また遅れちった。
先々週の回のです。
鳥居強右衛門が走れメロスやってる回ですね。
鳥居強右衛門、この活躍で英雄となった、雑兵です。
ま、雑兵っていう言葉の定義は置いておいて、鳥居強右衛門の活躍は敵味方共に感動させ、尾ひれがついて多くの史書に記されて盛った伝説がたくさんできました。
詳しくは長篠城で売ってる史料に、ほんとに詳しく載ってるのですが、初版昭和48年の古いものであるため最新の研究結果ではまた違うものかもしれません。
たくさんの史書で細かい設定の違いはあるのですが、強右衛門が武田軍に包囲された長篠城から脱出し、家康の元へ援軍を乞い、既に織田の大軍勢と共に準備中だと知り、長篠城にそのことを知らせるために引き返し、その途中で武田軍に捕まり、助命と引き換えに「援軍は来ない」と嘘の情報を伝えるように言われ、それに反して「間もなく援軍が来るから持ちこたえよ」と叫び殺されるという流れは共通しています。
細かい設定とは、捕まり方だったり、捕まえられた場所だったりしますが、殺され方が磔じゃなくて普通に斬り殺されたというのもあってそれだと残された落合佐平次の旗もダメじゃんというのもあります。
残された史料の多数決で事実が決まるわけじゃないけど、磔刑の伝説も多く残ってるんだからここは磔ということにしておいた方が良いよね。
で、大河では1話分強右衛門が主人公な感じでやってくれてとても良かったと思いますが、ろくでなし強右衛門て。
長篠の勇士をそんな設定にするのはどうかと思いますが、この本に書いてあることから見える人物像は、やっぱり勇士です。
ポイントをまとめると、
・高天神城で同じように脱出して援軍を乞いに行った者は内通を疑われて切腹させられた
・そもそも包囲が厳重で脱出が困難だった
・これらのことから武勇の士でもその役をやりたがる者がいなかった
・そこに名乗りを上げた、もしくは奥平信昌に直接頼まれた
という感じで、もちろん脱出に失敗すれば拷問の上で長篠城の様子が武田にバレてしまうのでこの任務を任された時点で鳥居強右衛門が周囲からかなり信頼を得ていた人物だと思われるので、ろくでなし設定は違和感ですが、物語上の設定としては、まあ、でもそういうとこよ、狙って感動させてる感があるのがずっと違和感なのよ。
と、捕まって突然服脱がされて磔になってその様子が旗になるのは、この話を初めて見た人にわかるのでしょうか。
鳥居強右衛門に感動した落合佐平次という人が旗指し物にしたという絵ですが、これにも論争がありました。
そもそも落合佐平次とは何者かというのと、磔には逆さ磔というのもあるから上下の向きはこれで合ってるのか、というものです。
上記の本には落合佐平次についても書いてあって、当時徳川軍にも武田軍にも似た名前の人がいて、この旗指し物を使っていた落合佐平次は最終的に徳川頼宣に仕えたのだけども長篠の戦い時には徳川方なのか武田方なのか不明だったとして、研究した結果武田の士だったと結論付けています。
が、平山先生のツイートを見ると徳川だった、となっているようです。
上下については論争の末にこの絵の通り、頭が上ということになっています。
頭が上ならば処刑シーンは槍で串刺し、頭が下ならば頭に血が上ってすぐ死なないようにちょっとこめかみを切って少しずつ血を抜きながら長い時間をかけて、何死するんだろう。。。
最終的にやっぱり頭に血が上って死ぬのか、失血死するのか、内臓が呼吸を圧迫して窒息死するとかもあるけど、苦しんだ挙げ句に全身から血が吹き出して目ん玉飛び出てひどい死に方するらしい。
なお、串刺しならば魚とかと同じように肛門から刺すらしい。
ドラマとかではたいてい両脇から差してるけども。
こんな本も持ってます。
こういう本はわんさんのブログと同じで、ネタになりそうな面白いことを最新の研究論文じゃなくて広く伝聞している話をもとに書いてあるので鵜呑みにしてはいけないんだけども。
鳥居強右衛門を主人公とした映画もあるくらいなので、もっと感動的な強右衛門がみたい人は探してみましょう。
