大河ドラマの解説コーナー③ | わんわん物語

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~異界から目薬~

水野信元出てきた!

 

というわけで、1回目の解説から「出てこない!」って騒いでた水野さん出てきました。

かなり癖の強い武将で、今後の家康にもいろんなちょっかい出してくる嫌なやつなのに結構活躍するかっこいい人で、最後は謀殺される謎キャラでもあります。

 

しかも子孫は老中になって天保の改革をするのです。

一緒に出てきた母の再婚相手の久松さん、こちらの子孫も寛政の改革します。

 

ドラマでは「出てけ!」って言われてますが、母と水野の血筋は強力です。

 

ちなみに子孫の話でいうと、今回生まれた亀姫は奥平氏に嫁いで長男の家系はそのまま奥平氏で大名だけど四男は松平の姓をもらって大活躍です。

主要な城はだいたいこの四男が作ってます。

今の大阪城とか。

 

で、ドラマの解説を始めましょう。

 

今回の物語は桶狭間から生還した家康が今川を裏切るまでの葛藤がメインでした。

 

広く知られてるイメージだと、桶狭間で今川義元が死んで岡崎に帰った家康が「もう自由だー」みたいな感じで今川から独立し、今まで虐げられた恨みを晴らすように今川を攻撃し始める感じですが、ここのところは謎のまま、っていうか歴史の闇です。

 

当然幕府としては、謀反は重罪なので家康自身が謀反してたってところはものすごくぼかしたいわけで、記録が残ってる大阪の陣のくだりはもう無茶苦茶なんだけど、今川への謀反のところはさらりとごく自然に「義元死んだからこうなるの当然だよね」って感じで流してしまっています。

 

でも反旗を翻すまで1年近くあり、それまでは織田や織田方の水野や鈴木と戦っていて、あっさり独立したわけではなさそうです。

 

ドラマでやってた刈谷城攻めって、あったのか・・・?

刈谷城は先週の解説で書いた通り、鳴海城を義元の首と引き換えに開城した岡部さんが帰りがけに攻撃してったわけですが、その後はどうなってたのかよくわかりません。

 

大樹寺への使者は緒川城から出発したって三河物語に書いてあるので信元は緒川城にいたようだけど。

 

ちなみに水野氏は緒川城と刈谷城っていう境川を挟んで両岸に拠点があって、歩いてみたら40分くらいだったので、刈谷城攻めたら一瞬で緒川城から援軍がきます。

が、奇襲だったら一瞬で来れるかどうかは境川を上手く渡れるか次第なので岡部さんが攻撃した時は川渡れない感じだったんじゃないかと想像できます。

 

なお、この桶狭間直後の松平と水野の戦いは石ヶ瀬川の戦いと呼ばれますが、石ヶ瀬川は境川へ流れ込む川です。

 

刈谷城はこんな感じで土塁が残ってます。

 

城の敷地を歩くとかなり広大な城だったっぽいのですが、急じゃないけど結構坂があって攻めにくそうでした。

奥に見えるのが境川。

川は結構でかいです。

 

緒川城の方は小さい山の上にあるのですが、こっちの方が急で標高も高め。

緒川城からの眺めは遠くまで見通せます。

城跡は小さい公園で国道から普通の住宅地への細い道を入って行ったところにあるので、ぱしゃぱしゃ写真撮ってると怪しい人だと思われそう。

 

と、桶狭間後は松平氏は今川を守るために戦い続けてるのですが、それがなぜ反旗を翻したのか。

 

よく言われるのはドラマでも描かれていたように、一向に今川の援軍が来ないから。

 

一般的に豪族が誰かに従属したり家臣となったりするのは、他から攻められてきた時に助けてもらうためなので、助けてくれないならば主君として仰ぐ必要は無い、ってことですね。

 

ただ、時間が経てば桶狭間での今川の損害がどれだけだったか、っていうのは家康もわかって、とうてい援軍など出せる状況じゃないし、今までの今川の家督相続の例からすればすんなり氏真が継げるものかもわからないっていうのはわかると思うのです。

 

故に助けが無いのはしょうがないことで、それが今川に弓引く理由だと考えるのはいかがなものか。

 

わんさんの考えでは、桶狭間の当初から松平が裏切ったと疑われていた、というのがあるのではないかと。

というか、それが信長の狙いだったんじゃないかと思ってます。

 

信長はもともと桶狭間で義元を討ち取るつもりじゃなく、もちろん戦に勝利して今川に打撃を与えるつもりだったと思うんだけど、松平を裏切らせて今川からの盾にする、そしてその間に美濃(岐阜)を攻めるっていう計画だったんじゃないかと思ってます。

 

それなら桶狭間で勝利後に三河に攻め込まなかった、家康を討たなかったことに納得できます。

 

そのために、家康に兵糧入れを成功させ(松平軍が近寄ると織田軍が逃げたって史料がある)、桶狭間後は水野の使者を先導に岡崎に無事生還させた、っていう疑わせる要素を作ったと。

