人間不信におちいった子犬は、町から町へとあてのない旅を続けていました。
子犬は朝起きてから夜眠るまで、ほとんど歩いて過ごしています。
よく歩くので、途中で何度もおなかがすいてしまいます。
子犬はおなかがすくと、ゴミ箱をあさることを覚えました。
敏感な鼻をきかせて、食べて良い物といけない物をちゃんとかぎわけているので、今のところおなかをこわしたことはありません。




しかしある日の夜、子犬は突然猛烈な腹痛に襲われました。
何がいけなかったのか子犬にはまったくわかりません。
あまりの痛さに眠ることもできません。
子犬は暗い路地裏の片隅でうずくまっていました。


「おっ! でっかいネズミが死んでいる!」


子犬がうずくまっていた場所は、ちょうどレストランの勝手口の前でした。
ゴミを捨てに来たコックさんが、子犬をネズミと見間違えて騒ぎはじめました。
こんなに大きなネズミは見たことがないと言って、わざわざ他のスタッフを呼び出しています。


「…うるさいなぁ…ちくしょう。あうぅ…おなかがいたいよ…」

















しばらくすると、先ほどのコックさんが数人連れて勝手口から出てきました。


「…あれ? いないや。おかしいな。ここにでっかいネズミが死んでたんだけどな…」
「何かと見間違えたんじゃないんですか?」
「そんなことはない! …くそぅ、あいつ死んだふりして逃げやがったな。あんなでっかいネズミに厨房でも荒らされたらことだからな。おい、そのへん探してみろ! やっつけとかないと!」
「絶対いないと思いますよ、そんなでっかいネズミ自体」


わずかの間に、子犬はどこへ行ってしまったのでしょうか。
















「う。…うぅ…。く、くさい…」


子犬は、やたら鼻につく異常なにおいで目を覚ましました。
あれからいつの間にかすっかり眠ってしまったようです。
おなかの痛みはとうにひいていました。
子犬はすばやく立ち上がって、あたりを見回しました。
そこは昨日倒れこんだ路地裏ではありませんでした。
建物はおろか、なんにもない原っぱです。
少し遠くに大きな川が流れています。




「ここはどこなんだろう…。それにしても…このにおいはいったい…?」


子犬は鼻をきかせて、においのもとを探しはじめました。
するとどうやら、自分の首からにおいがただよってきているようです。


「…ごめんなさい。わたし、くちがくさいの」


子犬の後ろに、1匹の少し大きな犬が立っていました。
全身の毛が長く伸びていて、両耳は子犬と違って下にたれ下がっています。
両目はどんぐりのように大きいのですが、なんとなく子犬をにらんでいるようにも見えました。


「…おまえはだれだ」

「おなかいたいのはなおったの?」

「なおった」

「よかった。あなた、もうすこしで人間につかまるところだったのよ。しかもネズミとまちがわれてね」

「おれはネズミじゃない」

「でも、そういわれてみればにてるわよね」


犬はそう言ってクスリと笑いました。
その笑顔が、意外なほど穏やかな顔つきだったので、子犬はつい心を奪われました。


「…おまえがたすけてくれたのか?」

「運んできただけよ」

「おまえ、家はないのか?」

「あったけど、追い出されちゃったの。ほら、わたし、くさいでしょ?」

「くさいから、捨てられたのか?」

「…たぶんね。でも、わたし、頭も良くないし…。原因は他にもあるかもしれないけど…」


子犬は、この犬の話を聞いて、また人間が憎くなりました。
まるで自分のことのように腹が立ってきました。
くいしばった奥歯が、ぎりぎりと音を立てます。


「あなた、人間がきらいなの?」


犬が子犬の心を読んだようにたずねます。


「きらいだ。だいっきらいだ。おれも捨てられたんだ。おまえだってきらいになっただろう?」


「わたしは……。きゃっ!」


その時ちょうど強い風が吹いてきて、一緒に飛んできた新聞紙が犬の顔にバサリとぶつかりました。
犬は驚いてジタバタして、やっとのことで新聞紙を前足でおさえつけました。


「大丈夫か?」


子犬が犬のそばまでかけよりました。


「あーびっくりした! 大丈夫よ!」


犬はてれくさそうに笑ってごまかしました。


「あははは…。…なに? どうしたの?」


子犬が、犬の足下の新聞紙を凝視したまま動かなくなりました。
犬が声をかけても、子犬は返事もしません。


犬の足下の新聞紙には、次のような記事が大きく載せられていたのでした。







“チワワが前代未聞の人命救助!”

