大河ドラマの解説コーナー㊺ #どうする家康 | わんわん物語

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~異界から目薬~

プリンスが二人いる回の分です。

 

秀忠「秀頼に負ける自信がある!」って。

 

このキャラ作り良いね。

 

片や幼い頃から豊臣の天下を取り戻すために教育されてきた父が天下人のボンボン、片や生まれた時はまだ戦乱の世だけど物心つくくらいの時には父が五カ国の大大名で天下分け目の決戦に遅刻しても許されたボンボン。

 

まあ、戦の経験がある分だけ秀忠の方が有利な気がするけど、どちらも前線で自ら槍を振るった経験は無いわけで。

 

秀頼の方の人となりは淀君にずっと囲われていたのと悲劇的な最期とで、自身の判断で何かを為したような点を探すのも困難だしどうしてもイメージ先行になってしまうのよね。

 

二条城での会見はwikiでは民衆は豊臣と徳川が手を結んだことで平和になったと喜んだと書いてあるけども、ドラマでやっていたように徳川が力づくで豊臣を従えたと憤ってる人もいただろうし、逆に戦の火種が残ったと感じた人もいたのではないかと思います。

 

なお、ドラマでは上段を譲り合って二人共上段へ、とやっていましたが、左右でも上下関係がありまして、日本では左の方が偉いのです。

 

右大臣と左大臣では左大臣の方が偉いのね。

で、大臣の左右は天皇から見ての左右なので、正面から見ると右側にいるのが左大臣です。

 

ちなみに内大臣、家康が関ケ原の時に内府と呼ばれていたのは内大臣のことですが、内大臣は左大臣、右大臣の下です。

 

家康は征夷大将軍になるのと同時に右大臣になりまして、右大臣はその年のうちに辞任してるんだけども右府と呼ばれてる時期もありました。

 

今回の話は二条城会見からの方広寺鐘銘事件で戦へと繋がっていく話でしたが、ドラマでは触れてないけど家康の右大臣も問題になった箇所です。

 

右大臣は右府と呼ばれることが多いのですが、日本の官職を中国の官職に当てはめて呼ばれることもありました。

 

日本の官職を中国の官職に当てはめた名前を唐名というのですが、有名なのは水戸黄門の黄門ですかね。

中納言の唐名が黄門です。

 

皇太子を東宮と言ったり上皇の御所を仙洞御所という時の仙洞も唐名だし、秀吉の太閤も唐名だし、小早川秀秋が金吾中納言と呼ばれていた時の金吾も唐名です。

 

金吾は唐名にするのに中納言は唐名にしないという、呼び方の法則はよくわかりません。

 

で、右大臣の唐名は右僕射というのですが、方広寺の鐘銘の中に”右僕射源朝臣家康”(うぼくや みなもとのあそん いえやす)とあり、もちろん右大臣家康と名前を書いただけの意味なのですが、右僕を無視して源朝臣家康を射つと読んでいちゃもんを付けた馬鹿者がいます。

 

それが林羅山ですね。

 

日本史が残る限り未来永劫に馬鹿者と言い続けるべきの林羅山ですが、家康に抜擢された高名な儒学者です。

なので当然こんなの意味わかってて無理矢理いちゃもんつけて戦を引き起こした戦犯です。

儒学者が聞いて呆れるほどの強引な言いがかりです。

 

鐘銘事件に関してはwikiに詳しく経緯が書いてあり、林羅山と金地院崇伝が幕府の意向を組んで無理に開戦理由をこじつけたわけではなく、鐘銘は鐘銘で問題だったということですが、それでも開戦理由になるほどのことではありません。

 

鐘銘に”君臣豊楽”と”国家安康”という文字があり、君臣豊楽は、まあ、どう漢文を読み下したら”豊臣を君(主)として楽しむ”

と読めるのか不明ですが意味は豊臣の繁栄を祈願するニュアンスで、国家安康は家康の名を切り裂いて分断した呪詛であると抗議したところから事が大きくなっていきました。

 

そもそもは、松永久秀と三好三人衆の戦火で焼けた東大寺の大仏再建の落慶供養イベントで、段取りの時点ですったもんだしてたのが鐘銘に問題ありで、鐘銘を書いた人も悪気は無いんだけど縁起が良いかと思って隠し文字で入れたとのことだけど、五山の僧っていう知識人たちに聞いてもこの鐘銘はまずいだろっていう見解で、徳川が豊臣に抗議って形になりました。

 

そこまでは良いとしても、上述の林羅山のように強引すぎるいちゃもんの付け方と、豊臣側が非を認めずに対抗するっていうのが良くなくて、その辺の経緯を見ると豊臣側でも戦のきっかけを探していたのかもしれない感じがします。

 

このあたりの歴史の流れ、なぜ家康は関ケ原の後に豊臣を滅ぼさなかったのか、なぜ二条城で会見して戦を回避しようとしてたのかっていうところの辻褄をドラマでは家康の心境と合わせて上手く繋げてたように思いました。

 

前回の、「関ケ原はまだ終わっていない」と言いつつも戦を起こさず桶狭間から共に戦ってきた家臣たちが老いて死んでいく中で、豊臣をどうするつもりだったのか、っていうところの辻褄合わせですね。

 

ここで突然今川氏真が訪ねてくるのですが、晩年の氏真はしょっちゅう家康のとこに遊びに来てたらしいよ。

めっちゃ来られて困った家康は品川に屋敷を与えてそこに住まわせたそうな。

 

掛川城で大名としての今川家を滅亡させた氏真のその後は以前にもブログで書いたと思うけど、もう一度おさらいしておきます。

 

掛川城を退去した氏真は妻と一緒に妻の実家の北条家を頼って落ち延びてしばらくそこで暮らしますが、北条が武田と再び同盟を結ぶと危険を感じて北条家を脱出、まさかの家康の元にいきます。

 

徳川は武田と交戦中でしたが城をもらって駿河統治に貢献。

 

信長に呼ばれて公家相手に相撲イベントしかしてこなかった信長に蹴鞠の文化を伝えて、信長は公家を喜ばせてラッキー、公家も信長の機嫌を取れてラッキーで信長の長篠出陣に一役買う。

 

長篠の戦いにも参戦して武田四天王の内藤昌豊を討ち取る(直接討ち取ったのは家臣だけど)金星を上げるも城主は解任となって、家康の元にいたとは思うけど何してたかは不明に。

 

秀吉が天下統一する頃は京都に住んで、たぶん文化人たちと付き合いながら悠々自適な生活してたんだと思う。

収入どうしてたんだろ。

出世した旧今川家臣が援助してくれたり、芸能の指南とかで稼いだりしてたんだろうけど。

 

家康が関ケ原で勝ってからは家康のところにちょいちょい行って、品川に家をもらった、と。

 

幼馴染だし、親友だよね。

 

そしてずっと妻と一緒っていうリア充です。

 

そんな氏真と家康のやり取りも感動だけども、そこからだんだん戦へと世の中が動いていくところへ、戦う決意をするわけですね。

 

強引な開戦はやっぱり徳川の汚点だと思ってるんだけど、その汚点も上手く家康が悪くないように描いてくれました。

 

次回は大阪の陣ですね。

放送回はあと3回だけど、大坂の陣は1回で終わらせないよね・・・?

幸村さんあんなにがんばってるのに来週で死なないよね?

 

次回もお楽しみに!