わんわん物語

わんわん物語

~異界から目薬~

於愛日記の回です。

於愛の方視点を交えつつの亡くなるところはナレーションの回でした。

 

千代さんを探して鳥居元忠がかくまって、なんだかんだで結婚するエピソードがありますが、まずはこの2名の解説をば。

 

の前に、登場人物のこの時点での年齢がわかり辛くなってきているので補足を。

物語では家康上洛と小田原征伐の間、西暦1587年~1589年あたりですが「どうする家康」初回の桶狭間の戦いが1560年なので30年弱経っています。

 

なので、初回で若手だった本多忠勝や榊原康政は40代、ベテランだった武将は50代、酒井忠次は60代になるし出てこなくなっちゃった石川数正ももうすぐ60代です。

 

主要キャラで最若年は対武田戦から登場の井伊直政で20代後半、主人公徳川家康は40代半ばです。

 

なので恋愛シーンは初々しくはならないのですな。

 

服部半蔵は家康と年齢が近いんだけど、ずっと初々しいのだろうか。。。

 

で、千代さん。

 

モデルになってるのは望月千代女という歩き巫女なのですが、歩き巫女というのはざっくりイメージで諸国を歩き回って情報を集める人で、くノ一を兼ねていたり遊女も兼ねていたりする感じです。

歩き巫女という集団は実在はしてたようですが、ほんとに情報を集める役を担っていたかは不明。

 

ちょいと話しがずれるけど史料で情報収集を担っていた記述があるのは盲人の方です。

於愛の方が目の不自由な人達に施しをするシーンがありましたが、盲人も情報収集を生業にしていることもありました。

 

”風が吹けば桶屋が儲かる”というコトワザの由来で、風が吹くと土埃が舞って盲人が増え、盲人が三味線を生業として~と続きますが、盲人の芸人である琵琶法師も諸国を回るし、島津が寡兵で伊東氏を破った木崎原の戦いでも盲僧の情報収集で勝利を得た記述もあり、盲人への施しが単なるボランティアではないかもしれないという解釈ができたりします。

 

於愛の方は情報収集の間者を囲っていた、と。

 

ま、とりあえず話を戻して。

 

鳥居元忠の妻に武田四名臣の馬場信春の娘がいたという説があります。

 

望月千代女は名字の通り望月氏、信濃の名家で、真田十勇士にも望月六郎がいますが、その縁者であると推測されるので馬場信春との関連はどうなのか、とは思います。

 

それと、ドラマの中では名字は出てないのに徳川家臣たちはどうして真田との関連を疑ったのか。

どちらかというと武田信玄直属で、なおかつ穴山梅雪付きみたいな感じだったし、それなら割りと井伊直政の家臣になってるから徳川に恩がある方だと思うのだけども。

 

馬場信春の娘というのは切り離して望月氏であれば真田との関連は疑うのは当然だけども、そもそも望月千代女の実在が怪しいので設定に混乱があると思いました。

 

固有名詞じゃなくて集団名とか代々受け継がれる名前とかっていうのも含めて望月千代女っていうのを捉えないとドツボにはまりそう。

ゲームではよく登場するので。

 

なお、物語上では三河一向一揆の時から登場してるのでやっぱり40代です。

 

鳥居元忠の方は家康が今川の人質になっていた時からの側近で、ポジション的には本多忠勝や榊原康政と同じ家康本隊の将ですが、忠勝、康政が家康の関東移封まで本隊にいたのに対して元忠はこの時には甲斐に城をもらって城主になっています。

 

ちなみに大久保忠世も信州惣奉行になって小諸城にいるはずですが、二人共駿府にいるのはドラマの都合ですね。

 

そんな元忠と千代のすったもんだを絡めて、千代が真田の間者疑惑があるならば代わりに真田へ入り込むと稲姫が嫁ぐことを決意する流れですが、もちろんフィクションです。

 

千代さん自身が望月千代女をモデルとした架空のキャラな感じなので。

 

それで真田との関係が落ち着いて、北条も説得してめでたしかと思いきや、悪い秀吉がまたかき回すのですね。

 

上洛する際に名前だけ出てきた北条氏規、先々代氏康の四男で、存命してる当主後見の氏政の弟、当主氏直の叔父ですが、幼少の頃に今川に人質に出されていて同じく人質だった家康と幼馴染みという関係です。

 

北条の中では秀吉恭順派なわけですが、氏政、氏直は秀吉を侮っている感じで戦も辞さず構えなので板挟みになる人です。

 

結局北条の中で生き残る血筋になります。

 

次回は小田原征伐して関東移封になるので、小田原征伐はまさかのナレーションか、と予想してしまうのですが、どうなるのでしょう。

 

九州征伐は触れられもしませんでした。

 

九州征伐では本多忠勝が東国無双と言われるのに。

 

名将言行録で、秀吉が立花宗茂を西国無双、鎮西一と褒める時に比較対象として東国無双は本多忠勝と言うわけです。

徳川が九州征伐に関わるのこれだけだからカットなんだろうけど。

 

関東移封に際して揉めまくるシーンに期待して、次回もお楽しみに!

 

家康が上洛する回のです。

 

前回いろんな感動の紆余曲折があって上洛することになりましたが、状況だけ見ると高度な政治駆け引きの着地点というふうに見ることができます。

 

史料に残された部分から当時の人物の感情を作り上げることは創作物の醍醐味ですが、いろんな見方ができるものです。

 

なので、家康を攻めあぐねている秀吉があの手この手で上洛させて形だけでも徳川を臣従させたことをアピールしているという解釈も十分にできるわけで、むしろ史料から解析するとそっちの方が自然な見方だと思います。

 

当時の秀吉の勢力は間違いなく天下一なわけですが、豊臣氏を作り関白に就任してもどのくらい勢力が安定していたか、というのはこれも見方によってなのですが、リアルタイムの武将たちにとってもそうだったと思います。

 

関白になってもはや秀吉は天下人というのは逆で、不安定だった勢力に権威を示すために高い官位が必要だったと考えることもできるのです。

 

表向きは織田の旧領はほぼ秀吉が手中にし、越後の上杉、中国の毛利も同盟というか従属というか。

だけども徳川の態度次第でまだまだ反秀吉勢力は決起するし、それを見込んで秀吉包囲網もがんばっている。

 

結局秀吉が一つずつ切り崩ししていくわけだけど、信長包囲網と違って滅びるまで戦うわけじゃなくて降伏するんですよ。

 

これは、降伏すれば許される程度の反抗とも取れるし、滅ぼすと禍根を残すのと他の反秀吉勢力が必死になるのを防ぐ目的もあるし、挙兵してるわけじゃないけど軽く反抗してる者や表向きは従っていても隙を伺っている者などが決起してしまうのを恐れていたためと見ることもできます。

 

未だ九州や関東、奥州は秀吉の権威が及んでいないわけだし。

 

巨大な勢力と権力を持ちつつも不安定で力を示し続けねばならない、そういう状況だったと思うと家康を上洛させるために相当な労力を使ったと思うわけで、家康もそれをわかっていたとなると小牧長久手の戦いが茶番な感じがしてしまうわけですね。

 

信雄が秀吉と和睦するとさっさと手を引いちゃうし、そこからの駆け引きあれこれ。

実際は秀吉は多方面に出兵して武力も使ってるわけだけど、どうじに朝廷工作を進めて官位をゲットしていって関白になり、家康に妹と母を差し出して上洛させるっていう、なんとももやもやする戦いだったのでした。

 

そうこうしているうちに、ドラマではばっさりカットされていたのが四国征伐。

カットされちゃったので解説しましょう。

 

四国はね、長宗我部(ちょうそかべ)氏がほんとにがんばってたのよ。

ウィキでは長宗我部元親で調べると詳しいのと、小説読むなら司馬遼太郎の「夏草の賦」。

 

長宗我部って変な名字だけども、土佐の長岡郡に宗我部氏がいて香美郡にも宗我部氏がいたから長岡郡の方が長宗我部氏、香美郡の方が香宗我部氏と名乗ったらしい。

 

戦国時代は当主が長宗我部元親で、元親の弟が香宗我部氏の養子になって兄を支えて勢力を拡大していきました。

 

