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~さがしつづける旅路~

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2012.5.21 父が他界しました。

自殺でした。

父を亡くした私の心の整理のために書いてます。

苦手な人は読まないでくださいm(_ _ )m

私が4歳になった頃

父は会社から歩いて5分の名古屋城の近くの借家を離れて

母の実家・米屋に近い郊外に一軒家を購入した


前回記事で書いたように

もともと人の訪問が多く交際費が逼迫してた我が家の家計ではあったが

父の勤めている社長夫婦が父のことを大事にしてくれており

「○○は若い社員をよくまとめてくれている」

「部下がついてまわればお金もかかるであろう」と

住宅手当や通勤手当といった名目で補助してくれていたのが随分助かったお陰でもあった


社長も歳が離れ自分で若手のフォローまでは行き届かないため

父が若い社員を教育していたのは助かっていたと思われる


そこに目をかけてくれていたのが会社の経理をしてた社長夫人だった


が。。。。


そんな環境も長くは続かなかった。。。。


家を購入して間もないときのこと



父の能力をかってずっと援助してくれていた社長夫人が急死してしまう



それにより会社の流れも大きく変わった


外交や事業展開は社長が行い、経理やお金の工面は社長夫人が行っていた・・・


つまり

かなり乱暴な言い方をすれば

「社長が会社のお金を使い道を決め、夫人がそのお金を(出す)用意する」という流れだったが


経理も社長がみるようなると以前のようにはいかない


というのも


世の旦那が意気揚々と高い買い物をする算段をたてたりすると

家計を預かる世の妻の顔が歪む時があるが、それによく似ている


社長も家計を預かっていないため、格好つけれるし大きなことができていたのだ


実際の預貯金をみて出費を気にするようになり

思い切った経営はできなくなり

守りの経営に入り

経費の削減に乗り出した


時代は高度成長の真っ只中

会社事態も営業成績を上げて事業拡大していた真っ最中だったのだが・・・


このタイミングでの厳しい経費の削減は会社の成長を止める方に働いた


商社にとっても人件費は最大の経費


しかし、そこを圧迫しすぎてしまい

父と母がやっとの想いで育てた若手の営業社員らが退社していく事態に発展した

人員削減すれば後を追って売上が減少する


父は社長に異を唱えたが理解されることはなかった


父は今まで以上に頑張って営業した


自分が売上をあげれば部下が守られる

そういう責任感が成果につながった


しかし


若手の人材流出は止まらない


社長が夫人がなくなり、部下たちの世話代の代わりとして水増しされてた手当てがカットされ

家のローンも加算されてた我が家は郊外ということもあり、すでに皆の溜まり場ではなくなっていた


新しい社員は辞め

私たち家族が名古屋城の近くで住み

我が家が溜まり場だったときにいた社員の多くはのこった


社長は夫人を亡くしてから営業へ注力できなくなり

会社の営業成績は父の肩にかかっていた


父は部下たちを守るため懸命に働いた


が。。。。。


社員がやめ売上が落ちてきた会社の台所を目の当たりにしている社長は

今度は父の営業経費にも厳しく精査するようになった


当時はまだバブルがくる少し前


接待は当たり前のように横行し

たくさんの会社が沢山の経費を夜の街に落としていた


人をもてなしたり楽しませたりすることに関して

類まれなる才能を持った父の得意分野でもあった


とうとう父は自分の営業も思うようにできない状態に追い込まれて行く


母が結婚し生家をでて間も無い頃


生家であり長兄が経営する鉄工所に勤めていた祖父に転機が訪れた


祖母の兄が生家である米屋を営んでいたが

もう店を売って廃業したいとの連絡があったのだ


もともと上の兄弟に押さえられながら勤めていた祖父には鶴の声だった


祖父は病気の身体を抱えながらであったが

祖母と次女(母の妹)と長男(母の弟)が中心となってお店を営む事にした


私が物心ついたときはもう

おばあちゃんち=米屋だった


年末には家族でこぞって

お客さんに売る正月用のお餅の準備をした


もっとも・・・

当時の私は手伝っているというより

邪魔してる・・という感じだったと思うがwwwwww


決して儲かってはいなかったと思うが

家族仲睦まじく暮らしていた


私がときどき遊びにいくと皆が可愛がってくれた


祖父はしばらくの間

「おじいちゃんて呼ぶな、大きい父さんと呼べ」と私に言って意地を張っていたが

私が生まれて6年後に妹が生まれたとき意地を張るのをあきらめたらしい


晩年の祖父はとても無口になっており

奥の部屋で仮面ライダーの真似して騒いでいる私を

笑みを浮かべたまま何も言わずに黙って見ている祖父をよく覚えている


見られてると思うと普段は照れてしまうノリノリごっこでも

祖父に見られるのは平気だった


同じ部屋にいるのに空気みたいに存在を感じずに

独り言をブツブツいいながら仮面ライダーごっこをしていた




段ボールとセロテープでよく工作してたのも覚えている




皆が笑顔で暮らしていた。





そう・・・


あの日が訪れるまでは・・・・。


父は家庭を持ち

責任も増したからか

その仕事ぶりにさらに厚みをもたせた



私がまだよちよち歩きの頃の父のテーマは

「部下を育てる」ことだった


営業は常に結果が問われる


が。。。


機械を売るには様々な知識が必要で


一人前の営業マンに育つまでにはかなり時間がかかる



希望に満ち溢れて入社しても

実際に売れるようになるまで辛抱できずに転職してしまう人が多い


父も苦戦していた


実家で会社のきりもみしてた母はその様子みて父に苦言した


部下を育てるというのは単に仕事を教えるのではなく

時には家族ぐるみで付き合い、包み込むようにし

人として成長を促すことによって仕事に成果をもたらす



古き良き時代の考えと思う人もいるだろうが・・・

その考えは私も共感できるのだが、書いていて私も耳が痛いww


父と母はお互いに協力し

部下を家に招いては飲んだり遊んだりしながら

時には悩み相談に乗ったりしながら部下を育てていった



父もサラリーマンだったので

自費で外で飲み食いさせる財力はなく

部下などの場合は家に招いて飲み食いさせていた



だから私が小さいころはよくお客さんが来てた


給料日前になるとご飯目当てで

何日か泊まりに来る若手もいるくらいだった


なので我が家の家計はいつも火の車だったらしい


今の私の上司である社長は当時、我が家の常連さんだった


こんなエピソードもある


若き日の社長がはじめて自分で機械を受注してきた日

「○○くん、頑張ったね。お祝いしなきゃね。」

「何が食べたい?」と母に聞かれた若き日の社長は

屈託の無い笑顔で「ステーキ!!」とリクエストした。


母は笑顔で「わかったわ」と返し

その日はステーキを振舞ってみんなでお祝いした


給料日前なのに・・・と母は心の中でつぶやいていたそうだ(笑)



父と母を慕っていろんな人間が家を出入りしていた


そんな中で私は4歳まで育った


サラリーマンの父と 専業主婦の母と 幼い私

あたたかく、ごく平凡な家庭だったと思う。。。。


穏やかで平和な日々が続いていた