ご本の紹介になっていない
【目次】
前書き
院志望→体系的→宗教社会学
関係→宗教学
最後に
前書きは宗教学のSのところへのリンク。
院志望以下は、お薦めの本が思いつかなかった話。
関係以下は、宗教関係者としての記述。決して宗教学関係者ではない。
気になった単語を調べて貰えればよいという形で書いた。全体を通じた論旨はない。長いと思ったら最後の方の「宗教学・宗教者学・宗教学者学」の項目だけ読んで頂きたい。
【前書き】
i君からご相談いただいた件について、携帯電話の操作が不慣れであることと、かなり長くなることが必定であったので、こちらに記述することにした。
また、宗教学のSと談合の結果、私とSがそれぞれ自分のブログで本を紹介することにした。Sが書いたものは以下のリンクより。
http://nirvanaheim.blog116.fc2.com/blog-entry-355.html
宗教学のまともな見解はSが書いてくれるだろうから、私は歪で独学丸出しの見解を語ろうと思う。まず概論を、そして3種類の要請に対する見解を述べる。
【院志望・現代宗教・歴史・洋書・社会性】
最初に相談された文面を見て、おそらく誰でもぱっと思いつくのが、エリアーデの世界宗教史だろう。ただ、全3巻ではあるのだが、1冊が分厚く、文庫版だと全8冊(うち6冊が本人の著)になっていた。
院志望者レベルというのを深く考慮しないとすれば、宗教学入門やそれに類する題名の本は、大抵問題ない。仮に過剰に困難な内容であった場合は、京都学派だろうから、それは後々読めばよい。だいたい、専門分野は別にすれば、入門書レベルのことを一通り学んでおくだけで、院試でもそう不利な扱いは受けない...はず。
エリアーデにせよ、初期宗教学の諸大家にせよ、神学者や教学研究者に比してさえ、偏っていないなどとは言えない。神学の方がむしろ、大前提を明らかにする分、誠実だとさえ言える。日本は宗教概念に最も色のついていない国だとは思うが、それでも洋書に信頼をおくなら、"study of religion"などと題名のついた、なるべく最近の本を読むことになるのだろうか。もちろん、内容はキリスト教が中心ないし規範になる。
分厚い本が嫌でなければ、エリアーデの世界宗教史を薦める。1冊でというなら、同じエリアーデの「聖と俗」なども、宗教学の一分野の体系的アプローチではある。聖だの俗だので言えば、デュルケームやオットーなのかもしれないが、それはまた詳しくなってから読めばいいことだ。
・筑摩書房 世界宗教史8冊セット
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480085603/
・ミルチャ・エリアーデ「聖と俗—宗教的なるものの本質について」
【体系的・専門レベル・教科書】
宗教の総合的体系を示すのは難しいが、宗教学の総合的indexを示すのでいいなら比較的容易になる。Sが見つけてきた以下の本など、ちょうどindex用に良さそうだった。
・棚次正和・山中弘 編著「宗教学入門」
http://www.minervashobo.co.jp/find/details.php?isbn=04146-6
体系的かと言われると甚だ疑問なので、お薦めするわけではない。また、各宗教の概説も疑問が多く、紛うことなき「初学者」向けに仕上がっている。この本に具体的な出典を示しながらケチをつけられるようになれば、それなりに勉強が進んだ証拠にはなるだろう。
宗教を体系的に理解しようと努め、ある程度成功した人は複数いるが、どれかが特に受け入れられているわけでもない。宗教学はいまだ、ケーススタディの域を出たとは言えない。
以下は一般市民への回答の例だが、参考にしては如何だろうか、とお茶を濁しておく。
宗教情報リサーチセンターFAQ
Q23.世界にどんな宗教があるのか、その概要が知りたいのですが?