土佐は流刑(島流し)の地で、最も重い遠流(おんる)の場所の一つでした。

辺鄙すぎて鬼国とも呼ばれて蔑まれていましたが、公家の一条氏が守護となっていて京の戦乱を逃れて土佐一条氏の当主が下向してきていましたが、そういう地は現地の有力豪族が力を持って当主に従うのは表向きだけ、実際は豪族がそれぞれ勝手に自領を治めて相争うものです。

 

そんな豪族が土佐には7人いて土佐七雄と呼ばれていました。

長宗我部氏もその一人です。

 

長宗我部氏は一旦滅ぶものの、元親の父国親が岡豊城(おこうじょう、高知城から北東に10キロくらい)を奪還して周辺をまとめましたが桶狭間と同じ年の1560年死去、23歳で家督を継いだ元親はその状態からのスタートでした。

 

そこからの勢力拡大がどんだけ大変だったかは「夏草の賦」を読んでみると良いのですが、一条氏に付いたり離れたりしながらギリギリの戦いで土佐七雄を打倒して土佐を統一、統一すると四国には伊予に河野氏がいてその反対に瀬戸内海を越えて巨大な毛利氏がいる。

 

東側には京都で勢力を失ったとはいえかつて畿内を統治していた三好氏がいる。

 

新たな支配者の信長に会いに行ったら鉄砲はたくさんあるわ鎧は最新式の当代具足だわ城には多門櫓や石垣があるわ、四国より遥かに高い文化レベルにびびる描写が「夏草の賦」に出てきます。

 

なのでそれを目指してがんばろうと思うのですが「鳥なき島のコウモリ」、鳥がいない島ではただ飛べるだけのコウモリが威張ってると言われてしまったり。

 

それでも明智光秀の重臣斎藤利三の妹を妻に迎えたりして信長に寄り添いつつ四国統一を目指すのに、複雑な外交関係の結果で織田に攻められることになってしまいます。

 

三好を倒すにあたって織田と結んでいたのに織田の敵の毛利とも結んでしまったとか、三好の一部派閥は織田傘下に入ったのにそれとも引き続き敵対したとか、四国統一を焦って判断を間違えちゃったのね。

 

これが本能寺の変の原因の一つとも言われていますが、信長の四国攻めは本能寺の変でなくなりました。

 

ところが、更に判断を間違えて織田の後継者争いで柴田勝家に付き、そのまま秀吉包囲網に参加。

四国の敵対勢力を撃破してほぼ四国統一したものの、小牧長久手の戦いが落ち着いた後は秀吉に四国征伐されてしまうのでした。

 

ここで活躍(?)するのがマンガ「センゴク」の主人公仙石秀久なわけですが、長宗我部軍は初戦では仙石さんの軍勢と一進一退しますが本隊が来ると圧倒的な兵力差でわずか2ヶ月ほどで降伏し、せっかくほぼ四国統一したのに土佐一国になってしまうのでした。

 

その後は秀吉の九州征伐軍に加わるも、例の仙石さんが戸次川の戦いで惨敗、仙石軍にいた元親の嫡男信親は討ち死にしてしまいました。

 

信親、名前からわかると思いますが、信長から字をもらってます。

なのに織田から攻められるなんて。

 

元親は関ケ原の前に死にますが、家督を継いだ四男盛親はやっぱり判断を間違えて西軍につき、大坂の陣でも大坂方について長宗我部氏は滅亡します。

 

なんとも不運な長宗我部氏ですが、麒麟が来るでも語られず今回の大河でもさっぱり語られないので解説してみました。

 

家康の上洛は四国征伐が終わった状態です。

既に九州にも派兵しています。

 

四国征伐のオーバーキルもだけど、上洛の際の陣羽織の件は、名将言行録だっけかな。

違うかもだけど諸大名にそんなやらせで権威をアピールしてたわけです。

 

家康は駿府に帰り、真田昌幸と面会して、小松殿が出てきました。

稲姫、真田信之に嫁いで小松殿と呼ばれるようになりますが、ゲーム「戦国無双」では主人公キャラでも出てきます。

 

本多忠勝の娘で、物語などでは真田との戦で本多忠勝が信之の武勇に惚れ込んで娘を嫁がせたとかありますが、大河ではその設定ではないのですね。

 

ウィキを見ると家康の方が真田を従わせるために重臣本多忠勝の娘を嫁がせたとありますが、大河では真田の方から徳川を信用する条件として娘をよこせと言っていました。

 

まあ、結果は同じなんだけど、こういうのはどちらが言い出したかでどちらに企みがあったのかが変わるから入れ替えてはいけないと思うのですが。

 

富士遊覧も家康が誘ってることになってたし。

 

なお、この頃の信之は字が信幸で、幸の字を捨てたのは昌幸が関ケ原で西軍について信幸が東軍について、父の助命と信幸が徳川大名であるために父の名前の幸の字を捨てたそうな。

 

真田さんも信繁(幸村)が大坂の陣で長宗我部盛親と共に戦うことになるので、大方長宗我部氏と同じ方向になる家ですが信之ががんばるので幕末まで大名でいられました。

 

そんなところで次回は稲姫結婚の話なのでしょうか。

サブタイトルは「於愛日記」となっていますが、ググってみてもそんな日記は出てこないので、どうなるのでしょう。

 

とりあえず出てきた石田三成はスルーしておきますが、次回もお楽しみに!

先週は放送が無かったから追いついた!

 

家康が朝日姫と結婚して上洛を決意する回です。

 

家康が上洛するのって、これも前回の数正出奔と同じく多くの物語ではさらっと流れていく部分なのです。

 

大事なのは小牧長久手の戦いと、家康は戦場での戦いには勝ったけど政治、戦略の部分で秀吉が圧倒的な力を持つことに成功して臣従したってことで、間にある数正調略、朝日姫結婚、母を人質に送るっていうのはその過程の策略の一つだからぱっぱと進んでしまうのね。

 

それを、よくぞ感動の物語にしてくれました。

 

瀬名への想いと、諸説ある数正出奔の理由と、朝日姫の努力、秀吉に屈することへの家康と家臣たちの想い、創作の構成ながらも見事にまとまって良いストーリーだったと思います。

 

前回のブログの締めが、秀吉を倒す決意をどう翻すのかって書いたんだけど、予想を遥かに上回る演出で感動しました。

 

さて、それぞれのエピソードと人物を解説します。

 

まず、天正地震から。

 

近年この地震がただの災害ではなく、秀吉の家康征伐を食い止めたものとして扱う研究が増えています。

 

研究史において天正地震と家康臣従の間に関連があることがどのくらい前から声が大きくなってきたのかは勉強不足で把握してませんが、例えば秀吉の軍師黒田官兵衛が主人公の大河ドラマ「軍師官兵衛」、秀吉子飼いの家臣山内一豊が主人公だった大河ドラマ「功名が辻」、この時点で越中能登加賀3国に領地を持つ秀吉方の大大名前田利家が主人公の大河ドラマ「利家とまつ」では地震の件は触れられていても家康征伐、家康上洛とは関連せず独立したイベントで描かれていました。

 

というか、一般的なイメージでは小牧長久手の戦いの後は秀吉が己の権力を強化して、なんとか戦をせずに家康を取り込めるように苦心する感じで、家康を滅ぼす準備をしていたようなイメージは少ないと思います。

 

ちょっとこの辺の史料を探してみようと思いました。

 

天正地震よりは慶長地震の方が秀吉天下統一後の平和な時期にに突然襲った大災害ってことでドラマ等でも描かれることが多く、時期も10年差なので混同しやすいので注意です。

 

天正地震では、ドラマでやってたように各地で大きな被害が出たのですが、もっとも悲惨だったのは飛騨の帰雲城でした。

 

帰雲城は内ヶ島氏が治めていましたが、前回のブログで書いた佐々成政と結んで秀吉に対抗しており、ちょうど降伏して和睦が結ばれたところで、無事に和睦できた宴会をしている時に天正地震が襲いました。

 

この地震で帰雲城は山崩れに巻き込まれて埋まり、一族縁者家臣全員死亡して内ヶ島氏は滅亡、現在も城は埋まったままで正確な位置は不明という甚大な被害を出しました。

 

前述の山内一豊は秀吉が最初に城主となった長浜城の城主になっていましたが、この地震で唯一の実子で6歳だった長女が亡くなりました。

「功名が辻」ではその深い悲しみが描かれています。

 

