わんわん物語

わんわん物語

~異界から目薬~

小谷落城の回です。

 

大変ドラマッチックでした。

将軍足利義昭が信玄を訪ねるところから始まり、三方原の戦いがあって信玄が死に、義昭が追放されて、朝倉滅亡、浅井滅亡。

 

とても濃いシーンをそれぞれ強烈なインパクトで演出してくれまして、史実かどうかなんてどうでもいい勢いで楽しめました。

やはり歴史を使ってエンターテイメント作るならこのくらいしてくれなければ。

 

うん、ほぼフィクションです。

 

順を追っていきましょう。

 

まず、足利義昭は武田信玄と会ったことがありません。

というか会えません。

足利義昭が武田信玄に会うには、信玄は京に行ってないので足利義昭が甲斐躑躅ヶ崎館まで行かねばならないのですが、京から甲斐までは約10日、往復20日。

既に征夷大将軍になっている足利義昭が隠密で行ける距離ではないので、行くとしたら幕府高官と護衛を伴った大所帯、各地で有力武将にもてなされつつの移動になるので更に日数がかかります。

そして、記録に残ります。

義昭が信玄に直接会った可能性は極めて少ないです。

 

ここで信玄は「お屋形様」と呼ばれています。

なんとなく戦国時代は家臣が主君を呼ぶ時に「殿」と呼ぶか「お屋形様」と呼ぶもんだと思ってる人は多いかと思いますが、「お屋形様」は幕府より屋形号を与えられた家柄の当主だけなので、屋形号を持っていない、例えば徳川家康がお屋形様と呼ばれていたら間違いということになります。

 

「麒麟がくる」では斎藤道三は屋形号持ってなかったけど、かつての主君の土岐頼芸は屋形号を持っていたので道三は「殿」と呼ばれ頼芸は「お屋形様」と呼ばれていました。

武田信玄は屋形号を持っていたので「お屋形様」と呼ばれてオッケーです。

 

信長に関しては微妙なところで、もちろん京制圧前は屋形号持ってなかったんだけど、その後は屋形号もらってるはずなんだけど、信長が「お屋形様」と呼ばれてる史料がありません。

屋形号持ってたけど本人が好まなかったのかも。

 

なお、意味的には「お館様」でも同じだし、なんなら「殿」も同じでどちらも建物を指して住んでる人の敬称としたものだけど、史料上は「お館様」は無いので、見るとしたら小説とかゲームでだけですね。

 

ググったところ、「お館様」と書くと鬼殺隊を統べる家の当主を指すらしい。

 

続きまして、フィクションだけど足利義昭と武田信玄の会話内容。

 

ドラマでは武田信玄と織田信長が盟約を結んでいるという初見びっくり情報が出ましたが、史実です。

信長は叔母が嫁いでる東美濃の遠山氏を通じて武田信玄と交渉を持ち、子の婚姻の約束もありました。

 

ただ、織田と武田の盟約がいつからかははっきりしません。

婚姻の約束は1565年(桶狭間の5年後、美濃制圧の2年前)あたりですが、もっと前から遠山氏を通じての交流があり、じゃあ織田と遠山の交流はと遡ると桶狭間前になります。

 

なお、遠山氏は織田と武田の両属状態です。

織田と遠山の交流はいつからかはっきりしないけど、武田と遠山は武田の信濃攻略後の1550年代には交流してる手紙が残ってます。

 

桶狭間の前は、解説ブログでもちょいちょい触れてるけど、信長は今川領に反乱工作を仕掛けまくって今川領では織田派と今川派で争っていて、織田方の反乱が奥三河とか武節とか武田領を掠めるあたりでも起こっています。

で、当時は武田と今川は同盟関係なので、武田領の付近というか武田領を通過しないといけないような兵の動きは阻止するのが普通だと思うんだけど、武田は黙殺しています。

 

この頃から織田と武田が結んでいたとするならば、徳川と同盟するよりもずっと長い盟友ということになります。

 

ドラマでは義昭と会見して信玄が織田と戦うことを決意して徳川を攻めていますが、実際はこの6年ほど前から武田と徳川は戦っています。

 

今川が滅んだのが信長の美濃制圧の翌年の1568年、その直後から徳川と武田の戦が始まってます。

このあたりは「どうする家康」で詳しくやってたけど、武田は今川を完全に滅ぼすつもりだったのに家康は講和という形で今川氏真を逃がしたため戦が始まった、となっていました。

他にも今川領の分配で揉めたとか、武田はすぐに駿河を平定したのに遠江攻略に手こずる徳川の隙をついて徳川領になるはずの遠江領を奪ってしまおうとしたとか色々原因はあります。

 

とにかく武田と徳川はとっくに戦になっていたのです。

 

っていうかドラマでも姉川の戦いの時に家康が「武田への対応が大変」みたいなセリフ言ってたじゃんか。

 

でも織田が徳川を助けなかったのは武田と同盟を結んでいたからなのです。

 

で、「信長はいつ裏切るかわからない」みたいなこと言われてたけど、これまで信長の方から裏切ったことってあったっけか?

あったわ!

ドラマではカットだけど息子を養子にして乗っ取った北畠氏を皆殺しにしてました。

 

でも武田の西上作戦は織田に対しては武田側が同盟を破棄した形になります。

将軍からの命令だったけども、武田が織田との同盟を破って将軍の命令に応じた形です。

 

なので三方原でやっと織田は徳川に援軍を出すのですが、三方原は徳川軍の惨敗でした。

家康は「このことはすぐ忘れる」と言ってて、忘れないようにと描いてもらったと言われる敗戦直後の絵があるのだけど、これは史実か確認できないとのこと。

 

織田の援軍は佐久間さんが行ったけど、他の援軍武将が討ち死にしてる中でほぼ無傷で引き上げてくるという神業をやっています。

まともに戦わなかった説もあるけど、まともに戦ってなかったとしてもほぼ無傷は凄くね?って思う。

 

そして、なろう小説だったら絶対”ご都合展開”と批判を浴びるであろう武田信玄死亡。

創作物語で主人公がやられる寸前のピンチで敵のボスがいきなり死ぬって、鬼滅で言ったら最終バトル直前で無惨事故死みたいな展開よ。

そんなのクソマンガじゃんか!

 

武田信玄の死因は病死説が有力で、他にも狙撃とかの暗殺説があります。

餅を喉に詰まらせるのは斬新でした。

 

そもそも信玄の西上作戦自体が、死期を悟った信玄が死ぬ前に天下獲ったろうとした、みたいな説もあります。

 

信玄の死は秘されて端から見れば全く謎の武田軍撤退でした。

リアルタイムでは信玄が死んだという噂というか推測はあったようだけど確信が持てず、確定情報をもたらしたのは武田軍に攻められて降伏していた奥平さんでした。

武田軍に従軍したけど武田軍内ですら信玄の死は隠されていたのに、情報を掴んだ上にドンパチやって脱出してきたのです。

そのせいで人質になっていた長男の婚約者が殺されます。

 

これにて信長包囲網は崩壊、調子こいて挙兵した足利義昭は信長に滅ぼされて追放されてしまうのでした。

 

一般的にはここで室町幕府滅亡とされていますが、当時の人たちはそう思っていなかった可能性があります。

足利義昭は追放になったのに征夷大将軍のままでした。

征夷大将軍を返還するのは1588年、本能寺で信長が死んで秀吉が天下統一する直前の頃です。

 

また、幕府の役人が何十人も義昭についていって、追放先の鞆の浦で幕府の政務をしていたからです。

再び信長包囲網作ろうとしたり、例によって戦してる勢力和睦させたり、幕府の役職を武将に与えたり、五山の住職任命したり。

 

信長も困って京に呼び戻そうとしたりしました。

義昭も戻らないで毛利と仲良くしてた方が信長困ることがわかって戻りませんでした。

 

ただ、結局上手くいかなかったので、後になって実質的に1573年の追放で幕府終わったな、ってことになったわけで、リアルタイムではここで室町幕府滅んだ、とはなってなかったようです。

 

つまるところ、ドラマで秀吉たちに言った「わしの家臣になれ」は本気だった、と。

 

ずっと引っ掛かってるんだけど、将軍の一人称が「わし」で良いのか・・・

書物上では「余」なんだけども、まあ、プライベートな時は何でも良いのか。

 

 

で、ここからが本番。

 

浅井朝倉が滅亡するところです。

三方原の戦いで既に比叡山焼き討ちから年が変わって(旧暦では同じ年の12月だけど)1573年になっています。

で、上述のようなことがあって、1573年8月、小谷城が再び包囲されました。

 

早々に裏切ったアツジさんとは阿閉(あつじ)貞征のことで、信長公記にも結構名前が出てくる人です。

だけど、ゲーム上の能力がめちゃめちゃ低い。

なのに信長公記では色んな戦に出陣してるし信長に褒められたりしてる。

不思議キャラです。

 

ただ、名前が出てる割にエピソードは少なく、ただ出陣武将として名前が挙がってる他は、主に寄り親になった秀吉と領地で揉めてるのと、本能寺の変後の山崎の戦いで明智方について死んだくらい。

 

だけど、山本山城っていう要衝を領地にしてたことから対浅井戦ではキーマンになっていて、阿閉さんが織田に付いたからサクッと朝倉も浅井も滅んだようなものです。

なので、この人も後世の評価で雑魚キャラになってるけど、リアルタイムでは結構なVIPでした。

 

で、阿閉さんが裏切って小谷城を包囲したのに援軍に来た朝倉が先に滅ぶという不思議な戦。

 

阿閉さんの裏切りと織田の奇襲で砦2つが落とされたことに朝倉さんがビビって撤退を決め、刀根坂の戦いという撤退戦で壊滅的な打撃を受けたのでした。

 

姉川の敗北よりは刀根坂の方がダメージが遥かに大きく、朝倉氏はここで首脳陣な家臣を多数失ってしまいました。

斎藤龍興もここで討ち死にしたとされてますが、これだけ粘って登場させておいて死ぬシーンも、てか死んだナレーションすら無いんかい。

 

一応生存説もあるので終盤でひょっこり出てきたりするのかな。

 

なおこの時に追撃する織田軍の動きが悪くて信長が怒ったのに対し、佐久間さんが「そう怒られてもうちらほど優秀な家臣は他にいないよ」的なこと言って更に怒られるっていう謎シーンがあります。

信長公記に書いてあるんだから著者の太田牛一がその場にいたのでしょうね。

 

三方原の合戦でまじめに戦わなかった件とここでの一言が後年佐久間さんが追放される一因となっています。

 

ま、戦術的にも織田の勝利なんだけど、信長包囲網が崩れたのと、浅井朝倉軍の士気が低いのとで戦略的にも織田が勝つ環境ができてたわけですね。

 

