昭和10年4月、生後70日で宮本佐市獣医の愛犬となったグスタは、竹内訓練士の指導のもと台湾警察嘱託警察犬としての活動を始めます。
きっかけは宮本先生の知人宅が空き巣に狙われた事件でした。

僅か2、3日の間に数回も空き巣に侵入され、困り果てた知人が宮本さんに相談をもちかけます。
「次に侵入されたら現場を保存し、すぐ通知するように」と申し合わせてから2日後の、昭和11年4月9日午後0時。「泥棒が侵入した」との連絡を受け、竹内訓練士、宮本先生、グスタ、台北北署の横塚刑事らは現場へ急行しました。

追跡を開始したグスタは、金を盗まれた押入れのトランクから臭跡を辿って座敷を通過、勝手口から裏庭へ出て隣にある学生用の下宿へ進行。
その家の座敷から2階への階段を上り、2階床の間に並べてあったテーブルの講談雑誌に辿り着きます。犯人の臭いは、雑誌掲載の近代書簡集恋愛課(古川南湖著)のページに付着していました。
「このテーブルの持ち主が犯人で、恐らくは恋愛中の不良学生であろう。金を盗んでから女にラブレターを書こうとして、恋愛課のページを読んでいたのではないか?」
というのが捜査チームの推理でした。

程無くして、犯人は逮捕されます。

 

犯人はグスタの示したテーブルの主ではなかつたが、其後北署刑事の捜査の結果、其の家の使用人で、しかも犯人の自白によるとN君の家から金をせしめて犬の示した通り勝手口より裏庭傳へに其の家に歸り、二階に上つて犬の示した卓子で講談本を讀み、恐しい罪を犯した心を沈めて暫くしてから戸外に出たと云ふ事實が判明した譯である。
四月十四日だつたか、私は何時もの様に學校で仕事をしてゐると、北署の横塚刑事より『驚きましたよ、ヤツパリ犬の示した通りでした。犯人も『誰か見てゐたか』と言つて驚いてゐます』と云ふ電話を受け、其の夜はグスターを床間前に座らせて、さゝやかな祝賀会を開いた様な次第である。

宮本佐市『愛犬の手柄を語る(昭和11年)』より

 

基隆(キールン)の台湾警察犬

 

台湾は日本最初の警察犬が誕生した地です。迷走し続けた内地警察犬界と比べて、警察犬の先進地域でもありました。

しかし、ネット上では「日本最初の警察犬は、大正元年に警視庁が採用した」と解説されていますよね。東京の国会図書館で東京の記録だけ調べていると、近代日本のエリアを俯瞰できないのでしょう。

「日本の警察犬史」を名乗るシロモノの多くは、ただの単なる「警視庁の警察犬史」に過ぎません。他府県警や外地の警察犬たちは、語るに値しない存在なのでしょうか?

その傲慢さと視野狭窄を炙り出すのが、台湾の警察犬史なのです。


【日本最初の警察犬たち】

山岳民族の抗日運動を隘勇線で抑え込んだ台湾総督府ですが、それでも武装蜂起は続きました。
密林を自在に行動する山岳民族の戦士は、険しい地形に四苦八苦する日本兵や警察官を翻弄。航空機や野砲まで投入した日本側でしたが、ゲリラ戦に引き込まれて次々と犠牲を出してしまいます。

血で血を洗う山岳戦の現場で採用されたのが「蕃人捜索犬」。これこそが日本最初の警察犬でした。
 
帝國ノ犬達-PH1隘勇線を警備する台湾警察隊と洋犬(明治45年撮影)
 
ヨーロッパの警察制度視察や海外文献を介し、「警察犬」なる存在を日本人が知ったのは明治40年代のこと。
同時期から探偵犬(鑑識)、警邏犬(警備)、水難救助犬(レスキュー)の概念が輸入され、警視庁、神奈川県警、兵庫県警などでは警察犬の研究もスタートします。
 
その頃すでに、台湾では警察犬の運用が始まっていました。
しかし、台湾の警察犬は西洋の警察制度を流用したものではありません。山岳ゲリラ戦への対抗策として、現地で誕生したのです。
 