この被害の中に、対家康の前線基地だった大垣城が崩れ、家康征伐計画が頓挫したという。

 

他のもろもろの被害は「天正地震」でググると出てきます。

 

次に朝日姫。

 

秀吉の物語で突然ここで出てきます。

 

突然出てくるというのは、弟の秀長は秀吉の右腕として活躍(主に無茶をする秀吉の尻拭いキャラ)するのですが、朝日姫は秀吉が出世する前に既に農民に嫁いでいて、その夫は形だけ武士に取り立てられるも目立った活躍をしていないからです。

 

夫は佐治日向守という人か副田吉成という人の2つ史料があり、どちらか確定していません。

 

佐治氏であれば、まあ、血縁関係はわからないけど知多の豪族で織田を早い時期から支援してきて織田とも婚姻関係がある一族でなので箔をつけるのにちょうど良いところなのですが、お市の三女のお江も最初の嫁ぎ先が佐治氏なので関連がありそうです。

 

が、お江の婚姻に関しては信雄の意向なのか秀吉の意向なのか諸説あって、佐治氏自体もそういう一族が織田を支えてた以外に目立った活躍をした武将もいないのでよくわかりません。

 

婚姻による裏の繋がりで歴史の表に出てこないのは不気味ですね。

 

副田吉成という人もウィキはあるのですが、秀吉に仕えて転戦したくらいのことしか書いてないので詳しくはわかりません。

 

朝日姫もウィキにはそれなりの文量で書いてありますが、歴史の表舞台に出てくるのは家康と結婚した部分だけなのでどういう人物像だったのかはあまりわかりませんね。

 

秀吉のキャラと出自から母の大政所と合わせて田舎の農民キャラで描かれがちですが、秀吉が出世してそれなりの身分になってから20年以上経ってるので、素の性格はともかく実際のところはあんなキャラではないと思います。

 

と同時に、秀吉近辺では方言のままのセリフを言うキャラが多いのですが、実際のところはどの武士の家中も方言だったと思いますよ。

というか、共通語はまだ無いし、あっても必要になるのは秀吉が天下統一して全国の武士が一箇所に集まるようになってからだし。

 

で、秀吉から、朝日姫が失敗したら母を送ると言われ、母が送られる事態になって朝日姫は泣いたり、石川数正の意思に気づいて家臣一同泣いて秀吉への臣従を決意したりするのですが、このあたりは創作の部分です。

 

三河物語では家康が殺されるのを覚悟の上で徳川の家臣と領民を救うために上洛を決意し、家臣が止めるの説得しつつも秀吉から朝日姫や大政所が送られてきて秀吉の元に向かう、という描写になっています。

 

そしてその流れで宴会の時に秀長に毒殺されるところを、運良く席が変わって秀長が自分で毒を飲んで死ぬっていう謎なことが書いてあるのですが、秀長が死ぬのは小田原征伐の後なのでこの部分の三河物語は混乱しています。

 

あと解説すべきところは、石川数正が出奔して機密だだ漏れなので徳川は軍制を武田式に一新するのですが、井伊直政はこの時26歳なので、軍制改革メンバーにはいたけど一人でやったわけじゃないよ、ってところでしょうか。

 

次回は上洛して、悪い顔してる秀吉と対面です。

徳川が臣従して天下統一へと向かっていくのですが、どんな悪巧みがあるのか・・・

 

次回も乞うご期待!

 

石川数正が裏切る回の分です。

 

小牧長久手の戦いから半年経っています。

年月をすっ飛ばしてるように見えますが、本能寺の変からは2年です。

 

長久手で秀吉の中入り軍は壊滅しますが、その後は秀吉本人は忙しく転戦して反秀吉勢力を各地で撃退しつつ、織田信雄の領地の伊勢を攻めて家康軍の反秀吉総大将の信雄に圧力をかけ、信雄本人と講和してしまいます。

 

局地戦では家康は秀吉に勝利したものの、政治では秀吉に負けてしまうのですね。

 

秀吉と信雄が講和してしまっては、家康が秀吉を攻める大義が無くなってしまうのです。

 

ここで家康も次男於義丸を秀吉の養子に差し出して一旦講和となります。

於義丸、結城秀康ですね。

名字からわかる通り、更に結城氏に養子に出されます。

 

こんな感じで秀吉と家康の戦がなんとなくうやむやになってる間に、真田さんも謀略が冴えます。

 

武田が滅んだあとも自分の勢力を維持、拡大していましたが、北は上杉、南は徳川、北条から圧力をかけられていましたが従属先をころころ変えて潰されるのを巧みに回避しました。

 

従属先がころころ変わるのは境界の小豪族の宿命ですが、攻めてくる側ではなく攻めてくる側が簡単に手出しできない敵側に従属先を変えるっていうのは時勢に対応した策なのです。

 

これまでなら、例えば武田が徳川を攻めるにあたって境界の豪族は攻めてきた武田に降り、武田が負けて徳川が武田を攻め始めたら徳川に降ってたわけですが、真田の場合はそもそもの狙いが真田なので相手が手が簡単に出せないところに降るわけですね。

 

そもそも徳川と真田が対立したのは、もともと真田は徳川に降っていたのに徳川と北条が同盟を結ぶ際に真田の領地の沼田を北条に譲ってしまったためです。

 

沼田は群馬のみなかみあたりで、かなり行ってみたい城なのですがまだ行けてません。

群馬は北条と上杉が奪い合う地で、沼田は北条と上杉にとってはポジション的にはイゼルローン要塞、で通じるでしょうか?

 

ここ通らないと上杉は関東に行けないのです。

かつては上杉はその先の前橋、前橋の前の名前は厩橋(まやばし、うまやばし)に拠点を置いて北条(きたじょう)氏を城主にして北条(ほうじょう)氏を牽制するっていう紛らわしい人事をしています。

 

沼田城は、謙信が死んだ後に北条(ほうじょう)が奪取し、上杉と武田が同盟を結んだ際に真田が苦労の末に奪取しました。

 

真田にとっても小豪族が自力で奪って広げた貴重な領地なのです。

 

それを、真田が徳川に降って領地安堵かと思いきや勝手に北条に返還されたのだから怒りますよね。

 

で、上杉に従属先を変えて抵抗するのです。

 

秀吉側でも支援している風に演出していましたが、具体的にどんな支援かはわかりません。

兵は出してませんね。

 

上田合戦は2000の真田軍がほとんど犠牲を出さずに7000の兵で攻めてきた徳川軍を撃退して1300人討ち取るっていう完全勝利なのですが、ドラマでは戦闘シーンはありませんでした。

 

三河物語ではこの第一次上田城の戦いはかなり詳しく描写していますが、まあ、家康本人は出陣してないし派手なのは真田丸のときにやったから良いのかな。

 

この間も、秀吉と家康はうやむやな関係でしたが、越中の佐々成政がさらさら越えして家康に会いにくるっていうイベントもありました。

大河ではカットでしたけど。

 

佐々成政、黒母衣衆(信長親衛隊)の筆頭で柴田勝家の与力として前田利家らと共に北陸方面軍にいましたが、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家が滅ぶと越中一国を与えられていました。

 

小牧長久手の際は反秀吉勢力として前田利家の能登末森城を攻めてまして、「花の慶次」で慶次の親友奥村助右衛門が死守した戦いがこれです。

 

佐々成政は形勢が不利になると家康に再決起を求めて浜松まで会いにいくわけですが、その手段が冬の山越え「さらさら越え」なのです。

 

ルートは3つ説ありますが、いくら歴戦の戦国武将とはいえ登山初心者が冬の山越えとか命がけすぎるのですが、そうまでしなければいけなほど逼迫した状況だったのですね。

 

しかも命がけで山越えてきたのに家康は秀吉に於義丸を養子を出したばかりで断られるっていう。

 

帰る時もう1回山越えて帰ったらしい。

12月に山越えてきて、また山越えて帰って1月に帰り着く、登山記録は2回ですが伝説の登山家です。

 

小牧長久手の戦いの後、家康に佐々成政が会いにきたり上田城攻略に失敗してる間に秀吉は他の反秀吉勢力を撃退したり攻略したりしつつも朝廷工作を進め官位をどんどん上げていき、ついには関白になりました。

 

ここにも秀吉の手練手管があるわけですが、前例や血筋家柄の問題をクリアする裏技を使った結果、関白になりました。

 

