猛烈な腹痛がおさまり、ワッチが目を開けると、そこはちほちゃんの部屋ではなく、天も地もない、まっくらやみでした。ワッチの体中には、赤くてなまあたたかくて細いひもがぐるぐる巻きついていて、あばれてちぎってほどこうとしましたが、宙吊りになっているので、思うように体が動かせません。



『きさま、またおれにさからったな!』






どこからともなく突然に、ハロルドの怒鳴り声がして、その音がやみの空間に響き渡り、ワッチの小さな体を震わせました。


『なぜおれのいうことをきかない!』


ハロルドの語気が強くなるにつれて、なぞの赤いひもがワッチの体をぎゅうっと締めつけます。


「うぅっ…! ど、どうして、そんなに、ハロルドさんはにんげんがきらいなの…?」

『なぜだと!? おまえはあんなひどいめにあっていながら、おまえはにんげんがにくくないのかっ!?』

「だ、だって…、あれはもう…」

『うまれたばかりのおまえを、おやきょうだいからひきはなして、かってにうりとばし、ふあんになきさけぶおまえを、やかましくてうれやしないだろうといって、うみになげすてたのはにんげんだぞ!』

「そうだけど…、そのあと、しんせつなイワシさんたちにたすけてもらったし、イシザキやちほちゃんだって、やさしくしてくれたよ…。ひどいにんげんもいるけれど、ひどいにんげんばかりじゃないよ…」

『そんなことはない! にんげんはこのよでいちばんみにくいいきものだ! じぶんにじゅうじゅんなものはかわいがり、さからうとつきはなす! おまえがしんせつなにんげんにであえたのは、おまえがチワワだからだ! ちいさくてあいらしい、おもちゃのようなそんざいだからだ! にんげんなんてしょせんそんなものだ! おまえはにんげんのうわべのかおにだまされているだけだ!』

「うぅ…。そ、そんなことはないよ…」

『まだわからんようだな。ようし、にんげんというものが、どれだけざんこくないきものかわからせてやる!』


ハロルドが言葉を吐き捨てるように言い放った次の瞬間のことでした。
どこからか地鳴りのようなゴゴゴゴという、低くて重たい音がして、やみ全体がまるで地震のようにぐらぐらと大きく揺れ始めました。空間がたてに、よこに、ななめに、非常に激しく震えています。その強烈な音や震動は赤いひもを揺らし、そのたゆみでワッチの小さな体はあっちこっちへ振り回されてしまいます。






「うわあああああああ!」


ワッチはおそろしくなって、思わず目をぎゅっとつむりました。


『みろ! にんげんによってみにくくくずされた、おれのかおをみろ、ワッチミー!!


ハロルドがワッチのソールコードを叫ぶと、ワッチミーの瞳がぱちっと開きました。
ワッチミーの眼前には、いつの間にかハロルドの顔が大きく浮かび上がっていました。
その、あまりのみにくさに、ワッチミーははっと息をのみました。

ハロルドの左耳は、人間の暴力によってひきちぎられてしまい、半分くらいなくなっています。
右目は、人間が振り回した刃物によって切られたもので、傷あとが真横に走っています。
左目は、人間の子供の悪質ないたずらによってくりぬかれてしまい、目玉が飛び出したままです。
口も同じく、人間の子供の悪質ないたずらによって大きく引き裂かれてしまい、長い舌がだらしなくたれています。


『まいにちなぐられたり、けられたりして、ときにはかわやふろばでおぼれさせられたりもした! じめんにたたきつけられたり、けをむしられたり、つめをはがされたり、いいだしたらきりがないほどのごうもんをうけた! そしてさいごはぜんしんをひでやかれたんだ!』


ハロルドがしゃべるたび、やみの空間が強く震えます。


『もやされて、もがき、のたうちまわるおれをみてあいつらは、ゆびさしてげらげらわらっていた。おれがいったいなにをしたんだ! かみついたことだっていちどもない! なのにあいつらはわけもなくおれをせめたてる! たすかったところで、またあのまいにちがくりかえされるぐらいなら、おれはこのまましんでしまいたいとほんきでおもった! だがおれはしねなかった! …おまえのことばをかりていうなら、しんせつなにんげんがひをけしてくれたんだ。

だがおれはそのしゅんかん、もうれつないかりをおぼえた!!
どうしてしなせてくれなかったんだと!!
おれにふたたび、あのあくむのようなひびをおくれというのかと!!
だからおれはそいつをかみころしてやった!!
ついでに、くるしむおれをみてわらっていた、いままでおれをいたぶってきたやつらもかみころしてやったんだ!!



ハロルドの壮絶な過去を聞いたワッチミーは、体をわなわなと震わせていました。


『おれが、あいつらのからだにかみついたしゅんかんから、くいちぎるまで、あいつらはなきわめくだけでなにもできなかった! わかるかワッチミー! にんげんとは、おろかでむりょくないきものだということが!