山岳民族の鎮圧作戦で思わぬ苦戦を強いられていた日本陸軍及び台湾警察ですが、抗日武装蜂起への対抗手段も色々と講じられていました。

明治42年、台湾総督府民政部は「蕃務本署」を設置。警察力をもって山岳民族への理蕃政策(撫育と反乱鎮圧)を強化しました。

翌43年に台湾総督となった佐久間佐馬太は、台湾の近代化に注力。理蕃政策にも多大な予算と人員が投入され始めます。

同年9月13日、蕃務本署は「畜犬を飼訓して、生蕃討伐の際其の先發隊に蕃人捜索の目的に供用せん爲め」に警察犬の訓練を開始しました。

犬を採用するキッカケは、下記の様な出来事だったといいます。

 

▲奇縁の飼初
理蕃部が此有益なる捜索犬を飼育するに至れる動機は恰も(※明治)四十三年春、飯島警部が隘勇線を巡回する途次、一頭の野犬尾を振つて飄然警部を慕ひ來れるより、愛犬家の警部は其儘放つに忍びず巡回を繼續する内、其野犬は隘勇線の鐵條網に添うて幅三四十間宛雑草雑木を苅除せる平地より彼方の茂地に出没して駆け回り、 何物か漁り歩く様の何物にか利用し得べく見えしより、遂に茂みに隠れたる敵蕃を捜索せしめ襲來に備へんとほ思ひ附けるなり。
▲苦心の教練
恰も好し、當時理蕃部にても捜索犬使役問題起り、警部に命令下りたるより直ちに四方よりポインター及びブロードタンドの雑種犬五頭を貰ひ集め、之を隘勇線附近の小高き場所に連れ出し、當初は通行人と見れば唆し蒐けて猛烈に吠えしめたり。然るに、初めは唆し蒐けつゝありたるものが、遂には今にも咬み付き飛び蒐る様の勢にて、通行人さえ見れば吠ゆるに至りしにぞ次で十字街の曲角に連れ行き、不意に角より現はるゝ人に吠えしむる練習をなせり。其練習の卒業後は一本道に連れ出して一隘勇を變装せしめ、右手の茂地三間許り奥に隠れしめて二丁程此方より犬を放つに、犬は驀然に突進して其附近に至り、發見すると共に吟々と吠え立て怒り立つ。
斯くして漸く仕込みたるものにて嗅覺は年月を經るに從つて強烈となり、昨今は一度敵蕃を發見して吠え立つれば、間もなく歸營するに至れりと(報知新聞より、大正元年)

 
飯島警部が犬の使用を思いついた明治43年、蕃務本署は11頭の「蕃人捜索犬(品種はポインターとブラッドハウンド)」を購入。先に一年間の訓練を終えたジョン、ベル、ポチの3頭を台中庁警察隊へ配属し、南投地域における山岳民族鎮圧作戦へ投入します。
大正時代以降は希少犬となるブラッドハウンドですが(国内繁殖で増やそうにも、交配相手を探すことすら困難だったとか)、明治時代にはまとまった数が輸入されていたのでしょうか?
※ちなみに、南投県が台中県から分離したのは1950年です。
 
PH2
眉原社掃討作戦のため採用された台湾警察犬のリスト(「ポケ」は「ポチ」の誤植)。ゴウとジャックが高価なのは、神奈川からの輸送費込のためです。
 

明治43年9月より、成犬ジョン、ベル、ポチ、ボス、エスの5頭に対して訓練が開始されました。翌44年3月に神奈川から到着したゴウとジャック、また、未成犬のキング、ライト、タン、ルンは「生後六ケ月ニ満タザルニ依リ教習セズ」という事で、第一線への配備は大幅に遅れます。

これら台湾警察犬の馴犬所(訓練所)は、台中庁下東勢角支庁隘勇線牛欄坑監督所に設置されました。蕃人捜索犬教養期間は一年間とし、第一期及び第二期の修業が各々三ヶ月間、第三期の修業は六ヶ月間となっています。

 

