背負うことに。

 

彼は翻訳の内職をして糊口を凌いだそうですが、この翻訳によって多くの知識を身に着け、それを披露したことで陸奥宗光の目に留まることになるのですから、人生は分かりません。

 ※陸奥宗光に関する過去記事は、こちら。(↓)


 彼の推薦によって1893年に清国代理公使を務めたのを皮切りに、駐韓弁理公使を経て外務次官に。

1898年には駐米・駐露公使を歴任し、1900年に起きた義和団の乱では、講和会議全権として事後処理にあたりました。

そして1901年には第一次桂内閣で外務大臣に就任し、日英同盟の締結に成功すると、1905年には日露戦争の講和会議に日本全権として臨み、ポーツマス条約締結に漕ぎ着けます。

 

 
          
ポーツマス講和会議での小村(左から3人目)


しかしこの条約が決して日本にとって有利なものではなかったため、日本では新聞などメディアに煽られ戦争に勝ったと思い込んでいた国民の不満が爆発。

帰国した小村は新橋駅で群衆に取り囲まれたり、日比谷焼き討ち事件が起きたりと大荒れ。

小村自身も自宅に投石されたため、家族との別居を余儀なくされたそうな。


全権としてポーツマスに向けて出発する際、小村は新橋駅で戦勝を祝う歓呼の人垣に囲まれて見送る桂に

「帰って来る時には、人気はまるで正反対でしょう」

と予言したそうですから、外交センスやバランス、先見性に優れた外交官だったことが伺えます。


1908年に第2次桂内閣で再び外務大臣に就任した彼は、幕末以来の不平等条約の撤廃・改正に尽力し、1911年には日米通商条約航海条約を調印し、関税自主権の回復を果たします。

その後日露条約締結や韓国併合に関わった彼は、同年に桂内閣が総辞職すると同時に政界を引退。

そこで精魂尽き果てたかのように、引退から僅か3ヶ月後の同年11月26日・・・結核療養のため滞在していた葉山の別荘で56歳の生涯に幕を閉じました。

当代一流の外務大臣と言える彼に関して詳しく知りたい方には、こちらのご一読をお勧めします。


 『小村寿太郎 近代随一の外交家その剛毅なる魂

                        (岡田幹彦・著 展転社・刊)

 

       

 

パスポートには156cmと記載していたものの、実際には145cm以下だったという小柄な彼ですが、ある時身長180cm以上あった清国の李鴻章と対面した際、

「日本人は皆閣下のように小さいのですか?」

と小馬鹿にされると、

「日本には、〝大男総身に知恵が回りかね〟という諺があります。」

と見事に切り返したとか。

また駐露公使として赴任した際は、大津事件で皇太子がケガをさせられたことで、皇太后がそれまでの日本公使に

「陛下も先年貴国で受けた傷が、時節の変わり目には痛みますの。」

 

とイヤミを言っては相手が言葉に窮するのを楽しんでいましたが、小村公使は


「日本にも欧州諸国同様、時として狂人が出まして意外な椿事を起こすのは困ったものです。」

 

と軽く受け流し、それ以後彼女の口から小言は出なくなったそうな。

何を言われても黙って微笑んでいるような政治家には、外交は任せられませんョネ。

そんなことを思いつつ、〝小さな巨人〟の冥福をあらためて祈りたいと存じます。


【余 談】

彼は 「これ以上読んだら失明する」 と医者に止められるほどの読書家だったそうですが、その原点は祖母・熊子の教育にあったとか。

彼女は寿太郎少年に義経や弁慶の故事などを面白く、また秀吉や源平の逸話から武士道の訓育を施してくれたとのこと。

その尊敬する祖母から、彼は毎朝暗いうちから行燈に火を灯して

「さあ寿太郎、起きて本を読みなさい!」

と命じられて育ったそうです。

ただ 「勉強しろ、本を読め」 と子供にガミガミ言うだけでは、ダメみたいですョ。
あせあせ

 

 

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