今や我が臺灣シエパード犬界は、特殊事情下にあつて、使役犬の必要性を痛切に感じつつある島民間に、燎原の火を思はせる様な勢ひでグン〃と内地犬界のレベルに上り、水平線上のものとなつた。

犬種の向上と、仕事の出來る犬の作出に懸命である。

現在全島に七百頭のシエパード犬を有するものと思はれるが、其約八〇%は全人口五百萬の僅かに四%に過ぎない在臺内地人の飼育になるものであつて、全人口の九〇%を有する本島人に於けるシエパード犬の數は、實に寒心にたへないものがあるのであるが、之が原因は使役犬に對する認識を深める運動が不徹底であるからである。

元來漢民族は動物、特に家畜を使役する天性大和民族に勝ると言はれてゐる位であるから、今後次第に本島人間に於けるシエパード犬の認識が高まると同時に、大いに發展の可能性を有するものと思はれる。

現在帝國軍用犬協會臺灣支部は、熱心なるシエパード黨である近江獸醫部長、瀧澤獸醫大尉の指導の下に、益々會員の増加を見、全島二百に上らんとする勢ひである。

 

宮本佐市『各地シエパード界・臺灣(昭和12年)』より

 

帝國ノ犬達-シェパード
昭和15年に台湾在住の宮本氏へ売却されたカルカール。SV(独逸シェパード犬協会:犬籍簿の略称はSZ)、JSV(日本シェパード犬協会:犬籍簿の略称はJSZ)、KV(帝国軍用犬協会:犬籍簿の略称はKZ)などの畜犬団体に登録されたシェパードは、移動ルートを探るのが比較的容易です。

 

【台湾シェパード界について】


日本犬界史が「和犬と洋犬の対比」で論じられるのと同じく、台湾犬界史にも「在来犬と洋犬の対比」という視点が必要です。

近年の台湾では在来犬の研究が進み、優れたレポートが公開されるようになりました。いっぽうで「台湾の洋犬史」には目が向けられず、在来犬へ与えた影響も検証できません。

横浜・神戸・長崎という輸入窓口やペット業界・猟友会などからルーツを辿れる日本の洋犬史と違い、台湾の洋犬史を調べるのはとても困難です。
畜犬商にとっての台湾は「海外の通信販売先」という位置づけにあり、断片的な記録を探すので精一杯。軍犬報国運動の記録が蓄積されているシェパード界を中心に、台湾の洋犬史を辿ってみましょう。

 

幸いにも、日本統治時代の台湾で犬界事情を発信し続けた人物がいます。それが、台湾総督府中央研究所や台北帝国大学などに勤めていた獣医師・宮本佐市。

獣医学のみならず在来犬やシェパードに関する記録の数々を残した彼は、「日本語で読める台湾犬界史」の語り部としても貴重な存在です。

それでは、宮本先生が語る台湾シェパード史をどうぞ。

 

台湾へ移住前、まだ東京在住だった頃のカルカール。内地から外地へ多数のシェパードが移入され、それぞれの地域犬界を形成していきました(昭和12年)

 

【シェパードの渡来】

 

極東へのシェパード渡来は、明治31年からドイツ租借地となった山東省青島へ移入された「青島系シェパード」、革命を逃れたロシア人と共に満州エリアへ移入された「ハルピン系シェパード」などを嚆矢とします。

続いて国際都市上海、青島の対岸にある大連や朝鮮半島、第一次世界大戦の青島攻略戦を経て日本にも青島系シェパードが上陸。その範囲を拡大していきました。

しかしドイツ直系で箔付けしたい日本シェパード界は、呆れたことに青島系シェパードの否定に走ります。ヨチヨチ歩きの黎明期はさんざん世話になった青島シェパードを、ドイツ直輸入個体が増えた途端に「あれは雑種だった」と切り捨てる。

ドイツ盲拝の島国根性は、台湾シェパード界や朝鮮半島シェパード界、果ては満州シェパード界を忘却する過程においても発揮されました。

やがて、青島系シェパードは台湾にも上陸します。

 

未だ産聲を揚げたばかりの臺灣シエパード界に、記録する程の史料があらう筈はないと誹りを受けるかも知れないが、我が臺湾の犬界は領臺後、佐久間總督當時、生蕃討伐に雑種犬とは云へ警察犬を使用した事實もあり、彼の小型のウルフグレーの所謂青島シエパードなるものが移入されたのは十餘年前のことである。
又臺北の近郊有名な淡水の如きは、領臺四十年前西班牙人の占據した昔より、所謂洋犬なるものが渡來し、エアデール・テリア種の如きは最も古くより輸入せられた様である(宮本佐市・昭和10年)