http://www.rirc.or.jp/faq1.html#q23
【宗教社会学】
知らないですね、そんな分野。
あ、弓山先生が関わってるから、これにしとこ。
・井上順孝編「現代日本の宗教社会学」
【関係・時代背景・形而上学】
素人考えだと、比較宗教学、宗教史学、たぶん宗教哲学、をそれぞれ意味していると思える。最近の人は少し嫌な顔をするかもしれないが、比較宗教学なら、入口として中村元先生をお薦めする。
・中村元著「比較思想論」
他にも比較思想の本は幾つか書いているので、自分に合ったものを選ぶとよい。中村先生は、諸宗教(特に東洋宗教)文献への入口としても適切で、広説佛教語大辞典は部屋のインテリアに最適。
宗教史学の本ならば、時代背景は簡単に説明されるとは思うが、宗教に時代性というか「同時代性」があるのかについては怪しげなところなので、明確に言及はされないだろう。また、宗教哲学が宗教を哲学しているのかというと、甚だ疑問。なんにせよ、この要望を最初に見たとき、真っ先にグノーシス主義研究書を思いついたのだが、明らかにただの専門書なので除外した。
私個人の見解として、この項に相応しい著作が存在するとすれば、いわゆる宗教学ではなく神学ではなかろうかと思う。シュライエルマッヘル(つい文学青年様式で書きたくなる)を宗教学と無関係にしたとしても、彼が当時の諸宗教や時代、哲学と無関係だったわけではない。
また、神学はどこか根本的にメタ的な要素を持っているように私は感じる。とは言え、バルトだボンヘッファーだと神学そのものを薦めるわけではない。書名は敢えて挙げないが、カソリックのキリスト教「哲学」の本を読めば、他宗への悪口、時代背景、膨大な人名群、あらゆる思考体系、が詰まっている。
・教文館のキリスト教書部にあるキリスト教哲学の適当な本
【宗教学・宗教者学・宗教学者学】
宗教学を構築することが宗教することと乖離しているという発想には馴染めない。数学者は数学を創るが、数は創らない、などと言い出したら、幾つかの相容れない意味のどれかで気が狂ったと思われるだろう。
それはそうと、宗教学者とも宗教者とも言いがたい人物の著作を1つ紹介する。
・井筒俊彦「イスラーム思想史」
井筒俊彦が何学者なのかは知らないが、宗教一般の研究者でもないし、なにより著作一覧に本人の偏りがよく表れている。
それでも、初学者に何を薦めるかと漠然と聞かれたなら、これを薦めたい。日本では少し縁遠いイスラームの、井筒俊彦という少し古めだが世界的にも定評のある、膨大な文献に裏付けられつつも本人の宗教がそっと秘められた、この本をどう感じるかで、宗教と今後どの方向と距離で付き合っていけるかが大雑把に測れる。
日本人にはどこか縁遠く、やや古さを感じさせるが世界的には定評があり、膨大な文献を持ちながらも個性が表れる。これが宗教の外観でなくて何なのだろうか。
・西田幾多郎「絶対矛盾的自己同一」
http://www.aozora.gr.jp/cards/000182/files/1755.html
初学者が絶対に知ってはいけない宗教学、宗教哲学といえば京都学派だ。その首魁の1人が西田で、さらにその西田の名を燦然と輝かせているのが、この「絶対矛盾的自己同一」に他ならない。
別に上記リンク先の文章をマジメに読めとは言わないが、この文章が「宗教そのもの」だと思うかどうかは考えてほしい。この文章と宗教の関係をどう考えるかで、その人の宗教に対するセンスというか癖のようなものが、局所的ではあるが浮き彫りになるはずだ。
京都学派のもう1人の首魁である鈴木大拙に対して、西田がこの単語を発したとき、鈴木は西田に、この単語は的で区切るのか一息に読むのかと聞いたそうだ。そこで西田が、切らずに一息に読むと答えたところ、鈴木は膝を打って納得したと言い伝えられている。この話が本当かは知らないが、京都学派の説明に最適であると確信する。
・中村元「論理の構造」