ワッチミーは、ぎりぎりと歯をくいしばっていました。
ハロルドの怒れる心に反応するように、ワッチミーの犬歯はぐんぐん伸びて、鋭い剣のようになりました。


『いいかワッチミー! おれのいかりをわすれるな! にんげんにひどいめにあわされたのはおれだけじゃない! こうしているいまも、おれとおなじ、いや、おれよりひどいめにあっているいぬがごまんといるのだ!』


ワッチミーの肩とももの筋肉が、もりもりと盛り上がってきました。


『もどれワッチミー! そしてデッチランドとともにたたかうのだ!!』


ハロルドがひときわ大きな声で叫ぶと、ワッチミーの体にからみついていた赤いひもがするりととけて、ワッチミーの体は、ハロルドの声に押されるように、おそろしいスピードで天高く舞い上がりました。


『おれのうらみをわかつものよ! ゆけーっ!!』


























「きゃああああああっ!!」





















「いきなり何すんだワッチ!!」

「ハロルドの恨み!」





「ばかっ! 俺は人間じゃないっ! 痛いっ!」


ワッチミーとして現実の世界に戻ったワッチは、勢い余ってデッチにかみついてしまいました。
人間の味方であったワッチは、本当にハロルドの呪いに洗脳されてしまったのでしょうか。
いずれにせよ、これからワッチミーとデッチランドの戦いがいよいよ始まります。
しかし、ワッチがワッチミーとして、デッチがデッチランドとして戦うことができる時間が非常に限られたものだということを、ふたりはまだ知りませんでした。


デッチがデッチランドとして現実世界で目を覚ましたのは、午前1時ちょうどでした。
あたりは暗くて、ちほちゃんもワッチも眠っています。
デッチランドは、しんと静まり返った部屋の片隅で、黒い瞳をギラギラと輝かせています。
股間の底から、ハロルドの呪いによる悪魔の力がどくどくとみなぎってくるのを感じました。


「ワッチ。…ワッチ! 起きろ!」


デッチランドは、ワフワフと低くうなって、ワッチを目覚めさせました。


「…うーん。あれ、デッちゃん! 気がついたんだね!」

「今の俺はデッチでもデッちゃんでもない。デッチランドだ」

「……?」

「お前より早く目覚めたんだよ。ハロルドの呪いの化身としてな」

「……!」

「お前は俺たちの運命を、俺より先に知っていながら、どうして黙っていたんだ」

「ハロルドさんの言っていたことが、よくわからなかったんだよ。ぼくがハロルドさんと会ったときは、ぼくはイシザキをたすけることでせいいっぱいだったものだから、ハロルドさんがなにを言っていたのかよくきこえなかったし、あんまりおぼえていないんだ。デッちゃんはわかった?」

「ああ。…しかし、ひとつだけわからない事がある」

「なに?」

「………マーキングって何だ?」

「まーきんぐ? …あ、おしっこのことかな。ぼく、よくするよ。それでよくちほちゃんにおこられちゃうんだけど、なぜだかどうしてもやめられないんだよ。かどっことか見ると、ついしたくなっちゃうんだもん。でもしかたがないらしいよ。おすのいぬはしちゃうもんなんだって。ちほちゃんのともだちが言ってた」

「お前、人間の言葉がわかるのか?」

「だいたいね。ぼくははなせないけど」

「それで、マーキングについて他に何か言ってなかったか?」

「なわばりのしるしらしいよ。おしっこかけたところはぼくのなわばりになるみたい」

「じゃあ、この部屋はお前のなわばりになるのか。…ところで、なわばりって何だ」

「うーん。よくわからないんだけど、おしっこかけたところはぼくのものになるっていみかしら」

「なるほど。なるほどな。そうやって世界を征服していくわけか」

「…デッちゃん、ずいぶんむずかしいことばをはなすようになったね。それに、こえがひくくなってるし、からだも大きくなってるね。デッちゃんは、ハロルドさんの言うことをきくの?」

「それが俺の運命だ。それに俺だけじゃない。お前の運命でもある。この世から人間を消すために、俺たちは戦うんだ」

「…ぼくはそんなことしたくない」

「運命には逆らえない。現にお前の股間には、ハロルドの呪いが埋め込まれているし、なぜだかわからないけどマーキングをしてしまうというのも、ハロルドに体を乗っ取られているからしてしまうんだろう」










「……うぅ…」

「ワッチどうした。腹が痛いのか」

「うぅ…。ハ、ハロルドさんがよんでる…。うぅぅ…いやだ、いきたくない…っ!」

「ワッチ!」

「うぐっ、ぐぐぐぐぐ…っ!」

「ワッチ! ……うぅっ! うお…! は、はらが…っ!」

「はっ! デ…デッちゃん!?」














『きさまがさからえば、デッチランドもおなじくるしみをあじわうことになる! さぁ! おれのうらみをわかつものよ! おれとともにたたかうことを、いますぐちかうのだ!!』








