新しいアイコンをこーりや様に描いていただきました😇途中逆立ちしながらを含めて130回ぐらい凝視したんですがまじで可愛いので今後のモチベの8割を占めることになると思います。
それはさておき今回もまた和田川ネタです。新しいアイコンの可愛さについて語りだすとこの世の中の木を全て原稿用紙にしても足りません。
和田川はその名の通り和田地域を流れる河川で、錫山付近を源流とし木屋宇都、玉利、和田を経て木ノ下川と合流したのち錦江湾に注ぎます。
下流付近は河川の改良が十分ではなく令和の豪雨でも一度氾濫。その半面鹿児島市随一の昔からの橋や護岸といった遺構が現存する河川でもあります(またしても前回からの使い回し)
そしてそんな和田川には、ごく一部ながら人工的に流路が改修された区間があります。それが今回探索する旧河道です。
===↓他の和田川の探索はこちら===
・南軍馬橋(軍施設の名を残す古い橋)
・東軍馬橋(軍施設の名を残しアーチを持つ古い橋)
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地図濃い目の青線が今回の主題である和田川の旧河道、水色線が現在の流路です。
地図の右側の方から探索を開始していきます。
地図右側、旧河道と現在の流路との分岐地点付近には写真のような橋が架かっています。
こちらは森山橋という名前の橋。森山というのはこのあたりの小さな地名です。
詳細な架橋年月は不明ではあるものの、こちらも南・東軍馬橋と引けを取らない古い橋だと思われます。
森山橋の袂に鎮座する水神様。
年代等は掘られていません。今回探索する旧河道を開削した際のものかもしれませんが詳細は不明。
水神様からすぐ下流側に向かうと小さな水路が口を開けていました。
これが旧河道の分岐地点になります。
旧河道との分岐地点を橋上から。
水路より先の直線部分は人工的に開削された流路です。
現在の流路と別れて旧河道の探索を開始します。
旧河道はその跡地の半分以上が暗渠として残されており分かりやすいです。
ちなみに当然ながら川であった時代はこの三倍程度の川幅(ちょうどこの道路幅より少し広い程度)があったとは思います。
旧河道は宅地の間を縫うように進んでいきます。
割と急なカーブ。
写真左側で接続している道路は旧街道(山川路)の一部です。何気にこの旧街道の線形もまた旧河道の存在を物語っています。
カーブの先ではまた直線が続きます。
そして民家の脇に小さな水神様が祀られていました。
位置を考えるとこの旧河道に対するモノ?
やがて旧河道は国道225号線に衝突し姿を消します。
今まで旧河道のルート上にあった水路も左へと外れていきます。旧河道はここを正面、ちょうど歩道橋のあたりを流れていました。
国道225号線を渡り反対側の和田小学校の門前へ。
普段子どもたちが通るこの場所ですが、和田川の旧河道の跡になります。
そのことを知りながら歩いている生徒は多分在学生の中に一人もいないでしょうね。なんなら教師も知らなそう。
旧河道は門の手前で一気に北へと流れを変えます。
現在もその痕跡として、和田小学校の門のすぐ脇から細い暗渠が残されています。
休日に探索してるのですが平日にこんなところ通っていたら間違いなく不審者として通報されます。この写真の左はもう和田小の校庭ですからねこれ。
水路区間を抜けると別の道路に合流します。
なおこの区間、地図では現在の水路に併せた線形にしていますが旧河道はもう少し角度の浅いカーブだったかもしれません。
水路区間を抜けた先にある、和田小学校の校門。
和田小学校は1903年の開校です。元は森山小学校(=谷山小学校に統合済み)の分校として開校しました。
なお旧河道は和田小学校開校に併せて開削された…のではなく、開校後もしばらくは旧河道が和田小脇を流れていた様子。
校門のすぐ先で旧河道は現在の流路に合流します。
合流地点を反対側から見た写真。
森山橋側と同様に小さな水路の穴が空いている事が分かると思います。
合流地点より上流側。
このあたりは令和の豪雨で氾濫し、つい最近護岸の嵩上げが行われました。
今回はあまり存在を知られていない和田川の旧河道を探索しました。
川というものは意外と面白いモノが隠れているので機会があればぶらついてみるのもいいかもしれません。
今回はここまでとします。
===↓他の和田川の探索はこちら===
・南軍馬橋(軍施設の名を残す古い橋)
・東軍馬橋(軍施設の名を残しアーチを持つ古い橋)
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