 

台湾へのシェパード渡来は昭和初期あたりだったようですね。

昭和3~5年は日本でシェパードの大流行が始まった時期にあたり、それが台湾へ波及したのかもしれません。

 

陸軍歩兵学校から台湾へ移入されたエリック號

 

久しき以前に於ける臺灣のシエパード犬界は、前記以前に何等知る由もないが、軍用犬、警察犬としてシエパード犬が臺灣犬界に登場したのは、昭和七、八年以後の事である。
最初より不斷の熱を持續し、臺灣シエパード犬界に大きな刺戟を與へられ、また將來に於ける臺湾犬界に對しても、大きな指針となるものと一般人より尊敬されてゐる、犬と人から申上げて見たいと思ふ。

久しき以前に於ける臺灣のシエパード犬界は、前記以前に何等知る由もないが、軍用犬、警察犬としてシエパード犬が臺灣犬界に登場したのは、昭和七、八年以後の事である。
最初より不斷の熱を持續し、臺灣シエパード犬界に大きな刺戟を與へられ、また將來に於ける臺湾犬界に對しても、大きな指針となるものと一般人より尊敬されてゐる、犬と人から申上げて見たいと思ふ。

先づ最初擧げなければならないのは臺南歩兵第二聯隊軍犬班の生みの親あり、現在チエリー號を昭和七年以來愛育して居られる現在臺北第一聯隊の藤重邦彦中佐である。

次に同年屏東の李明家氏より寄附されたビローを優秀な警察犬として數々の手柄を現はし、今日に於ける高雄警察犬協會の源を作つた竹野肇巡査と、翌昭和八年に千葉の歩兵學校よりエリツク、ハリーの兩犬を入れて臺北歩兵第一聯隊軍犬班を作られた鈴木菊一大尉も、臺灣に於ける軍犬界の功勞者である。

臺灣に於けるシエパード犬界を三つに區分すると、臺北を中心とする北臺灣、臺中を中心とする中部臺湾、臺南、高雄、嘉儀等を含む南臺灣となるが、中で最も盛んなのは南臺灣であつて、北臺灣、之れに次ぎ中部臺灣は現在最も淋しい様である(〃)

 

【台湾北部のシェパード界】

 

臺北を中心とすると、北臺灣のシエパード犬界は臺北、基隆、桃園、淡水、新竹の順に発展した跡があり、臺北の犬界は臺灣歩兵第一聯隊に軍犬班が新設されてから本格的となつた様である。

先代の聯隊長小松大佐は千葉歩兵學校の教官をされた方で、軍用犬に對して早くより其の必要性を認識され、また御自分でも、當時雑種の狆の様な犬であつたが愛育されてゐて、何處の任地へもそれを大事に連行すると云ふ熱心な愛犬家であつた爲、軍犬班の新設も非常に早かつた譯である。

昭和八年の春頃であつたか、千葉の歩兵學校より有名なバード號や四郎號等の血を享けたエリツク(牡)、ハリー(牝)の配附を受け、鈴木菊一大尉(當時中尉)や竹内軍曹の研究によつて、メキ〃と兩犬は其の能力を發揮し、各所に於ける大部分の愛犬家をシエパード・フアンにしたと言つても過言ではないと思はれる。

我が臺灣に於ては、昭和九年以前までは犬の展覧會其他の會と云ふやうなものは全くなかつたのであるが、昭和九年六月二、三日の兩日、臺北市圓山動物園主催の格犬種綜合展が同園内で開催された時の餘興として、當のエリツク、ハリー其他二、三の訓練依託犬が、其の妙技を公開し、數千の觀衆に非常な感銘を與へたものであつた。

當日の審査は入場者に各々投票用紙を渡し、人氣投票で決定したのであつたが、斷然他犬をリードし、壓倒的人氣を浴びて最高點を獲得したのがシエパード犬のエリツクであつたことなどを見ても、エリツクがシエパード犬の普及に大いに力があつたことが想像される。

エリツクもハリーも當時傳令の巧みだつたリリー號(依託犬で生後一ヶ年半で死亡し、當時リリー號の訃は全島にラヂオで知らされた。軍犬宣傳の爲になると思つて、小生が放送局に原稿持参で頼んだのである)も巻尾の素人目には喜ばれない犬であるが、訓練が非常に堂に入つたものがあり、觀衆の人氣は素晴しいものがあつた。