最晩年の中村先生は、文献学者ではない。己一代の宗教を求めて得られなかった悲しき凡夫の姿がそこにはある。他にも「自己の探求」など、最晩年の著作は幾つかあり、通して読むと中村先生の悲劇がよく写し出されている。
だが憶えていてほしい。この本から与えられる苦痛は、求めて得られなかった苦痛そのものだ。大文献学者がその最期を宗教一般の祭壇に生きながら投げ出したのだということを、どうか憶えていてほしい。
・V.E.フランクル「意味への意志」
現代における宗教への要請を考えるならば、この本はよくまとまっている。新宗教、スピリチュアリティ、霊性などを従来宗教に対置して持ち出すのに飽きたら、こういう本を読んでみてはどうだろうか。
同著者の有名な「夜と霧」に、私は一箇所宗教を発見したのだが、独自説なので披露するのはやめておく。宗教は、収容所の中でも、何らの遜色も影響もなく存在する。
・神谷美恵子「生きがいについて」
やや押し付けがましい文体が、辻説法を受けているようで心地よい。
らい病患者、さらには「もがく肉塊」、が生きがい感を得るかという話は、中村元先生のもがくような最晩年と逆命題のようで面白い。宗教法人には、3年と生きられず意識も感じられない子どもを抱えた母親が来るが、そのときに母親ではなく子どもを見ながら宗教を考えてしまう人(父しか知らないが)にはお薦めする。
ここでは「健常者がかんがえた幸福」やパッと思いつくような現世利益はすべて死に絶えている。ここにおける現世利益とは何かを答えられない宗教には、力がない。
【最後に】
宗教がzeroであることは宗教者の望みだろう。
宗教がemptyであることは多くの直観を満足するだろう。
しかし、nullの場において宗教とは何であろうか。非可算濃度の零集合の宗教がわからなければ、宗教が現代的形式を獲得することは覚束ないだろう。特異点は正則性あってこそなのだから。
(角が立たないようにジャーゴンで記述しました)
前書き
院志望→体系的→宗教社会学
関係→宗教学
最後に
前書きは宗教学のSのところへのリンク。
院志望以下は、お薦めの本が思いつかなかった話。
関係以下は、宗教関係者としての記述。決して宗教学関係者ではない。
気になった単語を調べて貰えればよいという形で書いた。全体を通じた論旨はない。長いと思ったら最後の方の「宗教学・宗教者学・宗教学者学」の項目だけ読んで頂きたい。
【前書き】
i君からご相談いただいた件について、携帯電話の操作が不慣れであることと、かなり長くなることが必定であったので、こちらに記述することにした。
また、宗教学のSと談合の結果、私とSがそれぞれ自分のブログで本を紹介することにした。Sが書いたものは以下のリンクより。
http://nirvanaheim.blog116.fc2.com/blog-entry-355.html
宗教学のまともな見解はSが書いてくれるだろうから、私は歪で独学丸出しの見解を語ろうと思う。まず概論を、そして3種類の要請に対する見解を述べる。
【院志望・現代宗教・歴史・洋書・社会性】
最初に相談された文面を見て、おそらく誰でもぱっと思いつくのが、エリアーデの世界宗教史だろう。ただ、全3巻ではあるのだが、1冊が分厚く、文庫版だと全8冊(うち6冊が本人の著)になっていた。
院志望者レベルというのを深く考慮しないとすれば、宗教学入門やそれに類する題名の本は、大抵問題ない。仮に過剰に困難な内容であった場合は、京都学派だろうから、それは後々読めばよい。だいたい、専門分野は別にすれば、入門書レベルのことを一通り学んでおくだけで、院試でもそう不利な扱いは受けない...はず。
エリアーデにせよ、初期宗教学の諸大家にせよ、神学者や教学研究者に比してさえ、偏っていないなどとは言えない。神学の方がむしろ、大前提を明らかにする分、誠実だとさえ言える。日本は宗教概念に最も色のついていない国だとは思うが、それでも洋書に信頼をおくなら、"study of religion"などと題名のついた、なるべく最近の本を読むことになるのだろうか。もちろん、内容はキリスト教が中心ないし規範になる。
