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和歌を学ぶ「歌塾」
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作品掲載
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千五百番歌合に
むら雲のすぎのいほりのあれまより時雨にかはる夜はの月かげ
藤原有家
玉葉和歌集冬856(857)
訳や語釈、これまでの解説は
昨日までの記事を
お読みくださいね。
なぜその歌は
その語順で表されたのか。
そこには必然性があります。
仮にその語順に
必然性がないとしたら、
単にその歌が失敗作であるだけ。
それを以て
「すべての歌の語順には
必然性などない」
と結論づけることはできません。
その語順で詠まれ
その語順で鑑賞された和歌を、
その語順のまま読み取ることの
できない現代人に
理解しやすい形にするために、
考えなしに語順を変えて訳す、
というのは完全に
読み手側(ないし、訳者)の事情、
こちらの力量の問題ではないか。
語順そのまま
読み取れていた人たちが
800年前にはいたわけです。
そういう人たちを
読者や評者と想定して、
しのぎを削り
高度な言語芸術が試みられた。
その結果であるところの
和歌の一首一首を、
私たちの勉強不足という
私たち側の事情で
安易に改変してしまうのは、
うーん。
ある程度は仕方ないとはいえ、
それにも程度があるでしょう。
私はそう考えます。
なので、私はなるべく
語順や文法に手を入れず
元歌の語順、文法のままに
訳すようにしています。
どうしても無理な場合は
句切れなしの歌に
句点を入れる、などのことは
しますけれど、
“必要最低限”の節度は
常に自分に
厳しく問うようにしていますよ。
日ごろから参考にしている
○○全歌集のような図書でも、
「この語順を変えてしまっては、
訳として越権行為では? 」
というような疑問を持つことは
正直、よくあります。
全歌集をまとめてくださる
学者先生方の労力には
頭が上がりません。
だからといって
そのお仕事のすべてに
盲目的に振る舞うのも、
和歌に真剣に向き合おうとする
人間のひとりとして望ましい態度
とはいえませんからね。
むら雲のすぎのいほりのあれまより時雨にかはる夜はの月かげ