Study Hard -26ページ目

積善の学部に余慶あり

【文学部家先祖代々之霊】
 今の文学部の苦境は、積悪の結果である。具体的には、妾を囲っては捨てたなど。

【家概念の一般化】
 従来の先祖供養理論は、家を最小単位としてとっていたが、この理論はより一般化することが可能であるはずだ。基本近傍系についてはよく考えてない。なお、先祖供養理論を基礎付けるのは伝統的な因果律である。
 先祖があまりに遡れ過ぎる概念であるため、適切に分けないと人類皆一家にしかならないということであり、どこまで遡れば、あるいはどのように切り分ければ良いのかという一般理論は存在していそうにない。とにかく、実際の先祖供養理論においては、どこかを起点としてそこより前は考えなくても良いポイントが存在している。

 家を可測集合として扱いたいのだが、重大な問題がある。
 それは、(人類?)全体をS、そのPower Setの中で、ある性質を満たすものを考えるのだが、補集合で閉じていなくてはならない。
 つまりA家があったとすると、S\A家も可測集合としての家でなくてはならない。これは大変困る。S\A家が家の可算和で表されることを保証する方法がちょっと思いつかない。
 以上の考察からも分かるが、先祖供養理論は、全体集合を人類全体としてはならない理論である可能性がある。人類というtreeをある時間以降で切り取ってクラスわけして、初めて家概念について実際的に語りうる。従って、Sを、人類全体からある(絶対)時間以降に存在した人類全体、と直す必要がある。
 これは、先祖供養理論が状況に応じて遡求限界点を持っているという最初の話とも合致し、自然である。

 treeの部分はまたtreeであるという証明は、代数的にはかなり難しいが、幾何的には見たまんまであり、一応使って良い。
 家概念をtreeに対応させられれば非常に有り難いのだが、先祖供養理論においては何代も飛び越して問題が起きたりするので、単純なtreeとして扱うことは出来そうにない。

 まったく、先祖供養は小難しい理論体系である。

作戦名「春の二度寝」

 各アイマスキャラはどの宗教法人に合っているかという記事を書こうと思いましたが、諸事情により無期延期いたします。(∵中=外)
 次回は、各声優はどの宗教法人に合っているかを予定しています。

【sensiken会長職】
 俺:全部
(S竹:——)
 ρ:学会 テニサーだから
 会長:顕正会 やり過ぎ感があるから
 sz:宗門 日蓮上人はhentaigameだから

 sensikenはワシが育てた。

【素朴な疑問】
 なんでρは学会入らないの? ピッタリじゃん。

真光初級研修、その意味と構造(予告編)

 真光の初級研修について、まずはその長さについてと、個人的に得た結論について書いていたら全部消えてしまった。
 これについては断じて書かねばならないが、今日はもう遅いのでやめる。また、内容も非常に長くなるので、恐らくは3、4回に分けて書くことになると思う。

 真光は、私に一言伝えるために30年待っていた。
 宗教の世界では、30年待つなどというのは、9時の待ち合わせに9時3分まで待つようなものだ。

 この4、5年ほど続いた宗教法人巡りも、ここで一旦終わりにしようと思う。
 懸命な皆さんは気付いていただろうが、宗教法人と言っても新宗教のみ回っていた。従来宗教については、その膨大な資料を集めるだけでも一生の仕事になるわけで、こちらはこちらでボチボチやっている。しかし、新宗教に関しては、これで一旦フィールドワークを停止しようというわけだ。
 しばらくは数学を真面目に勉強しようと思う。現在の私の数学力では、これ以上の構造的な分析は難しい。3年か5年ぐらいしたら、またこのことについて再考するだろう。

【山積】
 (宗教/信仰)→確実性の問題、について。

 数学→全体の形式について
 物理学→なかんづく引き戻しについて
 哲学、社会科学→ケーススタディおよび余事象として
 神学→全体集合宗教について

 2012年ぐらいまでに考えとく。
 誰か手伝ってください、誰か...