分厚い本が嫌でなければ、エリアーデの世界宗教史を薦める。1冊でというなら、同じエリアーデの「聖と俗」なども、宗教学の一分野の体系的アプローチではある。聖だの俗だので言えば、デュルケームやオットーなのかもしれないが、それはまた詳しくなってから読めばいいことだ。
・筑摩書房 世界宗教史8冊セット
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480085603/
・ミルチャ・エリアーデ「聖と俗—宗教的なるものの本質について」
【体系的・専門レベル・教科書】
宗教の総合的体系を示すのは難しいが、宗教学の総合的indexを示すのでいいなら比較的容易になる。Sが見つけてきた以下の本など、ちょうどindex用に良さそうだった。
・棚次正和・山中弘 編著「宗教学入門」
http://www.minervashobo.co.jp/find/details.php?isbn=04146-6
体系的かと言われると甚だ疑問なので、お薦めするわけではない。また、各宗教の概説も疑問が多く、紛うことなき「初学者」向けに仕上がっている。この本に具体的な出典を示しながらケチをつけられるようになれば、それなりに勉強が進んだ証拠にはなるだろう。
宗教を体系的に理解しようと努め、ある程度成功した人は複数いるが、どれかが特に受け入れられているわけでもない。宗教学はいまだ、ケーススタディの域を出たとは言えない。
以下は一般市民への回答の例だが、参考にしては如何だろうか、とお茶を濁しておく。
宗教情報リサーチセンターFAQ
Q23.世界にどんな宗教があるのか、その概要が知りたいのですが?
http://www.rirc.or.jp/faq1.html#q23
【宗教社会学】
知らないですね、そんな分野。
あ、弓山先生が関わってるから、これにしとこ。
・井上順孝編「現代日本の宗教社会学」
【関係・時代背景・形而上学】
素人考えだと、比較宗教学、宗教史学、たぶん宗教哲学、をそれぞれ意味していると思える。最近の人は少し嫌な顔をするかもしれないが、比較宗教学なら、入口として中村元先生をお薦めする。
・中村元著「比較思想論」
他にも比較思想の本は幾つか書いているので、自分に合ったものを選ぶとよい。中村先生は、諸宗教(特に東洋宗教)文献への入口としても適切で、広説佛教語大辞典は部屋のインテリアに最適。
宗教史学の本ならば、時代背景は簡単に説明されるとは思うが、宗教に時代性というか「同時代性」があるのかについては怪しげなところなので、明確に言及はされないだろう。また、宗教哲学が宗教を哲学しているのかというと、甚だ疑問。なんにせよ、この要望を最初に見たとき、真っ先にグノーシス主義研究書を思いついたのだが、明らかにただの専門書なので除外した。
私個人の見解として、この項に相応しい著作が存在するとすれば、いわゆる宗教学ではなく神学ではなかろうかと思う。シュライエルマッヘル(つい文学青年様式で書きたくなる)を宗教学と無関係にしたとしても、彼が当時の諸宗教や時代、哲学と無関係だったわけではない。
また、神学はどこか根本的にメタ的な要素を持っているように私は感じる。とは言え、バルトだボンヘッファーだと神学そのものを薦めるわけではない。書名は敢えて挙げないが、カソリックのキリスト教「哲学」の本を読めば、他宗への悪口、時代背景、膨大な人名群、あらゆる思考体系、が詰まっている。
・教文館のキリスト教書部にあるキリスト教哲学の適当な本
【宗教学・宗教者学・宗教学者学】
宗教学を構築することが宗教することと乖離しているという発想には馴染めない。数学者は数学を創るが、数は創らない、などと言い出したら、幾つかの相容れない意味のどれかで気が狂ったと思われるだろう。
それはそうと、宗教学者とも宗教者とも言いがたい人物の著作を1つ紹介する。
