大河ドラマの解説コーナー㉟ #どうする家康 | わんわん物語

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~異界から目薬~

家康が上洛する回のです。

 

前回いろんな感動の紆余曲折があって上洛することになりましたが、状況だけ見ると高度な政治駆け引きの着地点というふうに見ることができます。

 

史料に残された部分から当時の人物の感情を作り上げることは創作物の醍醐味ですが、いろんな見方ができるものです。

 

なので、家康を攻めあぐねている秀吉があの手この手で上洛させて形だけでも徳川を臣従させたことをアピールしているという解釈も十分にできるわけで、むしろ史料から解析するとそっちの方が自然な見方だと思います。

 

当時の秀吉の勢力は間違いなく天下一なわけですが、豊臣氏を作り関白に就任してもどのくらい勢力が安定していたか、というのはこれも見方によってなのですが、リアルタイムの武将たちにとってもそうだったと思います。

 

関白になってもはや秀吉は天下人というのは逆で、不安定だった勢力に権威を示すために高い官位が必要だったと考えることもできるのです。

 

表向きは織田の旧領はほぼ秀吉が手中にし、越後の上杉、中国の毛利も同盟というか従属というか。

だけども徳川の態度次第でまだまだ反秀吉勢力は決起するし、それを見込んで秀吉包囲網もがんばっている。

 

結局秀吉が一つずつ切り崩ししていくわけだけど、信長包囲網と違って滅びるまで戦うわけじゃなくて降伏するんですよ。

 

これは、降伏すれば許される程度の反抗とも取れるし、滅ぼすと禍根を残すのと他の反秀吉勢力が必死になるのを防ぐ目的もあるし、挙兵してるわけじゃないけど軽く反抗してる者や表向きは従っていても隙を伺っている者などが決起してしまうのを恐れていたためと見ることもできます。

 

未だ九州や関東、奥州は秀吉の権威が及んでいないわけだし。

 

巨大な勢力と権力を持ちつつも不安定で力を示し続けねばならない、そういう状況だったと思うと家康を上洛させるために相当な労力を使ったと思うわけで、家康もそれをわかっていたとなると小牧長久手の戦いが茶番な感じがしてしまうわけですね。

 

信雄が秀吉と和睦するとさっさと手を引いちゃうし、そこからの駆け引きあれこれ。

実際は秀吉は多方面に出兵して武力も使ってるわけだけど、どうじに朝廷工作を進めて官位をゲットしていって関白になり、家康に妹と母を差し出して上洛させるっていう、なんとももやもやする戦いだったのでした。

 

そうこうしているうちに、ドラマではばっさりカットされていたのが四国征伐。

カットされちゃったので解説しましょう。

 

四国はね、長宗我部(ちょうそかべ)氏がほんとにがんばってたのよ。

ウィキでは長宗我部元親で調べると詳しいのと、小説読むなら司馬遼太郎の「夏草の賦」。

 

長宗我部って変な名字だけども、土佐の長岡郡に宗我部氏がいて香美郡にも宗我部氏がいたから長岡郡の方が長宗我部氏、香美郡の方が香宗我部氏と名乗ったらしい。

 

戦国時代は当主が長宗我部元親で、元親の弟が香宗我部氏の養子になって兄を支えて勢力を拡大していきました。

 

土佐は流刑(島流し)の地で、最も重い遠流(おんる)の場所の一つでした。

辺鄙すぎて鬼国とも呼ばれて蔑まれていましたが、公家の一条氏が守護となっていて京の戦乱を逃れて土佐一条氏の当主が下向してきていましたが、そういう地は現地の有力豪族が力を持って当主に従うのは表向きだけ、実際は豪族がそれぞれ勝手に自領を治めて相争うものです。

 

そんな豪族が土佐には7人いて土佐七雄と呼ばれていました。

長宗我部氏もその一人です。

 

長宗我部氏は一旦滅ぶものの、元親の父国親が岡豊城(おこうじょう、高知城から北東に10キロくらい)を奪還して周辺をまとめましたが桶狭間と同じ年の1560年死去、23歳で家督を継いだ元親はその状態からのスタートでした。

 

そこからの勢力拡大がどんだけ大変だったかは「夏草の賦」を読んでみると良いのですが、一条氏に付いたり離れたりしながらギリギリの戦いで土佐七雄を打倒して土佐を統一、統一すると四国には伊予に河野氏がいてその反対に瀬戸内海を越えて巨大な毛利氏がいる。