で、豊臣という氏(姓や名字より上の氏族)を作って源平藤橘や五摂家と並ぶ家柄になったのです。

 

氏、姓、名字の違いや仕組みは長いのでググってみて欲しいんだけど、単に苗字変えたんじゃなくて、もっとでっかいとこを作ったって話です。

 

住所で言えば、〇〇県〇〇市〇〇の都道府県のところが氏かな。

豊臣朝臣羽柴秀吉の豊臣の部分が都道府県で朝臣の部分が市で羽柴の部分が地名ってところなんだけど、全部並べて名乗ったり署名したりすることはほぼ無いかな。

 

全部並べると官職と通称も追加になるので、豊臣朝臣関白太政大臣羽柴藤吉郎秀吉になるんだけども。

 

このブログでも〇〇氏とか〇〇家とか書いてるけど、普段書いてる氏はこのおっきい意味の氏ではありません。

 

おっきい意味の氏にすると武士はたいてい源氏か平氏か藤原氏たまに橘氏になっちゃうので。

 

なので、このブログで本多氏と言った場合は藤原氏だからそんな氏無いよとは言わずに忠勝も正信も広孝も重次も含めた本多氏のことと思ってください。

んで、忠勝の話をしていて本多家と書いたら正信や広孝や重次の家のことじゃなくて忠勝の平八郎家のことを指す感じで。

 

っていうところの、おっきい豊臣っていう氏を作った秀吉の政治パワーがどのくらい強大かっていう話ですよ。

 

源氏や平氏は皇族が臣籍に降りたときに与えられた氏だし、藤原氏は大化の改新(645年)で有名な中臣鎌足が褒美にもらった氏なわけで、それに並ぶものなのです。

 

それと共に、ドラマで何度もセリフに出てきてたけど、「信長を越えた」ってところが大きいのです。

 

今まで織田への忠義で秀吉に反対していた人たちも、信長を越えたというのは信長よりも頼れる武将であるということで、より大きな力を持つ武士に従うことは一般的なことだったからです。

 

秀吉が信長より大きな力を持つことで「大恩ある織田家を裏切って・・・」という感情は薄くなり、織田の領地を引き継いで発展させてくれる秀吉に味方することの方が自分の家を繁栄させることになるということになるわけですね。

 

この雰囲気をしっかり感じ取ったのが石川数正でした。

 

もともと西三河の旗頭、岡崎城代として織田、秀吉と接する機会が多かったのもありました。

 

石川数正はいかに秀吉が強大かを味方に訴え続けますが、徳川の武将からすれば敵を褒めて味方の戦意を削ぎ、主君に降伏を促す悪臣に見えたのでしょう。

 

板挟みになってしまうのです。

 

石川数正の裏切りに関してはググればいろんな説が出てくるので調べてみて欲しいのですが、酒井忠次と並んで最も家康に信頼された古参の武将が裏切るという事態、いかに心中苦しかったか想像できます。

 

現代でも会社が一大プロジェクトの計画を立てて、計画だけで成功を確信して盛り上がってるところに、独自にマーケティングして失敗する要素をたくさん見つけて、プロジェクトに反対や見直しの提案をしたら味方につまはじきにされてしまうようなことがあると思うのですが、大変だよね。

 

数正の裏切りも他の武将が主役の大河ならナレーションだけだったりカットされてしまうのですが、徳川目線だと大事件です。

 

本社の副社長がライバル会社にヘッドハンティングされたので。

 

三河物語でも著者大久保彦左衛門の実家は大パニックだったそうでパニックの様子が描かれてます。

 

徳川軍団的にも石川数正は機密をいっぱい知っていたので軍制を一新しなければならないほど。

 

出奔間際に熱いセリフを言っていましたが、この後も活躍してくれるのでしょうか。

 

次回は、家康が秀吉に臣従する話です。

 

いろいろ大変な目に合って悩んだ末にかっこよく反抗を決意するもいつも成し遂げられない家康、もちろん今回も秀吉を倒せないわけですが、あの決意をどう翻すのか、乞うご期待です。

 

次回もお楽しみに!

小牧長久手の戦い後編の回のです。

 

武将たち、ものすごくかっこ良かった!

なんだかんだで戦は華々しいもの、命をかけて戦った先に大きな名声が得られるものという一面もあるのでああいう描き方をしてくれると嬉しいものです。

 

もちろん悲惨なものでもあるし、実際に参加してる人たちからすれば無いにこしたことはないことなのかもしれないけど、武功夜話等には戦に嬉々として馳せ参じる描写もあるし、華々しさというのも大事なことなんだと思います。

 

さて、冒頭は小牧山城の大改造と、睨み合いのままお互いの隙をうががうに際して秀吉の悪口を言い立てて挑発するシーンです。

 

榊原康政の「秀吉は野人の子~」は岡崎城の近くに立て札持った像があります。

 

何も人の悪口言ってる状態の像じゃなくても、と思いますが、圧倒的な力を持つ秀吉に臆せず堂々と悪口言う姿は、まあ、かっこいいのかな。

 

実際問題、戦に負けなくても和議の際の条件に悪口言った人の首ということにもなったりするし、降伏することになったら絶対殺されるし。

 

でもそんな挑発には秀吉は惑わされず睨み合いは続くわけですが、その間も小牧山大改造は続いていて、堀を深くしてると見せかけて城を出る際に敵から見えなくなる通路を作っていた、という説があります。

 

確定してるわけではないのですが、お互いの本陣が丸見えなのに「密かに城を出て」とあるので密かに出られるルートがあったのでしょう。

 

城から出るルートだけじゃなくて城から出た後も密かに行軍できるルートが必要だと思いますが。

 

あと、三河物語には小牧山大改造からの睨み合いではなく、小牧山城には柵も作らず敵に突撃しての小競り合いを繰り返してたって書いてありますが、こちらは否定モードですね。

 

小牧山城が大改造された跡もあるし、この戦は幕府が精査して顕彰してるので小さな小競り合いでも、あれば敵を討った者や負傷した者が記録に残るので。

 

で、ドラマでは諸説を上手い具合に組み合わせてました。

たびたびそういう組み合わせはやってたけど、完全フィクションのやつがひどすぎて一喜一憂なわけですが。

 

中入り作戦、秀吉軍の池田恒興と森長可が膠着してる戦線を迂回して家康領の岡崎を攻め落とそうという作戦です。

岡崎を落とせなくても、焦った家康が小牧山城を出れば池田隊と秀吉本隊で挟み撃ちにできる、と。

 

これが羽黒の戦いでの敗戦で功を欲した池田恒興の策なのか、秀吉の策なのかで、結果負けてしまって池田恒興は討ち死にしてしまったので、家康に負けたのはどっちだってことで汚名のなすりつけをやったわけだけど、ドラマでは池田恒興の献策で秀吉がそれにプラスした案を乗っけたのですが「池田の策だったことにしろ」って噂を広めてました。

 

実際のところは説が確定してませんが、秀吉は自分が負けたことにしたくない、でも後世の幕府としては家康が秀吉に勝ったことにしたい、で池田さんが上手く使われて曖昧になってるのですな。

 

秀吉と池田さんの関係も、秀吉の方が力が強いのだけど多くの織田家臣が秀吉に従っているのは信長の乳兄弟で美濃一国を持ってる池田さんがいるからっていう面もあるので、ドラマ通りの関係だったんだと思います。

 

そして、次回への伏線で石川数正が不穏になってるわけですが、三河物語ではこの頃既に秀吉と内通疑惑とされてます。

 

数正が出奔するのはこれより1年以上先ですが、ドラマでは突然の不穏さですが、史料ではもう伏線があるのです。

 

数正の件に関しては次回なので次回にしますが、戦国も終盤とはいえまだ国主が討ち死にするような戦が続くのですね。

 

小牧長久手の戦いもこれで終わったわけではなく、一番大きい戦闘は終わりましたが秀吉と家康の戦いの決着が着くまではまだまだかかります。

 

次回はどんな演出で決着をつけるのか、上田城の戦いはやるのか、乞うご期待です。

 

次回もお楽しみに!

