大河ドラマの解説コーナー⑯ #どうする家康 | わんわん物語

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~異界から目薬~

4月30日の回の分です。

信玄が怒る話ですね。

 

ここから家康最大のピンチの一つ、と謎の言い方をされる三方ヶ原の戦い編になります。

戦いの名前は「三方ヶ原」ですが、地名は三方原で、学術的に決まりがあるのかはわかりませんが戦いの名前も三方ヶ原、三方原どちらも使われており、古戦場も地図上では三方原古戦場で、どちらの字でも読みは「みかたがはら」です。

 

ここから3話分使って三方ヶ原の戦いを描いているので解説も3回に分けてできるのですな。

 

概要としては、武田信玄が西上作戦と呼ばれる大規模な西への領土拡大戦略をとり、徳川軍を撃破した戦いで、あわや徳川も滅亡かと思われたものの戦の直後に信玄の病が悪化し、帰途に病死するという小説でもこんなこと起きないぞという劇的な戦になるわけです。

 

3年後に長篠の戦いで織田徳川連合軍が武田軍を撃破するため、姉川の前の金ケ崎みたいに長篠のの前哨戦みたいにイメージしてる人も多いかと思いますが、それは結果を見てそういうイメージになるだけで、信玄死すとも無傷の武田軍は健在で命からがら助かった、という徳川軍にとっては手痛い惨敗となった戦です。

 

この回は、武田の人質となっていた家康の異父弟久松源三郎(松平勝俊)を救出する物語から、武田と徳川が戦に至る過程と武田軍の強さを描いています。

 

が、久松源三郎は今川の人質になっていたのが、今川の家臣が武田に寝返る際に連れていかれてそのまま武田の人質になったということなので、事後に武田と徳川で改めて取り交わしはあったと思いますが家康が直接源三郎に「武田の人質になってくれ」と頼み込んだことは無いと思います。

 

あのシーンはフィクションですね。

 

で、なぜか井伊直政が出てきたりするのですが、後に井伊直政が突然出世して活躍してても不自然にならないようにする伏線でしょう。

榊原康政も小者から特に大きな手柄立てたシーンがあったわけじゃないのにいつの間にか1部隊任されてる感じだったし。

 

そして源三郎は武田軍においてボコボコにされて、救出されて、別に虐げられていたわけじゃなくて他の将兵と同じように訓練されてただけ、と言って武田軍がいかに強兵揃いかということを強調します。

 

が、今川に謀反したての一豪族だった時ならともかく三河守となった家康の異父弟をボコボコにはしないと思います。

家康が今川の人質になってた時の解説でも書きましたが、大きな勢力の人質はVIPなので。

大怪我したり死んじゃったりしたら大問題だからね。

 

ならばなぜ救出したのか。

 

戦になるからです。

戦になったら人質は殺される、というか戦になったら殺すのが目的なのが人質です。

 

これは戦の相手に腹を立てたからではなく、戦になっても殺されないなら他に人質を預けてる豪族がどんどん敵対したり寝返ったりするからで、戦の相手の人質を殺すのは味方が裏切らないようにするための自衛手段なのですね。

 

で、武田は武田で戦の口実を探していて、家康が上杉に送った使者を捕らえて、武田への敵対行為だとして開戦にいたる、と。

 

まあ、既にこの時点で武田は徳川に従属している国境付近の豪族を攻めたり寝返らせたりしてるので既に一触即発だったわけですが、謀略面でも武田の方が徳川よりかなり上手なのでした。

 

わんさんが研究している奥平氏も、今川を裏切るまで桶狭間から7年もかかったのにあっさり武田に寝返っています。

碁盤の上でひっくり返してた「作手(つくで)」の部分ですね。

 

ただ、だからといって節操が無いわけではなく、大勢力の境界にいる豪族では常にどちらの勢力にもつけるようにどちらにも外交チャンネルをもっていて家臣の間でも両勢力の派閥があるわけです。

 

奥平氏の場合は隠居した父と親族衆筆頭が武田派だったので武田の圧力を跳ね返せず寝返ることになり、三方原の戦いでは徳川にいた時の直属の上司だった酒井忠次を3回敗走させて追い回すのですが、戦後に武田軍山県昌景の陣営から名演技でだまくらかして奥平軍まるまる脱出、追いすがる武田軍を撃退しながら徳川に寝返り返ります。

 

そんで再び酒井忠次の軍に所属するのですが、どんな心境よ。

 

と、話がそれましたが、いろんな謀略を駆使して武田は徳川に迫ります。

 

侵攻前に武田信玄が、もっと都に近ければ、もっと田があれば、もっと金があれば、海があれば港があれば、みたいなことを嘆くシーンがありますが、このあたりのことはもっと研究が必要だと思います。

 

西上作戦とごく当たり前のように言われますが、なぜ信玄が西上作戦という戦略に切り替えたのかと考えると疑問なのですよ。

 

