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月前時鳥(げつぜんのほととぎす)といふ事を
郭公そらに声して卯の花の垣根もしろく月ぞ出でぬる
永福門院
玉葉和歌集夏319
空にひと声鳴くやいなや、
卯の花の垣根もなお白く染めて
月がちょうど出たところだ。
ほととぎすを待って、私は
そんなにも
時間を過ごしていたのか。
(訳:梶間和歌)
【本歌、参考歌、本説、語釈】
郭公:その声が聞きたい、と
愛され待たれるものとして
和歌に詠まれる。
卯の花:初夏の白い花。
白い月光と取り合わせて
しばしば歌に詠まれる。
また雪や月、波など
白いものに見立てられる。
月ぞ出でぬる:
月がちょうど出たところだ。
「ぬ(ぬる)」は完了の助動詞で、
「たったいま……た、てしまった」
などのニュアンス。
ほととぎすを待って、私は
そんなにも
時間を過ごしていたのか。
の部分は
入れなくてもよいかもしれません。
ほととぎすは
その声を聞きたがるもの、
そのために夜更かしをしたり
長時間待ちわびたりするもの
として歌に詠まれるので
このような言外のニュアンスも
訳に入れましたが、
そこは、お好みで。
さて、永福門院、京極派です。
伝統的な歌を詠む技術を
しっかり携えた、そのうえで
「これは本当に
そうすべきなのか? 」
「果たしてその伝統は
この歌のこの点において
絶対に沿うべきものなのか? 」
という面倒な問いを怠らず
自分なりの解を出す
ということを
生涯続けた歌人ですね。
もちろん、その問いの結果
「沿うべし」という結論に至ったら、
伝統的な技法や約束事に
沿った歌を詠んでいます。
なんでもかんでも伝統に反対した
歌人や歌人グループ
ではありません。まったく。
面倒ですよ、この問いは。
ですが、その
ひとつひとつの面倒な問いが
その歌人の歌論、哲学を
確固たるものにするのです。
永福門院が歌論を残した
という話は聞きません。
が、彼女の歌、
特に晩年の歌を読めば、
歌を詠むうえでの確固たる哲学が
彼女のなかにあったことが
はっきりとわかります。
これは、歌人でなくとも
各々が専門とする分野において
本当は誰もがすべき事ですね。
「私にとって○○とは? 」
「この場面においてこれは
どのように適用すべきか? 」
「人はこう言うが、
果たして妥当だろうか? 」
そうした哲学の有無は
その作品や仕事に
気配として表れるのです。
卯の花を月光と取り合わせるのは
古典的なお約束として、
この歌で語るべきは
四句「垣根もしろく」
でしょう。
勅撰集の色名表現は、古来
「白菊」「青柳」といった形を
取るものでした。
「白し」「白く」と
形容詞の形を取ったり
「白む」と動詞の形を取ったり
することは珍しかった。
伊原昭氏によれば、和歌の世界――特に勅撰集の世界では、色彩に関する表現というものが非常に類型化して、
「白雪」「黒髪」「青柳」とは常にいうが、「雪が白い」「髪が黒い」「柳が青い」という事は非常に稀であり、「空が白む」「草が青む」に至ってはほとんど無い
色の名で形容される物も、たとえば白なら雪・露・浪・雲・菊・袖・髪などほんとうにきまりきった物に限られている。
その中で、玉葉風雅の二集だけがこの類型化から脱し、「雪が白い」「柳が青い」「空が白む」「草が青む」式の表現を目立って多用しており、
又形容される物も、白なら梅の花、桜の花、萩の葉、鷺、雨などの、ほとんど前例のない珍しい物象と共に、
雪との関連における曙光、桜との関連における曙光、薄暮の光というような複合的な天象がその対象となっている。
もとより和歌の世界で「雪が白い」「柳が青い」式の表現を安易に用いるのは素人や初心者のする事として戒められたであろう。
しかしそれを知りつつそこに突破口を求めて、感動の初心から再出発した所にこそ、「心を正確に詞にあらわす」京極派の成功の鍵があったのである。
前者の図書の91~92頁より。
下線や改行は
梶間の恣意によります。
それを知りつつそこに突破口を求めて、感動の初心から再出発した
これですよ。これに尽きる。
型も約束も何も知らない素人が
何も知らずに伝統を破るのと
あれもこれも面倒な約束事を
きちんと押さえているし
もちろん必要に応じて
それらに沿った歌も詠める人間が
ある場面であえて伝統を破るのと
が、同じはずがありません。
見ればわかります。
歌には気配があります。
作者がどの程度思索して
その言葉選びをするに至ったか
という背景部分は、
歌の余白に表れるのです。
この歌自体は
ものすごくうまいとか良いとか
言える歌ではないでしょう。
ですが、少なくとも
「垣根もしろく」
に
ものを考えない素人の迂闊さ
を感じることはありません。
ですのでね、この文章を読んで
和歌の蓄積のない人が
「垣根もしろく」なり
「卯の花しろし」なり
「草は青みて」なりを使っても、
バレます。
伝統を踏まえて乗り越えた飛躍
ではなく
ただの現代的無手勝流である
と、バレます。
まあ、伝統を踏まえない
現代短歌の人が
「卯の花しろし」といった
古風なアイテムを使った
言い回しを選ぶことは
まずないかもしれませんが。笑
郭公そらに声して卯の花の垣根もしろく月ぞ出でぬる