 

小牧長久手の戦い前編の回の分です。

 

柴田勝家を滅ぼした秀吉は織田家中を掌握し、主君として立てていた三法師と織田信雄を蔑ろにするようになりました。

 

というところから始まるのですが、いまいち頼りなく描かれる信雄、この人が大阪の陣も乗り越えて生き延び、大名としての織田家の血筋を残していくと思って見るとまた見方が変わるのでそう思って見てみましょう。

 

氏真と重なる部分があると思います。

 

秀吉に蔑ろにされた信雄は、天正壬午の乱で北条と和議を結びつつ甲斐と信濃をゲットした家康を頼り、家康はしばらく様子を見ていたものの秀吉との対決を決意します。

 

物語などでは自然な流れで秀吉と家康が対決していく話になるのですが、天下の形勢的なことはともかく、家康の心中はどうだったんでしょうね。

 

もちろんただの親切心で信雄を支援したわけはないのですが、戦略的に何を狙ったものなのか、というのは史料が無いので考察の幅が大いにあります。

 

というのは、秀吉と家康の差は圧倒的に秀吉の方が大きく、直接対決の一戦で勝利したところで秀吉を討ち取れるわけでもなければ秀吉の勢力が崩壊するわけでもありません。

 

なんとなくな雰囲気だと、本気で秀吉を倒そうとしてたというよりは、このままの秀吉の勢いに負けてしまうよりは合戦で優位に立って有利な条件で和議を結ぶというのが狙い所だと思っているのですが、それこそが物語から植え付けられたイメージなのでしょうか。

 

ドラマでは本多正信が策を立てていましたが、ウィキでも秀吉包囲網というのがありまして、四国の長宗我部氏、丹波国衆、紀伊国州、越中の佐々氏らと結んで秀吉の勢力を包囲し各所から圧力をかけていました。

 

ただし信長包囲網と違って歴史用語として「秀吉包囲網」という言葉があるわけではなく、将軍足利義昭が中心になって形勢した信長包囲網のように家康が盟主的な存在だったとも確証もなく、家康が秀吉を本気で滅ぼして天下を獲ろうとしていたのかは定かではありません。

 

もちろん年単位の長期戦略では秀吉を滅ぼそうという狙いはあったかもしれませんが。

 

ただ、本能寺の変後の秀吉の、賤ヶ岳→小牧長久手→四国九州征伐→小田原征伐→天下統一の流れの中で、小牧長久手の戦いを「史上最大の決戦」と副題をつけて大きく描くのは良いですね。

 

結果を知っている後世からすれば秀吉軍10万のうち戦ったのは2万人ほどで本隊は動かなかったので大戦な感じは薄いのですが、よく考えたら羽柴軍2万対徳川軍3万でも長篠級の大戦だわ。

 

で、主戦場だけではなく全国規模で徳川と同盟を結んだ勢力が秀吉の勢力と戦っている。

 

関ケ原のような大規模な大乱と認識してみるとまた見方が変わるわけですね。

 

秀吉と家康の一大決戦として見ても、小さい戦場ではなく広大な戦線があって、戦場での駆け引きだけではない知略のぶつかり合いでもあり、参戦武将も数々の戦をくぐり抜けてきた一流の武将たちが戦うわけです。

 

突然鬼武蔵が出てきました。

 

森長可(ながよし)、信長の尾張統一戦の頃から活躍していた重臣森可成(よしなり)の子で、長可の長は信長からもらった字です。

弟の蘭丸が有名なのですが、戦国のDQN四天王の一人でネット上をざわつかせる人物です。

 

なお、四天王あとの3人は伊達政宗、細川忠興、島津忠恒です。

 

まあ、もはやDQNも死語なのでアレですが、鬼武蔵もかなりいろいろやらかしながらも信長のお気に入りなのとその武勇で本能寺前は海津20万石の大名でした。

 

本能寺の変後は海津は放棄するものの地元っていうか旧領の美濃金山まで戻って離反したり混乱してる勢力を自力で鎮圧して東美濃を統一、岳父の池田恒興と合わせてほぼ美濃一国を支配する勢力になっていました。

 

ドラマではここからの登場なので威張ってるくせに負ける人なのですが、この時27歳にして既に多くの武勲がある期待の若手武将でした。

 

戦歴辿ると13歳の家督相続から27歳の小牧長久手まで大暴れで当主なのに最前線で槍を振るう猛将であり、だけども内政にも力を注いで領地を発展させるっていう名君でもありました。

 

が、やんちゃなこともいっぱいやったのでDQN四天王の仲間入りなのですが。

 

そんな森長可と池田恒興の軍を、酒井さんが粉砕します。

 

小牧長久手の戦いと一括りに言いますが、その中にもいろんな戦いが含まれていて、初戦で酒井さんが池田、森隊を破ったのは羽黒の戦いと呼ばれます。

 

そして、徳川軍は前進して、かつて信長が居城とした小牧山城を大改造して要塞化し、本陣としました。

 

この天守は資料館で、復元された建物です。

信長が岐阜に居城を移した後は城下町ごと引っ越して放置されていましたが、武家屋敷の跡地等を大改造して戦用の要塞にしたわけです。

 

 

ドラマの最後に犬山城や楽田城から小牧山城が見える様子をやっていましたが、小牧山からもこの高さなので写真ではわかりませんが犬山城や楽田城が見えます。

 

お互いの本陣が見えるところでの戦だから膠着したってのもあるんでしょうね。

 

小牧山城は秀吉に勝利した記念の地として幕府から入場禁止になっていたので遺構がよく残っています。

軽い登山ハイキングにもなるのでおすすめの山城ですが、小牧駅は他に観光できるようなところが無いのでそのまま犬山城に行きましょう。

 

ちなみに、要塞化したものの小牧山城で直接戦闘は行われておりません。

 

ま、本陣が堅固っていうのは敵はびびるし味方は安心する効果があるのでそういうのも大事よね。

 

次回は小牧長久手の本戦です。

 

激戦シーンに期待で。

 

次回もお楽しみに!

 

清洲会議~賤ヶ岳の戦いと天正壬午の乱の回の分です。

 

テンポよく話が流れていきましたが説明不足なシーンが多かったので解説し甲斐があります。

 

秀吉やお市のキャラ設定は置いといて、本能寺の変の後に秀吉は山崎の戦いで明智光秀を討ち取ったものの、それですぐに信長の後継者となったわけではありませんでした。

 

織田の重臣の中でも軍団を持っていた武将たちで今後の織田家をどうするか、という会議が開かれました。

これが、三谷幸喜がパロディを含めて映画もした清洲会議っていうイベントです。

 

メインは、信長の嫡男信忠も死んでしまったので織田の後継者を誰にするか、というものですが、後継者を決めて家臣一同団結して継続して織田をもり立てていこうって話ではなく、後継者の後見人になった人が今後は織田を仕切っていくぞという話です。

 

信長の子供は男子もたくさんいるのですが、武将として独り立ちできているのは次男信雄と三男信孝で、この二人は異母兄弟で次男三男だけど1ヶ月違いの同じ年齢でした。

 

で、使われ方っていうアレだけど、二人とも伊勢を支配するために伊勢の有力豪族の養子になってその家を乗っ取る役割をしました。

 

信雄は北畠(きたばたけ)氏、信孝は神戸(かんべ)氏に入り、信雄は義父一族と重臣を大量に殺し、信孝も義父を幽閉して家老を殺し家臣大量追放っていう上手くいったのかわからないけど乗っ取りには成功して領地を持っていたのです。

 

で、二人とも伊勢に領地を持って、その軍勢と信長に与えられた与力衆たちに補佐されて各地を転戦するわけですが、信孝の方は結構活躍するものの、信雄の方は第一次伊賀の乱で大敗して映画化されました。

「忍びの国」ですね。

 

そんなわけで、信孝の方がまっとうな武将で信雄はバカ殿っていうイメージができるのですが、本能寺の変の前年の馬揃え(軍事パレード)では信雄の序列は信忠に継いで2位、信孝は信長の弟信包を挟んで4位だったので信長の評価では信雄の方が上でした。

 

なので、信雄、信孝比較は後世の物語のイメージと、宣教師ルイス・フロイスの主観でキリスト教に好意的だった信孝を持ち上げた評価の記録もあって公平に見るのは難しいのですが、ドラマ上では従来通りのイメージの方が見やすいですよね。

 

で、清州会議。

 

秀吉、柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興の4人の重臣で行われました。

 