同年翌月の二日、千葉歩兵學校軍属の高橋力氏が渡臺されたので、臺北乃木館に軍用犬の座談會と云ふ本島最初の犬の座談會が開催された。

當日は有力な新聞で廣告したり、電話などでも勸誘したさうであるが、顔振れは實に淋しく、鈴木大尉、竹内軍曹、勝浦、有高、鈴木(榮作)、宮本諸氏のタツタ六人であつた。遠來の珍客に非常にお氣の毒でならなかつたことは今に忘れられない。

離臺後内臺間の船の中で書かれた高橋力氏の臺灣犬界記をKV誌で拝見すると、五六十名も集り云々と書かれてあつたと記憶する。

確かに高橋さんの様な元氣でなければ、使役犬界は發展するものでないと、當時筆者などは痛切に感じ入つた次第である。

同年同月十五日臺北の座談會と一寸遅れて、臺南では藤重邦彦中佐(當時少佐)を中心に、犬と鳩の座談會が開催され、出席者が三十餘名もあつたと云ふ記事を見た事がある(〃)

 

【台湾中部のシェパード界】

 

臺中を中心とする中部臺灣に於けるシエパード犬界は、ニクセー號を移入して彰化に犬の學校を創立した林清經氏以外に、遺憾ながら小生の頭にはないのである。

其の犬の學校も昨年(※昭和11年)の春だつたか創立の知らせを頂いたが、其後同校の様子は筆者の寡聞之れを知らざる状態である。

併し北斗郡海豊崙の高木巡査は僻地に有つて愛犬の訓練に寧日なしとか、員林街の張金隆、林川兩氏は共同訓練所を設けて、々地方に於ける愛犬家に對し啓蒙活動を始めるとか云ふ快ニユースがないでもない。

何れにせよ中部臺灣に於けるシエパード犬界は飛躍の前か、一般に沈黙を守つてゐるが、山田、林碧梧氏の將來性を有するものと思はれる(〃)

 

【台湾南部のシェパード界】

 

 

南臺灣に於けるシエパード犬界は、高雄、臺南、嘉儀を含み、臺灣全土に於て最も絢爛たるものがある。

昭和七年の夏頃、現在臺灣歩兵第一聯隊附藤重邦彦中佐(當時少佐)がチエリー號牝と共に臺南第二聯隊に赴任され、屏東李明家氏のビロー及第一聯隊のエリツク號等の間に、三腹二十頭程の仔犬を蕃殖して、之れを全島の愛犬家に分ち、軍用犬の宣傳を實地に行つた結果、臺南地方の軍犬界は健實な發展を遂げ、藤重中佐夫妻の努力によつて作出されたシエパード犬の中、安藤中佐の太郎號、臺北渡部慶之進氏のハルト號の如きは、臺灣産にして有名な訓練犬となり、訓練犬の尠い臺灣犬界に大きな力を與へた譯である(〃)

 

台湾南部は高雄警察犬協会を中心に組織化が進んでおり、台北や台中のシェパード界とは一線を画していました。

その他、嘉義方面は下記のとおり。

 

高雄に於けるシエパード犬の大物は中野次男氏のヒルドブルーグ・フオン・グルンネンエツク牝とアラス・フオン・ヒメマツ牡を筆頭に、萩原氏ドルフ、山田氏メリー等は優秀なる訓練犬として有名である。

林子の葉天貺氏は田中氏よりデツクス・フオン・シヨーレススカンプを入手し民雄の張木氏もベロ外數頭を愛育して、同地方犬界の中心をなしてゐる。

南臺灣犬界に於ける一つの名所であるケンネルの持主嘉義の酒井寅治郎氏は、多忙な開業醫であるが、數頭の名犬と廣大なるケンネルを有し、鹽見芳四郎氏と共に嘉義犬界の中心となり、使役犬の作出に努力されてゐる。

酒井氏を分會長とするKV臺灣支部嘉義分會の發會式は、臺南分會に次いで第二回目に行はれたのであるが、本年四月四日發會記念の耐久訓練競技會まで行ひ盛大に擧行された。

嘉義犬界の將來は高雄の如く素晴らしいものがあると思はれる(〃)

 

【台湾シェパード団体の設立】

 

帝国軍用犬協会には台湾、朝鮮、青島の各地に海外支部が設けられていました。

 

台湾シェパード界の一大勢力だったのが、社団法人帝国軍用犬協会(KV)の台湾支部。

外地での軍犬報国運動(民間への軍用犬宣伝およびシェパード普及活動)は、日中戦争前から展開されていたのです。

東アジア最大の畜犬団体だったKVは、当然のように海外へと拠点を拡大していきました。ただし、戦後への禍根を残した日本シェパード倶楽部併呑時のような強行策はとっていません。

