Study Hard -4ページ目

随想

 本来はこちらに書くつもりだった妄言まで、ついったに吸収されてるな。あっちの方が可読性が低いから、願ったり叶ったりだが。
 今日は科学カルトというジャーゴンについて、諸文献を引用しながら垂れ流そうと思ったが、二度寝したいのでやめておく。一応、簡単な登場人物紹介など。

科学精神:科学における超越者
科学者:科学精神を体現した瞬間の個人
科学カルト:ニセ科学とか言っちゃう人とか
科学マニア:なんでも科学に見える人
科学嫌い:嫌よ嫌よも好きのうち

 科学者は、カガクシャではなく、カガクモノと読むことを提案したい。また、この分類は排他的ではない。
 人類に占める割合は、科学カルトと科学マニアが大半。世界中に科学者がいるように見えるが、実はほとんどが科学カルト。しかし、科学カルトからすら科学者は生まれるのだから、そこには科学精神が顕在している。
 偉大なるファインマンは、いみじくもプロを易々と信じるなと警告を発したが、それはまさに彼らもほとんどの時間帯はカルトでしかないからである。研究所で行われていることは、意味不明な言動を繰り返した挙句、いらついたら他人をカルト扱いして関係を悪くする程度のことだ。しかし、ここにこそ、科学カルトがある瞬間に科学者として輝く何者かが秘められているのである。

事業概念

0.0 事業は存在する。

1.0 会社の中核は事業である。経営でも労働でもない。
1.1 会社は、経営者のものでも、労働者のものでも、株主のものでもない。オーナーのものでもない。会社は人間のものではない。それは、事業の顕現であり、事業をもつ何者かのものである。

2.0 事業とは、事実的中核である。事業にかかわるすべては、その保存的拡大の中になくてはならない。
2.1 事実的中核が一意であることは保証されない。従って、事実的中核の拡大の総和は、何らかの拡大を意味しない。
2.1 事業にとって、人間は拡大体の部分であり、また、それは人間の部分でもある。
2.2 事業の部分の総和としての人間は、何らかの拡大であることを要請されない。

3.0 自然言語に一意なる事実的中核が存在しないとして、それは自然言語に決して事実的中核が存在しないことを意味しない。
3.1 形式言語に事実的中核が必要ないとして、それは形式言語が何らかの事実的中核の拡大でありうることを否定しない。

問1.事実的中核にノイズを許したとして、その拡大の分布を扱えるだろうか。
問2.自然言語は形式言語の可算和として表現できるか。
問3.自然言語より真に濃い、非構成的形式言語群を構成できるか。

【断片】
 自然言語における諸概念は、非交叉ではない。可算劣加法性はある。
 自然言語における諸概念を非交叉にすることはできない。その要素のすべての測度が0になり、非可算加法性は一般に許されないため(※)。
 自然言語の全体を矛盾なく規定する方法が見つからない。

※一般の測度では0≠1なので許されていない。

数学嫌いのための3冊

 下の記事の秘匿も兼ねて、数学と一生縁を切りたい人を勇気付ける3冊を紹介したい。
 好き嫌いで切り分けるのではなく、数学と緩やかに関わる一生であってほしい。

1.マルクス「数学手稿」
 まずは、本人は経済学者のつもりだったと思うが、気付いたら思想界入りしてしまったカール・マルクスから。これは本人の著作というわけではなく、彼の数学ノートが死後晒されてしまったという屈辱の1冊である。クラウゼヴィッツをはじめ、多くの反故が本人の意思に背いて死後出版されているが、これは本当に焼き捨てた方がよかった本の1つだろう。
 内容は1変数関数の微分に関するもので、極めて特徴的なのが"0/0"の連呼である。要するに、彼は極限の概念というか操作がまったく理解できず、微分したい点とその点自身の距離を計算してしまうものだから、0/0以外出てきようもない。解説の人の"0/0"を敢えて深読みしようという擁護も、却って痛々しさを増していて良い。今では微積分学の教育法(?)も発達し、「肩の数字を下ろした後、肩の数字から1を引く」という御まじないがよく知られているが、マルクスがこれを知っていたら、思想界の巨人カール・マルクスは生まれなかったかもしれない。
 ところで、この御まじないを正当化できる人はどれくらい居るのだろうか。ライプニッツ・ルールから数学的帰納法によって正当化するのが一番楽かな。
 さらに余談だが、数学の先生が厳しかった人は、数学的帰納法よりと書くところを帰納法よりとだけ書いて×を喰らった記憶がないだろうか。数学的帰納法が実は帰納法ではないことを知っている人も意外と少ない気がするのであった。