突然出てきた丹羽長秀と池田恒興って誰、って話ですが、丹羽長秀は柴田勝家とほぼ同格の武将で若狭一国の国主で、名目上の総大将は織田信孝だったものの編成中に四国方面軍の司令官でした。

 

池田恒興は信長の乳兄弟で信長の腹心中の腹心です。

漫画「信長協奏曲」とか読むとどんな関係かよくわかりますが、幼馴染で有力家臣の当主で最も信頼の置ける家臣です。

方面軍司令官ではありませんが、領地、兵力ともに方面軍司令官同等です。

息子輝政は後の姫路藩主で、大河ドラマでこの回に北条に嫁いだ督姫を北条滅亡後に娶ります。

 

ほんとはもう一人、関東方面軍の滝川一益っていう人がいるのですが、一益は本能寺の変の際の撤収に失敗して大打撃を受けて帰ってくるのが清州会議に間に合いませんでした。

 

清州会議の従来のイメージは、信雄より信孝の方が評判が良く、柴田勝家が信孝の後見人になることに成功して、秀吉はせっかく明智光秀を討ち取ったのにピンチ、と思いきやまだ3歳だった信忠の子の三法師を秀吉が手なづけて「信忠の子こそ嫡流」と言って会議の主導権をゲット、って話なんだけども、それも物語のアレで実際のとこは、っていうのはウィキで清州会議ググると出てくるので読んでください。

 

ともかくも、清州会議で秀吉が主導権を握り、参加者がそれぞれの領地に帰ったところで柴田勝家が越前北之庄(福井)で雪に閉ざされてる間に秀吉が対立してる他の織田家臣を攻略、雪が溶けた4月に賤ヶ岳(琵琶湖の北)で決戦して秀吉が勝ち、柴田勝家はお市と共に北ノ庄城で自害するのでした。

 

この辺は家康さっぱり関係無いので賤ヶ岳の戦いの様子とかはまるまるカットでしたが、清州会議後からの秀吉の戦略、戦術盛りだくさんなので、調べるとドラマで嫌なキャラじゃなくてかっこいい秀吉像、もしくは汚い策略を使う悪逆な秀吉像が見えてきます。

 

で、お市は自害したものの、浅井長政との娘3人、戦国のラスボス茶々と、いまいち影が薄いけど名家京極氏に嫁ぐ初と、家康の息子の嫁になる江の三姉妹は生き残りました。

 

ラスボスなので茶々が悪いキャラ設定になってますね。

 

この間家康が何をやっていたかというと、天正壬午の乱と呼ばれる甲斐と信濃の攻略です。

 

こちらはもっとやってくれても良かったと思うんだけど、本能寺の変で甲斐と信濃と上野(こうづけ、群馬)に領地をゲットした織田家臣たちは動揺してとりあえず京に向かおうとしたものの、その隙をついて北条が攻めてきたり武田の残党が蜂起したりして織田家臣たちが殺されたり領地を放棄してしまったりして旧武田領が空白地帯になってしまいました。

 

そこを、家康が北条と戦いつつ交渉して甲斐と信濃をゲットするんだけど、途中で真田にこてんぱんにやられたりします。

 

この時の上田城の戦いを第一次上田合戦、関ケ原の時の上田城の戦いを第二次上田合戦といい、2回とも徳川軍は上田城を落とすことができず、真田昌幸(幸村の父)の智謀と上田城の評価がめっちゃ上がるわけです。

 

この評価があったから大阪の陣で幸村がそれまでさっぱり個人的な名声は無かったのに一軍を率いる将になれたのですね。

 

で、真田は上田城の攻防だけじゃなく、政治的にもあっちについたりこっちについたりしながら滅ぼされずに存続するので真田昌幸は表裏比興の者と秀吉に評されるし、その後の北条との領地を巡って秀吉が動いて小田原征伐になったりします。

 

天正壬午の乱も秀吉がやった本能寺の変後の織田政権奪取に劣らず多くの戦と駆け引きがあるイベントなので、家康目線のやつをもっとやってほしかったのだけども、小牧長久手の戦いまでの間にやったりするんだろうか。

 

戦国時代もこのあたりになると当時の手紙等かなり史料が増えてくるのと同時に後世の盛った物語のイメージもかなり多くなってくるので描き方も幅が広がって見方もいろんな視点が持ててきます。

 

家康もだんだんと信長に怯えてたキャラから戦国有数の大大名になるので、どうキャラ変していくのかも楽しみですね。

 

次回は秀吉との対決に向かっていく話になるのでしょう。

 

次回もお楽しみに!

 

 

 

 

伊賀越えの回の分です。

 

この部分、伊賀越えっていう事実があったのと、だけども断片的なことしかわからないっていうことで作家の腕の見せ所です。

 

堺見物中に本能寺の変を知った家康は、まあ、他に選択肢が無いんだけど伊賀を抜けて三河へ帰ることを決断します。

 

一応他の選択肢は、

堺から航路→いつ出航できるかわからない、陸路より遠回りで時間かかる、時化等で途中で寄った港が明智側勢力だった場合詰む、など不確定要素が多すぎる

他の陸路→明智の軍勢が狙っている、どの織田武将が明智に寝返ってるかわからない

なので最も早く、最も危険が少ないのが伊賀越えだったりするのですが、その伊賀も危険がいっぱいです。

 

ドラマでも強調してたけど、伊賀は前年に信長が滅ぼしたばかりで、なおかつ伊賀はたくさんの豪族が割拠していてそれらをまとめる大勢力もなく、大まかなイメージでは信長の同盟者である家康も恨まれている可能性が高いものの、召し抱えている服部半蔵はじめ保護している伊賀者もいて、危険だけどいける可能性もある、そんな感じでした。

 

CGで再現された伊賀の風景は迫力がありました。

こういうのは、清州城のアレがあるのでどこまで盛ってるのかわからないけど現在では全く面影もわからない山の一つ一つに砦がある感じを視覚でわかるようにしてくれるので良いですね。

 

三河物語では信長が伊賀を滅ぼした時に家康が逃れた伊賀者を保護したことに感謝して伊賀越えに協力してくれたと書いてあるのですが、ドラマでは恩など知らぬ、っていうピンチにしてました。

 

そこで一向一揆の際に三河を追放された本多弥八郎が登場するのですが、弥八郎の帰参時期は諸説あって定かではありません。

 

が、やっぱここで帰参するのがドラマチックでかっこいいよね。

 

わずかな手勢で決死の伊賀越えに挑む家康、だけども落ち武者狩りの一揆勢に囲まれ大ピンチ、そこに伊賀忍者の軍師になっていた本多弥八郎が颯爽と現れて家康を救う。

 

「影武者徳川家康」ではそんな再会シーンがあります。

 

ルートに関しては諸説あるけど鈴鹿のあたりから船で帰りました。

宗長や山科さんが駿河に行く時は桑名からだったから桑名だと思ってたけど鈴鹿白子浜でした。

 

堺から宇治田原を経て信楽の多羅尾氏のとこに寄ったところまでは史料がありますが、そこから先が諸説分かれることになります。

 

で、百地丹波が出てきた。

 

ゲームでは有名な伊賀忍者の頭領ですね。

 

ステータスは服部半蔵、風魔小太郎と互角の諜報、謀略担当キャラですが、史料上では具体的に何したかっていう情報は少なくて、ウィキを見ても第一次伊賀の乱の時に織田軍を撃退したメンバーってくらいしか書いてません。

 

まあ、忍者稼業なら何したか記録に残ってたらダメなので史料が無いのはしょうがないですね。

 

あと、忍者の頭領なイメージの人は忍者会社の社長なので、社長だからってその会社の業種で一番高い技術を持ってるわけではないのと同じで、すげえ忍者だったとは限らないので注意しましょう。

ゲームのステータスは率いてた忍者集団込みのステータスということで。

 

で、伊賀越えの際に、会ったかもしれないし会ってないかもしれないし。

 

今でこそ伊賀は高速道路も通ってますが、むしろ通ればわかりますが、高速無かったらマジ山なので、この部分だけで1国にしたら伊賀守さん大変でしょうに、っていうところです。

 

なのでバラバラの勢力のままで、米取れないから忍者稼業してたわけだし。

 

なので、いろんな伊賀の人のところを通ってったんだと思います。

 

その途中で、百地さんとこで本多弥八郎と再会したことにした、と。

 