現地の畜犬団体を吸収・支部化するのが基本方針であり、青島支部は青島シェパードドッグ倶楽部、台湾支部は台湾軍用犬同好会がその対象となりました。

台湾支部設立の経緯は下記のとおり。

 

此の時代已に南臺灣のシエパード界は北臺灣をリードしていた譯である。

併しどうしても臺灣のシエパード犬界は、島都臺北にガツチリした統制機關を作らねばならないと云ふ話が持ち上り、臺北市動物園の勝浦輝氏が産婆役で、昭和十年二月二十三日を卜し、帝犬臺灣支部の前身である臺灣軍用犬同好會が誕生した。

同會の發會式は二十三日午後一時より鐵道ホテルで開催され、會員は四十名足らずであつたが、來賓としては福田守備隊司令官、桑木参謀長、土橋高級参謀、小松第一聯隊長、沼川憲兵隊長、町田獸醫部長、服部参謀、野口州知事など列席し、頗る盛大であつたのである。

式後新公園廣場に於て鈴木大尉の指揮によりエリツク、ハリー其他軍隊所属犬の訓練實演が公開され、二千餘の觀衆に多大の感銘を與へた。

軍用犬同好會の役員は當日會長河村徹氏の指名で決定され、副會長に木村泰治氏、幹事長に辻村正春氏、幹事は勝浦輝、中崎大三郎、有高與平、澤熊海三、宮本佐市の諸氏が本島犬界の第一線に立つて活躍することになつた譯である。

其後臺灣犬軍用犬同好會は二、三幹部連の反對するものがないではなかつたが、時の臺灣軍獸醫部高橋獸醫大尉、中崎大三郎氏等の熱意によつて、權威あるKVの支部に合流することになつたのである(宮本佐市)

 

 

 

一楽荘犬舎のカタログより、KV台湾支部発会式のため兵庫県から遠征したウッズ、ベンノ、フライア。いずれも警察犬資格試験(PH)に合格したドイツSV登録犬です。

 

同年の六月一日中崎氏の手でKV支部規定が作成され、六月廿六日を以てKVの理事會に於て臺灣支部設立が承認された譯である。

KV臺灣支部と云ふシエパード犬の爲めに有力な團體が出來たと云ふことを、まづ全島民に知らせなければならないと云ふので、發會記念の訓練實演が七月廿六日盛大に擧行された譯である。

併し臺灣の訓練犬は第一聯隊以外には殆んど無かつた爲に、一樂荘(※兵庫県のブリーダー)に電報を打つて永田信雄氏外ウツヅ、ベンノー、フライヤーの三犬が渡臺され、其の妙技を公開して頂いたのであつた。

當日は野球の決勝戰後圓山球場で開催した爲、觀衆實に一萬數千、シエパード犬の訓練が一萬數千の觀衆の中で實演されたなんて、恐らく日本一の盛觀さではなかつたらうか。

其後、急激にシエパード熱が昴まり、同年の十月十日より五十日の會期を以て開催された始政四十周年記念臺湾博覧會の一部に、軍用犬と軍犬資料を陳列した。

而して毎日一萬五千、全會期中七十五萬の人々に軍用犬の宣傳、普及を行ふ他、軍犬行進、訓練實演等を催し、大いに宣傳に努めた譯である。

臺博會期中に兵庫、御影の白山茂次郎氏夫妻が臺灣見物旁々、愛犬のイトとアツシーを連れて來臺され、ベテイ・フオン・ハウスハクサン(現在臺北岡本義則氏愛犬)を愛育中の基隆田中稔氏のケンネルにダンコー・フオン・ツエツペリンブラツ(現在宮本愛犬)が移入されたのであつた。

此の臺博會期中の臺灣犬界に特筆大書しなければならないことは、臺北鄭徳福氏が香川の鎌田氏よりドナール・フォン・ヅーメルスハイムを移入した事である。

其後北臺灣の犬界も益々發展の一途を辿り、翌年四月には基隆田中稔氏がデツクス・フオン・シヨーレススンプ(現在臺南葉天貺氏愛犬)を軍用犬商會の手で移入したのである。

一寸話が遅れたが、昭和十年の夏頃より臺北には鶴山商店、南方荘、軍用犬商會、竹内畜犬訓練所等の畜犬商が次々に店を構へ、相當な成績を収めて堂々と發展し出したのである(〃)

 

