大河ドラマの解説コーナー㊻ #どうする家康 | わんわん物語

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~異界から目薬~

大阪の陣が始まる回の分です。

 

大阪の陣、14年ぶりの大戦ということでこれが初陣という武士、兵士が多いということをドラマではたくさんアピールしていまして、これは前々回の本多忠勝や榊原康政等の歴戦の武将が老いて死んでいくところに視点を置いて描いていることから、関ケ原で負けて牢人になった者たちを集めた戦経験者の多い豊臣軍と、若くて戦を知らない者が多い徳川軍を対比させたかったんだと思いますが、事実であり事実でなかったりします。

 

ドラマではさっぱり登場しない2世武将たち、酒井忠次を始めとする四天王の子や、大久保、奥平ら三河武士たちの子、孫など、桶狭間を戦った者たちは死んでいても長篠には参戦した、小牧長久手は参戦したという者たちはたくさんいるのです。

 

だけどもやっぱり大坂の陣が初陣という者が多く、次いで戦の経験は関ケ原1回だけという者が多いわけで、関ケ原1回だけっていうところでは豊臣の将兵たちもほとんどそうだったわけです。

 

年月の経過は、大阪冬の陣は桶狭間から54年、長篠から39年、小牧長久手から30年、小田原攻めから24年、関ケ原から14年です。

 

参戦した人の年齢をざっくり考えると、関ケ原が初陣の者は20代後半~30代、小田原、小牧長久手が初陣だった者は40代、長篠が初陣だった者は50代、桶狭間が初陣だった者は70前後、といった年齢なわけです。

 

わんさん推しの奥平氏を例にすると、桶狭間の後の家康の三河統一に対抗した後に徳川に降り、武田との戦いでは一旦武田に降った後に脱出して再び徳川に帰順して長篠で鳶ケ巣鳥で奇襲に参加した定能は関ケ原前に没し、長篠砦を守り抜いた信昌は関ケ原後に美濃加納藩主と京都所司代を努めた後に隠居しますが、信昌の子は男子は4人いて皆亀姫の子なので家康の孫にあたり、それぞれ領地をもらいます。

 

長男家昌は関ケ原で秀忠に従って戦いますが、冬の陣直前に没して不参戦だけど子孫は宇都宮藩主となった後に九州の中津藩主になり維新以降も子爵家として存続。

次男は家治は関東移封後に領地をもらうけど若くして没して断絶。

三男忠昌は家康の養子となって松平姓をもらい、信昌の加納藩を継ぐけどこちらも冬の陣直前に没して不参戦で、名代の父信昌は高齢のため参戦免除。

 

唯一参戦したのは四男忠明ですが、こちらも家康の養子となって松平姓をもらって、関ケ原では父と共に出陣したので本軍の方かな。

関ケ原後は本拠の作手藩をもらったり伊勢亀山をもらったり家治の領地ももらったり厚遇されていて7万石ほど。

奥平信昌は息子の領地と合わせると30万石くらい持っていて譜代ではトップクラスですね。

大坂の陣では直前に兄弟が相次いで死んでしまったため、父から兵も送られてやっぱり譜代の中ではかなり多い兵力を持っていたようです。

 

冬の陣では手柄を立てられずに終わってしまいましたが堀の埋め立てを任じられ、夏の陣では「大いに戦功を樹つ」と中津藩史に記載されています。

豊臣滅亡後に大阪城代を任されて大阪の街を整備し、現在名城として残ってる多くの城の城主城代を歴任し、後に井伊直孝と並んで三代将軍家光の後見になりました。

 

奥平さんの例で見ると、家康と同世代で桶狭間や三河統一戦を戦ってきたのを初代とすると長篠から活躍し始めるのが2世、関ヶ原が初陣になるのが3世、大阪の陣が初陣なのが4世となるわけですが、3世までは父や家臣たちが歴戦の武士たちで大坂の陣の時も生きていて”戦を知らない”という状況ではないわけですね。

 

本人の経験が少なくてもベテランが補佐するわけです。

 

対して豊臣の方はというと、改易されて家臣は散り散り、貧困の中でベテランの家臣たちは死に、武将本人の経験に頼るところ

が大きいという感じではないかと思います。

 

もちろん主君の大阪入城を聞いて駆けつけてくる家臣たちもいるとは思いますが、かつての所領を失っているのでかつての兵までは多く集まらなかったのではないかと。

 

