今日は、1人の赤穂浪士の命日にあたります。
「えっ、赤穂浪士の命日って2月4日じゃないの?」
と訝る方もいらっしゃると思いますが、その日に切腹したのは46人。
1人だけそれを逃れた浪士がいるのです。 その人の名は
寺坂吉右衛門信行
吉右衛門は、1665(寛文5)年に、赤穂藩・浅野家家臣の寺坂吉左衛門の子として生まれました。
8歳の時に吉田兼亮の家に奉公に上がり、赤穂藩の足軽に。
主君・浅野長矩が松の廊下で刃傷に及び切腹すると、主人の吉田兼亮と共に赤穂城に駆け付けたものの、彼は足軽の身分だったことで大石内蔵助の用意した血判状には名が載せられませんでした。
しかし吉右衛門は身分を超えて同志の仲間入りを強く志願。
最初はためらっていた内蔵助もついにそれを認めます。
そして1702(元禄15)年12月14日、彼は念願叶って裏門隊の一員として討ち入りに加わりました。
ところが本懐を遂げて浪士の面々が泉岳寺に到着した時、彼の姿が忽然と消えていたのです。
これについては逃亡したという説、また大石内蔵助の命令により一行から離れ各方面ヘの報告役を仰せつかったという説、また彼が足軽だった故に内蔵助が温情をかけて切腹を免れさせたという説などがあるものの、真相は今もって分かっていません。
その後の吉右衛門は、浅野長矩の実弟・浅野長広(大学)が蟄居していた広島に行っていることが確認されており、これが内蔵助の密命説の根拠になっています。
一方逃亡説の根拠としては、彼が姿を消したことを上役の吉田兼亮が「不届き者である」となじり、また内蔵助も 「軽輩者であり構う必要なし」 と書状に書き記していることが挙げられています。
しかし個人的には、これは吉右衛門を公儀の追手から逃すための方便だったのではないか、と思えます。
現に大目付の仙石久尚は、彼を追跡しませんでした。
(もっとも、この大目付は浅野家贔屓だったそうですが・・・。)
その後の吉右衛門は吉田兼亮の娘婿・伊藤治興に奉公し、遠島に処された兼亮の遺児・兼直にも尽くしたといわれています。
ちょっと〝逃亡者〟には見えません。
伊藤家を出た後土佐藩主・山内家の分家に仕えた彼は、今からちょうど270年前の今日・1747(延享4)年10月6日に、83歳という長命でこの世を去りました。
一般的に赤穂浪士は四十七士と言われていますが、切腹しなかった彼を除外すると四十六士・・・果たして、皆さんはどちらが正しいとお考えですか?
私は討ち入りをした以上、吉右衛門も加えていいと思うのです。
だって、既に泉岳寺には彼のお墓もありますし。
きっとあの世では四十六士と酒を酌み交わしている・・・そう信じたいのです。