“お手柄犬が救助したのは成人男性!”

“しかし、どちらも未だ意識不明の重体”



子犬は人間の文字が読めないので、何を書いているかはわかりませんでした。
子犬は、写真のワッチに目を奪われているのでした。



「こ…っ、こいつ…、こいつが気になるっ!」

「あら、おともだち?」

「ちがう! こんなやつ知らない! でも気になる! こいつのところへ行かなきゃ!」


子犬はたまらず走り出しました。


「まって! どこへ行くの!?」


もはや子犬の耳には誰の声も届きません。
生身の犬の声はおろか、ハロルドの声も届きませんでした。


『おれのうらみをはらすゆいいつのしもべよ! おれのうらみをわかつものをときふせろ!』

ハロルドの叫びは、いつもより迫力がなくて、どこか頼りない感じです。
子犬ことデッチランドや、ワッチことワッチミーが、複雑なハロルドの心境を知るのは、もう少し先のお話です。


漁師の若者・イシザキに拾われたワッチは、毎日イシザキと一緒に漁港へ出勤しています。
ワッチはイシザキが漁から帰ってくるまで、事務所で過ごしています。
ここにはいろんな人が出入りして、いろんな人がワッチに話しかけてきます。
最初は落ち着かなくて疲れましたが、今ではみんなに会えない休日の方が苦痛でなりません。
人間だらけの環境で過ごしているうちに、ワッチは人間の言葉がわかるようになりました。
もちろん人間の言葉が聞き取れるだけで、話すことはできません。


「ワッチは私たちが何を言っているのか絶対わかってるよね。かしこいね、ワッチ」


ワッチの耳が敏感に反応するのは、どちらかというと女性の方です。
その女性の中でも、ワッチにとってちほちゃんという女性の言葉は特別でした。
ちほちゃんは、この事務所の中でワッチの面倒を一番よくみてくれる、やさしい人です。
ワッチは、ちほちゃんが大好きです。
ワッチが最初に覚えた人間の言葉は“ちほちゃん”でした。


「ワッチ。そのぬいぐるみかしてごらん。毛がいっぱいついてるよ。取ってあげるね」

「ありがとう、ちほちゃん!」


ワッチのシッポは、相手がちほちゃんだと激しく反応します。
ワッチがちほちゃんと幸せのひとときを過ごしている時、ちょうどイシザキが戻ってきました。
ワッチは嬉しくなって、ますますシッポを振りました。


「あ、お帰りなさいイシザキさん」
「ただいまー! …あれ!? ちほちゃんひとり!?」
「みんなご飯に行ってるよ。私はワッチと留守番中」
「そうか! ワッチ~! おりこうにしてたか~!?」


イシザキがワッチを軽々と抱き上げました。
はしゃぐワッチを見て、ちほちゃんもほほえんでいます。
ワッチは、おしゃべりして笑い合っているイシザキとちほちゃんを見ていると、また嬉しくなりました。
ワッチは、実は2人が相思相愛なのを知っていました。
ワッチが人間の言葉を理解できないと思って、2人とも独り言のように本音をうちあけていくからです。


「ワッチよ。おれの代わりにおまえがちほちゃんに伝えてくれよ」


ちほちゃんがちょっと席を外したスキに、イシザキがワッチにぽつりとつぶやきました。
ワッチはこのお願いをほとんど毎日聞いているので、すいぶん前からワッチなりになんとかしてあげてるつもりなのですが、今のところ2人には何の進展もありません。





「イシザキもちほちゃんも、恥ずかしがり屋さんだからなぁ。むずかしいよこれは…」


ワッチがやきもきしている間にもさらに時は流れて、数週間たったある日のことでした。
その日は、朝から雨が激しく降っていて、風も強く吹いていました。
ワッチは、何となく落ち着かなくて、少しイライラしていました。
原因はよくわかりませんが、なんとなく悪い予感がするのです。