むしろ長期にわたる継戦能力が織田が強すぎる。

恐らく浅井朝倉は経済的にもうダメだったんじゃないかな。

苦しい経済状況で武田軍参戦で勝利は目前、となったところで武田軍引き上げ、またいつ終わるかわからない戦が続く、じゃ音を上げてしまうよね。

 

越前に戻った朝倉義景は、朝倉景鏡の領地に避難するよう呼ばれ、行った先で殺されてしまいます。

ドラマではヤケになって一乗谷燃やそうとした義景を止めるために景鏡が殺したことになってたけど、実際のところは不明です。

結果としては多くの朝倉家臣が織田に組み込まれることになりました。

 

そんで引き返して小谷城総攻撃。

激戦の末に市と娘三人を引き取って落城させることができました。

お市は長政の介錯はしてないと思います。

重臣の赤井清綱(ドラマの地図でも赤井屋敷が本丸のすぐ横にあった)と弟も一緒にいたのでどちらかが解釈したのでしょう。

 

ちなみに、素人介錯は上手く首が切れなくて、首の骨に当たったりして余計に痛いらしい。

市も武士の妻だから多少の心得はあっても、介錯は武士ですら難度が高いとされるので。

 

えと、万福丸。

ドラマでは朝倉に人質に出したまんま行方不明(たぶん死んでる)でしたが、史料上では織田に捕まって処刑されています。

信長公記では万福丸とは書いてないものの、「浅井長政の10歳の嫡男を処刑」とあって、わんさんが持ってる現代語訳だと注釈で万福丸と書いてあります。

また、ウィキによると「浅井三代記」では万福丸は家臣に連れられて脱出したものの、信長は「万福丸が心配だ」と市を騙して呼び戻させて串刺しにしたと記述されてるとのこと。

 

まあ、この方向だとドラマのこれまでの流れと矛盾しちゃうし、長政許す方向なのに万福丸殺しちゃったらどういうこと?ってなるので。

 

ちなみに、浅井長政には兄弟もいるしお市以外にも側室いて子がいます。

 

 

ふう。

長かった。

読んでくれた皆様ありがとうございます。

 

今回の解説はこんなところで。

 

次回は、いよいよ秀吉が城主に、なるのかな?

一応情勢は、浅井朝倉は滅んだけど武田はまたすぐ攻めてくるし、一向一揆とも戦闘中。

てか一向一揆との戦はここからが本番。

三好残党もうろちょろしてるけど、信長は権威を高めるために朝廷や公家と交流もたくさんしなきゃならない。

そんな感じです。

 

どんな感じで戦勝シーンが描かれるのか、乞うご期待!

 

 

比叡山焼き討ちの回です。

 

詳しいことは「麒麟がくる」の比叡山焼き討ちの回の時に書いたのでこちらをご覧ください。

 

 

ざっくりまとめると、「神も仏も信じない信長が敵対する寺社に対して暴虐の限りを尽くした」というような簡単な話ではない、ということです。

 

戦国時代までの寺社勢力ってヨーロッパの教会と似た点がありまして、支配者が手を出しにくいのです。

それは単に民が信仰しているから攻撃すると民が怒るよ、というだけでなく、社会システムの一部になっていたというのもあるし、数々の権力者がいざという時に出家して逃げ込むところ、というのもあって色んなパワーバランスの上で手を出しにくいわけです。

 

現代日本で例えるならば、寺社は金融機関の一面もあったので、日銀が政府の経済政策に従わなかった時に解体させる、くらいの暴挙です。

 

戦国時代以外の大河でも、例えば平安時代の「光る君へ」でも源平時代の「平清盛」でも寺社が強訴(寺社が僧兵を伴って政府に圧力をかけて要求を通すこと)のシーンがあって、古代から寺社は支配者にとってはままならぬ存在でした。

 

それが戦国時代になると武士たちに寺領が奪われてしまうようになります。

それに対抗するため、寺社は一揆を組織したり、寺領を奪った武士に敵対する勢力と結んだりします。

 

信長の時代ではあらかた奪われるものはもう奪われてるので、逆に寺領を奪った武士を倒して寺領を回復してあげることが勢力拡大の大義名分になったり、統治の基本戦略になったりしてきます。

 

ゲーム「信長の野望」では寺社勢力は倒せない武装NPC勢力になってたりします。

仲良くしとくか、定期的に討伐するしかない、という。

 

ちなみに、浄土真宗の寺社の一向一揆はまた別物なので別けて捉えてくださいませ。

一向一揆はひたすら南無阿弥陀仏ですが、ドラマでも宮部継潤は般若心経でした。

 

この比叡山焼き討ちで信長は一気に歴史的悪者になってしまうのですが、別に信長は寺社勢力が嫌いなわけではありません。

ちゃんと寺領の保護もしてるし(比叡山にはしてない)、桶狭間の前も熱田神宮に戦勝祈願してるシーンは有名だし戦勝後に寄進もしてるし、伊勢神宮の式年遷宮のお金も出してるし、安土城天守は仏教的絵画で装飾されてるし安土城内にお寺もあります。

っていうか本能寺に住んでるし、菩提寺もいくつかあります。

 

つまりはピンポイントに比叡山延暦寺と揉めたわけですね。

 

その原因は、足利義昭。

ドラマでは自分のせいだというのか、と明智光秀に詰め寄ってましたが、足利義昭のせいです。

 

室町幕府は以前のブログでも書いたけど、とても基盤の弱い幕府で、権威を示す活動として武士の争いを調停するってことを頻繁にやってました。

と同時に、上述の寺領の回復もやってました。

 

姉川の戦いで負けた朝倉、浅井はまだまだ兵力に余裕があって、織田に攻撃を仕掛けてきました。

一方で、ドラマではカットされてたけど、京を追われていた三好が挙兵して攻撃を仕掛けてきて、一向宗も挙兵して信長に攻撃を仕掛け、一向宗の要請で比叡山も信長に攻撃し始めました。

 

この方々から攻撃を受けてる中で、森可成が討ち死にするシーンとなります。

しばらく出てなかったから森可成って誰?な感じだと思うけど、蘭丸のお父さんです。

信長が家督争いしてる頃からの股肱の家臣です。

そんな大事な家臣と、これまたカットされてたけど信長の弟の信治も一緒に討ち死にしてます。

 

ドラマの都合で弟は信長が殺した弟しかいない感じになってるけど、信長の弟はいっぱいいます。

兄もいるし。

 

ついでに言うと、森可成と織田信治は討ち死にしたけど残った家臣ががんばって宇佐山城を守りきってます。

 

で、宇佐山城攻略を諦めた朝倉、浅井軍は京に迫り、各戦線から引き返してきた織田軍と対峙、比叡山に籠る、という流れです。

これらのバタバタの攻防はまとめて”志賀の陣”って呼ばれたり、三好との戦いのところは別で”野田、福島の陣”って呼ばれたりしてます。

 

なので、この状態での足利義昭による調停はドラマでやってたような一概に朝倉、浅井を助けるためのものではないんだけど、朝倉、浅井が引き上げた後の比叡山が手薄になってしまうということになりました。

 

金ケ崎の退き口が4月、姉川の戦いが6月、比叡山に朝倉浅井軍が籠るのが9月、足利義昭の調停が11月です。

 

ちなみに、調停は将軍足利義昭だけでなく朝廷も動いていて、信長の要請とされてるのでドラマでは何がなんだか。

 

で、朝倉浅井軍が籠もってる時に信長は比叡山にたくさん交渉を持ちかけたのですが応じてもらえなかったので、1年後の9月に比叡山焼き討ちとなったわけです。

 

ドラマではすぐ焼き討ちしてるような感じだったけど、1年経ってるのです。

 

この間、将軍を傀儡にして天下に号令したい信長と、幕府の権威を回復して自分で天下を動かしたい義昭との確執が広がっていきます。

 

つまり、比叡山の寺社勢力も義昭の手駒と見做されるようになるし、金ケ崎の時は信長は幕府軍として朝倉討伐に出兵したのに織田と浅井朝倉の戦いで義昭は信長の味方ではなくなっていきます。

 

なので、単に比叡山が敵方というだけでなく、将軍の力を削ぐ目的であったり、他の敵の逃げ場を奪う目的であったりするのもあるし、軍事的な理由以外でも社会的や倫理的に矛盾を抱える比叡山を焼き討ちすること自体が信長の統治スタイルのアピールになったりと、考えると多くの目的が見つかります。

 

社会的や倫理的な矛盾については冒頭にリンク貼った以前のブログをご覧ください。

 

まあ、分析すると色んな目的が見つかるけど単に怒り心頭だっただけっていう可能性もあるけども。

 

ただ、歴史の結果としては他の戦国武将がやったような「ただ寺を燃やす」「ただ寺から略奪する」ではなく、仏教の歴史的代表勢力である比叡山を灰燼に帰した”比叡山焼き討ち”は大きな衝撃となりました。

 

単に寺が焼き討ちされるのは全国各地でたくさん起こってます。

寺は塀に囲ってあって軍事勢力の拠点になるので進軍ルートや戦場付近に寺があれば燃やされたり占領されて陣になったりします。

 

だけど比叡山焼き討ちはそれとは一線を画す歴史的な意味合いが強いのです。

虐殺された人数も大きいけど、たくさんの歴史的遺産や書物も失われてしまいます。

 

他の武将が寺を焼いてもそこまで悪評は強くならないけど、信長が悪逆非道の戦国武将とされてしまうのはその規模もさることながら、多方面で衝撃が大きかったからなのです。

 

そしてこの後10年に渡って一向宗との泥沼の戦いになるという謎仕様の戦国時代です。

どんな小説家にも書けない複雑怪奇な世界設定だよね。

 

スターウォーズでレジスタンスと帝国軍が戦ってる最中に宗教勢力が挙兵して双方の領土で暴れまわったら物語が破綻する。

 

でもどんだけ分析して情勢や目的を見つけたところで比叡山焼き討ちは悪逆非道であることは間違い無く、この一点においてはどんなに信長が革新的で歴史的偉業を残した人物であろうと擁護はできないと思います。

 

比叡山が世界を滅ぼす悪魔召喚しようとしてたり核兵器ばりの大量破壊兵器開発してたなら別だけど。

 

なお、天台座主の覚恕は逃げたのではなく、京に行っていて不在だったとされています。

そのまま京都で過ごし、焼き討ちの2年後に病死。

 

というわけで、比叡山焼き討ちに関してのコメントはこのくらいにして、あと突っ込みたいのは、信長に差し入れされた魚。

 

鮭っぽい感じだったけど、戦国時代の鮭は高級品です。

江戸時代には新巻鮭の製法が普及して庶民も食べられるようになりましたが、戦国時代では塩漬けで京に運ばれるものはかなりの有力者でなければ食べられませんでした。

 

信長に差し入れられてたのは横山城なので敦賀から運ばれたものと推測できますが、信長の家臣が持ってくるのは相当がんばって手に入れた品だと思われます。

 

横山城は琵琶湖沿岸なので普通ならば魚が食べたければ琵琶湖で獲れたものを用意すれば良いのですが、わざわざ鮭を持ってくるのは信長への愛が凄い、と思ったシーンでした。

 

ちなみに酒も戦国時代では一般的には濁り酒で、現代の清酒とは異なります。

清酒もあったけど、こちらもかなりの高級品なので公家等を招いた公的な宴会とか本能寺の変直前の天下統一手前の信長なら清酒が出てくるだろうけど、前線の城で家臣主催の宴会ならば「良い酒持ってきましたぞー」と言ってもやっぱり濁り酒だったと思います。

 

こんなところで今回の解説は終わりにします。

 

次回は、小谷城攻め、なのかな。

このあと信長包囲網で苦戦を続けて武田信玄参戦でてんやわんやしてくるのだけども、一気に進みそうな予告になっています。

 

というわけで、次回もお楽しみに!

