大河ドラマの解説コーナー⑥ #どうする家康 | わんわん物語

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~異界から目薬~

今日はリアルタイムで見られました。

先週に引き続きの瀬名奪還作戦です。

 

っていうか今更なんだけど、瀬名姫の瀬名っていう名前がめっちゃ疑問です。

信長の妻の帰蝶もだけど、女性の名前は本当かどうか、証拠が少ないのです。

昨年大河の北条政子ですら教科書に載る人なのに、生きている間に自分でそう名乗った証拠、他人からそう呼ばれていた証拠がありません。

 

具体的に証拠とは何か、というと、文書に自分で自分の名を署名したものがある、他人からの文書の宛名や文中に名を挙げられている、家系図に名前が書いてある(女性はまず書いてない)といったところなので、それらが無いとわからないのです。

 

有名な例外は秀吉の妻のねねさんで、こちらは信長と文通してるのが残ってて「寧」となってるから、ね、ねい、おね、ねね、といった呼ばれ方だったと想像できます。

 

では、名前はわからないとしてもどう呼ばれていたか、というのはわかります。

一次史料(その時代にリアルタイムで記された史料、主に日記や手紙、覚書等の文書)でちゃんと確認してはいないんだけど。

 

主にはその女性の出身地や住んでる土地名、建物名。

なので瀬名姫が築山殿、築山御前(住んでた地名)、もしくは駿河御前(出身地)と呼ばれていた、というのはウィキペディアにも書いてあります。

 

今川氏真の妻は北条氏康の娘で早川殿といいますが、こちらは住んでた建物の名前ですね。

ただ、早川殿と呼ばれたのは今川氏が滅んで一緒に北条氏の小田原へ逃れて早川に住んでからなので、ドラマの現時点で何と呼ばれていたかは不明です。

 

まあ、現代でも上司の奥さんは名前知ってても「奥様」としか呼ばないので、戦国時代は家系図に書かなければ、残るのは法名、戒名といった出家後や死後についた名だけなのです。

 

だから戦国ゲームに出てくる女性キャラは法名が多いのです。

 

来年大河の清少納言も、清原さん(父の名字)の娘の少納言(官名)で、清少納言っていう名前だったわけではありません。

 

で、瀬名姫。

 

関口氏純の娘ですが、関口家に養子になった人で、実家の名字が瀬名なのですよ。

自分の娘に実家の名字名付けるやつがどこにいるよ。

 

瀬名氏は兄が当主で桶狭間の戦いの際は義元の本陣設営など重要な任務を任されています。

 

なので、瀬名姫っていう名前はそれを知らなかった人が史料によって家康の正妻は関口氏とか瀬名氏っていう名前の記述を見て、関口は名字で瀬名が名前だ、って勘違いしたんじゃね?って思ってます。

 

うし、言いたいことが言えたのでドラマの解説に入りましょう。

 

今回は上ノ郷城を攻め落として今川一門の城主の息子を生け捕りにし、家康の妻子と人質交換するって話でした。

 

こんな話、フィクションでも想像できねーよ、っていう史実なのですごいですね。

 

ですが、これの前にあるんですよ、人質交換。

 

麒麟が来るの方ではやってたのですが、今川軍が安祥城を攻め落として信長の兄信広を生け捕りにし、織田に奪われていた人質の家康と交換したのです。

 

まさかの自分で体験済みっていう人質交換だったのです。

 

人質交換っていうのはこの後もしばしばあって、武田信玄が攻めてきた時に境界の豪族が寝返ったり寝返り返ったりするのですが、その際にその妻子と、寝返らずにがんばった結果投降した武将と交換したりしています。

 

で、具体的にどういう風にやったか、っていうのが史料で見た覚えがないので、あの人質交換のシーンの出典は何だろうと思ったのですが、横山光輝のマンガの三国志ではあのシーン描いてあったと思います。

 

マンガでは中間地点を過ぎたらお互いに弓を打ち合って交換した敵方の人質を殺そうとしてましたが、ドラマでは氏真さんはものすごい悩んで決意したことなのでそんな中途半端なことしなかったんでしょうね。

 

そして上ノ郷城での攻防。

 

恥ずかしながら上ノ郷城に行ったことはないので写真も無いのですが、今までの城の再現が、結構現地見に行ってると思うくらい良くできてると思うのでリアルな再現になってたんじゃないかと思いますが、橋があったシーンは大高城と同じじゃね?って思ったり。

 

今回はkoei絡んで無いのかな。

 

上ノ郷城での攻防は、史料によってまちまちなのでぶっちゃけよくわかりません。

 

三河物語には「忍びに取らせ給いて」と書いてあるけど、松平記によれば松井忠次(酒井忠次ではない)が兵糧攻めした、と書いてあるし、合戦辞典は改正後三河風土記を参照にしてるけど松井忠次(酒井忠次ではない)が甲賀衆を使って攻め落としたと書いてある。

 

あ、古いけどこんな本ね。

 

が、ウィキペディアでは烈祖成績という史料から家康と竹谷松平清善が攻めたが苦戦して松井忠次が甲賀衆を率いて攻め落としたと書いてあったり、服部半蔵も宇土城(鵜殿城、上ノ郷城)攻めで手柄を立てた史料があったり、誰がメインの戦なのかよくわかりません。

 

松井忠次は有能すぎてよくわからないのですが、東条松平氏の家老で幼い当主の後見だったのがだんだん実験を握ってって、だけど独立して松平の姓をもらって結構一軍を率いて家康本隊とは別の城攻めやってたりします。

 

なので松井忠次が攻めてたんなら家康いなかったんじゃないかと思ったりしますが、本気の時はみんないる徳川軍なのでなんともなんとも。

 

あと、大前提として、徳川軍は城攻めがめっちゃ下手くそです。

楽勝で落としてるのは関ケ原の後の大垣城、佐和山城と大阪城(冬の陣)くらいじゃないかな。

 

忍者使えるなら他の城も忍者使って落とせばいいのに、と思うのですが、上ノ郷城は数少ない忍者使って落とした城とされているので貴重な話です。

 

このあたりの史料、解説コーナー①でも書いたけど記述が少なく具体的な描写も少ないので時代考証がたくさん入っててくれると嬉しいのですが。

 

次回は一向一揆に向けての伏線になる感じかな。

 

あ、岡部さん出てきたから岡部さんについても語りたい!

この人めっちゃ強くてかっこいい人。

義将。

 

でも長くなるから追々に。

 

めっちゃ悪い小原さんは出てくるのでしょうか。

 

もろもろお楽しみに!