上記引用文中に「當日は野球の決勝戰後圓山球場で開催した」とありますが、この日の試合で嘉義農林学校は三度目の甲子園出場(夏)が決定。映画「KANO」でも知られる準優勝の快挙を成し遂げた昭和6年夏、そして一回戦敗退となった昭和8年夏に続き、今回は準々決勝まで進んでいます(奇しくも近藤兵太郎監督の母校に惜敗)。

熱闘を繰り広げる球児たちの傍らで、台湾における軍犬報国運動が始まろうとしていました。

 

遅咲きながら八重櫻、帝犬臺灣支部は素晴しいものにしなければならない。

先づ支部の發會式は小さなところでコセ〃やらずに青空を仰いで犬の訓練も行ひ、出來るだけ多數の一般觀衆を集めて發會式と宣傳とを同時に行ひ一石二鳥を得んものと計劃はして見たけれど、現在臺北は臺灣博に目抜きの場所を奪はれて人様の寄りそうな場所は殆んど無い始末。

其處で場所の選定が一苦勞であつた。

兎に角幹事會を開いて見ると、野球フアンの辻本幹事長が頗る名案を提言して下すつた。

『場所は臺北郊外の圓山球場』

『人を集める爲には時を選ぶのだ。全國中等學校野球臺灣の豫選の決勝戰が七月廿六日にあるから、その後で決行のこと』と言ふ具合に決定して會場のセツトは總て大朝で野球の爲に仕組んだものを其の儘借用する事にまで進捗した。こうなると當日の盛大は確實である。

ラヂオと新聞で盛んに宣傳する一方『皆さんにお見せする犬』を集めるのが一苦勞であつた。

電報で一樂荘を招聘したり、軍隊所属犬の出場を願つたり、民間所有犬の出場を勸誘したりしたがなか〃始めての行事だけに思ふ様に行かない。

犬の様に舌こそ出さないが毎日汗の奉仕で忙しい數日を過して七月廿六日の當日まで漸く漕ぎ付けた譯である。

午後三時、嘉農對北商の決戰はスコーアが大きいので野球フアンも決勝戰に見切りをつけあて犬の啼き聲に耳を奪はれると言つた調子。北投の辻本幹事長の別荘で、生れてはじめて温泉に入つて、スツカリ旅の疲れを癒して得意になつてゐた一樂荘のウツヅ、ベンノー、フライアの三犬が永田信雄氏に連れられて會場一隅に盛んに鼻を撫して出場を待つてゐる。

其の周圍は人の黑山だ。

野球戰の最中からマイクロホンを通じて「軍用犬協會臺灣支部の發會式がありますから、野球が済んでもお歸りになれぬやう」と盛んに場内のアナウンスが飛ぶ。

午後四時二萬の觀衆はスタンドと外野は一パイとなり出場犬が恐縮する盛大さである。

先づ辻本幹事長がマイクの前に立ち支部設立の經過報告を滿場に告げ、次いで河村支部長立ち「軍用犬普及を目的とする本協會支部は會員の熱心なる努力と軍部其他各方面各位の御後援を得て成立し、帝國軍用犬協會の一支部として参加する事になつた事は悦びに堪へない。本日發會式を擧げるに當つて炎天にも拘らず會員其他各位の参會を得た事を感謝すると共に一般の方々も軍用犬が如何なるものであるかを御覧願ひたい」旨の挨拶をなし、次に寺内軍司令官の祝辭を町田獸醫部長代讀。勝浦幹事の説明により民間所有犬の訓練初歩を公開、主人、令嬢、令息などによつて引出された未來の名犬は、中には番外珍技もないではなかつたが、觀衆をよろこばせ、次は鈴木中尉の指揮せる第一聯隊所属犬の妙技を披露し、最後に一樂荘所有の三犬が永田氏と奥島君の手により各種の訓練を公開し、壓倒的の熟練闊達さを見せ二萬の觀衆を感嘆せしめて閉會。

會後七時半より一樂荘の永田氏を交へ河村支部長をはじめ會員一同は羽衣會舘に於て頗る愉快なる座談會を開き、夏の夜に犬を語つて大會の汗を沈めた。

 

宮本生「二萬の觀衆を集めた臺灣支部の發會式(昭和10年)」より

 

KV支部設立後、台湾における軍犬報国運動は急速に拡大。

「民間にシェパード飼育者を増やし、軍犬調達資源母体を確立する」という陸軍省の意図は、台湾においても成功しつつありました。

 

