大河ドラマの感想コーナー⑧ #どうする家康 | わんわん物語

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~異界から目薬~

ちょっと掛川まで行ってたので見るのが遅くなりました。

何しに?ってもちろんお城見に、です。

写真まとまったら解説付きでインスタにアップするのでお楽しみに。

 

今回は三河一向一揆、前半か序章かみたいな話でした。

 

冒頭で家康が論語を暗唱しているんだけども、こんな本があります。

小和田先生の本です。

 

戦国時代の人はどんな本読んでたんでしょう、というのを史料に基づいて研究した内容です。

 

昨年大河の最終回でも家康が吾妻鏡を楽しく読んでいるシーンがありましたが、戦国以前の軍記物は多く読まれていたし、四書五経をはじめとする中国の書籍も幅広く読まれていました。

 

貧しい豪族から槍働きで領主になった者ならともかく、VIPとして人質であっても高等教育を受けていた家康は論語の暗唱など九九を言うが如くだったと思われます。

 

ちなみに、わんさんは法政大学の史学科で中国史ゼミのゼミ長やってましたが、辞書無しで漢文のままの論語読めないし読めても正しい解釈できません。

 

大学生程度のレベルでは読むのが困難な書物を大量に読める当時の知識人階級のレベルがいかに高かったか、ということですが、それは同時にその知識人である僧と気軽に触れ合える一向宗がどれだけ魅力的だったか、っていうイメージの補助になると思います。

 

というわけで一向宗こと浄土真宗、多くの人(家)が浄土真宗に属していました。

 

名前の付いてる一向一揆だと、三河の前に15世紀から加賀一向一揆と越中一向一揆があり、加賀では領主を倒して「百姓の持ちたる国」となりました。

 

浄土真宗の対領主への一揆だから指揮するのは僧なのに「百姓の持ちたる国」とは面白いながらも実態を指す表現なのだと思います。

 

加賀の一向一揆が越中へ流れ込み、加賀一向一揆から独立する形で越中一向一揆ができました。

こちらは越中の守護代を倒すまでには至らないものの、100年近く拠点を維持して上杉謙信に討伐されるまで続きます。

 

加賀の一向一揆は100年以上続き、本願寺本体が信長と和睦して解体された後に織田の北陸軍に制圧されました。

 

16世紀になると京都でも度々一向一揆があり、こちらは領主への一揆ではなく他の仏教宗派との宗教戦争が主目的な感じで、もちろん民も領主も巻き込むんだけど、畿内における本願寺の地位を高めるための一揆で、勝ったり負けたりして最終的に大阪本願寺が出来上がります。

 

で、これらの話は家康が生まれる前の話なので当時の人は皆知ってるわけで、だから家臣たちは寺には手を出すなと言っていたわけです。

 

なお、一向宗でなくとも当時の寺は独立した武装勢力な感じで、領主と敵対すればその領主と敵対している別の領主へ味方したりするので上手く付き合わないといけなかったようです。

 

有名なのは武田信玄が出家した理由の一つに寺社勢力を懐柔するためっていうのがありますが、寺社側と敵対すると良いことはないようで。

 

結構どの武将も戦をする時には寺を焼いてるし、寺を占拠してそこに陣を構えたりしてるし、行軍してたら僧兵が阻んできたりするし、寺ってなんなんでしょうね、って調べると奥が深いのです。

 

そしてやっぱりイメージしにくいのが、当時の人(武士も農民も全部含めて)の宗教観ですよね。

 

自分の家の先祖代々のお墓がある寺が国の命令に従わずに挙兵したらそれに加わるか、ってところです。

たとえ隣近所の人と戦うことになっても、会社辞めて反乱軍に加わるっていうイメージがなかなかできません。

 

三河一向一揆の特徴は、さらに公務員までもが反乱軍に多数加わったってところで。

 

