メルクマールが結果に転向するとき
0を発見したのはインド人だということになっているが、その論調でいくなら、空集合を発見したのはバビロニア人になるのだろうか。バビロニア人は60進法で有名だが、空位を表す記号を持っていたと言われている。
つい19世紀あたりにも、米国のある税吏が、「0セントの税金をとるという表現はおかしい」としきりに言っていたそうだ。ここで問題になっているのは、0ではなく空であることは容易に推察できる。
0という表記に慣れ親しみ、かつ、0の発見を常々喧伝されている我々は、かえって0の意外性に気付かなくなっているのかもしれない。人間の自然な0概念は、むしろ空集合の方にある。というのは言いすぎだろうが、0概念集合{zero, empty, null,...}の元が都合によって使い分けられ、場合によっては入り混じっているのが通常だ。
先日、刈谷(違法)を訪ねたとき、ρとemptyやnullの使い方の話をした。そこで、なんとなく、情報と数学の近いようで果てしない溝を感じた。
数学では、概ね次のように使い分けられている。
zero:零元のこと
empty:本当に何もないこと
null:大体何もないこと
nullというのは、3次元における2次元のような存在で、測度0のゴミという感じだ。前文からもわかるが、ゴミだからといって高々可算だと思ったら大間違いで、カントール集合のように非可算濃度の零集合(null set)もある。
一方で、情報(web技術?)では、emptyがφ(ファイでなく0に斜線だと思ってください)ではなく、{φ}のことらしい。下手すると零集合(測度はsyntax?)かもしれない。そしてnullはアレ。なんかよくわからん。
【数学社会学】
学問の水準から測った方が、圧倒的に時代区分は正確な気がした。
古代:思いつきの時代
中世:思い込みの時代
近世:思い上がりの時代
近代:思い煩いの時代
人間の思いつくようなことはギリシャで尽くされている。同時に、人間の学問は、人間の思いつきから出発するしかない。ここで、人間の思いつきは啓示と区別がつかないものとする。加えて、バビロニア人からローマ人にいたるまでの素朴な実用主義者たちを考慮にいれれば、人類の大半は古代人の一分類に尽きる。
次に、イスラム科学から始まる理性の時代が訪れる。一々言うまでも無いが、理性が近代のスローガンであったとしても、近代的学問は理性的でなどない。この中世は、人間の合理精神が遺憾なく発揮された幸福な時代であり、最大にして最後の古代人であるムハンマドの偉大なる思いつきから生ずる神の恩寵そのものであった。また、この時点で既に学問は「世界化」している。日蓮上人も、現代的な視点から見れば、宗教者というよりはこの時代の一地域における主要な学者という感じになる。
そして、「近代」を準備する重要な時期が訪れる。発見の時代と呼んでもよい。人間は発見という概念を発見し、窮極原因から発する理性をも発見の対象とした。人間は発見を信じ、窮極原因が窮極的結果に置き換えられた。滑らかで局所的な幸福の時代であった。
学問が発達するほどに、人間は追い詰められ不幸になっていった。近代に至って、学問は窮極原因を諦めた。これほどの悲劇があるだろうか。学問は幸福な過去と決別し、楽園を出ていくことを決意したのだ。学問は今日も荒涼たる原野にそれぞれの砦を思い思いに築いている。
こうしてみると、まったく幸福な進歩史観からして、学問は時代よりも一歩進んでいるものらしい。
既に時代も近代に入って久しい。とすれば、学問はさらに一歩進んでいることを期待できる。ただし、学問は、勝者総取りではないので、古代から現代までのすべての状態がエンタングルしている。
それでは、現代的な学問はどの水準にあるかというと、窮極原因を再包含するのに成功しつつある。そこでは、もはや窮極原因は窮極でも原因でもない。すべては茫漠たる人間の直観の中に消え、窮極原因という形式が辛うじて霞の向こうに見えるばかりである。現代的学問は、とうとう、窮極原因なるものが、定義によって真であるか、あるいは直観でしかないことを認めてしまった。そして、直観は必ずしもすべてに優先するもの「ではない」。