其後、急激にシエパード熱が昴まり、同年の十月十日より五十日の會期を以て開催された始政四十周年記念臺湾博覧會の一部に、軍用犬と軍犬資料を陳列した。

而して毎日一萬五千、全會期中七十五萬の人々に軍用犬の宣傳、普及を行ふ他、軍犬行進、訓練實演等を催し、大いに宣傳に努めた譯である。

臺博會期中に兵庫、御影の白山茂次郎氏夫妻が臺灣見物旁々、愛犬のイトとアツシーを連れて來臺され、ベテイ・フオン・ハウスハクサン(現在臺北岡本義則氏愛犬)を愛育中の基隆田中稔氏のケンネルにダンコー・フオン・ツエツペリンブラツ(現在宮本愛犬)が移入されたのであつた。

此の臺博會期中の臺灣犬界に特筆大書しなければならないことは、臺北鄭徳福氏が香川の鎌田氏よりドナール・フォン・ヅーメルスハイムを移入した事である。

其後北臺灣の犬界も益々發展の一途を辿り、翌年四月には基隆田中稔氏がデツクス・フオン・シヨーレススンプ(現在臺南葉天貺氏愛犬)を軍用犬商會の手で移入したのである。

一寸話が遅れたが、昭和十年の夏頃より臺北には鶴山商店、南方荘、軍用犬商會、竹内畜犬訓練所等の畜犬商が次々に店を構へ、相當な成績を収めて堂々と發展し出したのである(宮本佐市)

 

台湾軍用犬同好会がKV台湾支部へ再編された後、翌年には「軍犬犬友会」も設立されています。

以降、台湾のシェパード団体はKV台湾支部、高雄警察犬協会、軍犬犬友会と各地の訓練スクールなどが割拠するかたちとなりました。

 

犬 

台湾へ移入される前のヘルシャン・フォム・ハウス ススム。SV、JSV、KVに三重登録されています(大阪府にて、昭和10年)

 

帝國ノ犬達-アラス 

台湾へ移入される前のアラス・フォン・ヒメマツ。KV登録の在鄕軍用犬でした(大阪府にて、昭和9年)

 

昭和十一年四月廿九日天長の佳節を卜し、KV臺湾支部は東京より關谷審査員を招き、臺灣最初の催しである第一回の軍用犬展覧會を開催し、四十七頭の出陳犬が初めて本格的な篩にかけられ、臺灣犬界人のシエパード犬に對する認識が深められると同時に、本格的な熱を出した譯である。

同年十一月三日の明治節には之また本島最初の催しで、KV支部主催の第一回訓練競技會が開催され、全島より廿三頭の精鋭が出場された。

最初の訓練會にしては意外な好成績を収め、特に高雄警察犬協會組の如きは、素晴しき成績を以て快勝し、賞品の殆どを獲得して凱旋し、臺北の犬界人を唖然たらしめたのであつた。

同年同月十日には二十四頭の會員犬と、三十餘名の會員を有する軍犬々友會なるものが臺灣總督府鐵道部内に誕生し、本團體は有名なる愛犬家である渡部庶務課長を會長として組織されるものであつて、共同訓練所まで有し、將來は臺灣鐵道全線に會員を作つて、鐵道作業犬まで養成しやうとする意氣込みである。

恐らく本會の如きは日本にも其の類例を見ない特殊な眞劔なシエパード犬の團體ではなからうか。

其の頃北臺灣の犬界には内地の犬界人が次々に渡臺し、シエパードの移入も次第に多くなり、昭和十二年度に於ける犬界は、KV創立五周年記念展覧會の臺灣代表犬を目指して頗る活況を呈し、二月に鄭得福氏のケンネルにアンニー・フオン・デル・ブラウブフアンネーの移入を筆頭に、ヘルシヤン・フオン・ハウススゝム、アラス・フオン・ヒメマツ其他の優秀犬が移入されたのである。

軍用犬の言論機關としてKV臺灣支部に於ては、支部報「南方軍犬」を發刊してゐたが、種々なる事情の爲第三巻以下休刊となつてゐたが、臺灣第一の週刊紙新高新報は毎週二頁犬界の爲に提供し、臺灣犬界ニユース其他を二月より滿載して、大いに犬界の熱を昴めるあど、臺北地方のシエパード犬界は、次第に内地犬界のレベルに向つて進み、北臺灣に於けるシエパード犬の數は四百頭を突破し、質も亦向上し、昭和十二年三月七日第一回の支部展とはガラリと趣を異にした素晴しい第二回の展覧會が開催されたのである。

