大河ドラマの解説コーナー⑩ #どうする家康 | わんわん物語

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~異界から目薬~

見るのが遅くなってしまったので、3月12日の回の解説です。

側室がどうの、ってやってる回ね。

 

えと、いつの間にか三河統一してる!

 

っていうのが曳馬城への調略と、家康から酒井忠次への「お主は東三河の旗頭だろ」みたいなセリフでわかります。

 

吉田城(今橋城、現豊橋)の攻防はすっ飛ばすどころかもう何もなかったかのように。

 

なので、この辺を解説しましょう。

 

話は桶狭間の戦いの翌年、家康が吉良を攻撃したあたりまで遡ります。

 

半年かけた激戦の末に岡崎の南の吉良氏を降すことに成功しますが、同時に東へも攻め、東には牛窪城(牛久保)に牧野氏、吉田城に今川直臣の城代小原鎮実がいました。

 

吉田城はかつて今橋城という名で、家康の4代前の安祥松平氏が勢力を広めつつあったのに備えるため、今川氏が牧野古白という武将に命じて築かせた城です。

 

その後、戸田氏と争ったり家康の祖父清康に奪われたりしつつ城主が入れ替わりますが、今川が直接攻略して今川の城代が置かれるようになり、東三河支配の拠点となりました。

 

つまり、家康が三河を統一するには周辺の反松平の勢力をやっつけるのと、今川が直接支配する吉田城を攻略することが目標となるわけです。

 

なので、三河統一戦を描くならば吉田城代の小原鎮実との攻防を描くべきなのですが、ここに途中で一向一揆が入ってくるのでもう時系列がどうなってるのか、関連する史料の信憑性はどうなのかでよくわからなくなるのです。

 

その辺をどう描くか楽しみにしてたのに。

 

で、小原さんは早々に東三河の豪族たちの人質を処刑します。

これが永禄4年(1561年)、つまり桶狭間の翌年であり清洲同盟があって吉良攻めを開始した年なので、家康挙兵と共に三河の豪族の多くが家康に寝返ったと見るか、今川の方で三河の信頼の薄い豪族はもう敵と見なしたと見るか、順序がどちらかは不明だけど小原さんによる人質処刑によって多くの三河の豪族が松平方となりました。

 

このあたりの考察は、古い史料だけども長篠城で買える本にあります。

メインは長篠の戦いの際に処刑された奥平の人質の話だけども、最後の十三本塚の話の部分で家忠日記や寛政重修諸家譜等の史料と現地調査から特定した十三本塚に埋葬された人質の一覧があり、どの豪族がどのタイミングで松平に寝返ったかの参考になります。

 

 

寝返ったタイミングは史料によってまちまちで、特に三河の松平に次ぐっていうかほぼ同等の勢力を持っていた奥平氏の寝返ったタイミングは永禄4年説と永禄7年説があって、この本では永禄7年説をとっていますが個人的にも永禄7年説です。

一向一揆の前に松平についてたなら一向一揆であんなにピンチになるまい。

 

ともあれ、自前で作った時系列があるのでそのままコピペしてみますね。

主語が無いところの主語は家康で。

 

永禄3年
5月19日 桶狭間の戦い
5月20日 大樹寺へ入る
山田景隆、岡崎を捨てて逃亡
5月23日 家康岡崎城入城
6月
梁瀬九郎左衛門(足助鈴木家臣?織田方)が日近久兵衛(奥平氏、今川方)、鈴木九平次を討ち取った
鈴木氏、三宅氏ら(織田方)の挙母、梅坪、広瀬城を攻める
 