・井筒俊彦「イスラーム思想史」
井筒俊彦が何学者なのかは知らないが、宗教一般の研究者でもないし、なにより著作一覧に本人の偏りがよく表れている。
それでも、初学者に何を薦めるかと漠然と聞かれたなら、これを薦めたい。日本では少し縁遠いイスラームの、井筒俊彦という少し古めだが世界的にも定評のある、膨大な文献に裏付けられつつも本人の宗教がそっと秘められた、この本をどう感じるかで、宗教と今後どの方向と距離で付き合っていけるかが大雑把に測れる。
日本人にはどこか縁遠く、やや古さを感じさせるが世界的には定評があり、膨大な文献を持ちながらも個性が表れる。これが宗教の外観でなくて何なのだろうか。
・西田幾多郎「絶対矛盾的自己同一」
http://www.aozora.gr.jp/cards/000182/files/1755.html
初学者が絶対に知ってはいけない宗教学、宗教哲学といえば京都学派だ。その首魁の1人が西田で、さらにその西田の名を燦然と輝かせているのが、この「絶対矛盾的自己同一」に他ならない。
別に上記リンク先の文章をマジメに読めとは言わないが、この文章が「宗教そのもの」だと思うかどうかは考えてほしい。この文章と宗教の関係をどう考えるかで、その人の宗教に対するセンスというか癖のようなものが、局所的ではあるが浮き彫りになるはずだ。
京都学派のもう1人の首魁である鈴木大拙に対して、西田がこの単語を発したとき、鈴木は西田に、この単語は的で区切るのか一息に読むのかと聞いたそうだ。そこで西田が、切らずに一息に読むと答えたところ、鈴木は膝を打って納得したと言い伝えられている。この話が本当かは知らないが、京都学派の説明に最適であると確信する。
・中村元「論理の構造」
最晩年の中村先生は、文献学者ではない。己一代の宗教を求めて得られなかった悲しき凡夫の姿がそこにはある。他にも「自己の探求」など、最晩年の著作は幾つかあり、通して読むと中村先生の悲劇がよく写し出されている。
だが憶えていてほしい。この本から与えられる苦痛は、求めて得られなかった苦痛そのものだ。大文献学者がその最期を宗教一般の祭壇に生きながら投げ出したのだということを、どうか憶えていてほしい。
・V.E.フランクル「意味への意志」
現代における宗教への要請を考えるならば、この本はよくまとまっている。新宗教、スピリチュアリティ、霊性などを従来宗教に対置して持ち出すのに飽きたら、こういう本を読んでみてはどうだろうか。
同著者の有名な「夜と霧」に、私は一箇所宗教を発見したのだが、独自説なので披露するのはやめておく。宗教は、収容所の中でも、何らの遜色も影響もなく存在する。
・神谷美恵子「生きがいについて」
やや押し付けがましい文体が、辻説法を受けているようで心地よい。
らい病患者、さらには「もがく肉塊」、が生きがい感を得るかという話は、中村元先生のもがくような最晩年と逆命題のようで面白い。宗教法人には、3年と生きられず意識も感じられない子どもを抱えた母親が来るが、そのときに母親ではなく子どもを見ながら宗教を考えてしまう人(父しか知らないが)にはお薦めする。
ここでは「健常者がかんがえた幸福」やパッと思いつくような現世利益はすべて死に絶えている。ここにおける現世利益とは何かを答えられない宗教には、力がない。
【最後に】
宗教がzeroであることは宗教者の望みだろう。
宗教がemptyであることは多くの直観を満足するだろう。
しかし、nullの場において宗教とは何であろうか。非可算濃度の零集合の宗教がわからなければ、宗教が現代的形式を獲得することは覚束ないだろう。特異点は正則性あってこそなのだから。
(角が立たないようにジャーゴンで記述しました)
自分の経験でものを語るということ
【わたしの体験】
小学校で行われる前哨戦で男子が最終的に勝利することを約束された。
中学、高校は千年王国であり、そこには男子だけが住むことができた。
大学になると、僅かな女子が永遠の生命を与えられた。