【現代:思いがけない時代】
近代までの思索はすべて思い過ごし、それも実に簡単な思い過ごしであった。それは、決定可能性とただの可能性の混同を意味する。作業仮説と仮説一般の違いもここに尽きる。
現代に至って、原因の探求など、数式上存在するから可能性があるという程度の問題でしかなくなった。多くの人々が騒いでいたことは、syntaxの問題でしかなくなった。しかし、それは学問が言語のsyntaxに過ぎなくなったことを意味しない。
人間の学問は、一見して人間から距離を遠ざけているが、それは自明な位相に拘泥しなくなったためである。人間は、人間が勝手に空想した学問プログラムを打ち砕かれたことに絶望したに過ぎない。学問はいまや、学問に対する直観からも解き放たれ、今日も自由に直観の海を泳いでいる。
つい19世紀あたりにも、米国のある税吏が、「0セントの税金をとるという表現はおかしい」としきりに言っていたそうだ。ここで問題になっているのは、0ではなく空であることは容易に推察できる。
0という表記に慣れ親しみ、かつ、0の発見を常々喧伝されている我々は、かえって0の意外性に気付かなくなっているのかもしれない。人間の自然な0概念は、むしろ空集合の方にある。というのは言いすぎだろうが、0概念集合{zero, empty, null,...}の元が都合によって使い分けられ、場合によっては入り混じっているのが通常だ。
先日、刈谷(違法)を訪ねたとき、ρとemptyやnullの使い方の話をした。そこで、なんとなく、情報と数学の近いようで果てしない溝を感じた。
数学では、概ね次のように使い分けられている。
zero:零元のこと
empty:本当に何もないこと
null:大体何もないこと
nullというのは、3次元における2次元のような存在で、測度0のゴミという感じだ。前文からもわかるが、ゴミだからといって高々可算だと思ったら大間違いで、カントール集合のように非可算濃度の零集合(null set)もある。
一方で、情報(web技術?)では、emptyがφ(ファイでなく0に斜線だと思ってください)ではなく、{φ}のことらしい。下手すると零集合(測度はsyntax?)かもしれない。そしてnullはアレ。なんかよくわからん。
【数学社会学】
学問の水準から測った方が、圧倒的に時代区分は正確な気がした。
古代:思いつきの時代
中世:思い込みの時代
近世:思い上がりの時代
近代:思い煩いの時代
人間の思いつくようなことはギリシャで尽くされている。同時に、人間の学問は、人間の思いつきから出発するしかない。ここで、人間の思いつきは啓示と区別がつかないものとする。加えて、バビロニア人からローマ人にいたるまでの素朴な実用主義者たちを考慮にいれれば、人類の大半は古代人の一分類に尽きる。
次に、イスラム科学から始まる理性の時代が訪れる。一々言うまでも無いが、理性が近代のスローガンであったとしても、近代的学問は理性的でなどない。この中世は、人間の合理精神が遺憾なく発揮された幸福な時代であり、最大にして最後の古代人であるムハンマドの偉大なる思いつきから生ずる神の恩寵そのものであった。また、この時点で既に学問は「世界化」している。日蓮上人も、現代的な視点から見れば、宗教者というよりはこの時代の一地域における主要な学者という感じになる。
そして、「近代」を準備する重要な時期が訪れる。発見の時代と呼んでもよい。人間は発見という概念を発見し、窮極原因から発する理性をも発見の対象とした。人間は発見を信じ、窮極原因が窮極的結果に置き換えられた。滑らかで局所的な幸福の時代であった。
学問が発達するほどに、人間は追い詰められ不幸になっていった。近代に至って、学問は窮極原因を諦めた。これほどの悲劇があるだろうか。学問は幸福な過去と決別し、楽園を出ていくことを決意したのだ。学問は今日も荒涼たる原野にそれぞれの砦を思い思いに築いている。
こうしてみると、まったく幸福な進歩史観からして、学問は時代よりも一歩進んでいるものらしい。
既に時代も近代に入って久しい。とすれば、学問はさらに一歩進んでいることを期待できる。ただし、学問は、勝者総取りではないので、古代から現代までのすべての状態がエンタングルしている。