 

東側には京都で勢力を失ったとはいえかつて畿内を統治していた三好氏がいる。

 

新たな支配者の信長に会いに行ったら鉄砲はたくさんあるわ鎧は最新式の当代具足だわ城には多門櫓や石垣があるわ、四国より遥かに高い文化レベルにびびる描写が「夏草の賦」に出てきます。

 

なのでそれを目指してがんばろうと思うのですが「鳥なき島のコウモリ」、鳥がいない島ではただ飛べるだけのコウモリが威張ってると言われてしまったり。

 

それでも明智光秀の重臣斎藤利三の妹を妻に迎えたりして信長に寄り添いつつ四国統一を目指すのに、複雑な外交関係の結果で織田に攻められることになってしまいます。

 

三好を倒すにあたって織田と結んでいたのに織田の敵の毛利とも結んでしまったとか、三好の一部派閥は織田傘下に入ったのにそれとも引き続き敵対したとか、四国統一を焦って判断を間違えちゃったのね。

 

これが本能寺の変の原因の一つとも言われていますが、信長の四国攻めは本能寺の変でなくなりました。

 

ところが、更に判断を間違えて織田の後継者争いで柴田勝家に付き、そのまま秀吉包囲網に参加。

四国の敵対勢力を撃破してほぼ四国統一したものの、小牧長久手の戦いが落ち着いた後は秀吉に四国征伐されてしまうのでした。

 

ここで活躍(?)するのがマンガ「センゴク」の主人公仙石秀久なわけですが、長宗我部軍は初戦では仙石さんの軍勢と一進一退しますが本隊が来ると圧倒的な兵力差でわずか2ヶ月ほどで降伏し、せっかくほぼ四国統一したのに土佐一国になってしまうのでした。

 

その後は秀吉の九州征伐軍に加わるも、例の仙石さんが戸次川の戦いで惨敗、仙石軍にいた元親の嫡男信親は討ち死にしてしまいました。

 

信親、名前からわかると思いますが、信長から字をもらってます。

なのに織田から攻められるなんて。

 

元親は関ケ原の前に死にますが、家督を継いだ四男盛親はやっぱり判断を間違えて西軍につき、大坂の陣でも大坂方について長宗我部氏は滅亡します。

 

なんとも不運な長宗我部氏ですが、麒麟が来るでも語られず今回の大河でもさっぱり語られないので解説してみました。

 

家康の上洛は四国征伐が終わった状態です。

既に九州にも派兵しています。

 

四国征伐のオーバーキルもだけど、上洛の際の陣羽織の件は、名将言行録だっけかな。

違うかもだけど諸大名にそんなやらせで権威をアピールしてたわけです。

 

家康は駿府に帰り、真田昌幸と面会して、小松殿が出てきました。

稲姫、真田信之に嫁いで小松殿と呼ばれるようになりますが、ゲーム「戦国無双」では主人公キャラでも出てきます。

 

本多忠勝の娘で、物語などでは真田との戦で本多忠勝が信之の武勇に惚れ込んで娘を嫁がせたとかありますが、大河ではその設定ではないのですね。

 

ウィキを見ると家康の方が真田を従わせるために重臣本多忠勝の娘を嫁がせたとありますが、大河では真田の方から徳川を信用する条件として娘をよこせと言っていました。

 

まあ、結果は同じなんだけど、こういうのはどちらが言い出したかでどちらに企みがあったのかが変わるから入れ替えてはいけないと思うのですが。

 

富士遊覧も家康が誘ってることになってたし。

 

なお、この頃の信之は字が信幸で、幸の字を捨てたのは昌幸が関ケ原で西軍について信幸が東軍について、父の助命と信幸が徳川大名であるために父の名前の幸の字を捨てたそうな。

 

真田さんも信繁(幸村)が大坂の陣で長宗我部盛親と共に戦うことになるので、大方長宗我部氏と同じ方向になる家ですが信之ががんばるので幕末まで大名でいられました。

 

そんなところで次回は稲姫結婚の話なのでしょうか。

サブタイトルは「於愛日記」となっていますが、ググってみてもそんな日記は出てこないので、どうなるのでしょう。

 

とりあえず出てきた石田三成はスルーしておきますが、次回もお楽しみに!