少し前から、あるコミュニティで、「自分をあきらめるけど自分をあきらめない」、という練習をしています。
足を踏み入れたことのない世界の方たちの中に紛れ込んで、自分の言葉を出してみる。
背伸びどころか、さらにハイヒールを履いたように、かっこつけて飾って飾って、それなりに見えるような言葉を連ねてみても全然ダメで。
いつも通りのサンダル履きの視線で見える感じることを、等身大の自分のまんまの、稚拙でガサツな言葉だけで素直に書いてみると、
良いお話しでした。
昔を思い出しました、ありがとう。
こんなアイディアもありますよ。
と、言葉が還ってくる。
恥ずかしさをちょっとの勇気で押さえつけて、交ったこともない人達の世界に侵入してみることを決めてはみたけれど、最初はなにも言えなくて、なぜ自分はこんなことをしようと思ったのかと後悔ばかり。
そこではどんな会話がなされて、そういう人たちがどういうことをおもしろいと思い、価値があると考えるのかを知ってみたかった。
けれど、違いすぎて怖気付いている自分。
ちょっと背伸びをする環境というところに、時々衝動的に身をおきたくなるのは若い頃からの私の性格です。
丸くなりがちな背中を伸ばしていきたくなるのかなー
「7」という数字は曲がっているから、視線が時々固まってしまって不自由。
私の中の、3や5という数字が、7をむりやりにでも引っ張り出してくれるのだろうと思います。
今朝書いたnoteです。
出すとか、出るとか。
先週から考えていた触れるということの再考、いや、再々再々再々考!
自分を出すことは、自分の心の柔らかい部分に触れられる可能性がある。
自分の体の中を通過して外に出てくるという意味で、排泄物と言葉は似て非なりのはず?!?!
うまくまとまらないけれど、まーいいか。
堀田善衛さんがこう言っていました。
「出口が見つからなくて苦しいというけれど、人生の出口である死は、みなに用意されている。」
堀田さんの飄々とした視点や語り口が好きです。
飄々と。
この12月はそんなふうに生きてみたいかな。
Kiki
スーパーの駐車場に星発見。
今日は新しいボランティア先に、ナースのテッドとお邪魔しました。
手術でもう取ってしまった足が、まだずっと疼いて痛くて痛み止めを手放せないそうです。
ファントム・ペインと英語ではいうそうです。
頭の中の過去の辛い思い出を、亡霊だと思って切り離そうとしてもすごく難しい。
心のファントム・ペインと闘った経験はあるけれど、体のそれはわたしにはわからない。
これまで、家族の誰も訪ねてこなかった家に、怪しい英語しかできないアジア人の私が登場して、アフリカンアメリカンのおじいさんはぽろぽろと涙がでて、テッドが背中を優しくさすっていました。
私は、自分が何ができるだろうか、と考えながら息子と食べる夕飯をこれから作ります。

