こんな所に『穴太衆と穴太村』① | たかちゃんのブログ

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こんばんは。たかちゃんです。

いつも応援して頂きまして、ありがとうございます。

最近、写真を撮ることにはまり、『大阪南港野鳥園』や『大阪国際空港(伊丹)』に出かけることが多くなりました。
きっかけは、自分ちに飾れる『野鳥の写真』を撮ろうと「野鳥園」に行った事でした。
しかし、望遠レンズで、動きの早いものを撮る為には、体の「体幹」がしっかりしていないとダメだということが分かり、「体幹」を鍛えることを目的に、『空港』で飛行機を撮りながら「体幹」を鍛えています。今は、被写体を『空飛ぶ生き物・乗り物』中心で撮っています。

  

  


前説が長くなりましたが、『大阪南港野鳥園』や『大阪国際空港(伊丹)』ですが、「RAPT理論」では大きな意味を持つ場所だった事が後々になってわかってきました。
まず、以前にもお話したように、『大阪南港野鳥園』の隣には、『咲洲メガソーラー発電所』があり、その場所の前を中国や韓国の海外航路が通っていて、軍事的にも重要な場所を中国系企業の上海電力が管理していることです。

そして、もう一つは、『大阪国際空港(伊丹)』の付近には、「フリーメイソンの拠点」があることに調べていてびっくりしました。

戦国時代、織田信長は滋賀、三重、そして、荒木村重のいる兵庫・伊丹を激しく攻撃していました。
そして、武田信玄と毛利元就(水軍)とも激しく争っていました。
これらに共通する点は、「穴太衆(あのうしゅう)」でした。


●「穴太衆(あのうしゅう)」とは
『穴太衆』とは、石工職人の集団で建築業の事をいいます。現代風に言えば、『ゼネコン』のことです。
『穴太衆』は悪魔を信仰する団体で、「予言」と称して予言したことを実現する為に「計画」と「実行」を繰り返し、私たちや先祖を不幸にしてきた団体です。早い話が、その当時の「フリーメイソン」の事を「穴太衆(あのうしゅう)」と言います。私たちの先祖を騙し、日本を共産化して乗っ取ろうとする渡来人(シナ人や中国人)の集団の事を言います。


●『穴太衆』の拠点
「穴太衆」が住んでいた「穴太村」は、滋賀県大津市、三重県員弁郡、京都府亀岡市、大阪府八尾市、兵庫県猪名川郡園田村の五つありました。織田信長が攻撃していた地域と合致することから、「穴太衆」を滅ぼす為に争っていたのだと思われます。

中でも、兵庫・穴太村(現・兵庫県尼崎市東園田)は、尼崎市の北東(鬼門)に位置し、猪名川と藻川の中州にある地域で、
歴史的にも、地域的にも影響を与える出来事が数多く起こっています。
「承久の乱」のきっかけになる村が存在したり、武田信玄の孫、『武田勝親の墓』があったりと、この地域と周辺地域がニュースで取り上げられることが多い地域です。森友学園問題の土地もすぐ近くにあります。
そして、この地域には『園田競馬場』と呼ばれる地方競馬場がありますが、元々この施設は、淡路島にあったものを現在の場所に移したそうです。RAPT理論で『淡路島』は、フリーメイソンの悪魔崇拝の聖地だと暴かれています。

 

●園田の昔-園田競馬場

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●武田家は清和源氏の末裔。
武田勝親の父は、武田勝頼で、彼の母親は「諏訪御料人」と呼ばれる諏訪の主祭神の娘です。
そして、大阪府八尾の豪族、物部守屋が敗戦し諏訪の地に移り住んでいる事から、母方も「穴太衆」だったと考えられます。
武田勝親は、清和源氏の末裔ですので、清和源氏=フリーメイソン ということになります。


■RAPT×読者対談〈第119弾〉日本の支配者も有名人もほとんど全員、清和源氏。

 


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●武田信玄の孫・武田勝親の墓

 

 

園田町1丁目(旧冨田村)の善念寺に武田勝親の墓がある。

善念寺は元禄13年(1700年)善悦開基と旧内務省が明治10年に作った公式記録にある。
それ以前は豊中市小曽根の西福寺道場があり、今なおこの寺の檀徒が数軒残っている。
善悦は寺の過去帳では勝親であるとされている。勝親は武田勝頼の三男で信玄の孫である。
武田氏は清和源氏の一統で源義光(義家の弟)を祖とし、甲斐源氏(頼朝は河内源氏)として名家であり、既報の承久の乱では東山道を京都へ攻め上った軍の大将を勤めている。
 
織田・徳川軍によって天正10年(1582年)武田家は滅された。
以後の勝親の動勢には諸説あり、その一つは墓地に教育委員会の名で掲示されている池田信輝がこの地に住まわせたとある。
池田は天正8年から天正11年信輝が大坂城、長子之助が伊丹城、次子輝政が尼崎城を預かっており、その後美濃へ転封されているので勝親が幼時のこととなる。

その二は墓碑に刻字されている宝暦3年(1753年)山縣長園(信玄の勇将山縣昌景の子孫)の記事では当時3歳であった勝親は家臣栗原庄衛門に抱かれて逃れ、京都醍醐寺の稚児となり後戸田氏鉄(1617年~1635年尼崎城主)の家臣斉藤氏によってこの地に住まわされ天和2年(1682年)103歳で死亡したとある。
他の説は無視したい。
善念寺は由来は定かではないが癇薬を売出し、「とうだのかん薬」として周辺に著名であり、そのため財をなし、戦後の農地開放まで園田の最大の地主であった。
また、子孫の武田勝達(1862年60歳で没)が1836年医学を修め分家して医業を始めた。
その子孫は阪大医学部を卒業した名医であった。
尼崎医師会の理事も務めている。
しかし、彼は終戦頃に死亡し、一方、善念寺は戦中の空襲によって消失したため医薬業は廃絶した。

 

●園田の昔-武田信玄の孫・武田勝親の墓  より転載。

 

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この資料から、『武田勝親』と大阪大学医学部との繋がり、そして医薬品業界との繋がりが見えてきました。

『次回へ続く』