もちろん現代で自分は無宗教だって言ってる人でもお墓参りには行くし友人や親戚が無くなれば葬式するし、初詣行くし節分に豆まいて子供がいればひな祭りやって鯉のぼり上げて、七夕には短冊に願い事書いたりするわけで、無意識に何か宗教的なことはするんだけど、当時はエンターテイメントがそれしか無かった、と想像するとなんとなくわかりそうな気がしそう。

 

エンターテイメントだけじゃなく、生活の大部分が寺基準だった、と特に出典は無いけどそう想像してみるとわかりそう。

農業とそれに関する祭事から寺が日常生活とどれだけ深く関わっていたか、っていう点ですね。

 

もしくは生死観から、死んだ後の自分や身内の極楽往生っていうところなのだろうか。

 

三河の一向一揆の、家康の家臣が多数参加し、それに呼応して三河の敵対勢力である桜井松平や深草松平、吉良などが攻めてくるっていう家康大ピンチにはだいぶ違和感があるんだけど、最大の謎は今川本軍が来なかった、ということじゃないかと思います。

 

三河一向一揆の後の有名な一向一揆は長島(三重県)一向一揆と越前一向一揆がありますが、長島一向一揆は本願寺が信長と戦を決めたため蜂起した一揆で、信長に敗れた残党が多数参加したもの、越前一向一揆は信長に降伏した朝倉家臣の勢力争いから発展したもので、どちらも地理的に織田の譜代家臣が裏切って参加する要因は無いものでした。

 

三河一向一揆が家康の本拠で起きたっていうのが恐らく三河の実態を表していて、他の国では加賀以降はそういった大規模な一向一揆が無いことから、三河一向一揆は民衆の三河統一への反抗だったと考えられるのではないかと。

 

だから、この時点では三河には絶対的な領主はおらず、統一されることに対して反発が大きかったんだと思います。

 

それに加えて反松平が多くいて、当時は攻め込むにあたって相手の領地で一揆を起こさせるっていうのはメジャーな手段だし。

 

ただやっぱり家康の家臣が多く参加してしまったというのは腑に落ちないところで、家康の家臣統率力が弱かった、君主としての影響力よりも、長く君主不在で日常生活の寺の影響力の方が大きくなっていたっていうところなのでしょうか。

 

それでも、ずっと今川の植民地で対織田の最前線で戦に駆り出され、税も多く取られて貧しい生活をずっと耐えて、やっと家康が岡崎に戻り、今川に反旗を翻して三河統一に乗り出すところで一向一揆に参加するのはどうにも矛盾していると思います。

 

やはり、家康が進める急激な三河統一に伴う生活の変化に対する反発なのかなあ。

自分は家康に忠誠を誓っていても、親が、親族が、領民が寺に従うことを望むと苦しいことになるのでしょう。

 

ドラマでの描写は三河物語にあることを結構再現していて、かつての仲間と戦うことへのためらいや、旧主を追い詰めても攻撃できずに自ら殺されるシーン、家の宗派と自分が仕える松平氏との板挟みなど、見どころは多くありました。

 

ただ、本多正信が軍師だったかはどうでしょ。

この時点での本多正信の評価が、嫌われていたという雰囲気はあっても他にも同格やそれ以上の家格の武士が参加してる集団で軍師とするほど知恵者という評価があったのかわかりません。

 

隆慶一郎の「影武者徳川家康」では、一揆内の事務や揉め事の調整をしているうちにまとめ役みたいになったっていう表現があるけど、その出典は不明っていうか創作だと思うので。

 

あと、一揆に参加した人に服にひらがなで「なむ」と書いてあったのは、どこかに出典があるのかな。

 

武将の手紙等で武将がひらがなを使っていたのはわかるんだけど、だからと言って現代のように漢字よりひらがなの方が識字率が低い時代に読みやすかったかというとどうなんだろう。

 

仮にひらがながあっても、現代人に読みやすいはっきりとした「なむ」ではなくてくずし字のやつだと思うけど。

 

とりあえず今回の解説は、解説っていうか考察だったけどここら辺で。

 

明日は引き続き三河一向一揆、苦しい戦いが続きますがお楽しみに!