藤原有家 むら雲の【中編】 | わたる風よりにほふマルボロ

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現代短歌新聞2021年4月号

作品掲載

 

new「源氏で紡ぐ和歌便り」

2021年10月分掲載new

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千五百番歌合に
 
むら雲のすぎのいほりのあれまより時雨にかはる夜はの月かげ
 
藤原有家
玉葉和歌集冬856(857)
 
 

訳や語釈、これまでの解説は
昨日の記事

お読みくださいね。

 
 
 
私の訳のポリシーについて、
以前どこかで述べましたが、
 
理解しやすさより
もとの歌の語順や文法に
なるべく忠実に訳すこと
 
のほうを重視しています。
 
 
この歌の三句以降も、
理解しやすい形を取るならば
例えば
 
荒れた隙間より夜半の月光が洩れ入っていたのだが、
それがいつの間にか時雨の音に変わっていた。
荒れた隙間より夜半の月光が洩れ入っていたのだが、
いつの間にか時雨の音が洩れ入るほどに時間が経っていた。
 
などとしたでしょう。
 
 
だが、私はそれは
訳としての節度を
超えるか超えないか
ぎりぎりのところだ、と感じます。
 
 
実際に私のした訳はこちら。
 

一群のまとまった雲の過ぎ行く

杉の庵の荒れた隙間より

洩れ入る時雨の音に変わった、

先ごろまで洩れ入っていた

夜半の月光。

もう洩れてこない夜半の月光。

 
 
 
もとの歌のほうでは
「月影(月光)」が
結句の最後に置かれている。
 
にもかかわらず
「月影」を先に持ってきたそれは、
訳ではなく
もう別の文章ではないか。
 
 
体言止めの和歌は
決してなぞなぞではないけれど、
 
少なくとも結句に至るまで
「それ」が何かわからない、
 
その「それ」が結句の体言で
明らかにされて
「ああ! うまい! 」
と思わせる面もある、
 
それは事実です。
 
 
 
 
なぜその歌は
その語順で表されたのか。
 
そこには必然性があります。
 

仮にその語順に

必然性がないならば、

単にその歌が失敗作であるだけ。

 

それを以て

「すべての歌の語順には

 必然性などない」

と結論づけることはできません。

 

 

その語順で詠まれ

その語順で鑑賞された和歌を、

 

その語順のまま読み取ることの

できない現代人に

理解しやすい形にするために、

考えなしに語順を変えて訳す、

 

というのは完全に

読み手側(ないし、訳者)の事情、

こちらの力量の問題ではないか。

 

 
 
……まだまだ長くなりますので、
続きはまた明日。
 
明日の記事で終わります。
 
 
むら雲のすぎのいほりのあれまより時雨にかはる夜はの月かげ

 

 

この記事の

【前編】

【中編】

【後編】

 
 

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