「大変だ! 船が波にさらわれちまった! 連絡が取れない!」


船と連絡を取り合っていた係の人が、慌ただしく事務所に駆け込んできました。
事務所の中が一気に騒がしくなります。
ちほちゃんは驚きのあまり、呆然と立ちすくんでいます。


「イシザキがあぶない! イシザキ!」


ワッチが突然ワンと吠えました。
その声にちほちゃんが振り向いた時には、ワッチの姿はもうありませんでした。
ワッチは、開けっ放しになったドアから事務所を出て、暴風雨の中に飛び出しました。
後ろの方からちほちゃんがワッチの名前を叫ぶ声が聞こえます。


「ちほちゃん! 待っててね!」


ワッチは心の中でそうつぶやくと、足に力を込めて、海に向かって思いっきりジャンプしました。
ワッチの小さな体は、一瞬にして荒波にかき消されました。



















「…うぅ…。おれは…もう…だめだ……。ワッチ……ちほちゃん……」


イシザキは、冷たくて暗い海中にひとり漂っていました。
全身の感覚がなくなってしまい、泳ぐこともできません。
どんどん意識が遠のいてゆきます。
イシザキは、いよいよ死んでしまうのかと覚悟を決めました。


「…イシ…ザ…キ…! ……イシザキ!!」


イシザキは、薄れゆく意識の中でワッチの声を聞いたような気がしました。
しかも、犬の吠える声ではなく、人の言葉で呼んでいるのがはっきり聞こえます。
これは死ぬ直前の幻聴なのだと、イシザキは思いました。
その直後に、何かが服のエリに引っかかったような衝撃を感じました。
そして次の瞬間、イシザキの体がものすごい勢いでぐいぐいと引っ張られていきます。
イシザキは不思議に思いながらも、気を失ってしまいました。





瀕死のイシザキを引っ張っているのは、なんとワッチでした。
イシザキの服のエリを口でくわえて、急いで海面に向かって上がっていきます。
ワッチは必死で足を動かします。
あともう少しのところでしたが、急に肺が苦しくなりました。


『きさま! なにをしている! おれのうらみをわすれたかっ!』


突然、ものすごく低くて大きな誰かの声が、ワッチの脳に直接響いてきました。
それと同時にワッチのおなかにズキンと激痛がはしりました。
それはまるで刃物で何度も刺されているような痛みで、しだいに下半身がしびれてきました。
それでもワッチは、イシザキを放してなるものかと歯をくいしばり、痛みに耐えながら海面を目指します。


『にんげんはてきだ! うらぎりものはころしてやるっ!』




















そのころ漁港は、事件を知って駆けつけたマスコミたちと、奇跡的に生還した乗組員たちの家族や、彼らの救護にあたる救急隊員、行方不明になったイシザキを探すためにやってきたレスキュー隊や自衛隊などでごったがえしていました。
イシザキの家族やちほちゃんは、人ごみの中でイシザキとワッチが生きて帰って来るよう必死に願っていました。
でも、時間がたつにつれて絶望感が濃くなってゆきます。
イシザキのお母さんは、その緊張に耐えられなくなって、座り込んでしまいました。
ちほちゃんは、お母さんを励ましながら海をみつめていました。


「…あれ? なにか浮かんでる…。あれ、こっちにきてる。お母さん、あれ、なんでしょう…?」


ちほちゃんが、海面に浮かぶ何かを発見しました。
小さなボールのようなものが、どんどんこちらに近づいてきます。


「お母さん! ワッチ! あれ、ワッチですよ!」


それはワッチの頭でした。
口に何かくわえて、波の動きに合わせて上下しながら、ワッチが泳いでこちらへ向かっています。
ちほちゃんたちの騒ぎを聞きつけて、状況を察したレスキュー隊員がただちにワッチの方へ向かいました。


現場にたどり着いた隊員は、急いでボートにワッチを引き上げました。
その時、ワッチが人間をくわえていることに気がついて、その人間も一緒に引き上げました。


「おい、これイシザキさんじゃないか!? こんな小さな犬が人間をくわえてここまで…!?」
「えー、イシザキさんと思われる男性1名救助! 意識、呼吸ともになし! あと犬が1匹!」


隊員が港の隊員に無線で状況をそくざに伝えました。
イシザキとワッチの体はすっかり冷たくなっていました。


はたしてふたりは助かるのかどうか、それはもうじきわかることです。
ここは、日本の都内のどこかのペットショップです。
今日は日曜日のお昼なので、お客さんがいっぱいです。
店員さんは大忙しです。