姉川の戦いの回です。

 

姉川の戦いだけでまるまる1話使ったよ!グッジョブ!

姉川の戦いをこんな派手に演出してくれたドラマは今まで無かったはず。

大迫力の合戦シーンでした。

 

前回のブログで姉川の合戦には謎がある、と書いて締めくくりましたが、合戦自体は多くの史料があって、参戦した武将の動きが良くわかります。

 

謎なのは、これだけ派手にやっておいて、甚大な被害で負けた側の浅井、朝倉の勢力が全然衰えず、それどころかここから織田包囲網が形成されて何年も信長が苦境に陥るという流れです。

ま、これはこの後のドラマでも描かれていくので追々書いていくとして、この点から見て、「戦国時代の合戦(野戦)意味無い説」が浮上してきます。

 

合戦というと城攻めの攻防戦も合戦と言われているので野戦に限定なのですが、大名と有力武将がたくさん討ち死にして壊滅した桶狭間の戦いですら今川の勢力は健在で、滅ぶまで7年かかっているし、この後の長篠の戦いでも武田軍は四天王のうち出陣していた3人が死ぬくらいの被害ですが、6年持ちこたえています。

というか、長篠の戦いは三方原で大敗した徳川が巻き返して勝った戦だし。

 

織田、徳川以外の合戦もいっぱい例があり、例えば戦国を象徴するような合戦である川中島の戦い。

武田上杉が何度も川中島を戦場に合戦をして、有名なのは4回目ですが、勝っても負けてもさほど変わらず、両軍ボロボロになっただけ。

歴史の結果を見れば上杉謙信が武田信玄を釘付けにして信玄の天下統一を阻んだという成果はあるけども、上杉、武田の決着の決め手にはなりませんでした。

 

他にも九州では耳川の合戦というのがありまして、6カ国持っていた超大国の大友氏が島津軍に壊滅させられた戦ですが、そこから大友の勢力は傾くものの8年持ちこたえ、秀吉の九州征伐に臣従することで滅亡を免れました。

 

同じく九州の沖田畷の戦いでは3カ国以上保持していた龍造寺隆信と四天王5人が討ち死にする大敗しましたが、隆信の右腕にして後継ぎの後見だった鍋島直茂が立て直し、佐賀藩となって明治維新後も活躍する家を残します。

 

厳島の戦いですら、毛利元就が陶晴賢を討ち取ったにも関わらず滅ぼすまでそこから2年だし、毛利と尼子なんて何年戦ってるのよ、っていう。

 

あと、東北の合戦はマジ意味無い。

激戦して勝って、「俺が上でお前が下な」という取り決めして終わりとか、伊達と最上の戦なんて伊達政宗の母が最上義光の妹の義姫なんだけど、義姫が「もう止めろ」と言って終わりとか。

東北は大名同士がみんな親戚だからトドメを刺そうとすると一族が離反するとか、雪降ったら戦できなくなって終わりとかなので相手を滅ぼすのが難しいのでした。

 

例外は関ヶ原くらいなんだけど、これは巻き返しが不可というか、これで石田三成は終わりという面があったからかな。

あ、山崎と賤ヶ岳もか。織田の中の内乱なので首謀者の拠点は少なく、野戦で決定的な優劣が決まったのでした。

 

逆に言えば、それ以外の合戦ではたとえ壊滅的な負け方をしても巻き返しの余地が十分にあった、という意識が当時の人たちにはあったということになります。

 

金ケ崎で負けた織田軍は十分に巻き返したし、姉川で負けた浅井、朝倉も十分に巻き返せたのです。

 

その理由の一つとして、城攻めに時間がかかるということがありました。

織田の勢力が急激に拡張したのは調略によって敵の城主を寝返らせていったからで、普通に城攻めすれば一つの城に対して数ヶ月を要してしまうのです。

 

なので、野戦で大敗したところですぐ滅亡するわけではなく、また野戦には全兵力持っていくわけではないから領地にはまだまだ兵はいるし、他家から援軍を得られれば全然巻き返せるというのが常識でした。

だから、後年の秀吉の小田原征伐で北条氏は20万の軍勢に囲まれてもなかなか降伏しなかったのです。

 

というわけで、合戦意味無いじゃん、ということになるのですが、意味の有る無しではなく、必要だったのです。

 

桶狭間の戦いは大高城が包囲されたことに対する救援のための後詰め合戦だった、というのは桶狭間の戦いの時のブログに書きましたが、姉川の戦いも同じく包囲された横山城を救援するための後詰め合戦でした。

 

”後詰め”とは援軍の意味ですね。

 

戦国時代の主従はざっくり言うと寄親寄子制を大きくしていったものです。

寄親寄子制とは、小さな領主が大きな領主の庇護下に入り、小さな領主は大きな領主の指示に従う代わりに大きな領主は小さな領主を守るという契約システムです。

 

つまり、横山城が攻められた時、浅井は救援をしなければこのシステムが破綻してしまい、合戦に負けるよりも多くの家臣が離反してしまうのです。

姉川の戦いは互角の勢力同士でしたが、劣勢だとわかっていても援軍は出さなければならないのです。

どうしても援軍を出せない時は、城主に対して「降伏しろ」と指示が出ます。

 

前述の大友氏が滅亡ギリギリの時、岩屋城に籠る大友の風神こと高橋紹運は味方からの降伏指示も無視して抵抗を続けて城兵ことごとく討ち死にするまで戦って半月持ちこたえ、豊臣軍が九州に上陸までの時間を稼ぎ出して大友の滅亡を回避しました。

味方から降伏して良い許可が出るのです。

 

なので、城を攻めると合戦になっちゃうわけですね。

 

姉川の戦いで信長が得た城は横山城だけですが、ドラマでやっていた通り横山城を得ることで、佐和山には浅井の勢力があるものの岐阜から京へのルートを確保することができました。

 

また、ドラマでは触れられてなかったけど鉄砲の産地である国友村もゲットできたのです。

 

なので、姉川の戦いで得られるものは大兵力を動員したのに見合う成果でした。

合戦は相手を滅ぼす決め手とはならないけど、目的を見定めてそれを得られるよう戦略を立てるのが大事ですね。

 

だからウクライナもイランも目的がよくわからずただ相手を従わせたいがために武力を用いてる無用の戦です。

東北の大名か!

だけどいくら目的に価値があったとしても、いかなる紛争にも武力を用いないと定めた国が巻き込まれないことを祈るばかりです。

 

姉川の戦いに話を戻しますと、概ね信長公記の流れで進んでいて好感でした。

一般的なイメージだと金ケ崎で負けた信長が怒り狂って(ここまでは合ってる)一気に浅井朝倉を滅ぼそうとして2か月で再出陣、合戦になったという感じだと思うんだけど、ちゃんと一旦小谷城に迫り、横山城を攻め、浅井朝倉軍が姉川を挟んで布陣して合戦っていう順序を踏んでくれました。

 

指摘しておきたいポイントとしては、織田の評定にいる面々が増えましたね。

 

最初は佐久間、柴田、丹羽、林秀貞くらいだったのが、前田利家や佐々成政がいて、竹中半兵衛と主人公小一郎も当然のように評定の場に座ってるようになりました。

 

これは、前田、佐々は柴田勝家の寄騎だけど信長直臣、半兵衛、小一郎も秀吉の寄騎だけど信長直臣なので織田の評定に出席してるわけで、ドラマだから主要キャラがいるわけではなく、ちゃんと信長直臣っていうポジションだからいるという主張です。

 

寄騎(与力)は戦国時代においては寄子とほぼ同義です。

 

本戦は大迫力の戦闘シーンでしたが、まず第一に指摘しておかねばならないのは、渡河して朝倉軍に横撃かましたのは徳川四天王の榊原康政です。

 

そう、なぜ姉川の戦いの史料が多いかというと、この合戦に参加していた徳川軍の武将の多くが江戸幕府の大名となったからです。

なので、各大名家で家譜が作られた時に、姉川の戦いで挙げた手柄が記入されることになり、史料として残るのです。

 

信長の有力家臣はだいたい秀吉が殺しちゃったから柴田勝家とか佐々成政とかの出典がだいたい信長公記になっちゃうのですが、徳川が参加してると史料が豊富になるのです。

と言っても寛政重修諸家譜とか三河物語とか徳川実紀とかだけど。

 

で、榊原康政の若き頃の数少ない特筆すべき功績が、ドラマでは家康に取られた><

 

そもそも榊原康政は四天王の中でも地味なのよ。

有名だしかっこいいしゲームでも強い能力値持ってるんだけど、たぶんKoeiも困った能力値の付け方で、数字で表示される戦の能力は高いんだけど兵科適正がいまいちで、他3人に全体的にちょっと劣るから、強いのになんとも使い勝手の悪いキャラなのです。

後年の活躍からすると恐らく政治的な能力も高かったんだと思うけど、徳川軍には江戸幕府の基盤を作った超絶政治能力特化キャラが何人もいるからゲーム的に榊原康政の政治能力高くできないだろうし。

 

そんな榊原さんの貴重な活躍シーンが家康に奪われるなんて。

ちなみに、徳川軍は石川数正以外にもちゃんと「どうする家康」のレギュラーメンバー連れて来てます。

酒井忠次も本多忠勝もいるんだから出せばいいのに。

 

ちとだいぶ長くなってきたから、初登場のキャラにも触れて終わりにしたいと思います。

 

朝倉景健さん。

朝倉氏は歴史が長くて一門で権力を分配してるから有力武将も苗字が朝倉が多いんだけど、こちらも一門の中では上位の家の人で、血筋的には朝倉義景の従兄弟の子。

たぶん年齢は信長と同じくらいかちょい若いくらいの世代。

ちょうど姉川の戦いの年に家督を継いで、いきなり総大将。

この後も信長を苦しめます。

 

藤堂高虎。

あの登場の仕方だと、大太刀じゃないけど真柄さん突撃してきたシーンかと思ったよ。

姉川の戦いでは身長2m超え、持ってる太刀も2m超えの化物が、徳川の12段陣のうち8段まで突き破って突撃してくるのです。

太刀は熱田神宮にあります。

 

藤堂高虎は槍を振り回していましたが、戦国時代の武器は基本槍です。

秀吉と小一郎が刀で戦ってるのがおかしい演出で、たぶん合戦の残酷さを表現したくてビューっと血が吹き出るようにしたかったんだと思います。

 

なので藤堂さんの方が正確なのですが、身長が190センチあったそうで、槍が小さく見えますね。

いろいろ大活躍のキャラで小一郎とは関わりが深くなるから後半からたくさん出てくるようになると思うけど、最終的に家康の側近的なポジションになって伊勢の津藩で江戸時代の最初から最後まで国替えも無く続いた家の藩祖となる人です。

築城の名手で、今も史跡として観光名所になってる城をいっぱい作ってます。

設計や一部関わったとか含めると多数で、津城、伊賀上野城、大和郡山城、今治城、宇和島城、聚楽第、伏見城、江戸城など。

 

今までの大河にもちょいちょい出てくるんだけど、一瞬しか出てこないのでたくさん活躍してくれるのを楽しみにしてます。

「影武者徳川家康」を読むと、敵役で嫌なキャラだけどたくさん出てきます。

 

そんなわけで、大興奮の姉川の戦い、楽しめました。

次回予告がよくわかんなかったけど、次回から信長が勝ったのにピンチになります。

足利義昭とどんどん仲悪くなっていくんだよなあ。

足利義昭、良い人なキャラになってるのに。

 

あ、姉川古戦場は公共交通機関で行くのはなかなか大変でした。

 

次回もお楽しみに!