 

桶狭間の戦いの直前に家康が水野の領地にいる母に会いに行ったという伝説も、当時そういう噂が流れたからできた話かもしれないし、今川からすれば松平怪しいぞ、と思う要素はいっぱいあったわけで、語りだすと長くなっちゃうんだけどそもそも今川軍が壊滅したのだって戦の最中に松平が裏切った噂が流れて混乱した可能性がありまして。

 

推定される義元本陣の位置、推定される信長の奇襲ルート、推定される本陣から義元が逃げて討ち取られた場所と全部推定なんだけどそれが不自然で、なんか信長が攻めてくる方向に逃げてるような、つまり味方の裏切りがあって信長がいる方に逃げなければならなかったような感じがしなくないでも。

 

というわけで、今川では情報が錯綜して松平が裏切ったのか裏切ってないのかよくわからん、と。

 

でも、今川が援軍出してくれなくても一緒に丸根攻めした他の三河衆が援軍出してくれても良くね?っていうのが援軍出してくれないのは今川からストップがかかってるから。

他の三河衆も家康と同じく駿府に人質出してるから逆らえないのです。

 

そうやって裏切りの疑いをかけられると晴らすのは容易ではなく、水野と激戦しても疑いが晴れず、どんどん消耗していくだけ。

 

ということで、ついに裏切ったっていう流れなのではないかと。

 

で、吉良を攻めるわけですが。

 

3話目のラストであっという間に落城させてますが、半年かかってます。

2回大きな戦をして、1回目は松平軍の大将を討ち取られる大敗をしています。

 

吉良氏は東条吉良と西条吉良に割れてお家騒動してましたが、この頃は吉良義昭が統一していました。

水野氏と同じ感じで矢作古川と広田川を挟んで西に西条、東に東条で、東は東条城ですが西は西尾城です。

 

1回目は善明寺堤の戦いで、吉良領は岡崎の南ですが、岡崎の北西にいる反松平の酒井将監を使って陽動して挟み撃ちっていう、西三河まるまる使った広範囲陽動なので、この作戦考えた人すげえ、って思ってます。

 

吉良には冨永判五郎っていうとても強い人がいるのです。

父はかつて家康の父がピンチの時にかくまった冨永忠安。

家康が大人になって息子世代で激戦を繰り広げるわけです。

 

この戦で大将だった深溝(ふこうず)松平好景を打ち取り、堤は血に染まった鎧が流れ、戦場は鎧が淵と呼ばれるようになった。

 

2回目の藤波畷の戦いは、家康は全力を注ぎ、本多広孝(忠勝とはまた違う系統)、松井忠次(酒井忠次ではない)らが奮戦して冨永判五郎を討ち取り、東条城を落とせました。

 

2回目も激戦でしたが、1回目の敗戦から準備を万端に整え、圧倒的兵力で砦も作ってばっちり包囲しての戦でした。

 

この戦いで活躍した本多広孝は忠勝に負けない、っていうかそもそもポジションが違うので比べるのもアレですが、すげえ強い。

松井忠次も後に松平の姓をもらうくらい強い。

 

西尾城の方はちゃんと整備してあって、電車でも行きやすいのですが、東条城ってどうやって行ったんだっけ。。。

かなり大変だったような。

登山はしなかったけど、城跡は山です。

 

戦場はこんな感じ。

 

こっちは平らな地形だけど、堤とか淵とか畷とか、ぬかるんだ地面だったと思うので攻めにくかったんでしょうね。

 

なお、吉良義昭は戦死せず、この後の三河一向一揆にも絡んで家康を苦しめたあと他国に逃れて死去。

兄の義安が吉良氏を継いで今川氏真と同じ高家として江戸幕府で高い家柄を続けますが、子孫は赤穂浪士に討ち取られます。

 

で、もうちょっと。

 

吉良を攻めるのに半年かかったのですが、その間も今川軍は動きません。

だから吉良を攻めても松平が裏切ったのか裏切ってないのかわからなかったわけで、ドラマ中の「吉良義昭は今川の忠臣」っていうナレーションにも疑問です。

 

吉良自体が東西に分かれていた頃は西条が織田に寝返ってるし、義昭は吉良を統一したけど今川の後盾による傀儡なので、傀儡を逆らうことのできない名前だけ当主ってことで忠臣というならばそうなんだけど、内心はどうなんでしょうね、ってところで、家康の方が「吉良が裏切った!」って言いながら吉良を攻めればやっぱり松平が裏切ってるのかどうかよくわからないんじゃないかな。

 

当時の状況では今川の弱体化で寝返る豪族いっぱいいそうだし、そういうのの討伐なら松平謀反って断定は難しそうだし。

 

っていうところの、松平がいつ今川を裏切ったのか、たぶん当時リアルタイムでもわかってなかった説が今回の大河の解説です。

 

来週は清洲同盟の話です。

次回もお楽しみに!