主義と格言の中間の濃度を認める仮説
科学的であろうとするならば、科哲のことは忘れるべきだ。という格言を含む主義があるとすればどのような物だろうかと思わなくもない無為な日々であることだ。
無謬という単語の濫用は存外に難しい。仮説検定に濫用する場合は、帰無仮説を棄却する場合も採用する場合も、どちらも「仮説は無謬」という表現を使えそうな気がしてくるから困る。実際には帰無仮説と無謬の概念は根本的に相容れないものだから使ってはいけないというのが良識ある態度だろうが、そもそも無謬という単語を濫用したがっている時点で良識も糞も無いのである。
いつまでもCVEは無謬などと平穏な使い方ばかりしていては詰まらないので、この辺りを積極的に打開する必要があるのも確かなのだが。果たして。
神学を科哲の生贄に差し出しておいて、本体は科哲などという悪い友人と関わらない、というのが宗教界における最もクリーンなあり方のように感じる。
宗教たるからにはポストモダニスト(の下っ端)に非難されるような代物でなくてはならないだろうなと思うが、実際に「彼ら」と対立する必要もないし、「彼ら」が殊更に宗教一般と対立することもないだろうと信じておく。
この3年間くらいの個人的心情を簡単に言うなら、科学に対する不信という表現で十分だろう。と言っても自然科学の成果を疑ったりしているわけではなく、単に各種科学やそれらを取り巻く様々なものに対して関わりたくないという気持ちを持ったというだけの事だ。
科学と称する不愉快な代物から一旦足を洗って、もう一度もっとマシなことを考えてから、科学の領域に踏み込んだ方がよろしいだろうというのが今の感覚である。このブログで私は「科学的に考えなければいけない」というような表現をただの一度も使ったことは無いと思うが、それはそういうことだ。ちなみに感覚としては、数学と宗教は科学の埒外にあると思っている。
ところでこういった「科学という穢れから宗教という清浄な領域を守らなければならない」とでもいうべき感覚は宗教において致命的である。なにより"莫使有塵埃"ではなく"何處有塵埃"なのだなどというお話も含めてバッサリやらなくてはいけない。
例えば、これから宗教に志を立てて入門しようと考えている人がいたとする。その人に向って、信仰は長い修行の末に獲得できるものか、それとも獲得していたことに気付くものなのか、と問うたとする。さて、この話はどこからおかしいのか。そういうことだ。
無謬という単語の濫用は存外に難しい。仮説検定に濫用する場合は、帰無仮説を棄却する場合も採用する場合も、どちらも「仮説は無謬」という表現を使えそうな気がしてくるから困る。実際には帰無仮説と無謬の概念は根本的に相容れないものだから使ってはいけないというのが良識ある態度だろうが、そもそも無謬という単語を濫用したがっている時点で良識も糞も無いのである。
いつまでもCVEは無謬などと平穏な使い方ばかりしていては詰まらないので、この辺りを積極的に打開する必要があるのも確かなのだが。果たして。
神学を科哲の生贄に差し出しておいて、本体は科哲などという悪い友人と関わらない、というのが宗教界における最もクリーンなあり方のように感じる。
宗教たるからにはポストモダニスト(の下っ端)に非難されるような代物でなくてはならないだろうなと思うが、実際に「彼ら」と対立する必要もないし、「彼ら」が殊更に宗教一般と対立することもないだろうと信じておく。
この3年間くらいの個人的心情を簡単に言うなら、科学に対する不信という表現で十分だろう。と言っても自然科学の成果を疑ったりしているわけではなく、単に各種科学やそれらを取り巻く様々なものに対して関わりたくないという気持ちを持ったというだけの事だ。
科学と称する不愉快な代物から一旦足を洗って、もう一度もっとマシなことを考えてから、科学の領域に踏み込んだ方がよろしいだろうというのが今の感覚である。このブログで私は「科学的に考えなければいけない」というような表現をただの一度も使ったことは無いと思うが、それはそういうことだ。ちなみに感覚としては、数学と宗教は科学の埒外にあると思っている。
ところでこういった「科学という穢れから宗教という清浄な領域を守らなければならない」とでもいうべき感覚は宗教において致命的である。なにより"莫使有塵埃"ではなく"何處有塵埃"なのだなどというお話も含めてバッサリやらなくてはいけない。
例えば、これから宗教に志を立てて入門しようと考えている人がいたとする。その人に向って、信仰は長い修行の末に獲得できるものか、それとも獲得していたことに気付くものなのか、と問うたとする。さて、この話はどこからおかしいのか。そういうことだ。