「本物」は「真・善・美」の追究から!
ここで、下の図をご覧ください。
3つの円それぞれに「真・善・美」とあります。(注1)
「真・善・美」はギリシャ時代のソクラテスやプラトン(注2)などの哲学者から近代の哲学者であるカント(注3)に至るまで、人間の普遍的な価値観とされてきた概念です。
大学へ進学された方なら、理数系か文系か芸術系のいずれかの専門領域へ進まれたことと思いますが、それらの大学や学部で研究されるテーマは、「真・善・美」の追究から生まれてきました。(注4)
そして「本物」とか「一流」とか呼ばれる人や事柄には、まさに追究に追究を重ねられた「真・善・美」の姿があります。
また図にある通り、「真・善・美」はそれぞれが他の領域において重なり合い、ない混ぜになって存在していますが、ここでは説明しやすいようにまずは個別に話を進めさせていただきます。
子どもが出会う「本物」が一体どの領域から来るものなのかを知っておけば、子どもに用意してあげるべき環境を適切に考えてあげることができます。
①真(偽)の領域
「真(偽)」は、人間が客観的に分析したり仮説をたてたりしながら探究される領域です。人は自分の知らないことを知りたいと願う「知的欲求」があります。客観的で合理的な認識(情報)を獲得しようとする領域と言えます。
また、様々な現象の裏にある原因を、物理的・数学的な法則=「真理」として発見したり捉えようとします。
近代の人間社会においては、その「真理」に惹きつけられてやまない人達(学者・研究者)が、自然科学や数学という学問の諸分野において「真」の領域に取り組んできました。
②善(悪)の領域
「善(悪)」の語源はギリシャ語の「ためになる」という意味があるようです。
元来、人は人の役に立つことを喜びとする、それが性善説だとすると、創造共育はこの立場から人間を考えます(注5)。
後にキリスト教が広まる過程で、「善」の概念に「愛」という概念が重なりました。「善」と「悪」が対であるように、「愛」は「憎」と対になります。人間の中には2つの対になるものが棲んでいて、互いに絡み合い葛藤します。
「哲学」や「文学」は、 人間がその中で「いかに生き得るか」、「いかに生きるべきか」、それらを問いかけ、追究する学問です。「善悪」と「愛憎」渦巻く人間、ひいては自己と他者、そしてその関係性にこだわることからどうしても離れられない、そういう人達が「文学」的な生き方を志し、かつそれを論理的に探究する人達が哲学者なのでしょう。そして「宗教」もまた、人間がなすべき生き方を示します。
つまり、「善(悪)の領域」とは、自分や他者の在り方を問いかける領域のことを言うのだと私は考えます。
③美(醜)の領域
客観性とは逆の、個人の主観をその根幹とするのが「美(醜)」の領域です。
またそれが「人の役に立つ」かどうかも、その領域では最優先事項ではないでしょう。
ある個人が「表現」したいと欲求したことを、納得いくまで追求せざるを得ない人のことを「表現者=芸術家=アーチスト」と呼ぶのだと私は思います。
しかし、あるアーティストがとことん自らの主観的な感性にこだわった結果、それが多くの人の共感を得る場合もあります。それは、より普遍的で美的な真理に迫ったということなのかもしれません。
一般的には、アート(芸術)の領域では、色、形、音、味、匂いなどの五感を刺激する要素を組み合わせ、それらの「響き合い」、「バランス」、「必然」といったものを追求し表現する活動を通して、人の感性に訴えかける世界をつくりあげています。
以上3つの領域をざっと見てきました。
それぞれの領域において、「本物」や「一流」と呼ばれる仕事や作品、人物が、皆さんの脳裏に浮かんだのではないでしょうか。
もしくは、どの領域にも顔を出す、1つの領域だけでは括れない作品などや人物があったかもしれません。
それは「真・善・美」それぞれが単一で成り立つものではないということのようです。
そもそも、あることについて考えたり、何か計画を立ててやりとげたりすることの中には、すでに論理的、数理的な要素も主観的な要素も必ず入り込んできます。
人それぞれが3つの領域にまたがりつつも、それぞれの好みやこだわりの比重をいずれかの領域に置いて生きているようです。
私たち大人がそうやって、1つの生き方(ある領域にこだわる価値観)を選択しているわけですから、子ども達も、どの生き方を選ぶか、それ以前にどの領域にこだわっているのか、ということを確かめる必要があります。
「やりたいこと」を「本当に、心の底からやりたいこと」にまで純度を高めさせてあげることが必要です。
各領域における「本物」たちは、極限まで無駄や不純物を取り除き本質に迫り、個々の子どもの魂を揺さぶります。それによって「人生を変えた出会い」などという劇的な物語が生まれることもあります。
「本物」との出会いと感動(注6)は、子どもに憧れを抱かせ、情熱をたぎらせます。彼らが一瞬に全エネルギーをかけて「やりとげる」に値する世界があると気づく瞬間です。
そしてまさにこの時、
「やったらやっただけのことはあるんだ。」
という実感と、
「この先にもまだまだ素晴らしい世界があるだろう。」
という夢や希望が芽生えていきます。
「やりがいのある」仕事(活動)に出会えること、これは幸せの絶対条件です。
すなわち「本物」との出会いが大切である理由は、それが子ども達に生きる情熱と意義を与えてくれる最高の教材になるからなのです。
(注1)この3円図は「光の3原色」をもとにしています。森羅万象の光を人間というプリズムで分光した時に現れる究極の3つの価値観(3原色)としました。
(注2)ソクラテス、プラトン:(紀元前427~紀元前347)西洋哲学の祖、(紀元前469〜紀元前399)西洋哲学の源流と言われています。
(注3)イマヌエル・カント:(1724~1804)近代哲学に大きな影響を与えました。
(注4)スポーツは「身体の客観的な能力」を追求する「科学」の領域としておきます。
(注5)「善」については哲学の大きなテーマの1つでもありますので、「幸せ」の定義と同じく簡単に答えが出るものではないことも承知しています。ここでは、「性善説」としての「善」に焦点を当てて述べています。
(注6)感動体験はむしろ人智を超えた自然界の姿に出会うことで生まれることも多いと思われますが、ここでは敢えて人間の活動に限定して考えます。
(続く)