大河ドラマの解説コーナー⑲ #どうする家康 | わんわん物語

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~異界から目薬~

5月21日の回のです。

信玄が死んじゃうところから始まります。

 

三方ヶ原で徳川軍を撃破した後、進軍して野田城を包囲。

野田城主菅沼定盈は良く守り、1ヶ月ほど籠城戦を耐えましたが武田軍得意の水の手切りによって降伏、開城します。

 

すぐ東側に大野田城というのがあって、こちらは野田城が対今川戦でボロボロになったのを修繕してる間の城だったそうですが、武田が攻めて来た時に菅沼定盈は落ち着いて城に火を放って悠々と退去、野田城で武田軍を1ヶ月も足止めする籠城戦をしました。

 

が、史料では年の混乱があってそれがこの時の話なのかそれより以前に武田が兵を出してきた時の話なのか不明です。

 

野田城は城跡が一応見にいける形に残ってますが、大野田城の方はビビる感じなので慣れない方は足を踏み入れないほうが良いのと、慣れてないと何がなんだかさっぱりわかりません。

 

ちなみに、地名や城の名前についてる大とか小は大きさを表しているわけではなく丁寧語の「お」、ちゃんと意味通りの漢字にするならば「御」なので漢字に惑わされないよう気をつけましょう。

 

典型例は小さくないのに小田原城ですね。

 

で、信玄の死因についての伝説の一つに、野田城包囲中に狙撃された、っていうのがあります。

 

どこからか笛の音が聞こえてきて、それを聴きにふらっと陣から出たところを撃たれたのだとか。

 

まあ、伝説だし、そもそもが西上作戦は信玄が病を押して、っていうことのようなので病死説の方が有力だと思いますが。

 

野田城攻略後に病状が悪化し、甲斐に戻る途上で病死なのですが、史料上、学説上はそうでも真実は闇の中です。

 

真実が野田城包囲中に暗殺でも病死でも帰還途中に病死でも、武田軍が勝利を投げ捨てて引き返し、とりあえず信玄の死は隠したものの3年秘するという遺言は守られず、ちゃんと信玄の確認が取れる前でも勘の良い武将は気づいて行動を開始しました。

 

ドラマでもセリフがあったけど、信玄は死んでも武田軍は健在なのに徳川軍は奪われた領地を奪回しに攻め入り、武田に寝返っていた豪族たちは再び徳川に帰参しました。

 

そう書くと奥三河の豪族たちが節操無いように見えるわけですが、そう簡単でもなかったことを研究して知っています。

奥平氏をかなり調べたので。

 

前のブログでも書いたけど、奥三河の豪族たちは、家康の祖父清康のころは清康に従って今川と戦い、清康死後は今川に帰参し、桶狭間の前は信長の調略によって反今川の兵を挙げたりそこまでしなくても家中で今川派と織田派に分かれて争ったりし、桶狭間で義元が戦死すると徳川に付き、武田が攻めてくると武田に寝返り、信玄が死ぬとまた徳川につきました。

 

真田昌幸ばりの表裏比興です。

 

大勢力に挟まれた境界豪族の性とは言っても生き延びるためにはやむを得ないわけですが、その中でも上述の菅沼定盈は桶狭間の後にいち早く家康に合流し、武田が攻めてきても寝返ることはなかったため家康に大事にされました。

 

野田城で降伏して武田の捕虜となりましたが、人質交換で徳川に返されています。

 

変わって武田に送られたのが、徳川に人質として送られていた奥平さんたち山家三方衆の妻子です。

 

山家三方衆とは、奥平、田峯菅沼、長篠菅沼の三家です。

菅沼定盈は田峯菅沼系ですが野田菅沼という別の家なので別の動きをしていたわけですね。

 

ここで武田に送られた奥平の人質に、長篠の戦いで長篠城を守っていた奥平信昌の許嫁がいたので後に悲劇が起こるわけです。

つまり、奥平は武田に送られた人質を奪還できぬまま徳川に帰参したのです。

 

この時の当主は信昌の父貞能(さだよし)。

なお、奥平氏の通字は「貞」か「定」で読みはどっちも「さだ」なんだけどどっちが正解か不明。

史料ではどっちもあって、こちらも漢字はどうでも良い感があります。

 

この人の生き様が、寝返りを繰り返してるのに信念があって、なおかつ強いっていうが興味あって色々調べたのですよ。

 

子孫は嫡流は九州の中津藩主で幕末まで続き、信昌四男の忠明は松平姓をもらって奥平松平氏の祖となって井伊直孝と双璧の3大将軍家光の後見となりました。

 

これだけ寝返ってるのに家康から絶大な信頼を得ることになったのです。

 

そんな境界豪族たちが決死の帰参をしている中で家康は側室を作っていたのですが、家康側室のお万の方は二人いるので注意しましょう。

 

次男結城秀康を産んだ方が今回出てきたお万の方です。

 

なぜ築山殿は浜松に来なかったのか、っていうのをちょっと説明したような描き方でしたが、この頃の徳川軍は岡崎、吉田(豊橋)、浜松と3軍団になっていたので築山殿は岡崎に置いておいた方がバランス良かったのかな。

 

まあ、三方原の戦いでシリアスな回が続いたのでコメディ回を入れたかったのもあると思います。

 

そして武田勝頼。

 

以前は武田信玄と勝頼の関係はぎくしゃくしていて、本当は勝頼の子信勝が後継で勝頼はその後見だったっていうイメージだったのですが、最近は勝頼はちゃんと信玄の家督を継いでいたということになっています。

 

信玄の後継については一悶着あって、長男の義信は今川義元の娘を妻に迎えていたけども武田が今川との同盟を破棄する方向に進もうとするタイミングで謀反の疑いで幽閉されてそのまま死去、という義信事件と呼ばれる騒動がありました。

 

謀反の動機はまだ研究の途中、というか推測するしかないと思うのですが、経緯は文書等でわかっていて、信玄自身も父を追放して家督を継いでいるので重臣を巻き込んだ長男の謀反は重く受け止めて対処されました。

 

次男は盲目で三男は夭逝していたため四男の勝頼が継いだのですが、勝頼は信濃の豪族諏訪氏の娘諏訪御料人を母としていて、諏訪氏を継いで諏訪四郎勝頼という名前になっていました。

 

諏訪御料人は信玄が諏訪氏を攻めて滅ぼして側室としたもので、ドラマや小説では仇の側室となって葛藤したり、それでも信玄のアタックにどんどんツンデレしていったりの信玄のラブロマンス担当キャラになっています。

 

その息子の勝頼、小学生の頃に図書室で読んだ伝記では、母の生い立ちと、ということは父は祖父の仇ってこと、諏訪氏を継がされて自分は諏訪氏側なのか武田側なのかっていう悩みとかなんか複雑な心境を持った人物として描かれていました。

 

結果論で言えば武田を滅亡させてしまったので、凡将なのに信玄を越えようとして失敗してしまった人になっていますが、武田を継いでから大失敗の長篠の戦いまで2年しかなく、長篠の戦い自体も勝頼の責任よりも信長の策が戦ったこともあって評価は難しいところです。

 

ともかくも、信玄が死んでも戦は終わらず、三河遠江では徳川軍が失領回復しつつも東美濃では岩村城が攻め落とされたりしつつ、長篠の戦いに向かっていきます。

 

次回、予告見てもどんな話かよくわかんなかったな。。。

ともあれ次回もお楽しみに!