うーん、グーグルマップで信楽の次に百地領の竜口経由で白子浜ってすげえ遠回りだから竜口は経由してないんじゃないかな。

諸説あるルートでそっちは無いし。

伊賀の豪族が分担して色んなところに家康探しに行ってたまたま百地勢が見つけたって解釈もできなくもないけど、、、

 

ともあれ、百地丹波に捕まってるシーンの、信長が生きてるって噂はかなり広まってたし、秀吉が広げていました。

 

もちろん近隣の織田勢を明智軍に寝返らせないためです。

 

その効果は絶大で、秀吉が中国大返しで戻ってくると織田勢の多くが秀吉軍に合流しました。

 

本能寺の変が6月2日で、水攻めしてた備中高松城を開城させて毛利と和議を結んで、6月6日には姫路に戻ってきてるっていう神業です。

 

家康が三河に帰ったのが6月4日深夜から6月5日未明なので山越えしたと考えるとこちらもめっちゃ速いわけですが、となると信長生きてるの噂は秀吉が流さなくても流れてた設定ですね。

 

信長も何度もピンチを切り抜けているので、実は生きてると言われれば信じたくなるし、信長ならば上手く逃れてると思う人がたくさんいたから本能寺の変の際も皆逃げれば助かったのに圧倒的兵数の明智軍に突っ込んでいったわけだし。

 

ともあれ、家康は伊賀越えを成功させ、無事に逃げ帰ることができました。

 

同時に秀吉は中国大返しと呼ばれる電撃的なスピードで姫路まで戻り、6月13日、京都山崎の戦いで明智軍を撃破、光秀は撤退中に小栗栖で落ち武者狩りの農民に竹槍で刺されて死んでしまいます。

 

家康と一緒に堺にいた穴山梅雪は家康と別で帰りますが、三河物語にはその理由に「家康を疑って」とあります。

 

何を疑ったのが意味深ですね。

 

家康が実は光秀とグルなのを疑っていたのか。

信長が死んだことが嘘で反織田的な態度を取った瞬間に討ち取られる手はずになってるとか疑ったのか。

敵に包囲された時に穴山梅雪を差し出して逃げる、みたいなことされるのを疑ったのか。

 

宇治田原で早々に死ぬのですが、ドラマでは家康の影武者になって討たれる良い人になってました。

 

本能寺の変があって、伊賀越えして、いよいよクライマックスかと思いきや、戦国時代が天下統一に向かっていくのを信長が台頭し始める1560年から関ケ原の戦いの1600年までと区切ると本能寺の変1582年はだいたい真ん中なのよね。

 

時代は群雄割拠から大勢力同士の戦いになってきていますが、次回は清州会議からの賤ヶ岳かな。

 

今回は秀吉がとても嫌なキャラなのでむかむかしそう。

 

次回もお楽しみに!

本能寺の変の回のです。

見たあとどう書けば良いのか悩んでなかなか書けませんでした。。。

 

ドラマの設定としては、信長は家康に自分を殺す覚悟があるか、殺した後の覚悟があるのかを試すためにわざと警護を手薄にし、それに対して家康は悩む話でした。

 

で、悩んでる間に明智光秀が信長を討ち取ってしまう、と。

 

あらすじだけ把握すると、信長も家康もアホすぎる話なわけで。

 

家康を試すためにしたことで明智光秀に討たれる信長の心中やいかに。

悩んでいたのに光秀に天下を掻っ攫われた家康の心中やいかに。

 

ま、現代でもこういうのあるよね。

 

上司から重要なプロジェクトを任されるにあたって覚悟を決めるまで「私なんかでよろしいのですか?」とかちょっと間を置くための会話をしていたら横から全然知らないやつが「じゃ、俺やります!」って出てきてそれを見てた社長が「じゃ、お前やれ」ってそいつに任せちゃう、みたいな。

 

ドラマチックに重要なプロジェクトをやろうとしてたのが全部茶番になってしまう感じ。

 

わんさんは横から出てくる全然知らないヤツのタイプなのでよくわかります。

 

任す方も任される方もそういう演出したいだけだろ、っていう。

で、第三者から見たら隙だらけっていう。

 

なので、ドラマならではの話なわけで。

 

実際信長は本能寺で何をしてたかというと、たくさんの公家を招いてパーティをしていました。

 

パーティの目的は、というとまた色んな説があるのですが、多くの公家たちに名物茶器を披露して茶会をし、そのまま酒宴して、ヒカルの碁でも出てくる本因坊算砂と碁を打って深夜に寝ました。

 

そもそもの上洛の目的は、秀吉からの毛利攻めの仕上げとして信長自身の援軍を要請に応えるためで、そのまま中国地方に出陣する途上で朝廷と公家と対応をした、というところだったと思います。

 

なので、警備が手薄なのはすぐに軍勢と合流するからで、しかも手薄と言っても本能寺にいる人数が少ないだけで京には嫡子信忠の軍はいたのです。

 

なので、明智光秀が2万とかの軍で攻めてこなければ討たれることもなかったわけで。

 

で、ドラマでは冒頭から信長が書斎で一人いるところに突然甲冑武者が襲撃してくるのですが、本能寺の変の議論で甲冑の件はお題の一つになっています。

 

甲冑はがちゃがちゃ音が鳴るので、2万の軍勢が京都に来たら本能寺囲まれる前にわかるだろ、ってことなのですが、このことから明智軍が京に来るのはそういう予定だったから、秀吉の援軍に向かうはずの明智軍が京に来たのは家康を討つためだったからという論拠になっています。

 

要するに、書斎で一人でいる信長が甲冑着てる人に突然背後から襲撃されるなんてことは有り得ません。

がちゃがちゃ鳴ってるので。

 

と、前述した通り信長は本能寺でたくさんのお客さんと茶会して酒宴して碁を打ってるので、その後一人で書斎にいないでしょ。

 

しかも光秀が本能寺を襲撃したのは6月2日未明。

深夜までいろいろやってて未明まで起きてるって、信長は不眠症ですか。

 

それと、最近の研究では明智光秀は本能寺には直接行かず、離れたところで指揮を執っていたとなっているので、ドラマとしては本能寺で信長と向き合わせたかったんだと思うんだけど、まあ、たとえ本能寺を囲む軍にいたとしてもそんな前線には出ないよね。

 

大河は戦の最中に大将同士が顔を合わせる演出が好きだからね。

第二次世界大戦の大河があったら山本五十六とマッカーサーが大義を叫び合って一騎打ちしてくれるんでしょうか。

 

ドラマの演出はともかくとして、本能寺の変の議論の中心は明智光秀の動機です。

 

今回の大河では長い伏線は無く、ずっと信長の腰巾着のようになってた明智光秀が直前の回の安土饗応で信長に叱責され、「上様は失敗を許さない、自分はもう終わりだ」ってなって本能寺の変を起こすという、何それ、っていう動機でした。

 

ただ、動機に関してはたくさんの説があっても決定的な証拠は無いので、小説よりも奇なりは十分に有り得ます。

 

長年のストレスによって狂ったようになっての謀反かもしれないし、黒幕的な人物との何か大きな目的があっての信長殺害かもしれないし、ほんとに思いつきで「あ、今ならできる」って感じで発作的にやってしまったのかもしれないし。

 

信忠まで討ち取れたのは偶然だと思います。

 

信長公記にも、信忠は逃げられたのに、光秀ならしっかり計画して包囲してるだろうと思い込んで逃げずに戦ったと書いてあるので。

 

本能寺の変に関してはウィキペディアでもたくさんの説が載ってるし本もいっぱい出てるから調べると面白いんだけど、説得力があって納得できるものが正解ってわけではないので注意が必要です。

 

わからないものはわからないなりにいろんな想像を楽しみましょう。

 

ちなみにわんさんの説は麒麟が来るの時の解説コーナーで長々書いてあるのでそちらをご覧くださいまし。

 

で、まあ、ここまで書いててわかる通り、本能寺の変そのものには家康あんま関係無いんだよね。

 

直前の安土饗応で光秀が叱責される事件があって、直後は明智軍ひしめく織田領を、織田が滅ぼしたばかりでめっちゃ恨まれてる伊賀を突っ切って帰り、なんとか無事に帰って仇討ちに出陣したところで既に秀吉によって明智光秀が討たれていたことを知るっていうのが家康の本能寺の変です。

 

そこに、信長が家康に殺されようとしていたみたいな変な設定を入れるからチープになるわけで。

 

家康黒幕説だってあるんだからもっとなんとかできんのかい、って思ってしまいました。

 

せめて、富士遊覧が信長を油断させる策ってしてるんだから更に数多の策略で本能寺の警備を薄くさせたことにして、あと一歩で信長を殺せそうだったのに光秀に先を越されたとか、光秀と組んで信長を殺したものの証拠隠滅のために光秀に命を狙われて伊賀越えとか。

 

今までのドラマであまり重視されないところにスポットを当ててくれるのは良いんだけど、いきなり変な流れになるのは毎回残念に感じてしまいます。

 

次回は家康最大のピンチの一つ、っていう最大っていう言葉の定義を確認したい伊賀越えです。

 

次回もお楽しみに!