 

 

※追記

書いた後に思い出したけど、ともが連れてた子供はきっと摂政関白だよね。

金ケ崎の退き口の会です。

 

ゲーム「太閤立志伝」では墨俣築城の次のビッグイベントです。

 

美濃を攻略し、流浪の将軍候補が信長の元を訪れて上洛を依頼し、それに応えた信長が一気に京を制圧。

天下をまとめるために諸侯に上洛を要請し、従わなかった朝倉を討伐して緒戦で撃破、敦賀の金ケ崎城、天筒山城を落としてついに信長の勢力圏が日本海に達し、このまま一気に朝倉も滅ぼせるか、というところで近江の義弟の浅井長政が裏切って、北に朝倉、南に浅井と挟み撃ちにされて大ピンチ、もはや退却するしかない、というところで秀吉が撤退戦の殿に名乗りを上げたのでした。

 

というストーリーなんだけど、あらすじだけで劇的っていう。

 

太閤立志伝のこのイベントで殿(しんがり)って言葉を知ったよ。

殿軍と書いてもシンガリと読むこともあるし、普通にデングンって読んでもオッケー。

軍の最後尾の部隊のことで、撤退戦においては敵の追撃を食い止める役割があって、だいたい死ぬ。

 

ただし、ぶっちゃけ他の撤退戦の例をあまり知らないのと、有名な撤退戦はなんだかんだすげえ武将が撤退戦で逆に無双してるのでよくわかんなかったりします。

 

戦に負けた側の記録で殿が誰でどんな被害が出たかなんてなかなか史料無いからね。

負けた側の記録は戦死者数と討ち死にした著名な武将の名前が残るくらいなので。

 

逆に、負けても巧みな撤退戦で武勇を鳴り響かせた場合はしっかり史料に名が残ってるので、「あれ、殿って意外と死なないね」みたいになっちゃうわけだけど、それでもやっぱり兵はたくさん死んでるのです。

 

で、金ケ崎の退き口。

 

「どうする家康」では金ケ崎でカニ食べながら撤退を決意するところまでで1話使って撤退戦はナレーションで終わりました。

家康も殿にいたとされているけど、具体的にどう戦ったかはわからないので。

 

「麒麟が来る」でも本戦は無かったような気がします。

 

大河でこのシーンでちゃんと戦ったのは「功名が辻」以来ですかね。

主人公山内一豊は秀吉の寄騎として、郎党数名は従えてるもののほぼ一兵卒の身分で参戦してました。

 

「功名が辻」は原作の司馬遼太郎の小説でも山内一豊がめっちゃ戦います。

特に武勇に秀でたキャラではないのですが、全身血みどろになる負傷をしながらギリギリ敵を倒すシーンが数回ありまして、金ケ崎の退き口もそんな戦いに描かれています。

 

原作は古本屋で100円で買えると思うのでぜひ読んでみてくださいませ。

 

史書の方では「武功夜話」に詳しく書かれています。

ドラマでも前野長康が秀吉の側にいましたが、「武功夜話」はこの時参戦してた前野長康の家臣から聞いた話として書かれていて、合戦の様子がよくわかります。

 

「武功夜話」では殿を務める秀吉に、信長は旗指物等を全て残して与え、兵がたくさんいるように見せかけました。

浅井軍が到着すれば一気に挟み撃ちで攻めかかれるけど、到着前で信長がどっしり構えていたなら朝倉軍はうかつに攻撃できず、様子見で4時間稼いだ、と書かれています。

 

ドラマで「2刻(4時間)持ちこたえよ」はこれが根拠でしょうね。

 

で、兵数は秀吉軍が千余人に対し朝倉軍が数千人と書かれています。

4時間稼いだ後に引き上げを開始して撤退戦になるのですが、狭い山道に三段の防御拠点を設置して敵を食い止めながら退却しました。

 

ドラマでは鉄砲で敵を防いだのは明智光秀でしたが、「武功夜話」では佐々成政隊がやっています。130人だそうです。

 

最終防衛拠点に着いた時には千余の兵が600余人で、そこから更に2,3時間戦ったそうで。

 

なので、ドラマでは4時間かけての撤退戦ですが、「武功夜話」では4時間睨み合いをしてからの撤退戦で数時間戦い、ドラマではあまり味方が死んでるシーンは出てこなかったのですが、半分は死んだか逃げたかしたようです。

「甫庵信長記」には3人に2人は死んだと書かれているらしい。原文未確認。

 

ドラマでは敵と向かい合って色々口上たれながら緩く戦ってましたが、史料上では激戦でした。

が、主要な武将は誰も死んでいないという、まるで赤壁の戦いのような感じです。

なので、かなり脚色があるんじゃないか説はあるんだけど、実際のところは謎です。

 

ドラマの秀吉の口上のように、信長が逃げてしまった以上は浅井、朝倉軍にとっても特に意味の無い戦だから本気で追撃してなかったのかもしれないし、秀吉がほんとに巧みな撤退戦をしたのかもしれないし。

 

ただ、逃げ切ったゴールは京じゃなくて、朽木元綱を味方にできていたのだからゴールは朽木谷でした。

京都まで走って逃げたわけではないはず。

もちろん京に着く前にある程度身だしなみも綺麗にできたと思います。

 

朽木谷は琵琶湖西岸にあって、かつての将軍たちが京を追われた時に匿われていたところです。

 

そうそう、ドラマで「おっ」って思ったのが、松永久秀。金ケ崎に参戦していて、信長の撤退は朽木谷(琵琶湖西岸)経由だったんだけど、そこの領主朽木元綱(この時22歳)を説得して味方にしたのが松永久秀で、この時松永久秀63歳。

63歳が敦賀から朽木谷まで走って逃げたよ、という驚愕の史実をドラマ化してくれたのはグッジョブです。

しかもその描き方が「足が棒になったわ!」っていうセリフという。

 

で、ドラマでは出て来なかったんだけど、63歳に説得された22歳の朽木元綱はこの時の決断が戦国を生き延びる決断となりました。

一般的にはマイナー武将だと思うんだけど、「信長の野望」には必ず出てくるので戦国ゲームやってる人は知っている。

この後信長家臣になって、重臣ではないけど琵琶湖高島郡の代官っぽい感じになり、本能寺の変後は秀吉家臣になって主要な戦に参戦、関ヶ原でも最初西軍だったのがちゃんと東軍に寝返り、大阪の陣にも出陣して大名にはならなかったけど秀忠側近にまでなったのでした。

末子が大名になり、子孫は福知山藩主となって明治維新を迎える。

松永久秀グッジョブ。

 

そんなわけで、ここから数ヶ月という驚異のスピードで軍を立て直して、次回は姉川の戦い、になるのかな?

姉川の戦いは史料がいっぱいあるくせに謎、という戦いなので、どこが謎かは次回解説致します。

 

次回もお楽しみに!

小一郎が結婚する回です。

 

妻が、何で安藤守就の娘っていう設定になってるんだろう。。。

もちろん名前の”慶(ちか)”も大河オリジナル設定ですが、なぜ慶と書いてチカと読ませるのか。。。

漢字変換できん。

 

一応解説するけどウィキペディア以上の情報は持ち合わせていません。

秀長の妻は法名しか伝わっておらず、慈雲院という名になっています。

 

当時の女性は”誰々の娘”とか法名でしか史料に名前が残らないのはごく一般的なことなので、特別謎が多い人物というわけではありません。

男性だって名を挙げた武士しか名前わからないし、そういうのも市長クラスの領主だし、その人の家系を調べても先祖はやっぱり法名しかわからなかったりするのです。

 

なので、情報が遥か未来まで残るお墓が大事で、苗字が大事だと思うんだけど、現在はマイナンバーがあるのでお墓も苗字も不要ですね。

 

で、秀長の妻の父と推定される人がやっぱり詳しいことわからないので、ドラマのストーリーの都合で安藤守就の娘になったのかな。

 

でもそうなると竹中半兵衛の妻も安藤守就の娘なので、半兵衛の妻と秀長の妻は姉妹ってことになるんだけど、半兵衛的には妻の姉妹がヤリマンで良いのでしょうか。

 

なお、安藤守就にはまだ娘がいまして、郡上八幡の遠藤慶隆っていう武将の妻になっています。

こちらは超激戦の人生で、信長と戦って斎藤滅亡後に降伏し、だけど身内が従わず反乱したり、飛騨から攻められそうになったり、一向宗や武田信玄からの接触を信長に疑われつつも疑惑を逃れ、姉川、長篠など主要な合戦に参加しつつ信長包囲網をくぐり抜け、本能寺の変後は途中で郡上八幡を追われたり奪回したりしつつ、秀吉の小田原征伐、会津征伐にも加わり、朝鮮にも渡ったし関ヶ原でも自領の動揺を納めながら本戦にも参加、大阪の陣にも出陣っていう。

 

妻の姉妹の人生激しすぎね。

父の安藤守就追放されちゃうし。

 

まあ、ドラマオリジナルの設定なので深く考えないようにする方が面白く見れると思います。

 

ドラマではだんだん信長と将軍義昭の仲が微妙になってきました。

ここで13年続いた永禄って元号が元亀に変わるのですが、「麒麟が来る」の解説ブログでも書いたけどこのネーミングセンスどうなのよ、って思います。

 