【本当の現世利益嫌いの理由の話をしよう】
 私は、それに愛されているのではないかと思うことがある。

 思い返しても、一般的に人生の岐路と見なされる「すべて」の場面で、私はそちらに向かって歩まされてきた。もちろん、これは単に、私が今までの人生を振り返り、現在の人生の形成について都合良く解釈しているに過ぎない。
 私が驚いているのは、個々の分岐点の問題ではなく、それらを「すべて」貫き通す一つの道があったことである。これほど理解不能な人生にあって、なお都合の良い解釈が存在することそれ自身が脅威と言うほかない。
 私がまだ知らないのは、他の人にもその道があるのかという問題である。もしあるとすれば、それは本当に、本当に驚くべきことであり、疑いようもなく、私たちはそれに愛されている。

 しかし、私はそれに愛されることにより、これほどの苦痛を与えられ、毎日毎日起きる度に呪わしい気持ちにさえなる。
 苦痛だけならまだしも、人生を貫く一つの道を与えられ、その先に人が欲しがるようなものは何も得られないと分かっても進まざるを得ない。ここにおいては、快楽も苦痛も意味を為しはしない。従って、私には、それが楽しいとか苦しいといった理由で得たり放棄したりすることすら許されていない。
 しかも、一つ歩むごとにそれに必要なものを与えられ、与えられ続けて来た。それは一方的移転であり、交換によって得たものではない。それに対する奉仕の代償として得られる何かではなく、嫌がる私に無理矢理押し付けられる何かである。

 話は逸れるが、戦争神経症は、戦場において強いストレスを常に与えられ続けることによって発症する。発症するタイミングは人それぞれで、初年兵からベテランまでかかるし、特定の状況にも依らない。また、長期的に見れば、心の持ちようで何とかなるようなものでもなく、臆病者や小心者だけがかかるものでもない。
 戦争を異常として平和に対置し、戦場を非日常とし、戦争神経症をその異常な非日常で起こる特殊な現象とする人々には理解出来ないことがある。それは、この日常においても、強いストレスを常に与えられ続けた場合、戦争神経症と同様のことが起きるということだ。これは戦争と平和という分類とは本質的に関係がなく、ただ戦場の方が一般にストレスが強いという、程度の問題である。

 さて、やっと現世利益の話をしよう。
 現世利益と言えば、大抵の人にとっては、平穏で豊かな毎日を得て維持することだ。そのような意味の現世利益は、私にとっては、この強いストレスを常時与えられ続ける状況を放棄し、ただの立派な社会人として生きることを選択することに他ならない。
 戦場においてはまだ逃亡という選択肢があるが、この日常において戦場の如き状況を与えられた私はどうすれば良いのだろう。目の前に広がるただ一つの道から目を逸らし、何事もなかったかのように「まとも」に生きろということだろうか。
 多くの人にとっては、強いストレスを与えられる状況は「非日常としての戦場」のようなものなのだろう。しかし、私にとっては、「ここ」が日常であり、逃げる場所はない。しかも、ストレスから逃れることが目的にはならない以上、快楽や苦痛が目的とならない以上、私には死という選択肢すらない。
 私は、地位も名誉も財産も人生も要らず、ただこれを全うするためにすべてを与えられた。にも関わらず、その道を捨てて、私が要らないと言っているものを拾って、それが現世利益だと言うのだろうか。それが何の利益なのだろうか。

 私にとっては、顕正会員から自称無宗教までが悉く現世利益の対極に置く、この日々こそが現世利益そのものなのである。
 与えられたものを放棄して、いや放棄することが出来るのかすら分からないそれを捨てて、頭で考えたような姑息なものに殉ずることがどうして出来ようか。
 最高の人々が苦しみながらもなお模索するときに、「現世利益」を唱えるものは、それを止めて「平和」に戻って来いと小馬鹿にしたようなことを言っているのである。誰がそんな妄言に耳を貸すだろう。考えてもみてほしい、数学者に数学をやらなければ苦しくないと言うのだろうか、将棋の名人に将棋を指さなければそんな余計な苦労しないでいいのにと言うのだろうか。

 私が嫌いな現世利益とは、イデオロギーとしての現世利益である。
 まさに現世利益の中にある人に向かって、そこは戦場であるので、この平和で豊かな素晴らしい世界に来なさいと言うのであるから、聞くだに不愉快である。
 大半の宗教団体が、現世利益や平和主義といったキーワードに関わっているのは、彼らが宗教者として空っぽだからに他ならない。彼らに理解できるのは、信仰ではなく、イデオロギーでしかないのである。