十八畷(刈谷城外、石ヶ瀬)の戦い 松平VS水野

永禄4年
2月石ヶ瀬の戦い
2月広瀬川の戦い 稲垣重宗(牧野成定家臣)と松平の小競り合い

広瀬川の戦いは永禄5年2月にも同じのがあるのでこちらは誤りか

ここで牧野と戦端開くの意味不明だし


清洲同盟

3月板倉重定(八幡城)を攻める→酒井忠次、深溝松平の活躍、深溝松平に板倉領の中島城が与えられる
4月11日第一次牛久保城(牧野氏)の戦い 撃退される
4月15日吉良義昭を攻める 善明堤の戦い 完敗
4月上旬 梅ヶ坪の戦い 織田VS今川 このタイミングで梅ケ坪で織田と今川の戦は無いと思うので誤りか
5月西尾城(牧野氏)の戦い 荒川義広(吉良氏)が松平に寝返り落城させる
5月28日富永口の戦い 松平VS牧野

7月中山の戦い 朝比奈氏(今川)が松平に寝返った西郷氏の城を攻略

7月野田城の戦い 小原さんが松平に寝返った菅沼氏の城を攻略
7月6日長沢の戦い 小原さんの子が守る城を攻略、討ち取る 渡辺半蔵大活躍
9月13日藤波畷の戦い ドラマでは清須同盟からここまでの間をすっ飛ばして東条城燃えてた
10月嶋田城の戦い 奥平氏(今川)が松平に寝返った菅沼氏の城を攻略

永禄5年
2月4日 上之郷城の戦い 大河ドラマでやってた忍者大活躍の
2月 白鳥山、武節城の戦い 松平軍が今川の城を攻めた 勝敗不明 たぶん落とせてない
2月 広瀬川の戦い 上記永禄4年にやったやつ、ほんとはこっちだと思う
9月22日大塚城の戦い 牧野氏が松平の城を攻略

9月25、29日八幡砦の戦い 松平が板倉氏の砦を攻撃して撃退される ここで渡辺半蔵が奮戦して「槍の半蔵」の異名ゲット
9月29日御油台の戦い 今川との戦いで酒井忠次が敗走
11月大代口の戦い 奥平氏を攻めるも撃退される
永禄6年

1月~永禄7年春 一向一揆
3月 第二次牛久保城の戦い これが三河統一戦のクライマックス

今川本軍の援軍1万5千が入り大激戦の末、家康が2000騎を率いて駆けつけて今川軍を撃退

どういうことかさっぱりわからない上に永禄5年説もしくは永禄7年説が

そもそも一向一揆の最中に城攻めできないでしょ、っていう史料の混乱が

永禄7年の一宮の戦いと混ざってそう


5月 御油口片坂の戦い 松平と今川の野戦 勝敗不明
 

永禄7年

1月一向一揆収束

奥平氏ら奥三河の勢力が家康に寝返る(中津藩史による)

5月一宮の戦い

6月10日~吉田城攻め

 

永禄8年

3月吉田城開城

 

西郡局が次女を産む
 

と、こんな感じに、大激戦じゃんか!

 

一般的なイメージでは今川氏真は暗愚でどんどん家臣が家康に寝返って、あれよあれよと追い詰められて滅ぶ、みたいな感じだと思うんだけど、家康が三河を統一(統一の定義は置いといて)するまで挙兵から4年かかっています。

 

最激戦は永禄7年の一宮の戦いだと思います。

一宮は三河一宮の砥鹿神社で合ってると思うのですが、吉田城を包囲するための戦いで、今川氏真自らが12000の軍勢を率いて援軍に来たとか、中津藩史によると武田信玄に追放された父の武田信虎が8000の兵を率いてたとか、それに対し家康が自ら2000の

兵で駆けつけて撃退したとか、寝返ったばかりの奥三河の軍勢も参加したとか、史料ごとに部分部分を集めないと全容がよくわからんので誰かまとめて欲しい激戦です。

時系列の方にも書きましたが、第二次牛久保の戦いと混ざってそう。

活躍した武将と討ち死にした武将が違うから違う戦ではあるんだろうけど。

 

これ以前の三河の激戦も家康がいたりいなかったり、大将が松平分家だったり酒井忠次だったり松井忠次だったり本多広孝だったりいろいろですが、ドラマでやってたのは

 

