皆さんは、“John Mung ” という人物名をご存知でしょうか?
〝ジョン・マン〟と読めるこの名前、何やら中国系アメリカ人らしく聞こえますが、実は有名な日本人なのです。
タイトルの 『漂流』 が大きなヒントになるのですが・・・正解は
ジョン万次郎
こと、中浜万次郎のアメリカン・ネーム。
今日は、波乱万丈の人生を送った彼の命日・没後120周年にあたります。
学校の日本史の授業では、「江戸時代後期に海で遭難・漂流し、アメリカ船に救助されて渡米した漁師」・・・程度しか、教わらなかった私。
ところが調べてみると、彼の存在は江戸時代末期から明治維新以後の日本に大変な影響を与えていたのです。
1827年に漁師の次男として土佐に生まれた万次郎少年は、亡くなった父親の代わりに一家を支えるべく幼い頃から働き通し。
そして15歳の時に漁の手伝いで海に出たところ嵐に遭遇して遭難。
5日余りの漂流の果てに幸運にも無人島に辿りつき、そこで143日間サバイバル生活を送りました。
そして偶然通りかかったアメリカの捕鯨船 (※彼の愛称〝ジョン〟は、この船の名前ジョン・ハウランド号に由来) に助けられ、他の乗組員はハワイで降ろされたものの、万次郎少年はアメリカ行きを希望。
その利発さをホイットフィールド船長に見込まれ、日本人として初めてアメリカ本土の地を踏みしめたのです。
そして驚くべきは、この船長の取った行動。
何と彼は、無人島で拾ったこの東洋人少年の才能を見抜き、自らの養子にして学校に通わせたというのです。
万次郎少年もその好意に応えるべく必死に勉強し、英語や数学・測量、・船術を学び、首席を取るまでに。
卒業後数年は捕鯨船に乗って働きましたが、やがて帰国を決意。
ゴールドラッシュに沸くカリフォルニアで働いて渡航費用を稼ぎ、仲間のいるハワイへ・・・そして仲間2人と1851年2月、琉球上陸に成功します。
しかし当時の日本は鎖国状態だったため、彼らは薩摩藩や長崎奉行所から長期間にわたり尋問を受け、故郷・土佐に帰れたのは上陸から2年も経った後でした。
1852年、26歳の時に高知城下の藩校 『教授館』 の教授となり、後藤象二郎・岩崎弥太郎等に直接指導をしましたが、その後の万次郎青年の運命は日本を取り巻く国際情勢と共に大きく変化します。
帰国した頃の万次郎
日本に初めてネクタイを持ち込んだのも彼だと言われていますが、海外情勢に疎い幕府や土佐藩にとって、アメリカでの生活経験のある彼の存在は殊の外貴重だったのでしょう。
まもなく彼は土佐藩から士分として取り立てられ、出身地から取った 〝中浜〟 姓を名乗ることまで許されます。
そして幕府は彼を直参として江戸に呼び寄せ、老中の前でアメリカの事情について語らせ、来航2度目のペリーの通訳にも適任とされたのですが・・・オランダ語を介しての通訳の立場を失うことを恐れた老中や水戸藩などの保守派からスパイ容疑を持ち出され、通訳から外されてしまいます。
嗚呼、何という島国根性・・・しかし表立った活動はしなかったものの、日米和親条約締結に関し黒子役として適切な助言をしたのだとか。
1860年には批准使節団のメンバーとして咸臨丸に乗船。
船酔いで苦しむ勝海舟に代わり (実質的な船長として) 操船、上陸後は恩人・ホイットフィールド船長との再会も果たします。
子供の頃は働き詰めで寺子屋に行けず殆ど読み書きができなかった万次郎が、帰国後は薩摩藩の 『開成所』 教授、また明治維新後は開成学校(現・東京大学)の中博士(教授)まで務めたというのですから、本人でなくてもビックリの、まさに数奇な人生。
もし彼が漂流して生き延び、自らアメリカに渡って帰国しなかったら、日本の明治維新・西洋化の歴史は大きく変わっていたことでしょう。
1898(明治31)年11月12日、72歳でこの世を去った明治維新の隠れた功労者・中浜万次郎、いやMr.John Mung の冥福を祈りつつ、昼食には彼の大好物だったウナギのかば焼きを・・・あるいは夜、居酒屋 『ジョン万次郎』 で一献傾ける、なんてのはいかがでしょうか?