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和歌を学ぶ「歌塾」
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作品掲載
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千五百番歌合に
むら雲のすぎのいほりのあれまより時雨にかはる夜はの月かげ
藤原有家
玉葉和歌集冬856(857)
私の訳のポリシーについて、
以前どこかで述べましたが、
理解しやすさより
もとの歌の語順や文法に
なるべく忠実に訳すこと
のほうを重視しています。
この歌の三句以降も、
理解しやすい形を取るならば
例えば
荒れた隙間より夜半の月光が洩れ入っていたのだが、それがいつの間にか時雨の音に変わっていた。
荒れた隙間より夜半の月光が洩れ入っていたのだが、いつの間にか時雨の音が洩れ入るほどに時間が経っていた。
などとしたでしょう。
だが、私はそれは
訳としての節度を
超えるか超えないか
ぎりぎりのところだ、と感じます。
実際に私のした訳はこちら。
一群のまとまった雲の過ぎ行く
杉の庵の荒れた隙間より
洩れ入る時雨の音に変わった、
先ごろまで洩れ入っていた
夜半の月光。
もう洩れてこない夜半の月光。
もとの歌のほうでは
「月影(月光)」が
結句の最後に置かれている。
にもかかわらず
「月影」を先に持ってきたそれは、
訳ではなく
もう別の文章ではないか。
体言止めの和歌は
決してなぞなぞではないけれど、
少なくとも結句に至るまで
「それ」が何かわからない、
その「それ」が結句の体言で
明らかにされて
「ああ! うまい! 」
と思わせる面もある、
それは事実です。
なぜその歌は
その語順で表されたのか。
そこには必然性があります。
仮にその語順に
必然性がないならば、
単にその歌が失敗作であるだけ。
それを以て
「すべての歌の語順には
必然性などない」
と結論づけることはできません。
その語順で詠まれ
その語順で鑑賞された和歌を、
その語順のまま読み取ることの
できない現代人に
理解しやすい形にするために、
考えなしに語順を変えて訳す、
というのは完全に
読み手側(ないし、訳者)の事情、
こちらの力量の問題ではないか。
……まだまだ長くなりますので、
続きはまた明日。
明日の記事で終わります。