元亀は義昭が追放されるとこで終わるので4年しかないのですが、永禄の前の弘治は3年しかなかったので特別短かったわけではありません。

当時は天災や戦乱が酷いと改元して新たな元号で解決を期待したり、その時の権力者が権力を誇示するために改元を迫ったりしたのでちょいちょい元号が変わります。

 

そんな中で相撲大会やってるのですが、信長は相撲大好きで、誰かをもてなす時はだいたい相撲でした。

あの、自分がやるんじゃなくて観覧する方ね。自分でやることもあったろうけど。

「信長公記」ではやたら相撲大会やってます。

 

ちなみに、相撲で西、東というのは信長が相撲の猛者に西、東という苗字を与えたかららしいよ。

チコちゃんに叱られるでやってた。

 

今回名前テロップが出た新キャラに、宮部継潤って人がいました。

ゲームではなかなか使える能力値のキャラです。

割と早めの段階でさくっと織田に寝返ります。

ドラマであんなに長政に文句言ってたのに。

 

その後、秀吉の家臣になって大活躍で鳥取城主やりました。

秀吉の死後、関ヶ原前に継潤も死にましたが、息子が東軍から西軍に寝返るという歴史に残る大失敗をしました。

が、死罪は免れて子孫は自由民権運動しました。

 

宮部継潤は割と有能キャラだと思うんだけど、ドラマでは頭の固そうなセリフ言ってましたね。

そこから寝返るんだからおべっかキャラになるのかな。

 

前回のブログでちょっと褒めてみた朝倉景鏡はたちの悪い詐欺師みたいになってました。

せっかく褒めたのに。。。

 

で、最後は金ケ崎城攻略したところで浅井が裏切って次回へ続く。

 

戦国のドラマでこのシーンになった時に毎回思うんだけど、尾張から来た織田軍全員ここで日本海を初めて見るんですよ。

現代の平和な時代でさえ、太平洋側の人が日本海を見ると感動するのに、戦国時代、ましてや織田の版図が日本を縦断した瞬間なわけです。

しかも、金ケ崎城は実際行ったことあるけど海に面した山城で、城跡からの眺望がすごく綺麗なのです。

 

これを捨てて退却なんて、悔しかったろうなあ。

 

というわけで、次回は金ケ崎退却戦ですね。

ものすげえ大ピンチです。

 

次回もお楽しみに!

 

1週間分遅れてもうた。

京都奉行になった回です。

 

冒頭の信長が二条城に置く石を自ら指揮して運ぶ描写は「信長公記」にもあって、石の上に乗ってたかまでは書いてないけどあの石以外にもいろんな由緒ある名石を集めたらしい。

 

二条城というのはいっぱいあって、ゲームで先代将軍の足利義輝が居城にしてたのは城じゃなくて二条御所と呼ばれていたもので、その跡地に今回のドラマで立てたのが最初の二条城。

 

その後、信長は居館として別の二条城を作って、本能寺の変の時に息子の信忠が籠もって討ち死にしたのがこれ。

 

最後に、今国宝になって残ってる家康が作った二条城があって、ここが大政奉還した場所。

 

なので、京都に行って見られるのはドラマでやってた二条城ではないので注意が必要です。

 

そんなシーンから始まって秀吉はいきなり京都奉行になりました。

 

”奉行”という言葉を今の役職で使う言葉に直すのは難しいんだけど、ざっくり責任者って意味で捉えると良いかな。

時代劇を見るとどうしても裁判官みたいなイメージにっちゃうけど、それは町奉行という行政責任者だったから重犯罪の裁きをしてたわけで、戦国時代の段階でも槍奉行とか鉄砲奉行など部隊長の意味で使われたりします。

 

ただ、鉄砲奉行は鉄砲隊の隊長の意味と、鉄砲という武器管理の責任者っていう意味とあるので使われてるシーンで判断しないといけないんだけど。

 

ともあれ、京都奉行になりました。

と言っても秀吉一人ではなく、丹羽長秀、明智光秀、中川重政の四人で、同等の権限を持って政務に当たっていました。

これもあんまりイメージしにくいし、こういう状態も数年だけでその後は京都所司代っていう役職ができて一人の責任者が任命されることになるので、京都奉行が4人ってどういうこと?ってなるよね。

 

この京都奉行は京都市長というイメージで良いんだけど、京都警察長官、京都裁判所長官なども兼ねていたりするのでそれぞれ得意分野で仕事したり、共同でやったりしてたっぽい。

ぽいっ、ってのは史料があまり見当たらなくて、もちろん四人だけでがんばってたわけじゃなくて配下もたくさんいたはずだけども、何人いたかも、信長が貸し出した配下なのか、それぞれの直接の配下なのか、現地で集めた配下なのか、周辺の武将から提供させたのか、そしてそれがどういう機構だったのかがよくわからない。

 

あと明智光秀はまだ織田家臣じゃないのでよくわからない。

 

そんな謎がありつつも、京都奉行が力を合わせて将軍と織田の”天下”を作るためにがんばっていたのでした。

 

で、朝倉が上洛して将軍に挨拶という体の従属を拒んでいるため、織田と朝倉の関係はだんだん緊張状態になっていきます。

 

朝倉というのは越前の大名で、一世代前は京での争いにも参加して活躍した力のある大名でしたが、ドラマの時点では越前に引っ込んでいて、越前のすぐ北の加賀では一向宗が城主を倒して独自勢力を立てたりしてたので朝倉領はしっかり支配できていたけど北に不安のある状況でした。

 

また、織田氏は越前発祥の地で、越前の神官、もしくは国人領主(上級土豪)なので、戦国大名の朝倉氏からすれば先祖の代は遥か下位だった相手ということで上洛に応じたくなかったのかもしれません。

 

とにかく、織田と朝倉の間で緊張感が高まっていきます。

 

ちなみに注意なんだけど、朝倉が越前の大名ってことで福井県まるまる地図で差されたりするけど、若狭地方は織田派が多かったので織田と敵対した相手として福井県まるまるを出すのは誤りとなります。

詳しくは「若狭武田氏」とかでググると出てくる。

 

あ、そう言えば武田信玄の方は徳川家康と戦い始めていますが、信長とは同盟状態という微妙な関係になっています。

 

美濃を獲ったことにより、遠山氏を挟んで武田と接することになっちゃったので争うと京へ進めなくなっちゃうからたくさん手紙や貢物を送って仲良くしようとしていて、養女を嫁がせる計画も決まっていました。

 

その間に、ドラマではナレーションで終わってたけど信長は伊勢も平定しています。

次男を伊勢の戦国大名北畠氏に養子にして後に家督を継がせるという決着だったけど、後に家督を継ぐと元の北畠氏皆殺しするという。。。

 

で、堺も手中に納め、大和の大名も支配下に置き、摂津や河内、和泉の武将も従属させ、三好の反撃も防ぎ、目下近いところで従わない相手は朝倉、というとこで、いよいよ朝倉攻めるぞ、という雰囲気になっていきます。

 

物語の背景はこんな感じかな。

 

 

で、ドラマでは小谷城に行くわけですが、「浅井三代記」に小谷城で信長が饗応を受けたというのが出典で、江戸時代に書かれた軍記物ということで史実としての信憑性が微妙という史料なのでほんとに小谷城に行ったのかは定かではありません。

 

小谷城って、東海道から結構遠いのよ。

なので、京都岐阜の途中で寄れる場所ではないので、訪問するための理由が無いといけません。

 

ドラマでは訪問理由が市に会うため、みたいになってたのでそれは無いかな、と。

他の姉妹の嫁ぎ先に行ってないし。

養子になった次男に会いに行ったのも北畠氏皆殺ししに行った1回だけだし。

 

あと、浅井三代記には家臣たくさん連れていったとあり、ほんとだったとしてもドラマの様にほぼ単身で豊臣兄弟だけ連れてったわけではありません。

 

で、ドラマでは信長は遠藤直経に会うわけですが、遠藤直経はやたら信長を暗殺したがるキャラとして史料に登場します。

「浅井三代記」と「太閤記」合わせると4回失敗しています。

長政に止められたり秀吉の機転で防がれたりで暗殺技発動前に失敗するわけですが、結局暗殺下手なんじゃん、っていう。

 

ただ、信長の危険性にいち早く気づいて排除しようとした、暗殺という力技を用いようとした、最後は姉川の戦いに負けたあと命がけで織田軍に潜んで信長の命を狙ったが失敗して死んだということで、忠義と武力のある智将というキャラに収まっています。

「信長公記」では姉川の戦いで討ち死に。

 

小谷城で信長と邂逅した朝倉の武将、朝倉景鏡(かげあきら)は戦国屈指のモブキャラです。

朝倉氏は一門の合議に重きを置いてたっぽい感じで、当主義景はボンボンなんだけど由緒ある朝倉一族の重鎮が支えてた感じ。

で、景鏡はその一門筆頭ポジションでこの後の金ケ崎の戦いとかでも総大将やるのに、姉川の戦いで負けた後はいろいろ巻き返しの策を義景に献策するも断られ、最終的に戦をボイコット、負けて帰ってきた義景を裏切って自害させ織田に降伏。

その後領地をもらうけど一向宗に攻められて、劣勢を悟ると敵に突撃して討ち死にした。

 

なんか書いてみると悲劇の智将な気がしてきた。

けど、義景裏切っちゃってるからなあ。

朝倉義景自身が暗愚な上に悪役なのに、それを更に裏切る悪役で一向宗に殺される無惨な最期なので、ゲーム上の能力はそこそこだけどさっぱり良いイメージの無いキャラです。

 

視点を変えると滅びゆく自国をその智謀でギリギリまで支え、最後は玉砕を叫ぶ暗愚な指導者を除いて降伏を選んだヤン・ウェンリーに……

ならないか。

 

次回予告を見ると、次回は金ケ崎撤退戦が始まるか始まらないか、というところかな。

 

久しぶりの戦シーンになるのか、こうご期待!

今週中に見て今週中にブログ書くのが目標。

本圀寺の変の回です。

 

そういえば三好宗渭って真田十勇士だったな、って前回のブログ書いた後で思い出しました。

三好清海のモデルになった人と言われていますが、それだとここから約50年後の大阪の陣での年齢が・・・

 

ま、真田十勇士が架空なのでいいんだけど、何でモデルになったかというと、本圀寺の変の後いつ死んだかわからないからです。

三好長逸もいつ死んだかわからないんだけど、宗渭の方が出家した坊さんの名前なので、弟の三好為三と合わせて清海入道と伊佐入道の坊さん兄弟キャラにしやすかったんだと思われます。

 

さて、今回は「宗」が付く人がいっぱい出てきました。

三好宗渭、今井宗久、津田宗及。

 

全部出家して得た法号ですが、「宗」を付けるのが流行ってたみたいよ。

千利休も利休って名前の前は宗易だし。

有名どころだと山上宗二って人もいるね。

 

出家して「宗」を名前につけるのがステータスだったらしく、同じ流派の文化人、みたいなサークルメンバーなノリらしい。

 

なお、商人だから今井宗久とか津田宗及よりも納屋とか天王寺屋と呼ばれていた可能性の方が高いと思う。

茶屋四郎次郎は茶屋で呼ばれるのに、今井とか津田で表記されるのは何でだろうね。

KOEIのせい?

