Study Hard -28ページ目

精神と身体の中間濃度仮説

 精神と身体に次ぐ第3のジャンル登場。

【交通システム】
 インフラ、ヴィークル、コントロールの三要素が交通システムの基。

【実存システム】
 {精神, 身体}={コントロール, ヴィークル}
 {精神, 身体}={ヴィークル, インフラ}

 のどちらかが至当。上の集合は、一応順序も考えてる。
 前者ならば、それらを成立せしめる根本について考えることになり、後者ならばそれらを統御するものについて考えることになるわけだ。前者、後者ともに、超越者に対する一定の考えと対応している。
 それならば、こうすれば新仮説になるというわけだ。

 {精神, 身体}={コントロール, インフラ}

 こうすれば、乗り物たる神は無限小や無限大におわすのではなく、まさに「中間」にあるということになる。しかも、精神と肉体どちらとも違う場所にあるというおまけつきだ。
 こうすれば、神は外でも中でもない「間」に存在すると言えるので、諸処の問題が爽やかに解決できる。また、なによりも交通システムはヴィークルを走らせるための全体なのだから、まさにヴィークルこそが本質たる本質である。

 まあナンセンスだからどうでもいい。
 なにより精神と身体を分離するような思考体系に面白みがない気がしてならない。そこに商集合は入らない的な、あるいは構造を保ってない的な意味で。

【注釈】
 ここを読んでしまうようなナイスガイズに今さら言うまでもないが、神ないしその類語は、ほとんど無定義語に近い形で使用している。

【演習】
 統一原理を拡大して三位一体を生成したい。(未証明)

【蛇足】
 拡大という概念については「体の拡大」でググれ。
 なぜかpediaにも項目がある不思議。

疲労感

 また1人。生き延びようとする凡夫が生まれただけか。

学生存在と制度的時間に関する省察

キルケゴール「留年か休学か」

【スタヴローギンの信仰告白】

 俺たちは大学という名前の病気なんだ。
 お前の病名は学生。
 学生が居なきゃ大学は続けられないんだぞ。

【木田元—二宮会長ラインまとめ】

 キルケゴールの言う「保健センターに至る学生」とは...『聖書』の「ラザロの復学」の章でイエスが、放校したラザロを見て「この学生放校に至らず」と言ってラザロを復学させたその言葉を逆手にとって造った言葉で、単位不足の学生などどれほど在籍しても保健センターに至ることはないのに、この手の学生になると進学するに進学できず放校するに放校できない、放校するよりもっと苦しい保健センター行きの学生、つまり病人を指しているのです。


【後悔後に立たず】
 後悔というのは、過ぎ去ったことを以て、先にするものである。
 即ち、過去によって規定される、未来という縮小写像を嘆くことが後悔である。

【会長に贈る言葉】

 キルケゴールの言う病人とは、自己分裂、たとえば可能的自己と現実的自己の分裂のことであり、その意味では学生は誰でもが病人しているのです。そして、彼によれば、このように自己分裂しうるということ、つまり病人しうるということは学生の比類のない長所だとされます。つまり可能性としての病人は、学生のたぐいない長所なのですが、それが現実的になると、つまり現実性としての病人は進学するに進学できず、放校するに放校できない苦しみなのです。


【まとめ】
 これは、二宮会長に贈る言葉であると同時に、家に帰る北部人にも贈る言葉である。

【<未来>の<学生>たちへの命題】
 人間にとっての絶望と、学生にとっての病気の間には、structure preservingな写像が存在する(未証明)