大河ドラマの解説コーナー⑪ #どうする家康 | わんわん物語

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~異界から目薬~

3月19日の回の分です。

なかなか追いつけない。。。

リアルタイムの放送では明日姉川の合戦なのかな。

 

3月19日のは武田信玄が駿府を落とし、家康が浜松を落とす年なので永禄11年(1568年)、姉川の戦いは元亀元年(1570年)だから2年分だね。

 

それまでの一向一揆から三河統一の4年すっ飛ばすのよりはスローペースだけども。

 

3月19日の回は、冒頭でようやく松平から徳川へ改姓しました。

家系図引っ張りだして得川がなぜ徳川になったのかはスルーしてたけど、以前のブログで書いた通り、その辺の理由はwikiに十分に書いてあるからそちらを参考にしてくださいませ。

 

それよりもポイントは、三河守という官位です。

三河守ゲットにこだわったために改姓までしたのですが、朝廷とかって戦国時代に有名無実になってたんじゃないの?っていうのが実は違うっていうことなのです。

 

微妙なバランスだったとは思うのですが、ゲームのように戦で勝てば相手の土地を支配できるわけではないのです。

なぜ大名に家臣が従うのか、なぜ領民が大名に税を納めるのか、なぜ兵が大名に従って戦に行くのか、そこは鎌倉より続く御恩と奉公の理念だったり、他の勢力からの庇護と引き換えに兵役の義務を負うとか、大きな勢力に自分の領地を安堵(権利の保証)してもらう代わりに、とかいろいろあるけど、朝廷に正式に認められた国主であるというのは土地を支配するのに立派な大義名分になるわけです。

 

現代な感じでイメージすると、金も権力もあって絶大な力でその土地を牛耳ってる人よりも、選挙で当選して市長になってる人の方がその土地のリーダーってみんな思うような感じでしょうか。

 

そして、ドラマの後半でも触れてたけど、三河守という官位を得ることによって力の差はあっても他の大名と対等なポジションになるわけです。

 

日本の一般市民はアメリカ大統領に面会申し込めないけど日本の総理大臣になればアメリカ大統領に面会申し込めるのです。

 

というのが三河守という効果なのと、一説によると今川義元が桶狭間の戦いの直前に三河守を名乗ったというのがあって、三河守は今川じゃなくて家康だぞ、という効果もありました。

 

そうした話からの11話です。

 

田鶴姫が死後に椿姫観音を建てて祀られたことから椿が好きという設定になっていますが、椿を植えたのは瀬名姫との伝説なので、田鶴姫本人が椿を好きだったかどうかはどうでしょう。

 

俗説だけども、椿は花が落ちる様子が首が落ちるのに似てるから武士に嫌われたと言われているので、それが戦国時代からあった風習なら生きてる間は武士の妻として椿が好きっていうのも微妙な話ですね。

戦国時代には無かったかもしれないけど。

 

引馬城(曳馬城)の戦い自体はあっさり落城したイメージですが、田鶴姫伝説を追うと、田鶴姫は奮戦して徳川軍に多数の死者を出し壮絶な討ち死に(壮絶じゃない討ち死にって無いと思う)を遂げたらしい。

 

包囲から落城まで1ヶ月未満なので攻城戦はこの頃の徳川軍としてはかなりスムーズな方だったと思うけど、約2年前から進められていた城主飯尾連龍の調略と、露見して連龍が殺されての城内大混乱、かといって新たな城主が来るわけでもなく妻の田鶴姫が頑なに今川にも徳川にも開城拒否っていう、従っていた城兵の胸中はどんなもんだったのでしょう。

 

今川は、義元の祖母の寿桂尼って人が実質的支配者だった時期が長く、女性が亡くした夫や幼い子に代わって政務を執ることに抵抗が少ないようなイメージがあります。

 

イメージがあるだけね。

 

実際どうだったかは今後の研究待ちだけども、だから井伊直虎とか女城主の伝説が生まれるわけで。

 

田鶴姫の伝説の真偽はいかに・・・

 

そして物語は武田との、同盟というか協定というか。

 

武田が駿河を取り、徳川が遠江を取るという約束が取り付けられますが、ここに重要人物が二人登場しました。

 

穴山信伊と山県昌景。

 

穴山さんは梅雪という名の方が有名ですが、この頃はまだ出家してないので僧体なのはどうしてでしょう。

 

山県さんは武田四名臣の一人ですが、武田四名臣も徳川四天王と同様に同格の武将ではなく功績が大きい有名な四人で山県さんはその中でも多忙な役割の人です。

 

主に信玄の側近で、三河遠江方面の従属している豪族の取次っていうかまとめ役っていうかをやりつつ側近の仕事もすれば一軍を率いたりもするし、政務もやる多才な人です。

 

あんな顔してますが、三河の豪族たちがワガママ言ったり豪族同士で揉めだした時に困った感じでなだめに入ります。

 

かと思えば、飯田城から三河と美濃に睨みをきかせていた秋山虎繁と別働隊(徳川から寝返らせた豪族たち)を率いて三河へ侵攻する活躍をしたりしています。

 

武田本軍の対徳川司令官みたいな感じなので徳川の史料にもよく出てきますね。

通称が三郎兵衛なので書状の署名が「山三」だったりします。

 

ちなみに、ドラマでは武田全軍赤かったけど、赤備え(あかぞなえ)っていう部隊がいて、それを率いてたのが山県さんです。

 

全軍赤いわけではありません。

 

武田滅亡後に武田旧臣を家臣に組み込んだ井伊直政が赤備えを引き継いだり、大坂の陣で真田幸村が赤備えを真似たりしていましたが、引き継いだり真似たりするくらい武田軍の中でも赤備えは強力な部隊だったってことですね。

 

で、武田軍は駿府を一瞬で落とすわけですが、こちらの大将は四名臣の一人、馬場信春でした。

が、駿府を落とす前に薩埵峠で武田軍対今川軍の戦いがありました。

 

今川軍は1万5千とか言われてますが、既に重臣たちが寝返っており、大した戦にならずに氏真は退却したそうな。

 

駿府は江戸時代には家康が巨大な城を築きますが、今川時代は政治と文化の中心地な感じで、防衛設備はほぼありません。

京都御所のようなイメージで良いかと。

 

駿府が攻められた際は賤機山の城で防戦する手はずでしたが、今川軍が立てこもるより先に武田軍に制圧されてしまったため、大した防衛設備の無い駿府は一瞬で陥落し、大将の馬場さんは信玄より「貴重な財物があるから焼くな」と命令されていましたが、「財物が欲しくて駿府を攻めたと言われては恥だ」として火をつけた、という逸話があります。

 

が、駿府館は無防備でも近隣の寺は結構堅固だったりするので残党が立てこもらないように寺は燃やすというのは信仰に関わらず戦の常道な気もします。

 

事実、翌年今川の残党に奪取されて再度駿府を攻めた時はなかなか落とせずに降伏させたということもありました。

 

なお、なぜこんなに早く駿府を落としたのに遠江を放置して家康に取られるがままにしてたかというと、北条氏が援軍にきて再び薩埵峠で対陣、これが膠着して動けなくなってたからでした。

 

今回はそんなところでしょうか。

 

次回は掛川城攻防戦、いよいよ今川が滅ぶ、のかな。

リアルタイムの方は姉川の戦い。

榊原さんが活躍するシーンが見られるでしょうか。

 

次回もお楽しみに!