〝ヌード〟とか〝ストリップ〟なんて言葉、今時の若者にはピンとこないかもしれませんが、私のような昭和世代の男性は何とも言えぬ郷愁を感じるのではないでしょうか。
そのヌードショーというか、ストリップショーが日本で初めて開演されたのが、今から71年前の今日・1947(昭和22)年1月15日のことでした。
場所は、東京・新宿三丁目の現在マルイ本館が建つ場所にあった、日活の封切り館・『帝都座』 という映画館・劇場。
ご覧の通り、結構立派な建物ですが、ここで行われたのが
額縁ショー
という出し物。 読んで字の如く、額縁の中で裸体の女性がポーズを取り、それをお客が見て楽しむ・・・というもの。(↓)
彼女たちは踊らずジ~ッとしていただけ・・・つまりは絵画の裸婦像に見立てて、猥褻性を薄めようとしたんですネ。
幕が開いてから閉じるまでは、ほんの10秒程だったそうですが、それでも定員420名の劇場に毎回約2,000名が押しかけたそうですから、その人気ぶりが分かります。
まぁこういう見世物って、ちょっとしか見られない方が興味をそそりますからネ。
この画期的(?)なショーを考案したのは、
秦 豊 吉 氏 (1892-1956)
彼は、歌舞伎役者・7代目松本幸四郎の甥で、東京帝国大学卒業後三菱商事に入社した秀才。
文学に造詣が深かった彼は数々のドイツ文学を翻訳し、中央公論社から単行本を出版してベストセラーになったことも。
そんな彼が1933年に東京宝塚劇場に勤務して日本劇場の運営に関わり、日劇ダンシングチームを育成。
そして1940年に同社の社長となり、同年には後楽園スタヂアムの社長も兼任。
終戦時は東宝の演劇担当副社長の要職にあったため、戦犯に指定され浪人の身となりましたが、1947年にこの額縁ショーを考案して成功を収め、1950年には帝国劇場の社長に就任し、ミュージカル公演を成功させるなどしました。
つまり日本初のストリップショーを実現したのは、単なるスケベおやじではなく立派な経営者だった、というわけ。
彼はこの興行に関して後にこう語っています。
「甲斐美和さんこそ、日本の舞台で美しい乳房を見物の前に露わした、最初の女性である。
甲斐さんは、色の白い人ではないが、美しい体格で、そこに縹渺たる苦心の照明を作用させたから、立派な立体画が出来上がった。
見る人も私も勿論この効果に感嘆した。」
と。 しかし同時に、
「この3年のハダカ・ショウを拝見すると、やはりどうにも贅沢な美しさが見られないのは遺憾千万であって、こういうショウは思い切って贅沢なものになるか、或は港町の酒と煙草のけむりの中の見世物になるかである。
これを美しく磨き上げる人がいないから、東京のこの種類のものが、波止場に近いものになつてしまつた。」
とも。 つまり彼はこのストリップショーを単なる猥褻な見世物ではなく、芸術として捉えていたんですネ。
21世紀のポルノ産業は、当時の人々には考えられない開放ぶりですが、果たして秦氏のように真面目にアートとして取り組んでいる業者はいるや否や。
もっとも、芸術作品として見ていたお客は当時から殆どいなかったとは思いますが・・・。