「うぐぐぐぐぐっ! そ、そんな…っ! そんなこと…っ!!」



はたしてワッチは、このままハロルドの呪いに屈してしまうのでしょうか。
人間を憎むハロルドと、人間を慕うワッチとの直接対決の行方は、次回に続きます。
原因不明の頭痛に襲われて、ワッチにとどめをさされて気絶していたデッチが意識を取り戻しました。
デッチはすっくと立ち上がりました。さきほどの頭痛はすっかりなおっていました。
デッチはまずゆっくりと背伸びをしてから、体をぶるぶるとふるわせました。
その時、床がふかふかとやわらかいうえに、あぶらっこくぬるぬるとすべったので、デッチはすてんと転んでしまいました。

デッチはさっきから、まるで耳元に心臓があるような、どくっどくっという音が気になっていましたが、その音は自分の心臓の音などではないことにきづきました。
どこからともなく聞こえるこのどくっどくっという音に合わせて、床だけでなく、この空間自体が、ぽこんぽこんと波打っています。

デッチは気味が悪くなって、ふたたびすくっと立ち上がりました。
そしてあたりを見回してみると、牛の肝臓のなまなましい血の色に似た、赤黒い光景が広がっていました。
この部屋は非常に狭くて、てらてらとあやしく光りながら波打つ赤黒い壁が、角を作らずなめらかに一面をおおっているようです。
さらにここはやたら蒸し暑くて、デッチは舌を出してはっはと息を切らせました。
いったいここはどこなのか、そして入り口も窓もないこの部屋にどうして入ることができたのか、デッチにはさっぱりわかりませんでした。






「…もしかしておれは死んでしまったのか…? すると…ここは、じごくというところなのか…?」


はたしてここは、デッチの言うとおり、本当に地獄なのでしょうか。













『おれがよんだのだ。ここはおれのとりでだ』



デッチは、急に話しかけられたので驚きました。
どこから誰が話しかけているのか知りたくて、あたりをきょときょとせわしなく見回します。


『おれのすがたはもうない。さがしてもむだだ』

「おまえはだれだ!」

『おれはハロルドという。おまえは、おれにとって、とてもたいせつな、とうといこどもだ』

「おれはハロルドなんてしらない! ここはどこだ!」

『おまえは、にんげんにきずのてあてをしてもらったな。おまえは、あのにんげんとくらすつもりか?』

「あれはワッチがかってにしたことだ。おれはにんげんがだいきらいなんだ」

『……そうだ。おれもにんげんがにくい。おれは、せかいじゅうのにんげんをころすためにいきてきた。しかしおれは、ふくしゅうのとちゅうで死んでしまった。だが、おれのうらみのねんはあまりにもつよすぎた。だからこうしてたましいだけいかされている』

「そんなことおれにはかんけいない。はやくここからだしてくれ!」

『たましいだけいかされても、にくたいがないのでは、おれはなにもできない。そこで、おまえのからだをかりて、おれはふたたびにんげんにふくしゅうをしてやるときめた。おまえがおれのいうことをきくとおれにちかうなら、いますぐここからだしてやる』

「おれはじぶんのちからでやってやる。おまえとはかんけいない」

『じゃあ、おまえはどうやってにんげんにふくしゅうするつもりだ?』

「……それは、まだわからない」

『おれは、にんげんにふくしゅうするほうほうをしっている。それはマーキングというやりかただ。マーキングでなわばりをひろげ、なかまをふやし、さいしゅうてきにはせかいじゅうのいぬとともに、せかいじゅうのにんげんをこのよからまっさつする』

「…そんなことができるのか?」

『できる。おれとおまえならできる。おまえのからだはすでにおれのもの。おれのいうことにはおまえはさからえない。そのしょうこをいまからみせてやる、デッチランドよ』

「……!」











ハロルドは、初めてソールコードを使いました。
その瞬間デッチは、強烈な耳鳴りに襲われて、首の筋肉がむくむくとふくれるのを感じました。
しっぽが鋼のようにするどくぴんとのびて、肉球は岩のようにかたくなりました。

しだいにハロルドのたましいが埋め込まれたデッチの股間に、黒いハートのマークがくっきりと浮き出ました。これはデッチが、デッチランドとして完全に変体をとげたあかしです。




『おれのうらみをわかつもの、デッチランドよ! まずは、おまえのあいぼうのたいないにねむる、おれのもうひとつのたましいをめざめさせるのだ!』










ハロルドの命令を受けたデッチは、デッチランドとして下界に戻っていきました。

運命に目覚めたデッチは、ワッチの股間に眠るハロルドのもうひとつのたましいを蘇らせることができるでしょうか。それは、まもなくわかることです。