出陳犬の血統も優秀となり、五十三頭の中より代表犬として、アラス・フオン・ヒメマツ牡(高雄 中野氏)、ヘルシヤン・フオン・ハウススゝム牡(臺北 福原氏)、ベテイ・フオン・ハウスハクサン牝(臺北 岡本氏)、フロツト・フオン・ハウスタナカ牡(基隆 李煌村氏)、メリー牝(桃園 山川氏)、カスター・フオン・ハウスインランド牡(岡山郡警察課)、テル・フオン・ハウスタナカ牝(臺北 太田氏)等の何れ劣らぬ優秀犬が選定され、本部よりは出場豫定犬が二頭なるため、ヘルシヤンとベテイーの兩犬が五月一、二の兩日、東京陸軍戸山學校々庭の檜舞臺に出陣し、臺灣犬界のため大いに健鬪して、彼の日本シエパード犬界の歴史的催しを、更に意義あらしめた次第である。

臺灣代表犬の出發前、四月十八日陸軍偕行社艇内に於て、藤重中佐、瀧澤、鈴木兩大尉、勝浦、前田、鈴木實、有馬、小松、野口、宮本の諸氏發起人となり送別訓練競技會を開催せる處、二十一頭の訓練犬と四十餘名の送別會員が集り、一般觀覧者三百餘名を數へ、可憐なベテイー、ヘルシヤンの門出をいと盛大に祝ひ、稍もすれば明朗性を缺く犬界に、送らるゝもの、送るもの總て愉快に軍犬報國の春を思はせる様な、麗はしい會合が催されたのである(〃)

 

日本シェパード犬協会(JSV)の動向については、当然ながら台湾への進出を計画していたようです。

しかしケンカ相手のKVに阻まれたのか、ソウル支部や満州グルッペと比べて台湾方面の活動は小規模でした。JSVは満州軍用犬協会と連携し、KVは青島や台湾を支配下におき、朝鮮半島ではJSVとKVが共存したという勢力図はナカナカ興味深いものがありますね。

とりあえず、台湾シェパード界も多様化へ向けて歩み始めたのです。

 

昭和十二年度の展覧會後、突如臺灣犬界に同年度のJSVの内國産優秀犬アダロ―・フオン・トウカイソーが臺北岡義則氏のケンネルに移入され、北臺灣に於ける内國産優秀犬のヘルシヤン、アダロ―の二名犬の將來が頗る興味を以て注目される様になつえ参つた譯である。

北臺灣基隆に於ける犬界は田中稔、李煌村、富山、有高、佐藤、土肥の諸氏を中心に、益々發展の途上にあり、現在五十餘のシエパード犬を基隆全市に抱擁してゐるが、早晩KV支部の分會あたりが結成され、益々其の陣容を堅めるものと思はれる。

同じく臺北の近港淡水に於ては、現在シエパード犬の數は十數頭を出でないが、谷善次氏を會長に邱秀城氏を副會長として茶縁、楢橋、洪長易の諸氏が中心となれるシエパード犬の同好會が、健實なる基礎の下に四月廿五日發會され、昨今同地方の愛犬家間に於てシエパード犬に對する認識が大いに認められつゝある模様である。

桃園に於けるシエパード犬の元祖として有名な川瀬泰司氏は、KV臺灣支部の設立當時より自ら愛犬と共に街頭に立ち、大いに宣傳に努め、其後同地方は姫野、山川氏を中心に、二十餘頭のシエパードが飼育される様になつた譯である。

何處の犬界でも同様であるが、優秀なる種犬を移入して犬種の改良を計らんとする田中、鄭徳福、福原、岡本の諸氏の如き犬界人も、北臺灣に於ける大きな功勞者には相違ないが、臺灣でシエパード犬の仔犬が育つかどうか解らない、恐らく十中八九までは駄目だらうと云ふ時、ムク毛の仔犬を求め、それを二年以上も愛育し、立派に訓練した知念氏や有馬氏の如き熱心な愛犬家も北臺灣に於けるシエパード犬界の今日を作つてくれた大きな功勞者であると私は特筆したいのである(〃)

 

数々のシェパード団体が誕生したことで、展覧会や競技会も開催されるようになりました。

台湾における人気の程はといいますと、下の写真のとおり大盛況。わざわざ日本陸軍が強要しなくても、一般市民は娯楽として軍犬報国運動に参加していました。

このようなPR活動によって、シェパードの飼育者も増えていきます。

 

昭和10年11月4日、台湾大博覧会における鎌田氏とドルフ號の訓練実演風景(×印は南方館、○印は軍用犬出陳場)

 

