Study Hard -29ページ目

床屋真光談、あるいは政治としての宗教

 前回のアレは盛り上がりすぎて、自己紹介が終わらない段階で店仕舞と相成った。しかし、そこでも興味深いことはあったので書き留めておく必要がある。

 あの、名前は忘れたが、幼稚園の先生の女性の話である。
 私のように人生の8割を宗教概念(⊃神学, 幾何学, 天文学, 音楽理論)に没入させて来た人間ならとかく、如何にご立派な「信者さん」といえども、宗教とは何か、信仰とは何かについて、学術的体験的に言語化ないし言語化不能行為するよう自己に負荷を課していることはまず有り得ない。従って、話を引き出してやる必要があるのだが、その過程で面白いことがわかった。
 幼稚園児は、素直な子と御し難い困った子に大別される。ここは前提として受け入れ、また、1つの視点として特に違和感もない。そして、この先生が手かざしによって望むことは、困った子が素直な子に転換することである。

 なるほど、この先生の宗教観は、まさに政治としての宗教である。統治の手段として、あるいは秩序の形成のために宗教ないし宗教行為を利用したいということだ。
 もちろん個人としてこのような考えを持つことは何ら問題ないし、長く根深い思想であると同時に、医療としての宗教と同じくらい古びた考えでもある。

 私の考えは、宗教を研究するとは信仰を研究すること(※)であり、信仰とは確実性の問題として表現される(※※)、というものだ。また、それが現代宗教の最重要課題であり、かつ、その他の分野が扱い得ないところであると確信している。
 そういった視点からすると、またぞろ未分化な宗教観を持つ凡夫がはしゃいでるな、といった冷淡なものになりがちだが、現代においても具体的に現れた例として記録する必要はあると感じた。

※環の研究とはイデアルの研究である、のノリ
※※部分的に写像ないし対応を構成するという程度であり、automorphismとか言いたいわけではない。

【余談】
 幾つもの考えがあることを知った上で、なお、世間の人の「政教分離」に関する主張が今ひとつ理解できない。私にとって、政教分離の主眼とは、上記のごとき統治の手段としての宗教という概念を国家が保障しないということである。
 そうであるので、その考えを個人が持ってはいけないとか、宗教団体が近代的な政治システムに(利害団体として)関わってはいけないとか、あるいは宗教団体が政党を支持・構成してはいけないという類いの主張がまったく理解できない。

 まあ、どうせ日本人のことだから、国家も個人も宗教も民族も政治も法も何もかもが、抽象的な「日本」という全体集合の下に規定されているのだろう。
 日本人にとって、日本とは、特定の何かを指すのではない。全部だ。

本当の俺の話を、しない

 休学中は何をしているのか。

 なるほど、いい質問だが、非休学者にはわからないだろう。
 私が聞かれたら、大抵の場合、人生に耐えていると答えている。
 人生に耐えるとはどういうことか。なるほど、耐え難くない人生にはわからないだろう。

 しかし、それは聞かないでほしい。
 理由は幾つかあるが、簡単に言えば、それを説明することは人生を説明することになるからだ。
 人生を説明するほど下らないことはない。だから聞かないでほしい。

 大体、説明してわかるわけもない。
 説明されればわかるという思考の傲岸さにも耐えられない。
 なにより、説明している自分に耐えられない。

 ここまでの話で、よもや私がここに書いている人生というのが、他人の人生だと思った者はいないだろう。
 私は、他人の人生の重みに耐えきれず日々膝を屈し、涙しているのである。
 父、父の恩師たち、そして面識も無い多くの人々のことを思うと、あまりにも耐え難い。

 ともかく、こんなことを話していてはキリがない。
 もし、私の興味の範囲が奇妙に広く、聞いたこともない内容を伴っているとすれば、これらの故である。
 私の肉体は、後継者もなく忘れ去られ行く学者たちの、最期に行き着き、果たされなかった命題の通り道なのである。

 彼らが後継者が無かった理由、そして窮極的に必要としたものは、第一に数学であった。
 だから私は、否応なく、数学に進むことになった。
 ゆえに、私が数学に進んだ理由も聞かないでほしいと心から思う日々である。

 私が、数学、物理学、経済学、経営学、会計学、哲学、宗教学、そして戦争に興味があるのは、この困った遺産ゆえだろう。
 それにしても、生命科学をこれに加えろという要請が増大することにさらに参るばかりだ。

千里眼その他

爾時福来。従三昧安詳而起。告舎利弗。
千里眼。甚深無量。其念写門。難解難入。
一切学者。大新聞。所不能知。