「ありのままのあなたは認めないよ…」

そんなメッセージを受け取った子どもはどうするでしょうか。

 

「ありのままの自分」が認めてもらえないなら、「嘘の自分」を作るしかありません。

 

しかし「嘘の自分」だから、内からみなぎる自信は湧きません。

そんな脆い「自分」が、「いいこと見つけた(考えた)!」と胸を張って堂々と言えるわけもありません。

 

いわゆる「自信が無い」、「自分(の考え)が無い」、「主体性が無い」、の根本原因はこんなところにあるのではないでしょうか。

 

ちなみに、「『愛』の反対は『憎』ではなく『無関心』である」(注2)という話をご存知の方も多いのではないかと思いますが、同じパターンとして、私は、「『自由』の反対は『束縛』ではなく『成り行き任せ』である」と考えています。

 

「成り行き任せ」の人生は、「主体性」を持った生き方とは真逆にあります。

 

愛も憎しみも、対象に関心があるからこそ起きる感情の裏表ですので、対象そのものに「無関心」であることが、それらとは全く正反対の感情となります。

 

同じく、自由も束縛も自分や他者の在り方に関する問題ですので、その真逆はというと、そもそも自由だろうが不自由だろうが構わない、考えない、責任を持たない、すなわち「どうでも良い」=「成り行きで良い」という価値観ではないかと思います。

 

それは、自分で物事を「自由」に選択して人生を歩む主体的な姿勢とは正反対です。

自分の人生に責任を持とうとしない、成り行き任せの人生です。

 

「やりたいことをやる」という「自由」があるからこそ、自分で選択するのが当たり前の生き方=主体性を身につけられるのです。

 

子どもが「主体的」になれるかどうかは、そんな「自由」な生き方(ありのままの子ども)を大人が「受容」できるかどうかにかかっています。

 

「いいこと見つけた!」

と誇らしげに叫ぶ子どもの姿は、まさに「主体性」の原点であると言えるでしょう。

 

 

さて、実際の環境設定において注意しておきたいことは、「課題」を達成するための方法や答えが限られていると、子どもの表現が制約や条件から外れるたびに、「余計なことをする子」とか、「真面目にやらない子」というレッテルを貼りがちになってしまうということです。

 

ですから、子どもの気持ちが活動に向かわない時には、そもそもの環境設定と条件に問題がないかどうかを確かめる必要があります。
 

むしろ、こちらの予想を超えたアイデアを持った子どもは必ずいると考えて、そうした子どもに対しては、「それ、すごいね!」とリスペクトするくらいの気持ちでいることが大切です。

 

「受容」から生まれる「尊重」の気持ちと言っても良いでしょう。
 


また、第1ステップに入る前の段階について、和久洋三先生からご教示いただいたことに触れておきます。

それは、目にしたものに対して子どもが「面白そう!」と感じたり、わくわくする気持ちになる段階のことです。
 

子どもが、「いいこと見つけた(考えた)!」という時、それはすでにイメージが明確になり、思考力が働き、目的意識を持ったということになります。

 

しかしそれ以前に、予感や直観として、もしくは驚きとして対象を迎え入れる段階があります。(注2)
 

ものごとに対する旺盛な好奇心や肯定的な姿勢(「面白そう!」、「わくわくする!」)があることは、「幸せ」を感じるための大前提です。
 

本稿は積木遊びが活発になる2歳前後からの子どもを念頭においていますが、乳児から2歳までにはそうした「幸せ」の大前提=土台がすでに育まれています。

 

この時期の遊びと意味も大変重要ですので、また別の機会に改めてお伝えしたいと考えています。

 

 

(注1)「愛の反対は無関心」は、有名なマザーテレサの言葉だと私は思っていたのですが、正確には異なるようです。

詳しくはこちらのブログで解説されています。

https://ameblo.jp/manabist-column/entry-12290372428.html

 

 

(注2)和久洋三先生は、これを「未測量」の段階とされました。

「未測量」とは、子どもが「数」や「量」の認識を獲得する発達段階において、「多い-少ない」、「大きい-小さい」、「長い-短い」、「重い-軽い」、などの数値化されていない感覚的な量のことです。

「未測量」に対して「既測量」があり、グラムやメートルや個数などの単位として表されます。
ここでは、対象に対して、「面白い-面白くない」、「わくわくする-わくわくしない」、という感覚的な段階を未測量的な段階とし、何が面白いか、どう面白いか、という明確な認識、認知がある段階を既測量的な段階として捉える必要があるというご指摘をいただきました。

 

 

(続く)

私の学生時代には「自己肯定感」という言葉は使われず、「自己受容」という言葉が使われていました。

 

「自己実現」という言葉も多く使われましたが、私の場合は、長い葛藤のあと、理想の望ましい自分になること以前に、今ここにいる「ありのままの自分」と向き合い、

そこから始めるしかないのだという結論に至りました(それが一番ハードルが高かったのですが…)。

 

和久先生は、子どもが何かを出来るとか出来ないとかいう以前に、何をしても、何もしなくても無条件で受け入れること、すなわち「受容」が最も大切であると仰います。

 

