成長速度
佐竹が成長していた、矮小な方向に。誰もやめろと言っていないホルホルを控えたとて、学問的に洗練されるわけではないのだが。
大雑把にまとめると以下の通り。
・否定的評価を控えるようになった
・決定論者になった
・投げやりになった
これに「断定を避ける」がつけば、終わった学術者になる。一つだけ幸いなのは、彼はまだ学術者として始まってすらいないということだ。
(続く)
大雑把にまとめると以下の通り。
・否定的評価を控えるようになった
・決定論者になった
・投げやりになった
これに「断定を避ける」がつけば、終わった学術者になる。一つだけ幸いなのは、彼はまだ学術者として始まってすらいないということだ。
(続く)
科学的雑談
なにを近代の指標とするか。
《その前に》
考えてみると、鶴岡先生の言っていた「岸本の宗教の定義」は、ちょうど「宗教概念のメルクマール」に等しい意味だった。
これは、ある意味では、現代神学に対する一つの立場なのかもしれない。メルクマールとしての神概念を認めない(キリスト教)神学に対して、より拡張されたメルクマールをのみ提示するという形で、単純な合理主義に対抗するという。
well-definedなメルクマールが定義というのは興味深い。世界をcoverすることを諦めて、disjointなメルクマール(列)によって対象が記述されることを期待するということになる。メルクマールがpower setに属するとすると、ZF-Pなどの体系から弾かれるという偉大な発見。
《非非近代》
どの辺りから近代にするかというときに、少なくない人は人物名を挙げて近代とするだろう。それがデカルトかルソーかはともかく。あるいは、産業や技術をして指標とするかもしれない。
しかし、いまどき、近代という特定の不連続点を探そうという試みは流行らない。近代を体現した最初の人物など居ないか、古代から居たかであり、産業や技術に大進歩以上があった証拠はない。
結局のところ、近代概念がメルクマールであったと考えれば、実にさっぱりする。してみると、近代を超克しようとしていた人々こそが近代だったという皮肉になる。もちろん、ポストモダンも近代である。
《近代》
近代的学問は異常かつ不合理であり、学者やディレッタントは山師と同じ人種である。
技術は奇術と区別がつかず、技術者は車夫馬丁の類いにすぎない。
商工業は、これらの小間使いであり、さらに劣等である。
最も高潔な、最も聡明な人々は、下劣極まる近代人に打ち滅ぼされた。
野蛮な近代人が通ったあとには近代しか残らなかった。
つまり、いつもの光景である。
ここ100年か200年を見ても大差はない。フランスは狂人が、ドイツは病人が、アメリカは両生類の糞を両手で掻き集めたほどの価値もない連中が、文明を支えた。現在が近代とは異なる時代なのだとしたら、パラノイアが精神病院の肥溜めで水泳大会しているような状況に違いない。
一方で、マジメ人間が音頭をとったソ連は敗残者の扱いを受け、常識人の第三世界は存在自体なかったことにされた。ソ連が近代かと言われると少し詰まるが、それ以上に近代らしくない日本「近代」の意味不明ぶりは目に余る。
《宴》
もしかすると「アメリカの時代」が一番マシだったのかもしれない。狂人や病人は言うまでもなく、マジメ野郎や常識人が隣にいるよりも、馬鹿騒ぎを我慢すれば当面は無害なアメリカが最も「世界の隣人」にふさわしかったという悲劇。
以上が、国家を擬人化するとすぐに意味不明な結論が出る例。
《教訓》
国家にだって、永遠の友がほしいときぐらい、ある。
《結論》
近代とは何かと聞かれたら、メルクマールと答えておけばいい。
さらに詳しい説明を求められたら、その質問自体が近代だよと教えてあげるといい。
さらに問われたら、その質問に意味があると思っている間が近代だよと言えばいい。
《結論なし》
あ…ありのまま 今 起こった事を話すぜ!