最終的に、人間の男女比は、50:1ぐらいで落ち着く。
裁きを受けた者どもは、宗教団体にたむろする。
【総天然色 超体験対前経験】
ρが中原を「鼻血を出した豚のような声」と判断していたが、そんな豚を見たことがあるとは思えない。
体験を超越した観念を人間は自然と(※)想起しうるのか、それとも前経験的に知っているのか。
※自然は、それ自身、生成と消滅を繰り返している、という意の自然。
(考察中)
小学校で行われる前哨戦で男子が最終的に勝利することを約束された。
中学、高校は千年王国であり、そこには男子だけが住むことができた。
大学になると、僅かな女子が永遠の生命を与えられた。
最終的に、人間の男女比は、50:1ぐらいで落ち着く。
裁きを受けた者どもは、宗教団体にたむろする。
【総天然色 超体験対前経験】
ρが中原を「鼻血を出した豚のような声」と判断していたが、そんな豚を見たことがあるとは思えない。
体験を超越した観念を人間は自然と(※)想起しうるのか、それとも前経験的に知っているのか。
※自然は、それ自身、生成と消滅を繰り返している、という意の自然。
(考察中)
暴力の起源
小学校の思い出。
【合戦】
3、4年生頃だったろうか。一月以上にわたって続いた、休み時間の遊びがあった。それは、○○倒し合戦という名前で、○○には私のあだ名が入っていた。休み時間のたびに、クラスの男子の結構な割合と私が校庭にでて、暴力の応酬を繰り広げていた。
いわゆる喧嘩に相当するが、別に対人関係の問題があってやっていたのではなく、単にそういう遊びだったに過ぎない。また、中高生がよくやっているポーズとしての喧嘩ではなく、本当に相手をどう倒すかに傾注していたので、華々しく殴りあうなどという愚かな真似はせず、距離をとりながら隙をうかがい、気が向いたら投射武器で攻撃するなどの、正しい古代戦が展開されていた。
決定的な打撃を与える場面は少なかったものの、隙を見せると朝礼台から飛び蹴りが飛んでくるなどの緊迫した戦いが続いたような気がしなくもない。私は私で、わざわざクラスでも弱い方から叩くなど、理想主義の欠片もないありさまであった。
一月余りの戦いは、私が飽きた形で終了したが、仮に無条件降伏と戦後賠償を要求されたら、第二次合戦が起こっていたことは間違いない。
【最良の武器】
上記の遊びとは別に、2年生から4年生の間、年1回の割合で本気の喧嘩もしていた。喧嘩の発端はいつも同じで、上履きが目に当たったからであった。なぜ上履きが目に当たるような事態になったのか、自分でもよく覚えていないが、小学生は当たり前のように上履きを人に向かって投げるものなのだろう。
上履きほどの重量物が目に当たると激痛なので、痛みから回復すると(泣きながら)投げた本人に向かって全力で攻撃したものだった。すると、周りの同級生たちも自然とこの争いに参加し、なぜか闘牛のように私とクラス全員が戦っていたりした。
実は、こういったことが複数回あったので、それを遊びとしてやろうと提案されたのが上記合戦だったのだ。
【痛み】
結局、子どもの腕力などたかが知れたもので、蹴りがまともに入ってもちょっと痛い程度のことでしかなかった。
それより、先生から貰う罰の方が遥かに痛く、特に、3年の担任だったF先生の「もみじ」は畏敬の対象だった。太ももにビンタされた後に(小学生は常時半ズボン)手形がもみじのように残ることから、この名前がついた。もみじの跡は勇気の証でもあった。
しかし、さらに痛いものがあった。ドッジボールで先生が本気で投げた球である。これを受け損なったときの衝撃はかなりのものだったが、それでも先生の投げた球をキャッチするのは多くの生徒の目標だった。
やや余談になるが、小学生の頃、母もよく暴力をふるった。
子どもの頃の痛みのランキングは以下の通りであり、この順番で権威があった。痛みと権威は相関する。
先生が放つドッジボールの玉≧先生>母>子ども集団
【法】