「受容」とは、子どもを「自由」にしてあげるということです。

 

そして「自由」を与えられた子どもは、大人に見守られて安心を感じつつ、目の前の対象に強く意識を集中させることができます。

 

対象に意識を集中することで、結果として

様々な情報をより多く、より深く結びつけることができ、豊かな創造性がもたらされます。

 

「受容」とは、すなわち「愛」です。
 

つまり、第1ステップにおける「いいこと見つけた(考えた!)」という課題の発見には、まずは「自分は丸ごと愛されている」という実感が土台としてあることが前提になるということなのです。

 

反対に、「それはつまらない」、「それはまちがっている」、というメッセージを大人から受け続けると、子どもは何かを思いついたとしても、だんだんとそれを表現しようとしなくなります。

 

信頼する大人が取り合ってくれないのでは、がっかりしてやる気や自信がなくなるのは当然です。

 

それは、「『ありのままのあなた』は認めないよ」、というメッセージに他ならないからです。

 

(続く)

子どもが幸せになる「3つのステップ(その1)」

子どもの毎日が幸せであるための道筋を、私は「3つのステップ」として考えてみました。




第1のステップは、
「おもしろいこと見つけた(考えた)!」
から始まります。
 

第2のステップは、
「できた!」
を体感します。

 

最後の第3ステップは、
「すごい!」
と感動したり、それを目指そうとすることです。
    

 

では以下にそれぞれのステップをご説明します。
 

まずは第1ステップです。

「やりたいことをやりとげる」体験のために何を差し置いても重要なのは、「遊び」の延長から「課題」を見つけることです。

あくまでも大人が「教えたいこと」から始まる旧来の「学習」スタイルではありません。

「遊び」とはそもそも「やりたいこと」そのものですから、「やりたいこと」=「課題」とします。

遊びの中でおもしろいことを「見つけた」その瞬間から、「課題」に取り組む「活動」が始まります。
 

そしてこの「おもしろいこと見つけた!」の発火をさらなる情熱の炎にまで燃え上がるようにするためには、子どもの「やりたいこと=課題」がすぐに見つかりやすい環境と、やり方が一通りではない多様な方法や表現が保障されている環境の両立が必要です。
「やりたいこと」から始める、そして「やりたいこと」がたくさん用意されていて、色々なやり方を試しやすい環境を整える、ということがまず最初のポイントであることを踏まえていただきたいと思います。

 

なお、最近良く見聞きする「自己肯定感」は、この第1ステップにおいても育まれます。

子どもが「おもしろいこと見つけた(考えた)!」とひらめいたどんなアイデアでも受け入れてあげられることが、このステップでは最も大切なところです。
どんな思いつきであろうと、自分の表現には認めてもらえる価値があると感じられれば、同時に子どもは、自分の存在を肯定的に感じるようになります。

SNS(ソーシャル・ネットワーク・サービス)につきものの「いいね!」は、子どもにこそ必要な共感ワードなのです。
 

また、子どもの「自己肯定感」を育むうえで絶対に忘れてはならないことがあります。

それは、子どもに対する大人の「受容」です。

 

(続く)

生きること自体が幸せな時期
 

どんな大人であっても、かつては、将来のためであろうとなかろうと、やりたいことしかやらない時期が用意されていました。
    

それは言うまでもなく子ども時代のことです。
 

その時期のやりたいことと言えば、「食べたい」、「甘えたい」、の他には「遊びたい」、が一番でした。

ともすれば、食べることも差し置いて夢中になれたのが「遊び」でした。


遊びとは、「やりたいこと」そのものです。

やりたくないことを遊びとは言いません。
つまり、子ども時代=幼少期が人生で最もやりたいことをやっていた時期なのです。


ですから、先の「幸せにつながる教育」を行うとしたら、この幼少期こそ、「幸せ(=やりたいことをやりとげる)の原体験」を獲得する最大のチャンスになります。


無我夢中で試行錯誤の努力を厭わず、「みつけた!」、「できた!」など、情熱を燃やし、探究にふけり、表現し、達成感を得るといった経験は「快感」として集約されます。
それは、今一瞬を生きているまさに「生(ナマ)」の感覚でもあり、忘れようにも忘れられない「快の記憶」として蓄えられ、人生で諦めずに「幸せ」を求め続ける根源的なモチベーションとなります。




失われていく「遊び」
 

「幸せの原体験」は幼少期の遊びの体験にこそあるということが見えてきました。
 

しかし、西暦2020年の足音を聞く現代の日本の子ども達には、保育園や幼稚園、小学校から帰ってくるなり、
「お母さん、ただいま!」
「遊んでくるね!」
と飛び出していく姿をイメージすることはもはや難しくなっています。