 

KOEIと言えば、太閤立志伝や信長の野望で商人から能力アップや家臣の褒美用のアイテムを買うことができるんだけど、戦国時代に外国から渡来したアイテムも買うことができます。

 

なので、出典はKOEIなんだけど、この時に買える西洋のアイテムは、

お菓子(カステラ、金平糖、ボーロなど)

ワイン

ビードロ壺(ガラスの花瓶とか酒器とか)

ガラス玉

布教グッズ(十字架、聖書など)

自鳴鐘(歯車仕掛けの時計)

航海道具(望遠鏡、地球儀など)

楽器(フルートとかチェンバロとかオルガンとか)

タバコ、キセル

オウム、孔雀

マント、西洋甲冑など

などなどがあります。

 

で、あとは中国からの品ももちろん入って来てたので、書物や陶器、酒など中国のアイテムもいっぱいあります。

 

ただ、南蛮貿易はだいたい1年に1回か2回船が来る程度で、しかも直接来るのは長崎で堺へは日本の商人が長崎から仕入れて来たり売りに来たりしてるので堺が幕末の横浜みたいになってたわけではないと思います。

 

もちろん全くいなかったわけではないと思いますが、そこら辺を南蛮人がたくさんうろうろしてたわけではないかな、と。

 

堺は自治領な感じで商人が運営していた都市とされていますが、それは堺が文字通りの国の境だったからどこの国の領主からも支配されにくかったからなのです。

摂津、河内、和泉の三国の境で、境界は大和川で、川は増水で流れが変わるので支配できないのです。

 

なので、自治都市として発展しました。

 

だから信長の矢銭(臨時徴収)2万貫を拒否するんだけど、2万貫をググるとおよそ20~30億円らしいので、現在の堺市の予算5000億円に比べると微々たる額ですね。

これと比べる意味があるのかわかんないけど、全然出せる額なんだけど黙って取られるのは嫌な額って感じがする絶妙なラインだと思います。

 

なのでこの矢銭要求は、堺が信長に従うかどうかを試した額、もしくは断ったら武力で攻める口実にするための要求だったのだと思います。

結局三好があっけなくいなくなってしまったので要求をのむわけだけども。

 

なお、三好があっけなく退いたのも、単純に弱かったのではなくそれまでの畿内の戦国の戦い方の特色のせいです。

 

結構地域ごとに戦いの仕方に特色がありまして、例えば東北地方は戦国時代で大名の版図がほぼ変わってません。

東北地方は戦に勝つと、すごく端的言うと上下関係を定めて終わりです。

俺がお前より上な、って話を付けるわけで、人質取ったり当主隠居させたり貢物渡す約束したりはするけど、たぶん人口少ないし寒いし、国境の領地削り取っても次の戦でどうせ寝返るしだからあんま領地増やすことに熱心じゃなかったのかな。

 

関東だと、ずっと睨み合ってその間に調略したりしてじりじり削り合いする感じでなかなか決着が付きません。

平野すぎてまともに戦うと消耗しすぎちゃうからですかね。

そうこうしてるうちに新潟から上杉謙信が攻めてきてみんなやられちゃって、上杉謙信が帰るとまた独立し始めます。

 

畿内だと、かなり激しい殺し合いなんだけど名門な一族がいっぱいいるので当主が死んでもすぐ巻き返すのです。

また、自分も名門だから、生きてさえいれば再起を果たせるので、負けそうになったらすぐ逃げて、準備を整えてまた京に攻め込めば良いわけで。

 

特に三好は本拠が四国にあるので、四国に帰ればまたたくさんの兵を連れて京に攻め込めます。

だから戦の一つ一つが乾坤一擲なわけじゃなくて、被害が少ないうちに地元帰って再起を測れば良いのです。

 

そういう面もあって信長がすんなり上洛できたわけだけど、そうとは知らない信長が油断して岐阜に帰ったところで本圀寺の変なわけですね。

 

で、三好は上記の感じであっさり帰った説もあるけど、激戦したって説もあって、ドラマではあっさり帰ってるけど麒麟が来るでは激戦してたね。

 

ともあれ、わずかな手勢で夜通し駆けて京まで戻った信長の評判は爆上がりします。

 

そして、陣頭で戦ったという将軍義昭の評判も上がるし本人も自身つけちゃいます。

 

これが、こんなに仲良しだった信長と義昭が決裂する伏線になるんだけども。

 

あとは、松永久秀について語りたいけど、長くなるからまた次回かな。

 

次回は、浅井と仲悪くなる回になるのかな?

お楽しみに!

 

一気に上洛した回です。

 

斎藤を滅ぼして岐阜に本拠を移し、天下布武をスローガンにしたところ、美濃をゲットしてから約1年後に流浪の次期将軍候補がやってきました。

 

まあ、いろいろツッコミどころがあります。

ドラマでも解説があったけど、戦国時代に”天下”っていう言葉は畿内を指していたというのが現在主流の説ですね。

 

いろんな史料から”天下”の意味を推察するに、畿内とした方が辻褄が合う、と。

ちなみに畿内とは、京都を中心とした現在の京都、大阪(プラス兵庫の一部)、奈良で、修学旅行で回るエリアです。

 

布武の布は、布告とか布教とか配布とかの布と同じ意味で、広く知らしめるという意味です。

 

要するに、修学旅行でオラついてる学生は天下布武を目指してるってことになるのですが、”天下”が畿内だけじゃなくて日本全国を指しているとすると全国の猛者に喧嘩売ってることになっちゃうのでさすがにそれはないだろ、ってことでも天下が畿内のみを指してると推察されます。

 

なぜなら、信長は武田信玄や上杉謙信にめっちゃ気を使って貢物ガンガン送ってるし、各地に婚姻外交で味方を作ろうとしてるから。

 

畿内方面以外には喧嘩売らないように気をつけていたのです。

 

が、前回のブログに書いたように、日本には三国志(正史)が伝わっていて、知識人層は読んでいました。

中国における天下は、大きく解釈すると中国だけじゃなくて全世界なのですが現実的なところで中華文明が及ぶ地域のことです。

 

つまり、日本に置き換えるならばやっぱり日本全国ってことになるのにちっちゃくなっちゃったのはなぜ、という疑問が残ります。

 

というわけで、AIに聞いてみました。

 

要約すると、天皇が直接支配する力の及ぶ範囲、室町時代は将軍が直接支配する力の及ぶ範囲が天下で、それ以外は独立国とみなしていた感じ、と回答がありました。

まあ、そんなわけないだろ、ってことなのでもっと突っ込んで聞いてみると、どこから”周辺”と見做したか、ってことだそうで、独立国までは言い過ぎで天皇を中心とした京の文化が及ぶところが畿内、それ以降離れたところは周辺。

ってことで、中国の”天下”は中華文明が及ぶところまでっていうのと同じことなのでした。

 

ぱっと見ると全国と同じ意味っぽいのに、当時の知識人、なかなかやるな。

 

なお、これを日本全国(六十余州)の意味に変えたのが秀吉で、それを引き継いで家康が”天下泰平”って言葉を使ったことで天下が日本全国を指す言葉として定着しました。

 

で、ついでにAIに聞いてみたところ、「天下統一」という言葉を使った戦国武将は誰もいなかったそうです。

ついでに言うと、統一という言葉も当時は一般的ではなく、使うなら一統だそうですが、「天下一統」という言葉を使った戦国武将もいません。

 

代わりに使われていたのは「天下静謐」で、これは史料でも良く目にします。

他に「天下平定」、「天下掌中」が使われていたらしい。

 

冒頭の天下布武の件だけでだいぶ書いてしまった。。。

 

で、尾張を統一するのに信長は長い年月を必要としましたが、美濃は斎藤を滅ぼしたら一発で平定です。

なぜならば、斎藤が美濃を平定していたから、残る家臣は全部信長に降伏したのです。

 

と言いつつ、遠山氏だけは武田と二重に従属していたので何とも言えません。

が、これ語ると長いのでとりあえず美濃平定。

 

これで信長は尾張と美濃2カ国を治める強力な大名となりました。

当時(1567年)2カ国以上持っていたのは、武田、上杉、北条、毛利、大友、徳川くらいかな。

 

そこに流浪の時期将軍候補がやってくるのです。

 

このくだりは「麒麟が来る」で詳しくやっていたけど、信長が尾張統一戦やって桶狭間やって斎藤と戦ってる頃、京はマジカオス戦乱、ほんと言葉通りの戦乱だったのです。

 

応仁の乱は1467年でちょうど100年前ですが、この100年で京はほぼ焼けています。

 

そもそも足利幕府は、雑に説明すると鎌倉幕府を滅ぼした際のどさくさの勢いで足利尊氏が将軍になった幕府で、源平合戦や関ヶ原のように天下を二分しての大決戦をしたわけでもなく、なので全国の武士を武力で従えたわけでもないしその後もマンガ「逃げ上手の若君」でもやってるように北条の生き残り倒すのにも手こずってるし南北朝の乱なんて60年くらい続いて尊氏が生きてるうちに天下統一しきれてないので、権力基盤が弱かったのです。

 

だから”天下”が畿内って話になるんだろうけど。

 

なので、歴代将軍は権威を保ち、隙あらば高めるために大名の相続に介入したり、大名同士の争いに介入したりで調停期間としてマウント取ってきたんだけど、それに失敗した挙げ句に自分のとこの相続も失敗したのが応仁の乱です。

 

そこから相続が上手くできなくなって、いろんな大名がいろんな後継者の後押しして京に押し寄せては一時の天下を獲るわけですが、信長が岐阜に移ったころは三好三人衆が将軍後継者を擁して京都を制圧してました。

 

三好三人衆、美濃三人衆の元ネタになった人たちで、三好長逸、三好宗渭、石成友通の三人です。

一人三好じゃないやつがいる!