第一期教習課目
(イ)犬舎の記憶
教養せんとする各犬は給與したる自己の犬舎を記憶せしめ、他犬の住居を侵さゞることを教習す。
(ロ)殘留犬の静粛
友犬の外出に際し静粛に殘留し、又は實地演習に出るの際、友犬と分離して或る場所に一時停止殘留することを教習す。
「座レ」の命令にて犬の尾頭骨部を押して後脚を折り前脚を直立せしめて蹲踞せしむ。
「待テ」の命令にて犬を一定の場所に五分間乃至十分間停止静座せしめ漸次停止の時間を延長して二十分乃至三十分間宛練習せしむ。
「善シ」の言語にて以上の命令を解除す。
(ハ)指揮者に犬の随從方
常時の引率は犬を指揮者の左右膝關節後方又は側方に随從することを練習す。
(ニ)道路直進
元來犬は其の本能性をして道路を行進する際路上のみを直進すること稀れにして、常に左右側方に嗅索し、時に茅草中に入り禽獸類を追嗅するの癖を有するものなれば不知不識の間に此の癖に馴致して蕃人捜査の本能を忘却するものなれば、此の癖を矯正せん爲め、道路を直進することを練習す。
道路直進の際は犬は指揮者より二町(約220メートル)乃至三町前を進行せしむることを練習す。
(ホ)視覺聴覺に因る假装蕃人誰何
視覺に依り假装蕃人を發見誰何せしむる方法は異装せる假装蕃人を設け犬を距ること二十間(約37メートル)乃至三十間屈曲せる路上又は坂路に停留せしめて、教習犬をして其の假装蕃人に疑を抱かしむると同時に吠へ掛らしむ。聴覺上より教習せしむるものは假装蕃人を犬の進行すべき道路に沿ひたる路傍の茅草中に潜伏せしめ、犬の前進し來るを待て周囲の草木を動揺して犬に疑心を湧起せしめて其の茅草中へ吠へ掛らしむ。
(ヘ)假装蕃人を嗅覺上より發見
假装蕃人を嗅覺にて發見することを練習するには、初め圖に示すが如く指揮者は犬を牽引して道路を行進し、經路との分岐點に至り静かに犬の繋鎖を解き、犬を經路に向け指揮者は右手を以て指示し假装蕃人の潜伏を暗示す。犬は其の暗示に應じて前進せんとするも左手を以て犬の頸下部に當る頸輪を押へて直に犬を放され再三侵入を暗示して充分捜索犬の氣力激奮し來るを待て驀進せしむ。
指揮者は指示點にありて犬の吠聲を聴かば直に警笛を鳴して犬に復歸を命ず。
發見されたる蕃人は捜索犬の復歸するを見計ひ、携帶する蕃人臭ある臭布を地上に引き摺りつゝ逸早く遁走するが故に更に捜索犬をして之を逐跡せしむ。逐跡して假装蕃人を發見する場合は、喧聲を上ぐれば前回の如く警笛を鳴して犬に復歸を命ず。


訓練

中央獸醫會『蕃人捜索犬訓練圖(大正4年)』より

 

第二期教習課目
(イ)銃聲馴致
捜索犬を距ること約三百米突の距離に一名乃至二名の隘勇又は假装蕃人を置き、捜索犬に彼れを熟視せしめ指揮者は犬の頸輪を左手に押へつゝ、使嗾して犬の氣合の熟するを見て、指揮者は右手を擧げて發砲者に相圖を為せば、假装蕃人は此の相圖に依り發砲するが故、指揮者は發砲者に向て使嗾すべし。犬は其の使嗾に応じて假装蕃人に吠掛るべく猛進すれば直に警笛を鳴して捜索犬を中途より呼戻すことを練習す。
(ロ)河川を泅泳或は徒渉して彼岸捜索
討蕃前進中河川に遭遇し彼岸の捜索の必要あるを以て之の任務を遂行せしむることを教習するにあり。此の練習は豫め假装蕃人は河川のある場所を見計ひ臭布を引き摺りつゝ、河岸に下り其の臭跡を残し河を渡渉して彼岸の茅草中又は樹林中に潜伏するを見計ひ、其の臭氣を逐跡して發見せしむることを練習せしむ。
(ハ)月夜の捜索、闇夜の捜索、暴風雨時の捜索
以上三種の捜索を練習せしむるには、指揮者は先づ犬舎に行きて突習せんとする犬のみを同伴し、自己の室内に入らしめたる後、指揮者は外出の準備を爲し終わりて何事が湧起したることを犬に感知せしむることを練習す。(捜索順序前に同じ)。
(ニ)一人の指揮者に四頭の犬を牽き、同時に左右両面に各個二頭宛索進せしむることを練習す。

 

第三期教習課目
※記録が残っていません。

 

結構高度な訓練内容ですが、いきなりこのレベルの教範を完成させられるとは思えません。配備以前から、蕃務署では警察犬の研究を進めていた筈です。
しかし、犬の訓練教本など数える程しかない時代。外国からの参考文献購入や狩猟家による指導などもあったのでしょうか。

 

【眉原社掃討作戦】

 