『日本は近代の階段を登っていたと
思ったらいつのまにか降りていた』
民族だとかイデオロギーだとか
そんなチャチなもんじゃあ 断じてねえ
もっと恐ろしいものの片鱗を味わったぜ…
《余談》
私は病人であるから、当然ながらドイツに対して最も好意的である。
《その前に》
考えてみると、鶴岡先生の言っていた「岸本の宗教の定義」は、ちょうど「宗教概念のメルクマール」に等しい意味だった。
これは、ある意味では、現代神学に対する一つの立場なのかもしれない。メルクマールとしての神概念を認めない(キリスト教)神学に対して、より拡張されたメルクマールをのみ提示するという形で、単純な合理主義に対抗するという。
well-definedなメルクマールが定義というのは興味深い。世界をcoverすることを諦めて、disjointなメルクマール(列)によって対象が記述されることを期待するということになる。メルクマールがpower setに属するとすると、ZF-Pなどの体系から弾かれるという偉大な発見。
《非非近代》
どの辺りから近代にするかというときに、少なくない人は人物名を挙げて近代とするだろう。それがデカルトかルソーかはともかく。あるいは、産業や技術をして指標とするかもしれない。
しかし、いまどき、近代という特定の不連続点を探そうという試みは流行らない。近代を体現した最初の人物など居ないか、古代から居たかであり、産業や技術に大進歩以上があった証拠はない。
結局のところ、近代概念がメルクマールであったと考えれば、実にさっぱりする。してみると、近代を超克しようとしていた人々こそが近代だったという皮肉になる。もちろん、ポストモダンも近代である。
《近代》
近代的学問は異常かつ不合理であり、学者やディレッタントは山師と同じ人種である。
技術は奇術と区別がつかず、技術者は車夫馬丁の類いにすぎない。
商工業は、これらの小間使いであり、さらに劣等である。
最も高潔な、最も聡明な人々は、下劣極まる近代人に打ち滅ぼされた。
野蛮な近代人が通ったあとには近代しか残らなかった。
つまり、いつもの光景である。
ここ100年か200年を見ても大差はない。フランスは狂人が、ドイツは病人が、アメリカは両生類の糞を両手で掻き集めたほどの価値もない連中が、文明を支えた。現在が近代とは異なる時代なのだとしたら、パラノイアが精神病院の肥溜めで水泳大会しているような状況に違いない。
一方で、マジメ人間が音頭をとったソ連は敗残者の扱いを受け、常識人の第三世界は存在自体なかったことにされた。ソ連が近代かと言われると少し詰まるが、それ以上に近代らしくない日本「近代」の意味不明ぶりは目に余る。
《宴》
もしかすると「アメリカの時代」が一番マシだったのかもしれない。狂人や病人は言うまでもなく、マジメ野郎や常識人が隣にいるよりも、馬鹿騒ぎを我慢すれば当面は無害なアメリカが最も「世界の隣人」にふさわしかったという悲劇。
以上が、国家を擬人化するとすぐに意味不明な結論が出る例。
《教訓》
国家にだって、永遠の友がほしいときぐらい、ある。
《結論》
近代とは何かと聞かれたら、メルクマールと答えておけばいい。
さらに詳しい説明を求められたら、その質問自体が近代だよと教えてあげるといい。
さらに問われたら、その質問に意味があると思っている間が近代だよと言えばいい。
《結論なし》
あ…ありのまま 今 起こった事を話すぜ!
『日本は近代の階段を登っていたと
思ったらいつのまにか降りていた』
民族だとかイデオロギーだとか
そんなチャチなもんじゃあ 断じてねえ
もっと恐ろしいものの片鱗を味わったぜ…
《余談》
私は病人であるから、当然ながらドイツに対して最も好意的である。
あなたの知らない有名人
ρと雑談していたとき、業界の有名人の話になった。その際に、一般人しか知らない有名人という概念を提唱された。奇妙だが、確かにいる。
その類いの有名人の存在を私が最初に知ったのは、桜丘のとある麺屋であった。隣に座った見知らぬ人に「数学者アインシュタイン」なる人物の話をされたのである。このことは過去記事に書いたので詳しくは話さない。なんにせよ、物理学者のアインシュタインを数学者だと言うのは少々無理がある。
