大河ドラマの解説コーナー⑱ #どうする家康 | わんわん物語

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~異界から目薬~

三方ヶ原の戦い後編です。

 

プロローグ、前編、後編の3話分使った三方ヶ原、もしかして次回エピローグで4話分かもだけども、見ごたえがありました。

 

ほんとは他の武将の活躍も見たかったんだけどね、本多忠真と夏目吉信という、ここでの壮絶な討ち死にを描くためだけに初回からキャラを立たせて登場させていた武将をちゃんと死なせてやらねばならないからね。

 

この二人は、松平譜代の家臣だからもちろん多くの功績があったんだろうけど、三方原で家康を逃すために壮絶な討ち死にをしたことで450年経った今でも名を残している武将です。

 

本多忠真、たくさんいる本多氏のうち、平八郎忠勝の系統で忠勝の叔父。

 

徳川譜代ってほんと系統が分かりづらいのよ。

 

通常は当主死んでが交代する時は嫡子が全てを継承して、当主の兄弟や子の兄弟は新たな当主の一門衆として臣下になるんだけど、当主がある程度大きな領地を持つと複数の拠点が必要になって自分の兄弟や嫡子以外の子に土地を与えて分家とする。

 

もしくは娘を嫁がせた相手を臣下とした時に姓を与えて一門衆とする。

 

こうして同じ姓で別の家(分家)ができるのだけど、最初は区別の方法として姓の前に土地の名前をつけて松平氏なら大草松平とか深溝松平とかなるわけだけども、時が経つとまたそこから分家ができていくので同じ姓で100年前の祖先は同じだけど血の繋がりはかなり薄い、でも血縁が近いところは家を守るために連帯してるとかで大きな分家ができたところの先祖の名前をとって〇〇系って言ったりするわけです。

 

それが増えすぎると元の姓が隠れちゃって、藤原氏とか源氏平氏とか格式高い文書でしか名乗らなくなってしまうんだけど、徳川家臣はとりあえず同じ苗字で別系統がたくさんいるのに加え、同じ家で複数名活躍して名前が残ってる人も多いのです。

 

例えば、大久保忠世と大久保忠佐の兄弟。

ドラマでは七郎右衛門忠世の方しか出てないけど、信長の野望では二人共登場していてだいたい同じ能力で区別がつきにくい。

でも二人共信長の父の代の戦、蟹江城の戦いで武功をあげて蟹江七本槍に数えられていて、関東移封後は別個に領地を与えられて

別の家になります。

 

石川数正もわかりにくく、数正は家康の側近だけどもポジション的には叔父の家成の方が上でこちらも同じ家で2人出てきちゃってます。

 

酒井忠次が東三河の旗頭っていう設定は出てきましたが、西三河の旗頭になっていたのが石川家成です。

酒井忠次と同じ

ドラマに出てこないけど。

 

ドラマでは平岩さんが岡崎城の責任者みたいになってますが、責任者は石川家成さんで、家成さんは今川滅亡後に掛川城主に任命されるので西三河の旗頭を数正に譲るわけです。

譲ったって表現が正確かわからないけど、家康にとっては数正も家成同等の信頼があったわけですね。

 

で、本多忠真さんは忠勝の叔父で同じ家なわけですが、どの程度の別のポジションがあったのかは不明ですが忠勝の補佐をしていた感じなので名前は挙がっていてもそんなに独立していたわけではないかと。

 

この人が奮戦して家康と忠勝と無事に退却させるシーンは感動の場面なんだけど、知名度はどうしても低いので感動の場面を演出するために最初から出していたわけですね。

 

それと夏目吉信。

ゲームとかで慣れてればやっぱ名前は吉信だと思うんだけど、広次に改名したのを家康に覚えてもらえないキャラっていうのが、幼少のころに深い絆があったけど大人になって岡崎に戻ると名前が変わっていて誰だかピンと来ない、そういう演出の伏線だったのか、と。

 

ウィキペディアによると手柄を立てて広忠の広の字をもらったと書いてあるけど、ドラマでは駿河に送るはずの家康を織田に奪われた責任を取って、死んだ気になっての改名ってことになってました。