そこへ、宅配便が届きました。
たまたま入り口の近くにいた店員さんがそれを受け取りましたが、差出人に見覚えがないので、他の店員さんにたずねました。ところが、みんな知らないと言うのです。よく見ると、伝票の受取人の欄にはここのお店の名前が書かれてあるだけで、個人名はありませんでした。
厳重に梱包されたA4サイズのダンボールが、だんだん気味の悪い物に見えてきました。
しかしこうしてみんなで眺めていてもしかたがないので、店長さんが開けてみることにしました。



















すると…なんと、中には1匹の子犬が入っていました。
しかもこの子犬は、先月までこのお店にいた子犬です。
裕福な感じの女の人が、ひと目ぼれしたと言って買っていったのです。
なのにこうして送り返されたのは、きっと子犬に飽きてしまったのでしょう。
それにしても、トイレットペーパーだけを敷き詰めた中に子犬を入れて、宅配便で送るなんてとんでもないことです。
店長は憤慨して、送り主にさっそく電話をしました。
その間に他の店員さんたちは、子犬を箱から出して、汚れた体を洗ったり、ご飯を用意したりしました。


問題の女の人と電話をすませた店長が、プンプン怒りながら子犬のいるところに戻ってきました。


「子犬が2週間前に家を飛び出して行方不明になっていたから、見つけた人が勝手にお店に送ったんだろうと言うから、だったら迎えに来てくれと言っても来ないと言うんだ。しかも、言うことを聞かない犬なんていらないし、お宅の犬は二度と買わないとまで言ってきた。なんてひどい女なんだっ」


店長と店員さんがあーだこーだと女の人を批判しはじめました。





「…そうか。“たすく”がいなくなったわけが今わかった…」


子犬の言うたすくとは、子犬が住んでいた家の先住犬のことです。
たすくは、子犬と同じ黒毛で、パグという種類の犬でした。
たすくは、初めて会った時からとてもやさしくしてくれたので、すぐに仲良しになりました。
しかしある日突然、家の中からたすくの姿が消えました。
子犬がいくらどこを探しても、たすくは見つかりませんでした。


「おれがあの家に来たから、たすくは捨てられたんだ…。そして今度はおれが…」


子犬が、たすくがいなくなったわけも知らずにさびしがっているうちに、女の人はまた新しい犬を連れてきました。子犬はその犬の種類を知りませんでしたが、その犬はとても意地が悪くて、女の人が見ていないところでなにかにつけケンカをふっかけてくるのです。売られたケンカは買う主義の子犬は、毎日その犬とわけのわからないケンカをするはめになって、なぜか子犬だけが女の人に叱られていました。





「あいつはおれがケンカしなくても、いずれおれを追い出すつもりだったに違いない」


真実が見えた子犬の心に、怒りがこみあげてきました。
目の前では店員さんたちが、まだあーだこーだと言い合っています。
それが子犬の怒りを妙にあおります。


「…ちくしょう。人間なんて勝手だ。人間なんて大嫌いだ」


子犬は、ここから逃げ出す決意をしました。
そして、店員さんたちがいなくなったスキに、あてもなくお店を飛び出しました。



子犬はなるべく人に気づかれないように、人通りの多い都会の道のはじっこを走って、路地から路地へと入っていきます。
自分がどこへ向かっているかもわかりませんでしたが、とにかく人気のないところまで出ようと、ひたすら走り続けました。


子犬が無我夢中で走り続けているうちに、太陽は沈んで、辺りは暗くなり、まもなく夜がおとずれました。





「うう…。足が痛い…。ここは人間があまり通らないみたいだし…。ここでちょっと休もう…」


子犬は小さな体をキュッと丸めて、眠りにつきました。
体はくたくたに疲れていても、心はまだ怒りで燃えていました。
子犬は人間を恨みながら寝たせいか、変な夢を見ました。


『おれのうらみをわかつものよ! いまこそたちあがれ! そしてたたかえ!』


子犬は夢の中で、これは自分の心の叫びだと思いこんでいました。
しかしこの子犬・デッチランドが、これはハロルドの呪いの言葉だと知るのは、まだ先のお話です。