 

石成友通とは何者かというと、松永久秀と同じポジションだと思ってもらえればオッケーで、それまで京の覇者だった三好長慶のお気に入り武将です。

 

じゃあ何で松永久秀は三人衆に入ってないかというと、久秀は長慶ラブなので長慶の後継者を大事にしたい派、三人衆は利用して権力握りたい派で、三好長慶死後は松永久秀と三好三人衆で争っていました。

それを遠巻きに見て隙あらば権力握りに行きたいけど絶対有利じゃなきゃめんどいな、と思っていたのが近江の佐々木六角氏や越前の朝倉氏で、なかなか動いてくれなかったから義昭は信長を頼った、とそういうストーリーです。

 

絶対に小説じゃ設定しきれない壮大で細かな世界背景だね。

 

ちなみに三好長逸と三好宗渭は三好一族の重鎮で長慶の子ではありません。長慶と祖父が一緒、くらいな感じ。

三好宗渭はゲームでは政康なことが多いけど、政勝が正しいらしい。

 

あと出てきた人物で突っ込んでおきたいのは、長宗我部元親。

出てきた人物以外にもたくさん上洛要請の手紙送ってるんだけど、なぜ長宗我部出したのか。

この時点ではまだ土佐統一もしておらず、司馬遼太郎の「夏草の賦」を読むとどんな状態かイメージしやすいんだけど、眼中に入れるほどのもんでもない感じ。

 

後に土佐統一直前まで行くのと、明智(の縁者)を妻に迎えたことから本能寺の変の黒幕説の一人になるのと、秀吉にやられる役ですが、ここで出てくるのは何か伏線あるのでしょうか。

 

そして、やっと語れるお市。

信長の妹で父信秀の五女とされてるけど、実は長女なんじゃないか説。

なぜならば、名前が「いち」だから。

 

これはギャグではなくて、長男が太郎で次男が次郎と同じ様に、女性の名前も生まれた順の数字にちなんだものが多いから。

「おふう」「みい」「よう」など、ひいふうみいの数え方のまんまの名前がよくあって、しかも本名じゃなくて他人から呼ばれていたり便宜的にそう書かれていたりする場合もある。

 

つまり、お市は本名じゃなかったという可能性がある。

 

一応ウィキでは信長の姉とかいるから本当に五女なのかもしれないけど、婚姻外交が大事な時代なので親戚から養女をとって自分の娘として嫁がせるのも日常茶飯事なので、信秀の実の娘、もしくは正妻の娘として長女かもしれないし。

 

ちなみにお市が本名かどうかはほんとに確定しておらず、史料上では小谷殿か秀子。

秀子もなあ、、、信秀の娘だから秀子って、、、父の字もらってるならやっぱり長女っぽいけど。

 

で、だいぶ長くなってきたけど、最後に浅井長政。

 

浅井氏は琵琶湖東岸だけど北近江って呼ばれる地方の大名でした。

が、浅井家臣団への支配力は強くなく、琵琶湖東岸の土豪連合の盟主みたいな感じです。

実際どのくらいの強さだったかは諸説あり、ゲームで北近江支配してるの嘘とかネット上でも論争になってた時期もありますが、斎藤の様に主君が無能とかの記述は無いし、朝倉との連合軍だけど信長を苦しめたし、姉川では勇猛な家臣がもう少しで信長の本陣なところまで突破したりしてるので戦には強い勢力だったんだと思います。

 

だけど、信長が岐阜から京を目指すルートは東海道新幹線と同じ大垣、米原、彦根、近江八幡、大津と辿っていくルートなので、北から背後を突かれないようにするためには味方にしておかねばならない勢力です。

味方にできなかったら倒さねばならないので。

 

ただ、浅井氏は南近江の六角氏に従属していたり、そこから独立するのに越前の朝倉氏に支援してもらっていたりと不安定な立場だったので、そこまで強力な大名でもなく、逆に二カ国の大名である織田からの婚姻はラッキーな上に六角も倒してくれるという二重ラッキーなのでした。

 

なお、六角氏は観音寺城っていう要塞を持っていたのに放棄して逃げ出してゲリラ戦始めるやっかいな勢力です。

観音寺城は登り口間違えるとマジ遭難しそうになるので登る時は気をつけましょう。

有名な城なのに親切なマップとかありません。

 

浅井長政とお市の結婚の時期は、諸説あって定まってません。

斎藤と戦ってる最中に婚姻を結んだ説もあれば、ドラマの様に滅ぼしてから上洛のために婚姻を結んだ説もあるし、浅井側から申し込んだ説もあります。

 

戦国史には絶対出てきて有名なのに曖昧な浅井氏なのでした。

 

うん。今週もいっぱい書いた。

 

次回は、本圀寺の変だね。

本能寺じゃないから間違えないでね。

麒麟がくるでもやってた話。

 

豊臣兄弟はどう関わるのか、関わらないのか、乞うご期待!

 

竹中半兵衛が仲間になる回です。

 

竹中半兵衛を調略しようとしたら勝手に西美濃三人衆が寝返ってくれて、その勢いで稲葉山城も落として斎藤家滅亡しました。

稲葉山攻略が雑!

 

まあ、稲葉山城の攻略に関しては、秀吉は活躍したらしいけど調略以外のとこでの具体的な活躍はよくわからんからね。

どの陣にいてどのくらいの手勢がいて斎藤家臣の誰を討ち取ったとか、よくわからんのね。

ただ、裏道を案内できる人を見つけて搦め手から奇襲したらしいが、たぶん嘘。

ほんとなら一番手柄だし、絶対信長公記に書かれる。

 

しかも、竹中半兵衛を調略したのも信憑性は怪しげ。

ウィキによると、半兵衛は主君龍興を諌めるために稲葉山城を奇襲して奪い、その後義龍に奪還されて隠遁生活を送り、斎藤家滅亡後は浅井家に身を寄せていて、いつの間にか秀吉の与力(直臣じゃなくて信長から貸し出された家臣)として行動を共にしたとある。

 

秀吉が西美濃三人衆を調略の窓口になっていたのは史実とされているんだけど、ここまでのブログで書いた通り秀吉の派手な活躍はほとんど信憑性が怪しいので、西美濃三人衆調略の責任者に任命されたのは日頃の働きぶりを評されてのことってことになり、逆に秀吉は普段から有能な人ってことになっちゃうね。

信憑性のある逸話が欲しいところだね。

 

で、竹中半兵衛。

前回のブログで名前の表記について触れたけど、半兵衛は諱ではなく通称の方で、諱は重治。

今年の大河は諱と通称ごっちゃで統一されてないのね。

 

そして、信憑性の怪しい逸話を、上手く辻褄合わせようとしてくる。

 

三顧の礼の話は、元ネタはもちろん三国志の劉玄徳が諸葛孔明を軍師として招く際の故事。

ちなみに、これも諱と字(あざな)のバランスがあるので、劉備と諸葛亮にするか、劉玄徳と諸葛孔明にするかで統一しないと変な感じになります。

 

三顧の礼について続けると、現代の人が三国志についてイメージするのは三国志演義(小説版三国志)なのですが、こちらは江戸時代に流行ったもので戦国時代に読まれていたのは三国志の正史です。

ドラマで半兵衛が手に持っていたのも演義と書いてなかったから正史です。

 

正史だと、三顧の礼については劉玄徳が「3回行った」と書かれているだけで、ドラマチックな要素が何もありません。

演義では大雪の中会いに行ったのに不在、2回目も不在、3回目は昼寝中で起きるまで待ってたという、そこまで尽くしてようやく軍師として迎えられたという話になっていて、感激した孔明は玄徳に忠誠を尽くすという流れになり、まさに水を得た魚のよう、水魚の交わりっていう故事成語もできました。

 

なので、半兵衛が正史を手に持って「三顧の礼で迎えられたい」は、とりあえず3回来いって言ってるだけの不自然なセリフなのですが、秀吉たちの「3回行けば良いのだな」は身も蓋も無い返答に見えて実は正解っていう。

 

それで、実際秀吉に合流した半兵衛はどんな活躍したのかというと、よくわかりません。

信憑性が微妙な逸話はいくつかあるけど、孔明のような神算鬼謀で敵を撃破したようなことは無く、秀吉にどんな献策をしたかもよくわかりません。

 

どちらかというと戦よりは調略で活躍した感じで、ウィキによると、さっきの続きだけど浅井に身を寄せていた時の縁で浅井の武将をたくさん調略し、また秀吉が中国地方軍の司令官になった時も調略で手柄を立てたとのこと。

 

確実なのは、「軍師官兵衛」でもやってたけど、謀反を起こした荒木村重の城へ官兵衛が説得に行って捕まってしまい、信長が官兵衛が帰ってこないのは裏切って荒木村重の味方になってしまったからだと官兵衛の子を殺すよう命じたときに半兵衛が密かに匿ったということくらい。

 

そもそも戦国時代に軍師っていうポジションは、無いと言ってしまうと無いわけではないんだけど、あったとも言い切れない曖昧なものなのです。

 

なぜならば、大名自身が戦略を決めるし、その戦略を決める軍議に参加する者は全員軍を率いる将でそれなりに身分の高い人たちだからです。

自分で兵を持たず、知恵だけを提供する人はあまりいなかったし、いても身分が低いから史書に名が残らない。

軍配者っていうポジションの人はいて、この人が軍師にあたる感じではあるけども、基本は占い師、陰陽師で、吉凶を占ったり天候を推測したりしていました。

 

でもやっぱり基本的には戦のプロたる戦国武将自身が戦略、軍略を自分で立てられるし、最初の方のブログにも書いたけど一族の力が自分の力という感じで当主じゃないから名が残らない一族の人が補佐していたというのもあって、軍師っていうポジションがいたのかいなかったのか曖昧になっちゃうわけです。

 

竹中半兵衛だって軍師と言いつつ城持ち=自分の兵を持っているから自分で出陣しちゃうので、やっぱり秀吉麾下の武将の一人ってことになっちゃうし。

 

面白い話になるように脚色されちゃってるから実際のところが見えづらくなるね。

 

ところで、斎藤龍興は脱出するんだけど、その後三好に身を寄せて織田と戦い、三好が負けると朝倉についてまた織田と戦い続け、朝倉が滅亡する際に討ち死にします。

暗君とされているけど、結構がんばるのです。

 

と、今回は名前も出てこなかったけど、日根野弘就って斎藤家臣がいてね、この人も稲葉山城を脱出して、今川に身を寄せて徳川と戦って掛川城で滅亡するまで付き合って脱出し、浅井長政に仕えた後長島一向一揆に参加してまた信長と戦い、長島一向一揆皆殺しからも脱出してそこで今更なぜか信長に仕え、本能寺の変の時に京にいたのにそこも脱出して秀吉家臣になって大名になり、朝鮮出兵にも参加して無事帰ってきたものの、最終的に関ヶ原で中立やっちゃって、戦後子供に類が及ばないように切腹っていう凄い人がいました。

 

出して欲しかった。

 

次回は流浪の足利将軍候補がやってきて京を目指すっていう、なろう小説のようなご都合展開が史実で起きる話です。

マジで、なろう小説でこんな展開にしたら感想欄荒れるだろ、ってくらいご都合展開。乞うご期待!

