大河ドラマの解説コーナー㉒ #どうする家康 | わんわん物語

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~異界から目薬~

先々週ですが、長篠の戦いの回の解説です。

まただいぶ遅れてきてもうた。

 

副題が「設楽原の戦い」で、なぜわざわざ言い換えたのかっていうのは新しい描き方したよってことなんだと思うけど、あ、深読みすると昔の解釈に戻したよ、ってことなのかも。

 

合戦の名前は今では歴史用語になってるので統一されてる感じなのですが、細かい研究分野、当時の敵味方による呼称の違いなどで呼び名が異なることがあります。

 

長篠の戦いも主戦場は設楽原(したらはら)と有海原(あるみはら)で、長篠は主戦場の武田陣側の後方で包囲籠城戦してた長篠城の部分です。

 

設楽原の戦いを長篠戦いと呼ぶのはニュアンス的には主戦場じゃなくて包囲されてる城の名前をつけるって意味では桶狭間の戦いを大高の戦いと言ったり姉川の戦いを横山の戦いって言うようなことになるけど、長篠の戦いの方が史料的に長い間スタンダードな呼称だったのでこっちの名前が歴史用語になったわけですね。

 

ドラマは織田軍が徳川軍に合流し、軍議をするところから始まります。

 

まずは落城寸前の長篠城を救うために武田の砦を奇襲する案を出すのですが、史料的には酒井忠次が提案したところ信長が罵声を浴びせて却下、軍議の後に密かに酒井忠次を呼び出して「敵のスパイがいるかもしれなかったから」と言って改めて奇襲を命じた、とされています。

 

この部分はドラマでは家康が提案し、上手く乗せられて自分が提案したんだから自分でやれ、っていうふうに決死隊を作らされてしまいます。

 

うん。

ドラマでは伝わりにくかったけど決死隊ね。

深夜に敵側面を迂回して断崖絶壁を通って敵の砦を奇襲するので。

 

古文の史料を読む方がドキドキ感が伝わります。

 

そして鳶ヶ巣砦が陥落したところで武田軍は軍議のすったもんだをして進軍を決定。

 

このあたりの時系列は微妙だと思うんだけども、完全に砦が落ちてたら普通進軍しないよね。

裏崩れだし挟み撃ちになるし退路無いし。

 

史料的にも鳶ヶ巣砦陥落の時間は曖昧なので、設楽原で戦ってる最中に落ちたんだと思うんだけど、最新研究的にはどうなんでしょう。

 

ともあれ、長篠の戦いというと信長の鉄砲隊に突撃してバタバタ倒れる武田騎馬隊っていう描かれ方ばっかりになっていたのを鳶ヶ巣奇襲をやってくれて良かったと思います。

 

が、やっぱりその後の部分ですよ。

 

信長公記で楽勝な感じに書いてあるのでそういうイメージは根強くあるんだけど、数多くの研究によって現在進行系で長篠の戦いの見方は変わっていってます。

 

最近の研究は上述の「なぜ武田軍は進軍したのか」というのを目にすることが多いのですが、長らくテーマになっていたのは

 

・鉄砲三段打ちはあったのか、可能だったのか

 

・鉄砲3000丁って数は合ってるのか、実際はどのくらいだったのか

 

・武田の騎馬隊ってあったのか

 

というところで概ね論争は終わっています。

 

三段撃ちについては不可能だけど組分けをして入れ替わり立ち替わりの射撃をしていただろうということで、これはドラマでもそんな感じでした。

 

3000丁に関してはそのくらいあってもおかしくはないけど1000丁以上は確実にあって2000丁なら十分あり得るとのこと。

 

そして問題なのは騎馬隊について。

 

部隊の単位や兵役の単位として、一つの家に槍何人、弓何人、馬何人という割当と、武士一人に対して槍持ちや小者が複数人付きます。

 

で、騎馬というのはその部隊で上級の地位にある人達です。

 

自分の領地から多数の兵種とスタッフを連れていって、それらをどこかに置いて数人の騎馬武者だけ連れて誰かの指揮下に入るなんて編成が可能なのか、という論争です。

 

例えるなら、フェスやるのにたくさんのバンド集めたけどバンドでのライブはせずにボーカルだけのユニット、ギターだけのユニットとかできるのか、ってことなんだけど、可能は可能だったそうで。

 

あと可能なのは良いとして、史料にも騎馬隊の存在自体は確認できるけど、それが一般にイメージする騎馬隊なのか、ってところは別だと思います。

 

少なくとも武田軍がほぼ騎馬隊だったり、騎馬隊が100人、1000人単位の部隊であることは無いはずです。

 

その騎馬隊の実情に伴って見直されてるのが戦いの様相ですね。

 

戦死した武将の数から、武田軍はたくさんの武将が戦死しているのに対して織田、徳川の戦死が圧倒的に少ないこと、信長公記で楽勝な感じに書いてあることからドラマで信康が「なぶり殺しだ」って言うような一方的な戦であるように思われていましたが、

馬防柵が破られたところ、馬防柵を迂回しようとする武田軍との攻防、柵より前に出て戦う徳川軍等、激戦になりました。

 

馬防柵を用いて、野戦築城という陣を作ったことと鉄砲を部隊として運用したことなど、ものすごく画期的な戦術を使った戦ではありましたが、そのイメージに押されて楽勝だったという見方がなかなかぬぐえないのです。

 

とはいえ、一方で、開戦前の武田軍の軍議では重臣の方からは撤退案が多く、進軍が決まった後に死を覚悟して別れの水杯をしたという記録もあります。

 

突然勝頼が「御旗楯無(みはた、たてなし)も御照覧あれ」っていう謎の決めセリフを言うのですが、武田家に伝わる神具に決定事項を誓うことで、会議の結論は決まったという武田家の決まり文句です。

 

進軍に反対する重臣と、賛成する若い側近とで議論が割れて、勝頼が進軍に決めて「御旗楯無も御照覧あれ」なのでした。

 

いきなり言わないでこっちも常に信玄に言わせておくとか伏線にしておけば良かったのに。

 

こういうエピソードも変なイメージ付けになってしまうのですが。

 

ともあれ、鳶ヶ巣砦奇襲のところまでは良かったのに数多くの研究を無視して50年前のイメージの長篠の戦いにしてしまったのはいかがなものかと。

 

あと佐久間さんも水野さんも活躍してるのであんまり無能な描き方はしないで欲しい。

 

いろいろ思うところのある長篠の戦いの描き方なんだけど、この後の展開へのわざとらしい伏線を作る感じがなんともなんだよなあ。

 

勝頼さんは設楽原から撤退した後、奥三河の田峯城主が配下にいたので田峯城を目指しますが、敗戦の報を受けた田峯の留守居役に入場を拒否されてもう20キロ先の武節まで回って信濃に帰ります。

 

武田四名臣のうち三人が参戦していましたが三人とも討ち死に、重臣も多数討ち死にして武田軍は壊滅状態です。

 

楽しみにしてた分、不本意な感じになっちゃってましたが、長篠の戦いに勝った後はどういう描き方になるか、次回もお楽しみに!