それでは、現代的な学問はどの水準にあるかというと、窮極原因を再包含するのに成功しつつある。そこでは、もはや窮極原因は窮極でも原因でもない。すべては茫漠たる人間の直観の中に消え、窮極原因という形式が辛うじて霞の向こうに見えるばかりである。現代的学問は、とうとう、窮極原因なるものが、定義によって真であるか、あるいは直観でしかないことを認めてしまった。そして、直観は必ずしもすべてに優先するもの「ではない」。
【現代:思いがけない時代】
近代までの思索はすべて思い過ごし、それも実に簡単な思い過ごしであった。それは、決定可能性とただの可能性の混同を意味する。作業仮説と仮説一般の違いもここに尽きる。
現代に至って、原因の探求など、数式上存在するから可能性があるという程度の問題でしかなくなった。多くの人々が騒いでいたことは、syntaxの問題でしかなくなった。しかし、それは学問が言語のsyntaxに過ぎなくなったことを意味しない。
人間の学問は、一見して人間から距離を遠ざけているが、それは自明な位相に拘泥しなくなったためである。人間は、人間が勝手に空想した学問プログラムを打ち砕かれたことに絶望したに過ぎない。学問はいまや、学問に対する直観からも解き放たれ、今日も自由に直観の海を泳いでいる。
RAITA先生の次回作にご期待ください
音ハレ夢 さんの発言:
・ロングのメインヒロイン
・金髪ツイン
・otoko女
・きょどる後輩
・頭のねじが抜けてる先輩
スタデーハーヅ さんの発言:
突撃馬鹿
慎重っぽい臆病者
女装癖
ただの臆病者
コネ入隊
音ハレ夢 さんの発言:
ネルソン/コクレーン/ジャービー/ガンビア卿/ダンカン
スタデーハーヅ さんの発言:
やっぱnelはメインヒロインの素養があるな
音ハレ夢 さんの発言:
絵馬をどう料理するか
スタデーハーヅ さんの発言:
ほれいしあと一緒にバラストの肥やしにすればいい
音ハレ夢 さんの発言:
トラファルガー広場のネルソン像の下に「裸で正座させられてるハミルトン夫妻の像」でも置いてくるか
スタデーハーヅ さんの発言:
大英帝国の栄光を一身に背負わせるのはよくない
体が欠損してるほどヒロインの素養がある
(しばらく三大CVEの話になる)
スタデーハーヅ さんの発言:
実はコクレーンがヒロイン体質か?
nelは典型的な一番人気というか
音ハレ夢 さんの発言:
H. Nelson 夏野
T. Cochrane 有栖川
J. Jervis 木葉
J. Gambier 青山
A. Duncan みる
スタデーハーヅ さんの発言:
転載しとくわ
音ハレ夢 さんの発言:
nelの名義について話し合おうじゃないか
スタデーハーヅ さんの発言:
DDみずはし
音ハレ夢 さんの発言:
おっとみずはし≒夏野説はいりました
音ハレ夢 さんの発言:
74~and two ships meet again~でも開発するか
スタデーハーヅ さんの発言:
5もシリーズに入れといてあげて
音ハレ夢 さんの発言:
10inと3pdr*4かな
普通Bombは2+8門だけど
スタデーハーヅ さんの発言:
5は古い設計なので
【追伸】
欠損主人公妄想は眠いのでまた今度。
・ロングのメインヒロイン
・金髪ツイン
・otoko女
・きょどる後輩
・頭のねじが抜けてる先輩
スタデーハーヅ さんの発言:
突撃馬鹿
慎重っぽい臆病者
女装癖
ただの臆病者
コネ入隊
音ハレ夢 さんの発言:
ネルソン/コクレーン/ジャービー/ガンビア卿/ダンカン
スタデーハーヅ さんの発言:
やっぱnelはメインヒロインの素養があるな
音ハレ夢 さんの発言:
絵馬をどう料理するか
スタデーハーヅ さんの発言:
ほれいしあと一緒にバラストの肥やしにすればいい
音ハレ夢 さんの発言:
トラファルガー広場のネルソン像の下に「裸で正座させられてるハミルトン夫妻の像」でも置いてくるか
スタデーハーヅ さんの発言:
大英帝国の栄光を一身に背負わせるのはよくない
体が欠損してるほどヒロインの素養がある
(しばらく三大CVEの話になる)
スタデーハーヅ さんの発言:
実はコクレーンがヒロイン体質か?
