大東亜戦争に於いて、日本は数多くの優秀な人材を失いましたが、今日6月6日はその中でも特筆すべき逸材といえる
山口 多聞 海軍中将
の命日・没後75周年にあたります。
1892(明治25)年、旧松江藩士・山口宗義の三男として東京・小石川で生まれた彼は、「大楠公のようになって欲しい」 という父親の願いから、その楠正成の幼名・多聞丸に因み多聞と命名されました。
その願い通り、彼は日本初の工学博士となった父親の血を受け継ぎ幼少時から優秀で、開成中学を〝開校以来の秀才〟と言われ卒業。(と言っても決して秀才タイプではなく、在学時代は結構鉄拳を振るったそうですが・・・。)
更に特攻隊生みの親と言われる大西瀧治郎中将や、連合艦隊参謀長を務め玉音放送後に特攻機に乗り沖縄方面で消息を絶った宇垣纒中将ら錚々たる同期144名の次席で1912(明治45)年に海軍兵学校を卒業し、少尉候補生に。
その後第一次世界大戦に従軍するなど実績を重ねて順調に昇進し、1918年には大尉に。
1921(大正13)年から2年余りプリンストン大学に留学。
帰国後は海軍大学校を首席で卒業し中佐に昇進すると、1929(昭和4)年には全権委員随行員としてロンドン海軍軍縮会議に出席。
その帰国時には、戦利品のUボート乗り込みそのまま帰国するという、幹部候補にしては珍しい行動に。
潜水艦の威力に注目していたとはいえ、おそらく彼は大本営より現場重視・・・いや、現場好きだったのかもしれません。
そして1934年から2年余り日本大使館付武官として再渡米。
この時に同国の圧倒的な国力を目の当たりにした彼は、山本五十六共々強硬に対米戦争反を唱えますが、受け入れられず。
しかしいざ開戦と決まると、彼は勇敢な司令官に変身しました。
山本長官の薫陶を受け航空機の重要性を認識した彼は、真珠湾攻撃の際に第2航空戦隊司令官として空母 『飛龍』 に乗り、志願して作戦に参加。
第三次攻撃を進言するも、南雲司令長官から許可が下りず断念。
もしこのとき山口司令官の目論見通り更なる攻撃を加えていれば、戦況は大きく変わったといわれています。
そして1942年6月に行われた、運命のミッドウェー海戦。
山口司令官は同海戦を日米両海軍の決戦と捉え、空母を中心として機動部隊の結集・活動を主張しましたが、またしても受け入れられず。
結局、南雲司令長官の迷いから日本軍は主力空母 『赤城』・『加賀』・『蒼龍』 3隻と航空機322機を失い、戦死者3,500人(内100名は第一線のパイロット)を出すという大敗を喫することとなりました。
対するアメリカ軍は空母・駆逐艦各1隻と航空機150機を失い戦死者307人を出したのですが、その空母 『ヨークタウン』 を大破炎上させて一矢を報いたのが、山口司令官率いる 『飛龍』 から飛び立った艦載機だったのです。
しかしその 『飛龍』 も満身創痍。
山口司令官は部下に退艦を命じると加来艦長と共に残って軍艦旗を降ろし、自軍の魚雷により沈められた 『飛龍』 と運命を共にしました。
時に、49歳。
炎上する 『飛 龍』
大本営は国民の戦意低下を恐れ、このミッドウェー海戦の敗北を隠蔽すべく山口司令官の憤死を1年近く公表せず、また情報漏れを防ぐため負傷兵を1年近く各地の海軍病院に軟禁。
以前、拙ブログでご紹介した『昭和の名将と愚将』(文春新書・刊)で、当然のごとく彼は名将の中に列せられており、こんなエピソードが紹介されています。
山本五十六長官がブーゲンビル上空を飛ぶことを盗聴により掴んだ際、ニミッツ提督が、
「もし山本が死んでも次に有能なのがいると困るが、そういう人物はいるか?」
と確認したところ、部下が
「山口が優秀だが、既にミッドウェー海戦で死んでいる」
と答えたのを聞き、初めて山本の撃墜を指示したとか。
・・・敵にそれだけ評価された山口中将も凄いですが、そこまで把握していたアメリカ軍の情報収集力に寒気すら覚えます。
この有能な軍人に興味のある方には、この本をオススメします。
『山口多聞 ― 空母「飛竜」に殉じた果断の提督 』
(星 亮一・著 PHP文庫・刊)
久しぶりに同著を読み返しつつ、同期の宇垣中将をして
「餘の級中最も優秀の人傑を失ふものなり」
と、また同じく大西中将をして
「山口の死は一時に大艦数隻失う以上の損失」
と言わしめた、日本軍屈指の猛将にして、検閲のない妻宛ての手紙の末尾には、必ず
〝貴女だけのもの 多聞より 私だけのもの 孝子様へ
寝ても覚めても貴女のことばかり考えている多聞より
私の私の 孝子さんへ〟
と書き記す程の愛妻家だった山口中将のご冥福をお祈り致します。
それにしても、なぜ日本軍は優秀な人材程早く亡くなってしまったのか・・・。