 

ちょっと余談だけど、史料を見てるとさっぱり誰のことだかわからない名前が出てくることがあります。

正体不明の人物ですね。

 

例えば夏目広次っていう人物が史料に出てきて、家系図とかわからないんだけど同時代の同地域には夏目吉信って人がいてどうやら身分が同じくらいの仕事をしている。

吉信が死んだって記録が無くてその後、吉信は史料に出て来ず広次って名前がちらほら出てくる。

他に夏目氏でそういった仕事をする身分の人物はいないから、じゃあ吉信が改名したんだ、ってことにする。

 

その考察を後年の江戸時代の研究者がする場合もあるし、現代の研究者がする場合もある。

けど夏目氏の子孫が家系図を幕府に提出する上でそういう風にして提出してる場合もある。

 

いずれにしてもちゃんと信頼できる史料ではっきり改名したという記述が見つからないと真相はわからないんだけど、それをドラマや小説でやる分には、演出の幅が広がりますな。

 

なお、寛政重修諸家譜で夏目吉信の項に広次という名はありません。

 

話を戻して夏目さんが多くの家康の物語に出てくるのは主に2回。

三河一向一揆で一揆側につくも許されてれて帰参するのと、三方ヶ原の戦いでその時の恩に報いようと家康の影武者となり討ち死にするのと、です。

 

こんなに初回からキャラを立たせて出てくることなんか無いと思うんだけど、三方原で影武者になって死ぬ人ってわかってるとね、本多忠真ともども狙いすぎな感じがね。

 

まあ、徳川の家臣団は、生き残った人はみんな大名だからキャラが強い人がたくさんいて、他の大名だったらキャラを立たせないといけない家臣はこんなに多くないので壮絶な討ち死にを感動的にしようと思うとどうしてもバレバレな演出になってしまうんだろうけど、吉信の名前を使った演出は見事だったと思います。

 

その後は空城の計。

空に城を浮かべてバルス!ではありません。

 

三国志を読んだ人なら割とおなじみの、大軍に対して城の門を開け放って敢えて無防備になり、相手に何か罠があるんじゃないかと思わせて攻撃を止める戦法です。

 

具体的にどんな罠があるかというと、出典は三国志だけど、城の兵はみんな逃げ出して空っぽだと思って一番乗り目指したり残った財宝もらおうかと思ってダッシュで突っ込んだら落とし穴どーんとか。

 

一応油断せずに普通に入城したけど、そこで門が閉じられて兵の上に無数の弓兵が、とか。

 

大量の油がまかれていて城に入った途端に火矢が飛んできて全員焼死とか。

 

っていう三国志の話を知ってると空城の計されると警戒しちゃうんだけど、多くの場合は罠なんか無くて、それで相手が攻撃を迷ってるうちに退却したり援軍が来て挟み撃ちしたりしています。

 

日本でやったのはたぶん徳川家康だけだと思う。

 

じゃんけんで「絶対にグー出す」と言われると嘘かほんとか迷うのと同じことだね。

 

で、逆襲の犀ヶ崖は報告のみだったのでそこはちょっと残念だったんだけども、大久保忠世さんたちが武田軍に一矢報いた戦いも古戦場跡に伝承があって、当初の狙い通りの地の利を活かしての夜襲で混乱した武田兵が崖から落ちるっていう戦です。

 

白い布を橋と見せかけて谷にかけておき、夜襲から逃れようとした武田兵がたくさん落ちたそうな。

 

三方原古戦場の写真を紛失しているので載せられないのですが、資料館っぽいところのおばちゃんがいろいろ解説してくれて、三方原関係無いんだけど、聞き間違いじゃなければ小田原城から山中城まで歩いたとか言ってました。

 

グーグルマップで見たら22キロあるぜ。。。

 

わんさんも大高城から桶狭間の戦いの砦5つ回って古戦場ぐるりと20キロ歩いたことあるけども、朝イチから夕方までかかってヘロヘロになったよ。

 

他にも三方原の戦いにはいろんな逸話があるんだけど、気になる方はググってみてくださいな。

 

次回は、信玄死ぬのかな・・・?

 

お楽しみに!