 

7月16日の安土城に招待された話の分です。

 

えーと、今回の話に入る前に、佐久間さん追放されたのは「2度と顔を見せるな!」がそれだったのでしょうか。。。

 

佐久間信盛はドラマでは碌な仕事もしないくせに嫌味なキャラで、史実でも本能寺の変の前年に多くの罪状(十九条の折檻状)でもって本願寺攻めが上手く進んでいないことや朝倉攻めで攻め時を誤る発言をしたこと、三方原の援軍でたいした成果を出さなかったこと、水野から引き継いだ領地を上手く治めていないことなどを挙げられて追放されているので能力的にも高くないようなイメージがあります。

 

が、追放されるまでは柴田勝家よりも上位で、信長公記等を読んでも多く名前が出て、他の軍団長クラスの武将よりも信長に近いところで活躍しているし、何よりも信長が家督を継ぐ前から仕えていて、多くの家臣が反発する中でも信長を支えて尾張統一を果たすのに貢献しました。

 

十九条の折檻状、失敗が多くあると思うかもしれませんが、30年以上信長に仕えて怒られることが19個と考えれば少ないし、追放って処分をするにあたって長年の失敗をちまちまと挙げなければならなかったって解釈もできるし、何より19個挙げたってことは大きな失敗はしてないってことになります。

 

武将としても行政官としても長年信頼を得て筆頭家老というポジションにいた佐久間信盛の追放は大事件だし、そんな人物でも追放になるというのは明智光秀の謀反の動機の一つになったことは間違いないはず。

 

十九条の折檻状は建前で他に隠された理由があると推測することもできます。

 

やばそうな陰謀論はキリが無いのでやめておきますが、1つ挙げるならば家康の父暗殺の黒幕が佐久間全孝という人だという説がありますが、その関連で同じ佐久間氏を罰することでの家康への配慮、もしくはそう思わせて家康を油断させるための布石だという推測もできます。

 

証拠も何も無いので立証は無理ですが。

 

ただ、佐久間信盛と同時に長年仕えた老臣も追放になってるので、これをもって信長は失敗を許さないという偏見のイメージができてしまったのです。

 

そんなことないですよ。

織田軍団は結構負け戦も多いのでたくさんの武将が失敗してるし、よほどの失敗なら死罪もあるし降格もあるけど割りと一般的な範疇です。

 

むしろ死罪になった家臣の縁者はそのままだったり何年後かに許してるし、佐久間信盛の息子も半年くらいで赦免されてます。

 

物語的には佐久間信盛追放事件が明智光秀を追い詰めて憔悴させる感じになってくれると水野信元が謀殺された件と絡めて家康に関連してくると思うのだけども。

 

もちろん水野信元謀殺だって、長年仕えてきた功臣(もしくは同盟者)をよくわからない理由で謀殺したのも明智光秀の心を揺るがしたと思うわけで。

 

他の家臣にはこの事件で動揺が広がって、対本願寺の軍団を一つ任されていた荒木村重が謀反してるし、織田家臣団がガクブルしちゃったのです。

 

あ、このドラマでは秀吉や光秀がやたら信長と一緒にいますが、実際はそんなに信長と行動を共にしていません。

二人共軍団長で側近の仕事はしていないので、その辺はドラマだから、ということにしましょう。

 

さて、本題の安土饗応につきまして。

 

この部分は史料にあって、信長に安土城に招かれて、饗応役が明智光秀で不手際があって信長に殴られて饗応役を解任されるっていう事件なのですが、明智光秀が信長に家臣や家康一行の前で殴られるっていう事態もさることながら不思議なのは家康一行のメンバーです。

 

酒井忠次、石川数正っていう家康を含めて3分割して徳川領を統治していた3名全員。

本多忠勝、榊原康政、井伊直政、大久保忠隣といった家康軍の主力メンバー。

他にも三河統一の際に家臣になった三河豪族たち。

 

ウィキペディアによると伊賀越えの時の供回りはこれら総勢34名とされていますが、徳川軍の首脳部まるまる全部が含まれているのです。

 

で、兵は連れて行かなかったのでしょうか・・・

 

帰る時の伊賀越のルートは様々に検証されてされていますが、安土城に行くときのルートってどうなんでしょうね。

信長公記では番場に着いてその後大宝殿に泊まったって書いてあるだけなので詳しくわかりませんが、番場(米原)に着いたってことは陸路で岐阜を通ってきたってことですね。

 

三河物語では甲州征伐帰りの信長と一緒にいったと書いてあるけど、信長が安土に帰ってから安土饗応まで1ヶ月くらい空いてるので一緒には行ってません。

 

徳川の兵も連れずに安土まで行ったというのは不自然極まり無いと思うのですが、家康の方は自分が殺されるかもという雰囲気は察知しなかったのでしょうか。

 

なお、もしこの一団がまるまる殺されていたら、わんさんが推しの奥平さんが義理の息子だけど最年長の後継者なので奥平さんによる駿遠三の三カ国統治が始まったかもしれません。

 

それはさておき。

 

家康は家康で信長を本能寺で殺そうとしている設定になっていました。

 

よくテレビでやってる本能寺の変の謎を紹介する番組で、なぜ信長が本能寺にいるのが事前にわかったのかというのをやっていますが、ドラマでセリフがあった通り、京都での信長の宿所は結構本能寺です。

 

むしろ本能寺が信長の家です。

 

茶屋四郎次郎の店が本能寺の脇にあるのを偶然みたいに行ってましたが、信長からすれば家の隣にコンビニ置いたみたいな感じだし、すぐ脇に教会もあるので外国の知識が気になったらすぐ聞けるようにウィキペディアも隣に置いたみたいな感じです。

 

信長公記見ても本能寺に泊まってる記述はかなり多いので、数ある寺の中からたまたま本能寺を選んだんじゃなくて、だいたい本能寺だったわけです。

 

で、信長を殺そうと計画するわけですが、、、

 

信長を殺したら戦乱の世に戻る、というセリフがあったのですが、これは当時の武将がそういう認識だったかは疑問です。

 

なぜならば、信長の長男信忠はすでに織田の家督を継いでいて、多くの戦に出陣して指揮を執っているし甲州征伐の総大将として武田を滅ぼした実績もあるのです。

 

信長が死んでも信忠が継げばそれほど混乱は無かったのではないでしょうか。

 

と、ここで更なる疑問が出るのだけど、信忠の実績は史料があっても個人的な能力や性格的なことがあまりわからないのです。

 

次男信雄、三男信孝はいろいろやらかしてるし本能寺の変後のすったもんだである程度キャラクターのイメージができるのですが、信忠は能が好きだった以外はあまりわからず、信長に従ってマジメに仕事をこなす人な感じです。

 

が、信長の子であることと信雄、信孝のキャラクターと合わせて考えれば無難な性格の常識人なわけがなく、信長が死んでも信忠がちゃんと織田の天下を維持できたのではないでしょうか。

 

まあ、わからんけど。

 

つまるところ信長だけを殺してもその後に織田軍団との戦があるので、無理じゃろ、の前に500人の伊賀者で信長殺せてもどうやって徳川領まで帰るんだ、と。

 

それが実際の本能寺の変では信忠も一緒に死んでしまうし、家康は伊賀越えで帰れちゃうしで謎と奇跡がいっぱいなんだけども。

 

というわけで、次回はついに、本能寺の変!

 

家康に自分が殺せるか試すために手薄な警護でいくとか謎すぎる設定ですが、茶番にならないことを祈って見ます!

 

次回もお楽しみに!