織田信長や徳川家康の物語だと、彼らが活躍し始めるころには武田信玄は巨大な勢力ですが、武田信玄が巨大になったのは家康が元服するころなので、信玄の戦略の根幹はよくわからんのです。

 

なぜよくわからんのかというと、上杉謙信っていう何考えてんのかわかんない大名が信玄を阻むからです。

 

甲斐武田氏は、甲斐においては強力で信玄の父信虎の代に甲斐を統一しますが、家臣らの反発があって信玄により追放されます。

追放の理由は諸説ありますが、戦をしすぎて家臣らの負担が増えすぎたため、というのがしっくり来るかな。

 

で、信玄は信濃攻略に乗り出して、攻略を完了するのが家康が元服する頃です。

2カ国の大名となったのは今川や北条に比べるとだいぶ遅い感じですね。

 

その頃に、おそらく織田と秘密裏に同盟を結んでいます。

 

既に今川、北条と三国同盟が成立しているのですが、今川と戦している織田と結ぶ、というのが状況証拠しかないのですが、信長は時期不明ながら東美濃の遠山氏と縁組(後の岩村城の女城主)をし、武田は遠山氏を従属させていまして、信長が今川に謀略をしかけまくっている時期に、奥三河の岩古谷というところでの今川へ反乱に織田の兵が加わるっていう、武田領を通過しなければ実現不能な岩古谷の戦いっていうのが起こるので。

 

織田との同盟は美濃の斎藤道三への牽制ですが、上野(群馬)にも出兵しているし、駆逐した信濃の勢力が上杉謙信に泣きついて失領を取り戻す支援を要請したため、長く上杉と戦うことになりました。

 

どうにもどちらの方向に領地を拡大しようとしているのか定かではありません。

 

が、状況が武田の動きの方向を定めます。

 

織田と斎藤が縁組をすると美濃方面は安定して攻め込めず、南は同盟国今川、東は同盟国北条となり、北から攻めてくる上杉謙信をなんとかすることに集中することになりました。

 

約10年、ひたすら上杉謙信に邪魔されたわけですが、将軍の調停によって戦が収束すると、桶狭間で義元を討たれた今川が家康にどんどん切り崩されている。

で、同盟を破棄して駿河を獲り、ようやく港を手に入れることができました。

 

海が無ければ塩は輸入に頼るしかなく、港が無ければ鉄砲も火薬も手に入れにくいのです。

アワビが欲しかったっていう理由もあるけど。

 

で、駿河ゲットして、次はどこに向かうよ、って話なんだけど、今川との同盟破棄して怒ってた北条も関東管領っていう役職もらって律儀に関東に攻めてくる上杉謙信に手を焼いていたので、対上杉ってことで北条と再び同盟を結ぶことができました。

 

一緒に上杉を攻めるか、遠江、三河の徳川を攻めるか、織田との同盟を破棄して美濃を攻めるか。

 

将軍が信長包囲網を作ったのに参加したという説は近年では否定気味だし、たとえ信長包囲網に参加する、京を目指すのであれば美濃を攻めた方が距離も近いし合理的だと思うのだけど、なんで徳川攻めたんでしょうね。

 

やっぱ隣接する勢力で一番弱そうだったからでしょうか。

 

だとしたら、徳川を滅ぼして京に行くためにはその後織田と戦わねばならず、名古屋、伊勢北部、伊賀を落として、なんてしてると10年以上かかるから西上作戦と言いつつも徳川を滅ぼすまでの戦略だったのじゃないかと思うわけですよ。

 

というか戦略ですらなく、病で死期が近いと思った信玄が、自分の生きている間に確実に武田を強化できるところ、として狙っただけかもしれません。

 

プーチンのウクライナ侵攻もそれかな、って最初思ったりしたけど。

 

上述の武田領には田が無く金が無くの部分はいろいろ議論があって、武田の経済は破綻してたっていう説もあれば、米の代わりに工芸品や武具で税を納めさせる政策で上手く成り立っていたという研究もあります。

 

その本が見当たらないので写真載せられないんだけど、見つけたら載せておきます。

 

そしてなにより、ドラマでも主張してましたが武田の兵は強い。

 

緒戦でも徳川軍をがんがん蹴散らす感じで戦ってくし。

 

まあ、落ち着いて考えると武田が徳川と戦うのなんで?っていうのをドラマでは今川攻めの時からの因縁みたいな感じで描いてたわけですね。

 

次の回からは苦境になる三方ヶ原の戦いが始まっていきます。

 

たくさん話数使ってくれると解説も違うアプローチでできて助かりますわ。

 

一般的には知名度の低い武将を、この戦いで劇的に描くためだけに初回から登場させてキャラを立たせていた伏線が回収されます。

 

次回もお楽しみに!