臺灣支部に於ては、島内は勿論、遠く内地、朝鮮、滿洲、南支、南洋よりの見物人を毎日拾萬近く呑吐する始政四十周年記念臺灣大博覧會に於て五十日の長期に亘り連日軍犬の宣傳及普及を行ひたる爲、臺灣の軍用犬界は此の間長足の進歩を來した。

洋上の樂土臺灣六百萬の島民間に軍犬熱勃然として揚り、南方生命線上に於ける軍犬報國の叫びは軍犬の吠號と共に益々盛んになりつゝあり(帝国軍用犬協会台湾支部)

 

十一月廿三日新嘗祭當日。

空は青空、北臺灣の十一月としては珍しく素晴しい秋日和だ。此の日tは前日と同様、午前十時より鈴木大尉の指揮する歩兵一聯隊軍犬班の十二頭が、臺博第二會場音樂堂に於て種々なる訓練を一般に公開し數千の觀衆よりヤンヤと拍手の雨を浴びて二時間に亘る訓練實演を終り、續いて午後一時軍部竝に民間犬五十餘頭が榮町陸軍偕行社に集合。

其處より全音樂大行進の殿を受けて、南方荘衛藤會員の寄贈せる立派な支部旗―風にナビけばボテ〃と音がする優勝旗モドキの素晴らしい逸物―を先頭に、軍犬報國其他のスローガンを大書した十數本の幟を立てゝ大デモをはじめた。

コースは群集を分けて臺日社前より臺博第一會場を通過し内地人街、本島人街の目抜きを通り抜けて大稲呈第三會場南方館に至り、支部軍犬特設館に敬意を表して更に第二會場に至り迎賓館前に於て萬歳三唱後に開散。

行進時間約二時間、臺灣の秋の陽はベラ棒に暑い。人犬共に汗の洗禮を受けてヘト〃になつたが一人、一頭の落伍者もなかつた。

當日のリーダー格は高橋、勝浦兩幹事、中崎、福原、徐幹事などは行列進行係であつた。また渡邊、衛藤兩會員が種々盡力してくれた。

此の日二時間に亘る行進中沿道は祭日と云ふ好日を利用して臺博に集るお客様で正に立錐否立針の餘地がない。

其の中を軍部犬は如何にも堂々と大道を闊歩しながら軍犬行進を續けたが、民間側は實にユーモアに富み大部分はシエパード犬の行列だ。これも宣傳價値は決してお安くはないのである。

當日の呼物は会員鄭得福氏のドナール・フオン・ズーメルスハイムと會員田中稔氏のダンコー・フオン・ツエペリンプラツツであつた。この兩種牡犬は共に新渡臺者である。

ドナールはあまりに有名な犬、ダンコーはまた内國産としては素晴らしい逸物である。又衛藤、渡邊兩會員と鎌田氏が三頭のドーベルマンをはじめに臺北に移入し行進に参加せしめ、特に觀衆の眼を喜ばせるなど臺灣軍犬界にも立派な目鼻が附いた譯である。

行進で汗に濡れた冷たい下着を脱いで一服する間もなくその日は暮れて夜が來た。

午後七時より高砂ホール會場で有志の懇親會である。支部旗を取巻いて集るもの紳士淑女三十餘名。ヤゝもすれば犬界波亂多しと聞く昨今、ナント和氣アイ〃とした會合なることよ。

互に自己を紹介し共に談じ、ビールとサイダーの滿を引き(内地は霜月、うらやましくはござんせぬか)支部旗を前にして會員木下南狼荘寫眞部の記念撮影あり、午後九時散會した。

 

宮本生『始政四十周年記念臺灣大博覧會の最後を飾る帝犬臺灣支部の軍犬行進(昭和10年)』より

 

KV台湾支部の懇親会風景(高砂ホールにて、昭和10年11月23日)

 

懇親会場に掲げられた台湾支部旗には、KVのロゴマークが記されていますね。

 

KV台湾支部の発展は、台湾島内に軍犬の資源母体が確立されたことを意味しました。

KV自体は民間ペットを登録する社団法人に過ぎません。しかし、その登録リストをもとに「シェパードを買いたい軍部」と「シェパードを売りたい飼主」を仲介する売買窓口としての機能も有していました。

つまり、KVが台湾に進出したのは現地のシェパードを軍部が求めていたから。台湾犬界の隆盛は、決して喜ばしいことではなかったのです。

やがて大陸の軍事衝突は日中戦争へと拡大。台湾のシェパードたちも、日本の戦争に巻き込まれてゆくのでした。