小さな子どもが安心して1人で遊べる公園があれば幸運です。

野球やサッカー、鬼ごっこなどを思い切り存分にできる空き地など、今ではほとんど見かけません。

またどこもかしこも事故防止のために柵がはられ、立ち入ることもできません。

子ども1人で出かけさせること自体、「不審者」が怖くて親としては不安な時代です。

そもそも、お友達同士にもそれぞれ習い事があってスケジュール調整が必要です。

「◯曜日は◯◯ちゃんと遊ぶ日」とお母さんに決めてもらうこともあります。


「現代の子ども達には『3つの間』が無くなった」という話がずっと以前から語られています。

ある小学校の校長先生によれば、学生時代から頻繁に見聞きする言葉だったそうです。

 

「3つの間」とは、たっぷり遊べる「時間」、どこでも遊べる「空間」、いつでも集まれる「仲間」のことで、子どもの遊びにとって、1つとして欠かすことの出来ない要素です。

これが、遡れば40年以上前にはすでに失われていたというわけですから、現在に至っては推して知るべしというところでしょう。
 

そして幼少期 に「遊び」を充分に体験出来ない時代がもう何十年も前から始まっていたとしたら、その影響はすでに社会に現れているはずです。
 現代日本における子ども時代の遊びの消失と社会問題の関係についてはまた改めて考証したいのですが、その前に、現代の子ども達に「遊び」を取り戻すためには私たち大人はどうしたらよいのか、子ども達が「幸せの原体験」=「やりたいことをやりとげる喜び」を日々感じられるように、「遊び」を通した環境をどのようにしてつくったらよいのか、次にそのことについて考えてみたいと思います。
 

(続く)

「幸せにつながる教育」って何でしょう?

子どもの幸せを願わない親はいないと思いますが、果たして子どもに「今」与えている教育が「幸せ」につながっているのかというと、どうでしょうか。


「将来、絶対役に立つ(幸せになれる)から!」


「あなたの(幸せの)ためだから!」


と言って、子どもの嫌がる学習や習い事をさせて、もしも突然、不慮の事故や病によって我が子を亡くしてしまったら、親であるあなたは何を思うでしょう。
    
「幸せ」とは子どもの未来にしかないものなのでしょうか。
未来の「幸せ」のために、今現在の「幸せ」について心を配らなくても良いのでしょうか。
また、その未来は誰が保証してくれるのでしょう。
「将来の(幸せの)」ためといっても、その代償は大きなものになると思われます。
   

そして、さらに大きな代償があります。

「将来好きなことが自由にできるようにさせてあげたい」
と考えていても、
「お母さん、僕、〇〇がしたい!」
「そう? でも〇〇じゃなくて××したら?」
「嫌!〇〇したい!」
「ダメ!(あなたのためだから、)××しなさい!」

 

そして数年後、
「よくがんばったね!もうあなたは自由に好きなことができるのよ!」
「ねえ、お母さん。僕、好きなことしたことないから、何がしたいのかよく分かんない…」
    

これは現代日本において、大人であれ若者であれ、大なり小なり心の中に抱えている問題ではないでしょうか。
 

「やりたいことを見つけよう!」
「やりたいことをやろう!」
 

という言葉を近頃多く見かけます。
しかし、やりたいことをやったことがなければ、やりたいことをやった実感も知りません。

 

ですから結局は、
 

「やりたいことが見つからない…」
「やりたいことが分からない…」
 

そして、
 

「何をやっても楽しくない…」
「何をやっても続けられない…」
 

ということになってしまいます。
 

それもこれも、最初に「やりたいこと」を保留したために、「やりたいこと」が見えなくなってしまったということだと私は思います。
   
いくら高い能力や技術、資格を身につけたとしても、「やりたいこと」=「目的」が定まらなければ目的意識は生まれず、熱い情熱と強い意志を持って目の前の課題に取り組むことはできません。

結局は諦めて、最後まで「やりとげる」ことが難しくなるでしょう。
    
これが、将来の「幸せ」のために今の「幸せ」を犠牲にした場合に起きている、最も大きな代償です。
そのような代償が無い、私が思う「子どもの幸せにつながる教育」は、

・やりたいことをやりとげる喜びを感じること
 

・他者とつながり他者に貢献する喜びを感じること
 

それを体感できる環境と活動を「今、ここで」与えてあげるということです。
 



追記
ここで記した「喜び」について、和久洋三先生からのご指摘で、人が「喜び」を感じる時というのは人や場合によって様々であるから、「喜び」=「幸せ」として良いのかどうか、というご提示をいただきました。
曰く、「(色々な)喜び」、や「(色々な)楽しみ」、または「(色々な)嬉しさ」というものは、「幸せ」の一要因ではあるけれども、「喜び」=「幸せ」に直結することばかりではない、ということです。

これについては、
 

・やりたいことをやりとげる喜び=「〜したい」という欲求が叶えられた喜び
・他者とつながり他者に貢献する喜び=「誰々の役に立った」と認めてもらった喜び
 

という二つの喜びが「幸せ」の二大要因であるという仮説として、本文のままにさせていただきました。

また、「不幸せ」な時があるから「幸せ」を感じることができる、という「幸・不幸」の対立概念同士についても言及する必要はないか、というご指摘もいただきました。
 

これについては、次回以降の別の機会に触れるつもりでおります。

 

(続く)