忘年会のお誘いが入りはじめる季節。毎年毎年「ロクでもない一年がやっと終わる」と愚痴っていますが、今年も飲んだくれて忘れてしまいたいことがたくさんありました。
「今度こそもう駄目かもしれない」と父から電話があった8月のある日。昨晩から愛犬が水しか受けつけなくなり、排泄も垂れ流し状態になっているとのこと。
「俺と母さんが徹夜で看病したけど、今日は出張があるからお前が代わってくれ」
「それは大丈夫だけど、獣医さんは何て言ってるの?」
「老犬の延命措置は飼い主が決めろ、だって」
とうとうこの日が来てしまった。ショックで仕事も上の空のまま2時間後、妹から「さっき息を引き取りました」とメッセージが入りました。
有給をとって慌てて実家へかけつけると、いつも彼が寝ていた居間の隅に、いつものように彼が寝転んでいました。
いつもと違うのは、その傍らに花が手向けてあり、妹がべそべそ泣いていて、母が役所やペット霊園へ電話をかけまくって火葬の段取りをしていて。ふと窓をみると、一匹のハエがとまっていて血の気が引きました。
もう死を嗅ぎつけてきたのか。
それから別れを惜しむ時間もなく火葬施設の営業時間終了前に亡骸を運び、夜になって遺骨とともに帰宅。
「16歳だから大往生だよねえ」と骨壺に語りかける母。泣いている妹。なにを話せばいいのかわからず、黙り込む私。
ペットの死を「虹の橋を渡る」と表現するそうですが、虹を渡るどころか、まだ庭のどこかに居るのではないか?という錯覚にとらわれます。悲しいというよりは「犬がいなくなってしまった」という喪失感で涙も出てきません。
思うことは「俺は彼にとって良い飼い主だったのだろうか?」という後悔だけ。
形見分けで彼の首輪をもらい、「ついでに残っているドッグフードは要らない?」「要らない」と後片付けも終わり、犬のいない生活がはじまりました。
小学生の頃から我が家にはずっと犬がいて、それが初めていなくなったことで「会話が途切れたらとりあえず犬に話しかける」「手持無沙汰なのでとりあえず犬を撫でておく」という行為が大事な潤滑油だったことを思い知らされました。
なんか、犬がいないと間がもたないのです。
薄情な私は百閒先生のようなペットロスに陥ることもなく、以降も平々凡々な毎日を送っていました。
酷暑にウンザリしながら出勤して、食事して、洗濯して、遅ればせながら新型コロナに感染して、それで延期していた定期検診を受けるために病院へ行って。待合室でぼんやりテレビを見ていたら、NHK「みんなのうた」が始まりました。
そういえば、「みんなのうた」を見るのは何年振りでしょうか。
9月の放送は緑黄色社会の『僕らはいきものだから』。綺麗なアニメーションだなあと眺めていたら画面の中をイヌがウロチョロしはじめて、あ、コレはヤバいと思ったとたんに涙を抑えられなくなってトイレに駆け込みました。
あの演出は反則だろう。不意打ちを喰らったようなものです。
洗面台で顔を洗っていると、トイレを済ませたご老人が、場所が場所だけに深刻な事情でもあると察したのか「まあ、しっかりしなさい」と声をかけてくださいました。
……痛風の薬を貰いに来ただけなんですけどね。
近代日本犬界をネット上で再現するのだ!などと意気込んで2009年にスタートしたこのブログですが、愛犬をうしなった2024年現在は、まるで無数の犬たちの墓守りをしているような心持ちになってきました。
信仰心ゼロの私がいうのも何ですが、百年前にこの世を去った彼らへの「慰霊のようなもの」を軸に据えるべきなのかもしれません。
しかしまあ、本当にロクでもない一年だったな。