吉良攻撃→上之郷城落として捕虜ゲット、人質交換→一向一揆→側室うんぬん

 

っていう流れなので、三河攻略の激戦はすっとばされてしまったわけです。

結構すっとばされるところなので、家康が主人公の時くらいちゃんとやって欲しかった。

側室どうの、ってコメディ回だったじゃんか。

 

で、吉田城主に酒井忠次を任命し、東三河の旗頭としたわけで、冒頭の「お主は東三河の旗頭」のセリフで三河統一が終わったとわかるのです。

 

この時点での家康譜代の家臣で城をもらったのが酒井忠次と本多広孝のみ、ってところでこの両名の位の高さがわかりますね。

 

本多広孝は、前の解説ブログでも触れたけど忠勝とは別の本多家で一軍を率いる方です。

忠勝は家康親衛隊の隊長みたいな感じで全然違うポジションです。

 

で、次のターゲットが浜松になります。

浜松城は曳馬城もしくは引間城という名前でしたが、地名は浜松荘。

家康が攻略後にヒクマは馬を引く、退却するにつながって縁起が悪いとされて地名の浜松を城名にしたとか。

ソースがどこか忘れたけど、創作って説も。

 

で、この浜松荘、この時代から50年も前に大規模な争奪戦がありました。

やっぱ浜名湖の利便性と商業価値が高いし、地形的にも守りやすいのかな。

それを激戦の末に今川が攻略。

この戦の参戦武将には戦国時代に活躍する三河、遠江の豪族の祖父、曽祖父の名前が見られます。

 

飯尾連龍の妻はお田鶴(鵜殿長持と今川氏親娘の娘を妻、つまり今川氏親の孫)としているので飯尾連龍は今川の信頼厚い人物ですが、いろいろあって家康に寝返り、バレて殺されます。

 

この側室の話の回はお田鶴が活躍するにあたって戦国時代の女性にスポットライトを当ててみた前振りだと思うのですが、もちろんフィクションです。

 

男が生理的に無理で結婚したくないのなら尼になるのが確実なのに。

 

西郡の局の娘は督姫で、北条氏5代目の氏直に嫁いで、北条氏滅亡後は姫路城主池田輝政に再嫁します。

督姫の実名は「ふう」と池田氏の史料にあるとのことですが、「ふう」は女性の名前としてめちゃくちゃいっぱいいるのであまり信用してません。

 

「おふう」で検索して出てくるのは長篠の戦いの際に武田の人質になっていて処刑された奥平信昌の許嫁(奥平分家の娘)だけですが、いろんな文献にいろんな女性の名前で出てくるのでかなりメジャーな名前であったか、メジャーな名前だからこの時代の女性で名前がわからない人はみんな「おふう」にしてしまったか。

 

もしくは長女はイチ、次女はフー、三女はミーみたいな。

太郎、二郎、三郎なノリですかね。

お葉さんは四女でしょうか。

 

西郡の局の名前は創作だと思います。

もちろん性同一性障害と伝わっているわけでもなく、ウィキによると1606年、徳川幕府成立後までちゃんと側室として生きています。

 

結局コメディな上にほぼ創作なのでなんだかわからない回でしたが、激戦をすっとばして物語を浜松攻略まで進める穴埋めだったのでしょうか。

 

家康はちょいちょい岡崎に戻ってたっぽいし、配下の武将、寝返った豪族らが各地で戦ってたから家康がどこにいたかわからないのもあるし、でも人質の話を大事にしてたなら小原さんの悪逆ぶりとその攻防はやって欲しかったなあ。

 

冒頭でも書いたけど氏真はあまり出陣してないから家康と今川の戦はだいたい小原さんとの攻防なのに。

 

というわけで、見られてないうちにリアルタイムでは今川家滅んでるっぽいのですが、ちゃんと録画してあるので見たらまた解説ブログ書きますよ。

 

というわけで、次回もお楽しみに!