上の話は個人的な勘違いレベルに留まっているが、一般人しか知らない有名人の決定的な例を発見した。教祖池田大作である。少しでも宗教に造詣のある者ならば、そんな人物のことは一切知らないだろうが、世間では存在するかの如くに喧伝されている。創価学会に同名の別人がいるが、宗教法人創価学会の教祖は日蓮上人だったと記憶しているし、創設者は牧口常三郎ないし戸田城聖だ。3代会長にして現名誉会長、そして恐らくは最後の先生である池田大作先生のことは存じているが、教祖であったことは1度もない。
カルト、洗脳に並ぶ定義不明語として個人崇拝がある。
宗教団体よりはソ連に関する言説でよく聞くが、どちらにせよ共産主義は宗教であると言うために用いられるようだ。共産主義を特殊の宗教と見なすことはできるが、それはむしろ近代に対する言説であり、ソ連という特定の"国家"に適用するための話ではない。
「スターリンは父親のような存在だったのです」と語るモスクワ市民が個人崇拝なら、個人に対する敬意で個人崇拝に該当しないものは何なのだろうか。恩師や子煩悩は個人崇拝でないが、スターリンは個人崇拝であると言うためには、対象を政治指導者や精神的指導者に限定するなど、非常に恣意的な基準を設ける必要がある。恩師も子どもも対等な個人としてリスペクトすべきであり、敬服の対象にしてはならない、というアクロバティックな近代主義者なら、好きにしてくれとしか言えないが、彼/彼女にとって子どもを救うために命を投げ出す母親は個人崇拝の塊に他ならない。当然ながら、ソ連邦英雄たる「パルチザンの母」も個人崇拝である。
カルト=気に入らない集団、洗脳=気に入らない思想、個人崇拝=気に入らない個人、と解釈すべきなのだろうが、すると宗教という単語が気に入らない何なのかという興味深い命題が出現する。
ルソーが知恵遅れに孕ませた近代の稚拙な反宗教宣伝は、かえって宗教が何であるかをクリアにしてくれるかもしれない。
宗教がどのクラスにおいて記述されるかは、その出発点との相対的な距離において最重要課題と言えるだろう。信仰が生成するものが宗教なのか、それとも信仰が生成するものが生成するものが宗教なのか...
その類いの有名人の存在を私が最初に知ったのは、桜丘のとある麺屋であった。隣に座った見知らぬ人に「数学者アインシュタイン」なる人物の話をされたのである。このことは過去記事に書いたので詳しくは話さない。なんにせよ、物理学者のアインシュタインを数学者だと言うのは少々無理がある。
上の話は個人的な勘違いレベルに留まっているが、一般人しか知らない有名人の決定的な例を発見した。教祖池田大作である。少しでも宗教に造詣のある者ならば、そんな人物のことは一切知らないだろうが、世間では存在するかの如くに喧伝されている。創価学会に同名の別人がいるが、宗教法人創価学会の教祖は日蓮上人だったと記憶しているし、創設者は牧口常三郎ないし戸田城聖だ。3代会長にして現名誉会長、そして恐らくは最後の先生である池田大作先生のことは存じているが、教祖であったことは1度もない。
カルト、洗脳に並ぶ定義不明語として個人崇拝がある。
宗教団体よりはソ連に関する言説でよく聞くが、どちらにせよ共産主義は宗教であると言うために用いられるようだ。共産主義を特殊の宗教と見なすことはできるが、それはむしろ近代に対する言説であり、ソ連という特定の"国家"に適用するための話ではない。
「スターリンは父親のような存在だったのです」と語るモスクワ市民が個人崇拝なら、個人に対する敬意で個人崇拝に該当しないものは何なのだろうか。恩師や子煩悩は個人崇拝でないが、スターリンは個人崇拝であると言うためには、対象を政治指導者や精神的指導者に限定するなど、非常に恣意的な基準を設ける必要がある。恩師も子どもも対等な個人としてリスペクトすべきであり、敬服の対象にしてはならない、というアクロバティックな近代主義者なら、好きにしてくれとしか言えないが、彼/彼女にとって子どもを救うために命を投げ出す母親は個人崇拝の塊に他ならない。当然ながら、ソ連邦英雄たる「パルチザンの母」も個人崇拝である。
カルト=気に入らない集団、洗脳=気に入らない思想、個人崇拝=気に入らない個人、と解釈すべきなのだろうが、すると宗教という単語が気に入らない何なのかという興味深い命題が出現する。
ルソーが知恵遅れに孕ませた近代の稚拙な反宗教宣伝は、かえって宗教が何であるかをクリアにしてくれるかもしれない。
宗教がどのクラスにおいて記述されるかは、その出発点との相対的な距離において最重要課題と言えるだろう。信仰が生成するものが宗教なのか、それとも信仰が生成するものが生成するものが宗教なのか...