子どもは暴力に怯えるが、結局は一過性でしかない。真に人間を恐怖せしめるのは肉体の痛みではない。子ども集団、学校内で最も恐ろしいのは、喧嘩でも先生でも女子でもなかった。子ども集団がもつ暗黙の法に触れることが何よりも恐ろしかった。
たとえば、学校内で大便することは大変な落ち度で、これが発覚すると、かなりの期間にわたり、子ども集団の序列で最下層に置かれた。他にも独自の価値観や美意識が無数にあり、集団を取り巻く環境と合わせて、学校生活を制限していた。
私が知る限り、子どものイジメというのは、子ども集団の道徳・倫理・法(以下、法)に触れた子どもに対する報復でしかなかった。そこに居たのは、いじめる側といじめられる側ではなく、一般市民と犯罪者だった。そして、犯罪の程度によって、その罪を負う期間も決まった。子どもを野蛮人程度にしか見ないから理解できないだけで、イジメとは、独特な子ども集団の正常な姿でしかない。
子どもの法は、明文化もされていないし、慣習的ですらなかったりする。しかし、そこには確実に法が存在し、誰一人そこから逃れられず、法に触れた時点での序列すら何の役にも立たない。なぜなら、それこそが序列を決定するものだったからだ。
以上からお分かり頂けたと思うが、子ども集団はプリミティブな人間集団の一類型でしかない。そこには曖昧ながらも秩序が存在し、社会を形成している。暴力はそこにおいて権威的ではあるが、絶対視されているわけでもない。子ども社会の法と無関係に先生に制裁されたとしても、それは子どもにとって本質的な恐怖を喚起しない。むしろ、法の外からの攻撃を耐えた勇者でしかない。
【恐怖】
真に私が恐れたのは、暴力を一切ふるわない父から嫌われることだった。
最も重要なのは序列である。父は序列で唯一にして最高の位置にあった。それがどのように決定されるかや、全順序か半順序かはともかく、最高序列との繋がりを絶たれることが何よりも恐ろしかった。
順序は人間のハタラキの重要部分である。順序は秩序の中核であり、最高秩序は最高価値を意味する。ツォルンの補題より、帰納的順序集合は極大元をもつので、一般の秩序は常に局所的な最高秩序をもつ。
【余談】
小学生の頃は、男子と女子に分かれて世界最終戦争を戦っていたが、他に経験者がいなくて困っている。もちろん、異なる秩序をもつ集団は不倶戴天の敵だからである。
女子は常に先生の権威(=先生の暴力の権威)をかさにきていたが、上述のF先生は男女平等に無価値扱いする素晴らしい先生で、男子からは大人気だった。
小学校とは、最高価値に向かって最終戦争を戦い抜く聖戦士たちの痕跡なのである。
【合戦】
3、4年生頃だったろうか。一月以上にわたって続いた、休み時間の遊びがあった。それは、○○倒し合戦という名前で、○○には私のあだ名が入っていた。休み時間のたびに、クラスの男子の結構な割合と私が校庭にでて、暴力の応酬を繰り広げていた。
いわゆる喧嘩に相当するが、別に対人関係の問題があってやっていたのではなく、単にそういう遊びだったに過ぎない。また、中高生がよくやっているポーズとしての喧嘩ではなく、本当に相手をどう倒すかに傾注していたので、華々しく殴りあうなどという愚かな真似はせず、距離をとりながら隙をうかがい、気が向いたら投射武器で攻撃するなどの、正しい古代戦が展開されていた。
決定的な打撃を与える場面は少なかったものの、隙を見せると朝礼台から飛び蹴りが飛んでくるなどの緊迫した戦いが続いたような気がしなくもない。私は私で、わざわざクラスでも弱い方から叩くなど、理想主義の欠片もないありさまであった。
一月余りの戦いは、私が飽きた形で終了したが、仮に無条件降伏と戦後賠償を要求されたら、第二次合戦が起こっていたことは間違いない。
【最良の武器】
上記の遊びとは別に、2年生から4年生の間、年1回の割合で本気の喧嘩もしていた。喧嘩の発端はいつも同じで、上履きが目に当たったからであった。なぜ上履きが目に当たるような事態になったのか、自分でもよく覚えていないが、小学生は当たり前のように上履きを人に向かって投げるものなのだろう。