2.数学挫折者向けの啓蒙書
 畑村洋太郎あたりが代表格だろうか。数学のつらい部分は捨てて、数学のエッセンスだけ得ようという魂胆の本だと思えばいい。小室直樹が書いているのを見たときは、悪い意味で驚いた。
 別に内容的にどうこう言うつもりはないし、初学者や挫折者向けに「曖昧」な説明になっていることも何の問題もない。ただ、覚えていてほしいのは、書いている人も数学の数学たる言明しがたい部分について慣れ親しんでいるとは思えないということである。もっと言えば、こういうのが数学のエッセンスだと思ってるってことは、こいつ数学を本当に理解してるわけじゃないんだな、と思いながら読んでほしい。きっと、嫌な笑いを浮かべながら読んでいる自分に気付くはずだ。これも数学のひとつの楽しみ方。
 じゃあ数学のエッセンスとは何だと聞きたくもなるだろう。しかし、ここで答えることはできない。数学のエッセンスとは、畢竟数学することそのものであり、それは特定の何かではないからだ。それに、「ガロアの思考には逃れがたい神話性がある」とか「ド・ラーム理論は数学の顕著な体系の1つである」などと聞く暇があったら、この手の啓蒙書を読めば十分だ。
 また余談だが、物理学の本で「数式を使わない」という謳い文句の本はなかなかふるっている。題名の中に、物理学は数学抜きで記述できるか、という未解決問題を含んでいるからだ。実に愉快。

3.大澤真幸「行為の代数学」
 私がこの本に出会ったのは数学書コーナーだったが、買った後でよく見ると社会学の本だった。何かの縁だと思って読んでみると、これが予想外に面白く、2ページ読むのにも苦労するほどの滑稽本だった。
 この本には元ネタ(という言い方は何だが)があり、スペンサー=ブラウン(これがラストネーム)先生の独自理論が下地になっている。元ネタの側は、一応数学者だけあって、単にブール代数と等価な体系のようだ。逆に言えば、ナンセンスな体系というわけではない。しかし、この本のような下流にまで流れてくると、なんだか雲行きが怪しくなってくる。内容に触れるつもりはないが、収容所でこれしか読む本がなければ、嫌々手にとってみてはどうだろうか。
 有名なソーカル事件は、表面的には、用語の濫用は控えましょうという程度のことだが、この本を読んでいると何か極めて根深いものを感じてしまう。用語の濫用とかいい加減な類推といったレベルではなく、何かロジックかもっと深いクラス、あるいは極めて浅いレベルで面白いことが起きているのではないかと期待させてくれる。
 数学を遠い世界に押しやって、現実への濫用を小馬鹿にするのは、ド素人にでもできる。しかし、求められているのは、美しく不完全な数学的体系を眼前に組み上げることだけである。一方で、この本は、そんなこととはまったく関係なく、何か面白い伝統芸能が蓄積されていることを示唆している。社会学は断固として保護されるべきであり、アカデミズムからのあらゆる攻撃を避ける殿堂を築くことを許されなければならない。
 アカデミズムの国には社会学という自治区がある。その自治区の原理はアンチ・アカデミズムである。この自治区を許すかどうかで、アカデミズムにおける寛容が試されている。一方で、アカデミズムとは縁のない一般市民にとっては、この社会学こそ架け橋となる。それはアカデミズムにおける自由を意味しているからであり、秘教集団として生きるか、蒙昧な土民の参加を許すか、という選択の象徴となっている。
 この本は、内容ではなく、存在に意義がある。アカデミズムは、そして数学は、誰にでも開かれている。そこでは、どんな馬鹿なことを言ってもいいし、どんなに自分が優れているかを雄弁してもよい。皆さんにも、この本を読んで、自分も思い付きを垂れ流していいんだということを知ってほしい。
 そして、願わくば、思い付きから脱却する道を志向してほしい。それが私のささやかな願いである。