感覚経営 | ナベちゃんの徒然草

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還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

私のような昭和世代にとって、主としてビジネスマンには実業家として、また文学愛好家には詩人・小説家として親しみのある方だと思います。

今日は、その詩人経営者

 

堤 清二 氏 

の命日・七回忌にあたります。

       

 

清二氏は、1927(昭和2)年に、西武グループの創業者にして、衆議院議長も務めた代議士でもあった堤康次郎氏(1889-1964)と、彼の妾(後に入籍し本妻となった)青山操さんの間に生まれました。

(康次郎氏は、5人の女性との間に清二氏を含め5男2女をもうけています。)

 

その複雑な家庭環境と父親に対する反抗心・確執から、清二氏は東京大学経済学部入学直後、同級生で後に日テレの代表取締役会長を務めた氏家齊一郎氏に誘われて日本共産党に入党。

しかし1950年に共産党の分裂に伴い党中央から除名されると、翌年大学卒業後に肺結核の療養を経て、父・康次郎氏の秘書になり、この頃から詩を書き始めたとか。

 

         

                  堤 康次郎 氏

1954年に西武百貨店に入社し、翌年には取締役店長として百貨店運営を任されると同時に、処女詩集 『不確かな朝』 を発表し、1961年には室生犀星詩人賞を受賞。

そして1964年、東京オリンピック開催の半年前に父・康次郎氏が死去すると、清二氏が西武グループを継承する・・・とみられていましたが、結局後継者は、異母弟の堤義明氏に。

 

       

                  堤 義明 氏    

 

その義明氏と相互不干渉の確約を交わし、西武流通グループ(後のセゾングループ)を率いることになった清二氏は、阪急百貨店の清水雅会長を訪れて流通業の経営手法を学ぶと、スーパーマーケットの西友を急展開させて業務を拡大。

池袋西武百貨店に隣接する百貨店 『東京丸物』 を小佐野健治氏から買収して 『PARCO』(イタリア語で公園という意)を興し、全国に展開。

更に西武百貨店とPARCOを東急グループの本拠地・渋谷に進出させるなどして、当時二流百貨店と揶揄された西武百貨店を売上高で三越を抜き日本一の百貨店に育て上げました。


※ちなみに渋谷の公園通りは、このPARCOから命名されました。

また私個人としては、学生時代お世話になった吉野家が倒産した際、同社をグルーブに吸収して存続させてくれたことが実にありがたく、清二氏に対する好感度が一気に上がったことを憶えています。

(とは言え、私自身は辻井喬というペンネームで発表された彼の詩や小説は、殆ど読んでいませんが・・・。)

吉野家以外にもラコステ・ブランドで有名な大沢商会などの倒産企業を買収する一方でセゾン・カード、無印商品やファミリーマート、雑貨店のロフトやFM放送のJ-WAVE、大型書店リブロを展開。

またエルメスやラルフ・ローレン、イブ・サンローランやアルマーニなどの海外ブランドを初めて百貨店に導入するなど、その〝感覚経営〟は一世を風靡しました。


(この経営方針転換には、清二氏の1つ下の妹でフランスに留学した邦子さんの活躍が大きかったそうな。 清二氏曰く、7人の子の中で彼女が最も父・康次郎氏に性格が似ていたとか。)

しかしバブル崩壊により、金融機関からの借り入れに依存して事業の急拡大を進めていたセゾングループの経営は破綻し、1991年にセゾン・グループ代表を辞任。
(同グルーブは2000年に解体されました。)

 

その後は精力的に作家活動を展開し、1994年の谷崎潤一郎賞をはじめ多くの文学賞を受賞した清二氏が肝不全のために86歳でこの世を去ったのは、2013(平成25)年11月25日のことでした。

その亡くなる前年に、清二氏が応じた長時間インタビューが一冊の本にまとめられています。


  
『堤清二 罪と業 最後の「告白」 

                   (児玉博・著 文藝春秋・刊)


       

 

自ら語った父親や異母弟・義明氏との関係は、巷間言われていた確執や怨念とは違っていたこと。

一見温和な顔立ちながら、その経営姿勢は父譲りのワンマンかつ部下に完璧を求める独裁だったことには、少なからず驚かされました。


また幼少時、清二氏の家庭が極貧だったことにも・・・。

堤一族・西武王国に関して興味のある方は、是非ご一読を。

かつて三島由紀夫氏とも意外に深い交流があったという、ソニーの大賀氏同様芸術の感性を持った名経営者のご冥福を、あらためてお祈り致します。

 

 

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