というわけで、強右衛門の解説はこの辺にして、ドラマ本編について触れましょう。
冒頭、岡崎の家臣たちは「え、長篠攻められてるの?」みたいに初耳感ばりばりでしたが、三方原後の武田軍再侵攻は前年から激しさを増し、このブログでも何度も触れてるように高天神城からの再三の援軍要請に応えられず見捨てる形になっており、最終防衛点の長篠が標的になっていることは徳川軍全体が緊急に対策を取らねばならないことで、既に高天神が包囲されている時から信長への援軍を頼み、信長待ちの状態でした。
長篠城、電車で行くには豊橋から飯田線ですが、武田領からは山の出口にあたり、まだ景色は山に囲まれているものの街道は平地っぽくなってここから豊橋(吉田城)まで30キロほど。
ここを失うと徳川本領が荒らされていくことになります。
守るのは奥平氏。
こちらも何度も触れていますが、奥三河作手を本拠にしつつも三河においては松平(徳川)に次ぐ勢力で、今川統治時代は一時織田についたような反乱をしつつも徳川挙兵になかなか靡かずに今川方として徳川軍に対抗し、徳川帰順後は酒井忠次麾下で活躍するも武田の侵攻に対しては隠居の定勝に引っ張られて武田に寝返ることになり、信玄死後はいち早く隠された信玄の死に気づいて再び徳川に寝返りました。
最後に徳川に寝返った際には大胆に軍勢まるごと山県昌景の陣から脱出し、追いすがる武田軍を撃退しながらの壮絶な返り忠をしますが、人質は置いてくることになってしまい、奥平信昌は弟と許嫁を処刑されてしまいました。
この許嫁がおふうという名で、以前側室うんぬんの話でおふうという名前について触れたブログで書いたおふうです。
武田軍に打撃与えながら寝返って許嫁処刑されてたらもう武田には戻れません。
武田から寝返るにあたっての家康と奥平定能の間で亀姫の婚約が条件になったというのも信昌の許嫁が処刑されたということが考慮された結果だと思いますが、許嫁は奥平の家老で定能の従兄弟の娘で、3歳下、幼馴染のように育ったはずです。
処刑時は信昌16歳でおふう13歳。
泣ける妄想が止まりません。
このあたりはドラマでは全く触れてませんが、奥平としては寝返った武田にはもう降伏できないという事情以上に若君の許嫁の仇、というのがあったはずです。
あ、なので信昌を殿と呼ぶのは間違いですね。
奥平の当主はこの時点では定能(ドラマに出てきてない)で、こちらは酒井忠次の陣にいます。
本戦では酒井忠次と共に長篠を囲む武田の砦への奇襲隊に参加してます。
なお、信昌の「信」の字、信長からもらった説は現在は否定されて信玄からもらったことになっています。
信長からもらったならばこの時点での名前は信昌では無く定昌です。
信玄からもらったならば徳川についた時に改名するべきだと思うのですが、改名してないのは不自然です。
そもそも武田信玄の諱は晴信で、「晴」は将軍にもらった字だから家臣に与えられず、「信」は武田の通字なので一門衆やよほど手厚く遇したい一族にしか与えなかったので主に与える字は祖父からとった「昌」でした。
まあ、定昌に「昌」与えたら昌昌になっちゃうってのもあるから「信」なのかもしれないけど、それなら昌を与えて奥平の通字の定残して昌定にすれば良いわけで。
「信」が上にあって通字の「定」が消えてるからには「信」は信玄か信長のどちらからかもらったんだろうけど、最新研究で信玄が与えたことになってるなら、徳川に寝返った後は信長から「改名しなくて良い」と追認があったと見るべきではないかと。
で、話を戻して、ドラマでは信長を「援軍に来ないと手を切る」と脅すように呼ぶわけですが、織田と徳川の同盟関係、信長と家康の関係は想像するしかないのですが、長篠の戦いの後には史料に残る部分も出てくるので追々触れていくことにします。
長篠の戦いはほんとにいろんな要素があって、多くの人がイメージする旅順の日本兵みたいに武田の騎馬隊が信長の鉄砲にバタバタ倒されていく戦では無いので語りたいことはいっぱいあります。
次回を見てまたたくさん語りたいと思います。
というわけで次回もお楽しみに!