あ、韻踏んだ。

 

一夜城ができる回です。

 

なるほどねー! と思いました。

有りそうでなかった解釈、一夜城が、一夜で作った城ではなく、罠として使って一夜で破壊する城とは。

 

言うまでもなくもちろんフィクションです。

城のてっぺんに置いた油、あれは何油の設定だったんだろう。

 

当然のことながら戦国時代の日本に石油は、無いわけではないけど流通していません。

庶民に灯油(灯り用の油、火を点けるための油)として使われていた油は魚油で、富裕層は荏油や胡麻油を使っており、戦の相手の斎藤家は斎藤道三が油売りから成り上がった大名だけども、斎藤道三が商っていたのは荏油か胡麻油。

つまり、あんなドロドロなものは使ってないわけです。

 

仮にあれが松明とかに使う松ヤニを染み込ませた何かを液体っぽくしたもので、そういう作戦があったとすれば、間違いなく史書に残っています。

なぜならば、小牧山城から見えるので、夜間に火の手が上がれば太田牛一が信長公記に書きます。

たとえ信長公記に書かれなくても、あの方法ができるなら落城する城はみんな爆破されます。

桶狭間の時、丸根砦も鷲津砦も敵軍道連れに爆破すれば良く、何なら本能寺で信長は明智軍道連れに大爆発してたでしょう。

戦の定法として残りますね。

 

でも敵に追い詰められて爆発したのは信憑性は置いといて松永久秀だけなので、現実的ではない策ですね。

っていうか、悪の組織の秘密基地か!

 

というわけで、あの作戦の突っ込みはこのくらいにしておいて、発想は面白かったと思いました。

墨俣城の再現は、ちょっと大きかったかな、と思うけど、柵の中に櫓を立てただけって感じがかっこ良かった。

木戸も映してくれると良かったんだけど、出入りするための木戸もどこかにあったはずです。

 

そもそもの話、当時の城攻めの方法はやたらめったら砦を作って城を囲む、という方法でした。

 

城と砦の違いって何?って話なんだけど、領地があって行政機能があるのが城、戦いのための機能しかないのが砦っていうニュアンスです。

が、日本においては曖昧で結構呼び名は混ざってるし、砦よりも簡易的な陣も規模によってはドラマの墨俣城の様な形になるので、現地見に行くと楽しいよ。

地形がね、良いとこにあって戦場が良く見えるんだわー

 

って、話が逸れたけど、じゃあ砦を作ってどうするのか、というと、攻められる側(防衛側)にも砦や支城があって、支城って何だって話は砦のバリエーションの一つだと思っておけば良いんだけど、攻める方の砦は防衛側の砦の連携を切ったりする等の防衛側の支援を絶ってじわじわ追い詰めるのです。

 

防衛側はそうならないように支城と連携して攻撃側を挟み撃ちしたり、他からの援軍を待って挟み撃ちしたり、長期防衛に耐えて敵が退くのを待ちます。

攻める側も金や兵糧の負担が大きく、また農民も戦に参加してるので農繁期は帰りたがるし(論争有り)、戦国だからあまり拠点を手薄にしていては別の勢力に攻められてしまうので、耐えてれば攻撃側は帰ります。

 

城や砦って防衛側にものすごく有利にできてるから、そこを無理に攻めると攻撃側にめちゃめちゃ被害が出るのです。

 

というところで、ドラマのように手薄になるよう囮を使って北方城を攻める策があったり、手薄になったと見せかけて敵を引き入れて罠にかけるという策があったりするわけですが、北方城の件もフィクションかな。

 

突然森可成(もり よしなり)って武将が出てきますが、今までもずっと信長の重臣が集まる中に混ざって登場していました。

どんな人かというと、森蘭丸のお父さんです。

「どうする家康」では小牧長久手の戦いの負け役で森長可(ながよし)が出てきましたが、森長可は次男、蘭丸は三男です。

 

森氏は元々斎藤方(土岐氏)の家臣だったけど、可成の父が織田に寝返り信長の家臣になりました。

通称は三左衛門。

可成は信長の忠臣となり、織田の内紛でも終始信長に仕えて敵になった柴田勝家も撃退しました。

たぶんイケメン。息子が信長の小姓になってアーッになってるので。

蘭丸のお父さん、槍の名手で異名が「攻めの三左」って、下ネタか!

 

信長からの信頼も別格で一門衆レベルだったけど、信長包囲網が敷かれて多くの敵が一斉に織田領に侵攻してくる中、浅井朝倉と延暦寺の連合軍を数日間食い止めて足止めし、討ち死に。

 

長男は可成が死ぬ前に金ケ崎で討ち死に、次男は小牧長久手で討ち死に、三、四、五男は本能寺で信長と共に討ち死にという凄まじい家系です。

六男忠政が大名となり、その家系はいろいろあって赤穂事件の後の赤穂藩主になって今も続いています。

 

続きまして、美濃三人衆についての解説をば。

衝撃的なことを言いますと、美濃三人衆は美濃三人衆と呼ばれてませんでした。

正確には西美濃三人衆と、”西”がつくわけですが、三人一緒に織田に寝返って、斎藤氏滅亡後に織田方に寝返ってその後も有力なポジションを維持したのがこの三人だったので後年に”西美濃の三人衆”等呼ばれるようになり、講談などで美濃三人衆と一括りに呼ばれるようになりました。

 

なので、斎藤氏の重臣同士ではあったものの、他にも斎藤氏の一門衆や重臣たちがおり、美濃三人衆が他の重臣たちに比べて特別仲良くまとまっていたり、特別強い力を持っていたわけではありませんでした。

 

あれよ、高校生になった時に同じ中学出身のやつがいると特別仲良くなくても”○中のやつら”ってなる感じよ。

 

だから、ドラマとか小説とかゲームとかで秀吉が”美濃三人衆を調略してくる”っていうのはそもそも美濃三人衆って呼称が無いのだから設定が破綻してるわけですね。

 

でも、元々敵だったとこに寝返ってるし、領地近いし斎藤滅亡直後は必然的にある程度協力しなきゃいけない仕事あるから揃って動くことも多かっただろうし、旧斎藤家出身の武将の中では有力だったことは間違い無いし。

 

この三人はやがて別の戦場で活躍することになり、その後の人生もバラバラです。

 

美濃三人衆、稲葉良通(一鉄)、氏家直元(卜全)、安藤守就の三人です。

 

稲葉良通はゲーム等では一鉄って名前で表記されることが多いけど、KOEIの信長の野望が表記を統一したので良通の方も知れ渡ってきました。

信長の野望は武将の表記を諱にするか一般的によく知られてる呼称にするか設定で選べるようになったのです。

前田慶次も前田利益になってるし森蘭丸も森成利になってるのよ。

 

で、この稲葉良通、春日局の祖父(外祖父で義祖父)なのです。

ちょっと血縁複雑だけど、血は祖父ポジションで繋がってます。

春日局、三代将軍家光の乳母にして江戸幕府大奥の開祖なので稲葉家も幕府内で高い地位を得るわけですが、稲葉良通嫡流と春日局の夫の系統は別で、嫡流の方は豊後(大分県)の臼杵藩で続きました。

 

よく見たら豊後も大分も臼杵も知らないと読めない字だな。。。

 

稲葉さんは斎藤家臣として織田ともたくさん戦ったし、織田に寝返った後も主要な戦にたくさん参加したものすごく激しい戦歴のある猛将だけど、茶の湯にも通じてるし謀略もできるし、この人すごいのよ。

最終的に孫が大奥の開祖だし。

ウィキ読むだけで伝記小説読んだ気分になれます。

法号の一鉄は頑固一徹の語源になったというから、ものすごく頑固だったんだと思います。

 

次に氏家直元。

こちらもゲームでは卜全(ぼくぜん)という名前で表記されることが多いですね。

一鉄も卜全も寝返って数年後に出家して得た法号です。

ちょっと前の平安とか鎌倉時代の大河では出家はほんとに俗世と縁を切る大事件でしたが、戦国時代は割とぽんぽん出家してますね。

理由としては寺社勢力との結びつき強化や、庶民が崇める寺社の高位の僧となることでの支配力強化、出家=隠居=息子に家督相続だから自分が討ち死にしてもお家騒動が起こらないようにする手配、あらかじめいつ死んでも良いように準備、ファッション出家などいろいろあります。

 

ほら、諱とか通称とかってあまり自分で選べないけど法号って自分で選べるじゃん?

厨二法号な武将も割といるのですよ。

卜全とか。あれ。

 

全部卜い(占い)、運任せ神頼み、そんな意味ですかね。

朝のニュース番組の占いで一喜一憂していそうです。

 

この人も歴戦の人で、大垣城が居城だったんだけど、桶狭間の戦いより前に大垣城は織田に奪われたりしてます。

その後、桶狭間の後に奪い返してますが、つまり、斎藤家の対織田最前線の武将だったわけですね。

墨俣城も大垣城から7キロほどなので、墨俣築城が成功されたら割と氏家さんの責任です。同じ大垣市だし。

 

織田に属した後も戦で活躍するのですが、わずか4年後、長島一向一揆の撤退戦で討ち死にします。

ここで生き延びていたら稲葉さんと同じくらい活躍したでしょう。

子は関ヶ原で中立になろうとしたら西軍に囲まれてやむなく西軍に属すという大失敗をして改易、大阪の陣で豊臣方になって討ち死にしたのでした。

 

なお、稲葉さんの子は関ヶ原でちゃんと東軍に寝返ってます。

 

最後の安藤守就は、意味不明な最後を遂げます。

ドラマでもやっている通り、竹中半兵衛の舅で早い段階から主君斎藤龍興の能力に懐疑を抱いて諫言していた。

対織田戦での活躍は手持ちの史料だとあまり見当たらないけど参戦はしていた感じ。

 

織田に寝返った後は他の二人と同じ様に活躍するんだけど、ずっと信長直属っぽい感じで各地を転戦。なのに追放されるっていう。

本能寺の変の2年前に佐久間信盛がよくわからない理由を並べ立てられて追放されるんだけど、その同時期に安藤守就も林秀貞(信長元服前からの家老)、丹羽氏勝(長秀とは血縁もない別人だけど尾張統一前からの歴戦の家臣)と一緒に、やっぱりよくわからない理由で追放されてしまうのです。

 

このエピソードが信長は実力主義で役に立たなくなった老害を捨てたみたいな感じで言われるんだけど、みんな活躍してたよ。

 

信長の方針に対して異議を言い続けてたのかなあ。

でも遠ざけるなり隠居させるなりすれば良いところを追放なので、このあたりの歴史の闇はとても興味深いところ。

 

ま、本題はここじゃないので話を続けると、安藤守就は本能寺の変のどさくさで失った北方城を奪い返すんだけど、その時北方城を任されていたのは稲葉さん。

稲葉さんと戦って敗死(自害)してしまうのです。

 

一番悲劇的な人生を送るのは、竹中半兵衛のくだりで一番登場回数の多い安藤さんなのでした。

 

というわけで、次回はこの美濃三人衆を調略しにいく話に繋げるために竹中半兵衛が出てきます。

 

が、前回のブログでも書いた墨俣築城無かった説、今回の話は上手く取り入れた感じにできてたと思いますが墨俣築城が無かったなら秀吉は目立った手柄無く(大沢調略も信憑性怪しいし)出世していったことになります。

歴史の闇おそろしやー

 

とりあえず次回もお楽しみに!