上履きほどの重量物が目に当たると激痛なので、痛みから回復すると(泣きながら)投げた本人に向かって全力で攻撃したものだった。すると、周りの同級生たちも自然とこの争いに参加し、なぜか闘牛のように私とクラス全員が戦っていたりした。
実は、こういったことが複数回あったので、それを遊びとしてやろうと提案されたのが上記合戦だったのだ。
【痛み】
結局、子どもの腕力などたかが知れたもので、蹴りがまともに入ってもちょっと痛い程度のことでしかなかった。
それより、先生から貰う罰の方が遥かに痛く、特に、3年の担任だったF先生の「もみじ」は畏敬の対象だった。太ももにビンタされた後に(小学生は常時半ズボン)手形がもみじのように残ることから、この名前がついた。もみじの跡は勇気の証でもあった。
しかし、さらに痛いものがあった。ドッジボールで先生が本気で投げた球である。これを受け損なったときの衝撃はかなりのものだったが、それでも先生の投げた球をキャッチするのは多くの生徒の目標だった。
やや余談になるが、小学生の頃、母もよく暴力をふるった。
子どもの頃の痛みのランキングは以下の通りであり、この順番で権威があった。痛みと権威は相関する。
先生が放つドッジボールの玉≧先生>母>子ども集団
【法】
子どもは暴力に怯えるが、結局は一過性でしかない。真に人間を恐怖せしめるのは肉体の痛みではない。子ども集団、学校内で最も恐ろしいのは、喧嘩でも先生でも女子でもなかった。子ども集団がもつ暗黙の法に触れることが何よりも恐ろしかった。
たとえば、学校内で大便することは大変な落ち度で、これが発覚すると、かなりの期間にわたり、子ども集団の序列で最下層に置かれた。他にも独自の価値観や美意識が無数にあり、集団を取り巻く環境と合わせて、学校生活を制限していた。
私が知る限り、子どものイジメというのは、子ども集団の道徳・倫理・法(以下、法)に触れた子どもに対する報復でしかなかった。そこに居たのは、いじめる側といじめられる側ではなく、一般市民と犯罪者だった。そして、犯罪の程度によって、その罪を負う期間も決まった。子どもを野蛮人程度にしか見ないから理解できないだけで、イジメとは、独特な子ども集団の正常な姿でしかない。
子どもの法は、明文化もされていないし、慣習的ですらなかったりする。しかし、そこには確実に法が存在し、誰一人そこから逃れられず、法に触れた時点での序列すら何の役にも立たない。なぜなら、それこそが序列を決定するものだったからだ。
以上からお分かり頂けたと思うが、子ども集団はプリミティブな人間集団の一類型でしかない。そこには曖昧ながらも秩序が存在し、社会を形成している。暴力はそこにおいて権威的ではあるが、絶対視されているわけでもない。子ども社会の法と無関係に先生に制裁されたとしても、それは子どもにとって本質的な恐怖を喚起しない。むしろ、法の外からの攻撃を耐えた勇者でしかない。
【恐怖】
真に私が恐れたのは、暴力を一切ふるわない父から嫌われることだった。
最も重要なのは序列である。父は序列で唯一にして最高の位置にあった。それがどのように決定されるかや、全順序か半順序かはともかく、最高序列との繋がりを絶たれることが何よりも恐ろしかった。
順序は人間のハタラキの重要部分である。順序は秩序の中核であり、最高秩序は最高価値を意味する。ツォルンの補題より、帰納的順序集合は極大元をもつので、一般の秩序は常に局所的な最高秩序をもつ。
【余談】
小学生の頃は、男子と女子に分かれて世界最終戦争を戦っていたが、他に経験者がいなくて困っている。もちろん、異なる秩序をもつ集団は不倶戴天の敵だからである。
女子は常に先生の権威(=先生の暴力の権威)をかさにきていたが、上述のF先生は男女平等に無価値扱いする素晴らしい先生で、男子からは大人気だった。
小学校とは、最高価値に向かって最終戦争を戦い抜く聖戦士たちの痕跡なのである。