nelは典型的な一番人気というか
音ハレ夢 さんの発言:
H. Nelson 夏野
T. Cochrane 有栖川
J. Jervis 木葉
J. Gambier 青山
A. Duncan みる
スタデーハーヅ さんの発言:
転載しとくわ
音ハレ夢 さんの発言:
nelの名義について話し合おうじゃないか
スタデーハーヅ さんの発言:
DDみずはし
音ハレ夢 さんの発言:
おっとみずはし≒夏野説はいりました
音ハレ夢 さんの発言:
74~and two ships meet again~でも開発するか
スタデーハーヅ さんの発言:
5もシリーズに入れといてあげて
音ハレ夢 さんの発言:
10inと3pdr*4かな
普通Bombは2+8門だけど
スタデーハーヅ さんの発言:
5は古い設計なので
【追伸】
欠損主人公妄想は眠いのでまた今度。
数学ボーイ
数学ガールだとhentaiの匂いしかしないのに、数学ボーイだとマルクスボーイを連想して好感がもてる。
マルクスボーイは今なら中二病ぐらいだろうから、夏になると一転してバルバロイっぽくなるモボモガを尻目に、世界精神とかと戦ってたんじゃないかな。
【博士に愛されなかった数式】
高度に発達した数学主人公hentaigameは、存在すれば一意である。
音ハレ夢 さんの発言:
最初は公理だけだった主人公がヒロインとの交流を通じて成長し、いつの間にか社会科学に援用されるようになる
【数学主人公】
主人公の選択公理を憎むヒロインのバナッハ。バナッハは、タルスキと協力して選択公理を否定しようと躍起になるが、ハーンとの関わりの中で選択公理に光を見出す。
一方で、非可測集合の中で独立性を決め込んでいた選択公理も、より巨大な体系の中に位置づけられることを志向する。そして、選択公理はZFと出会い、ZFCになった。
選択公理とバナッハは手を取り合い、関数空間から無限を照射する。
連続体仮説を仮定する。そのとき、完備化された社会の成長経路上で定義された非可測関数で、高々可算集合を除いて連続となるものが存在する。
【白昼夢】
上記主張が正当化されると、一見して各点で連続するような歴史の立場の中で、なおも全体として測ることすらできないようなものが存在することになる。
参考文献
志賀浩二「無限からの光芒 ポーランド学派の数学者たち」1988年, 日本評論社.
マルクスボーイは今なら中二病ぐらいだろうから、夏になると一転してバルバロイっぽくなるモボモガを尻目に、世界精神とかと戦ってたんじゃないかな。
【博士に愛されなかった数式】
高度に発達した数学主人公hentaigameは、存在すれば一意である。
音ハレ夢 さんの発言:
最初は公理だけだった主人公がヒロインとの交流を通じて成長し、いつの間にか社会科学に援用されるようになる
【数学主人公】
主人公の選択公理を憎むヒロインのバナッハ。バナッハは、タルスキと協力して選択公理を否定しようと躍起になるが、ハーンとの関わりの中で選択公理に光を見出す。
一方で、非可測集合の中で独立性を決め込んでいた選択公理も、より巨大な体系の中に位置づけられることを志向する。そして、選択公理はZFと出会い、ZFCになった。
選択公理とバナッハは手を取り合い、関数空間から無限を照射する。
連続体仮説を仮定する。そのとき、完備化された社会の成長経路上で定義された非可測関数で、高々可算集合を除いて連続となるものが存在する。
【白昼夢】
上記主張が正当化されると、一見して各点で連続するような歴史の立場の中で、なおも全体として測ることすらできないようなものが存在することになる。
参考文献
志賀浩二「無限からの光芒 ポーランド学派の数学者たち」1988年, 日本評論社.