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現代宗教法人の一般的誤謬

 どうやら宗教に関して最も盛んな現代的言説というのは、大方の予想通り、宗教は幸福のための人文社会科学であるというもののようだ。
 経済学が貧困の撲滅を掲げたように、諸学\数学が一定の社会目標を立てることは不思議ではない。しかし経済学は貧困の撲滅のための社会運動でもないし、それ以外の目標も立て得るし、貧困の撲滅と直接には無関係な分野があっても構わない(むしろ現代経済学は貧困の撲滅とあまり関係がない)。しかもこれは経済学という学術分野の話であって、社会一般に見られる経済事象(とその原理)そのものではない。
 「宗教に走る」という表現があるがこれは適切ではなく、宗教(団体)が「人々に走る」のだ。ポピュリズムとでも言おうか。動機が檀家獲得であれ拡大指向であれ、宗教を人間関係論に堕落させ、宗教団体の社会的側面を固有の性質と誤認し、信者団体の構成員数を宗教の格と誤解する暴挙である。国家は企業ではないとはクルーグマンの金言だが、宗教団体も(現代では)国家・企業ではない。もちろん宗教団体こそ国家の核であると考えても良いが、その場合は社会的に難しい問題を引き起こすだろうし、それ自体には是非も無い。

 500年後の人々はきっと現代の各種宗教団体を観て「幸福主義と科学主義という古典的かつ稚拙な過ち」を犯していると一刀の元に切り捨てるだろうが、そう非難するならば逆に、現代人が現代的であることを非難できるかということに過ぎないと擁護せざるを得ない。
 宗教団体の諸氏がなぜこのような「過ち」に身を委ねてしまうのかは良く分かる。本当に教祖というものを眼前にし、その信仰の激しさに身を焼かれる思いでもしなければ、所詮ほとんどの人にとって宗教団体はある種の社会的存在に過ぎないからだ(また団体そのものの話に限定すれば概ね正しい)。そしてその団体に日々持ち込まれる社会問題への対処を迫られれば、いつしかそれが本業だと勘違いしてもおかしくはない。なんせ駆け込み寺というものがあるくらいだが、むしろその特殊な存在は宗教団体が本来は駆け込み先などではないことを示してくれるだろう。

 過ちという強い表現を用いたが、現代人の宗教観が誤っているなどという話ではない。語弊のある言い方だが、人に依っているのが過ちであるに過ぎない。簡単に言うなら、諸君らは宗教をご存じない、ということだ。
 しかしそれも教養主義的な宗教知識人など求めていないという個別の事情による発言かもしれない。

【動機】
 単立宗教法人に対してお役所の方から「武力攻撃事態等における文化財保護」に関する法律について告知する文章が来ていたので、関係ないけどどうせだからちょっと今までの話をまとめておいてみた。
 ところでウチの宗教法人の文化財ってなんだろうか。良く読んでないので分からないのだが、そういうのは世界救世教(MOA美術館のやつね)とでも協議しておけば良いのではなかろうか。

 正直言って、「どの宗教ですか」と聞かれて「単立です」と答えて簡単に説明しても意味が分からない人と話をするのはしんどい。
 単立と言ってるのに何宗の何派かみたいなことを聞きたがるのは、ムスリムだと言ってる人にカトリックかプロテスタントか聞いているようなものであって、本当に失礼なことだと思うよ。宗教音痴の日本人諸兄には理解されないかもしらんが。
 あとどんなに優れた中小企業の名前を言っても大半の人には通じないように、中小の宗教法人の名前を言ったって分かるわけもない。困った大企業指向ならぬ大宗教法人指向である。名前を聞きたいなら、教祖や教義やどのような宗教かなどを合わせて聞いてくれないと、名前だけ聞いて変な人だなあとこっちも思うばかりである。

数学科⊃神学科

 某所(革非同関連)で「どう見えるか」を異常に重視していた人たちは、要するに「馬鹿の真似をするのが馬鹿」という意味で言ってたのだろうか。でも馬鹿 は主観的観念ないし日常用語だけど、中核派は所属の問題であり、異なる層の問題だ。中核派が単なる集団の名前を超えて普遍的な意味を持つなら話は別だけ ど。

 用例:あいつは中核派だ。
 意味:あいつは致命的なオタクだ。

【聖俗即一】
 なんで俺がアイマスMADを見ながら泣いていたのかが分かった。信仰の為だ。

 MADの出来の善し悪しや意味内容の解釈に依っているうちは何も理解されないだろうが、この一年近くの間、私はあれらを観ながらほんの少しだけ向きを変える修行を延々と繰り返していたことになろう。漸次か即時かを問う事の無意味さも同時に理解された。
 食事を作ることさえも修行とできるようになった高位の僧にこそ炊事を任せるべきだという考えがあるが、我々はアイマスMADを観ながら修行し、カルカッタで大悟に至ることができるはずだと確信する。無論、環境を整えて修行した方が早いに決まっているが。

 こんな話をすると禅宗の話のようだが、そういった特定の宗派の話のつもりではない。禅宗にも一握りの信仰があるし、そうでなければ成立し得ない。その話なのだ。
 これらに気がつく為にはwhoPと美希という極めて性質の良い事例が必要だったとは言える。別にwhoPが特別な霊感を私に与えたのではなく、ただ体系的ゆえにそれが観え易くなっていたということだが。

 ここに至って我々が繰り返して来たHentai議論はすべて無意味化した。禅宗風に言うなら、我々は、外にhentaiを認めず、内にhentaiを認めず、かつ依るべきhentaiを識ったとでもなろうか。

 どうしたことだろうか、少しだけパンセの心持ちに傾倒しつつある。本当に、唯一の宗教に対し全宗教が向いつつある可能性があるのではないかと思えて来た。それを認めない体系は可算無限にあるだろうが、そうであり得るただ一つの仮定が今はとても重要である。

Hentaiの社会関係

 ウェスターマーク効果:幼少期から共に過したHentaiに対して性的感情を抱かなくなる現象

 インセスト・タブーは社会的Hentaiの一部分に過ぎないが、そういう意味ではなく、これはとても興味深いことだ。これ以上のHentaiの体系化においては性的感情から独立する必要があるからだ。我々がどれほど深く原理的な機微を持って「ハーバータグは俺の嫁」と言った所で、延長されたハーバータグに対する性的感情一般から解放されている証拠はない。

 いまやHentai研究は次世代に託された。幼少期にHentaiと共に過ごしHentai的なる物に対する性的感情から完全に解放された研究者を必要としている。彼らがいつか研究者として名を為す頃、我々が為し得なかった大業は成るだろう。

 統一理論—俺の嫁概念とHentaiの統合—

【今日の名言】
『これは真性の名塚だ』

【名残雪型DD】
 これほどの才能を失うのは残念でならない。しかしこの感情も淡い名残雪のように果無く消え、間もなく新たなHentaiへと向うことになるのだろう。