有名なのはやっぱり真田幸村こと真田信繁ですが、後藤又兵衛は「軍師官兵衛」でも活躍してた黒田の猛将だし、名前が毛利吉政となっていたのは秀吉子飼いだった毛利勝永、明石全登(てるずみ)は宇喜多氏の家老で関ケ原でも活躍したキリシタンですが、それぞれどのくらいの兵を連れてきたかはあまりわかりません。

 

集まった武将たちの中で一番身分が高くて兵力も多く集めていたのは旧土佐の大名の長宗我部盛親で、なので上段にいましたがそれでも集めた兵は1000名でした。

 

他にもたくさん名だたる牢人たちが大阪城に集まりましたが、トータル9万人のうちのほとんどはよくわからない牢人たちです。

 

それを、ある程度名が知れた牢人が指揮して戦うので、どちらかというと烏合の衆、戦巧者の多い豊臣VS戦を知らない若者が多い徳川っていう感じではなかったと思いますよ。

 

で、先週から引きずってる方広寺の鐘銘事件、豊臣が仕掛けた策略ということで、”見過ごせば幕府の権威が失墜し、抗議すれば強引な言いがかりだと悪いイメージになる”と徳川が窮地になるようなことを言って戦に向かうわけですが、幕府の側も抗議の際の要求が秀頼の参勤だったり淀殿を人質に江戸に送るだったり秀頼の大阪城退去だったり、既に兵を集めているのに全く応じられないような内容で、戦に向かおうという雰囲気を作っていきます。

 

ここで秀頼がこの要求に応じていたら幕府はもっと困ったと思うのだけどもそこまでの策略は無かったのね。

 

片桐且元の大阪城退去の件も、最初はなかなか話を進めず、大野治長の母の大蔵卿局が来たらすんなり話を進めるっていう、片桐且元に疑いがかかるような離反の策でした。

 

織田信雄の「儂が得意な戦法は和睦」というセリフも良かったのだけども、この人は最初から戦う気はなく片桐且元に暗殺の計画を教えて逃がすと自分もさっさと大阪城を退去しました。

ここは父親譲りの逃げの名手っぷりです。

 

この二人の大阪退去に「京の五徳が手を貸した」みたいなセリフがぼそっとありましたが、ほんとかどうかわかりません。

信長の娘、信康の妻だった五徳はこの時京都に隠棲していましたが、まあ、信雄は叔父だし援助したかもしれません。

wiki的には当時の京都所司代の板倉勝重が手を貸したと書いてあります。

 

こういった流れの中で家康が「信長、秀吉と同じ様に自分が悪名を背負って地獄にいく」みたいなセリフで、この徳川の強引な開戦の責任を取る覚悟を見せるわけですが、悪いものを悪いと認めると悪いイメージが無くなるものですね。

 

あと豊臣も悪く描いてしまえばなおさらに。

 

やっぱりそういうところは一貫して上手く演出していくのですね。

 

こうして大阪冬の陣が始まり、大阪包囲から20日ほどで和議となります。

 

この戦の豊臣方の戦略はなんだったのか、と思うよね?

 

徳川を倒して再び豊臣の世に戻す、という戦ならば大阪城に籠城してたら絶対無理じゃん。

 

せめて関ケ原のようにどこかで大決戦するとか、徳川軍が攻めて来る前に畿内を制圧し、全国各地で呼応する大名や一揆を蜂起させて再び戦乱を起こしてから国盗りしていくとか。

 

籠城して攻めてくる軍を多少撃破したところで、また徳川が攻め落とすのを諦めるまで粘ったところで有利な条件で和議というのが関の山だと思うのです。

 

なんのための戦か、というのが不明というのがやっぱり徳川の方に、家康が生きてるうちに豊臣を滅ぼしたいっていう理由が強かったんじゃないかと思うのです。

 

籠城側の射程外から大筒で天守撃たれて和睦って、どうしようもない戦下手でしょう。

相手の武器の情報すら集めていない。

 

そんな中で真田丸だけは圧倒的強度で攻め寄せる敵を殺戮していき、これが真田信繁の名を不朽にするのだけども、それでも一戦場における勝利では戦全体の勝利には繋がらないわけで、そもそも戦全体の勝利条件って何?ってところまで考えていたのかどうか。

 

家康を討つって、家康が出陣してこなかったどうするつもりだったんだろ。

 

そんな穴だらけの戦なのに豊臣の勝利を信じてた淀殿、次回は和議を結んで、懲りずに夏の陣になります。

 

あと2回で終わってしまうのですが、感動のラストになるのでしょうか。

 

次回もお楽しみに!