蕃人捜索犬が実戦投入されたのは明治44年のこと。この年、南投庁及び台中庁警察合同による眉原社鎮圧作戦が開始されます。
同年春より南投庁警察隊は眉原山を砲撃。一旦は眉原社を奥地へ撃退しますが、「蕃人等は地勢の嶮を恃み、巧に隠見出没し、稍もすれば砲撃の困難なるに乗じ時々出草し凶害を逞ふし警備員に危害を與ふる事少なからざる」とあるように、小規模な衝突は繰り返されていました。

その頃、台中県の阿冷(アラン)社でも不穏な動きが察知されます。尾形山隘勇線外での捜索行動の際、警察へ銃器を引き渡して帰順の意思を示した彼らですが、眉原社の奮戦に影響され再び武器を手にしようとしていました。
眉原社の制圧には、阿冷社を牽制する目的もあったのです。

 

眉原社鎮圧作戦には、555名の警察官と5頭の警察犬が動員される計画でした。
台中庁隊では、保有する11頭の中から一年間の訓練課程を修了したジョン、ベル、ポチ、ボス、エスの投入を決定。しかし、ボス号は妊娠している事が判明した為、直前になって作戦から外されました。エス号も発情期を迎えており、勝手に訓練所へ逃げ帰ってしまいます。

 

犬
台湾総督府の蕃人捜索犬

 

10月5日、眉原社潜伏地点に対して南投警察隊が攻撃を開始。同時に、3頭の警察犬を連れた台中警察隊も別ルートで出撃しました。
台中警察隊は白冷隘勇線監督所から大甲渓左岸に沿って出発、クラスワタン部落経由で檜山を占領後、姑大山支脉の峻険な高地を踏破しつつ迂回行動をとります。

隘勇線正面から進攻してくる南投警察隊に対し、眉原社は激しく応戦します。その戦法はいつもの通り、山岳地帯で動きの鈍る日本隊をゲリラ戦術で撹乱疲弊させ、出血を強いるというものでした。南投警察隊の損害は大きく、戦闘によって33名の警官が殉職しています。
しかし、これは日本側の陽動作戦でした。
10月7日、眉原社の背後に回り込んだ台中警察隊は、警察犬ジョン、ベル、ポチを尖兵として奇襲攻撃を開始します。

南投庁隊との戦いに気をとられていた眉原社は、完全に虚を衝かれました。

 
明治四十四年十月五日を以て討蕃行動開始され、越えて七月午後七時三十分無事南投廳との連絡を達成した我臺中前進隊は、今や列岳攅峰の間に軍を進め、凡ゆる艱苦に耐へ、掩堡の築造、樹木の伐採、道路の開墾等専ら敵蕃の警備を嚴にしつゝ進行した。
今回前進に於て我軍の成功、捜索犬、音響信號の奇功等に就て得たる件を順次左に録載せんとす。

先づ白冷隘勇線監督所より大甲渓に沿ひ舊クラスワタン部落より檜山を占領し、向姑大山支脉の高地附近迄延長五里に亘る新線を前進せられし者にて、殆んどハイハラ社蕃の後方遥かなる地點を横斷し、南投隊長の連絡を取りし者なるが、南投隊長にては亦臺中隊に連絡を取るべく第二次行動を起し、ハイハラ蕃地より臺中隊に向ひ稜線を距ること一理餘にして兩隊の連絡に成功せり。
台中前進隊の行動は敵蕃の夢想せざりし所に進みたる爲、彼等の掩堡の如き總ての戰鬪準備は南投前進隊にのみ仕向け居りし形跡あり。
 
然るに圖らず臺中前進隊は峨々たる峻山險路を攀ぢ登り、豫定の連絡を取らざる限りは如何なる艱苦をも敢て辭せずと、身命を賭して七日の行動の如きは僅かに二食を取り、一食は南投隊との連絡を得んとの勇氣と、自信とを以て三頭の捜索犬を最先頭として猛進し、急遽背面を衝きたる爲め彼等の周章狼狽一方ならず、家財は勿論、唯一の生命と頼める銃砲彈藥をも打捨てゝ逃走した如き、未だ會て先例なき有様を呈して、就中一笑に附したきは飯米等未だ鍋中に、亦暖き飯の茶碗に盛りたる儘等、誠に其の恐怖の度著しき者があつたと云ふ。

捜索犬の行動
捜索犬の捜索状態に依り、且つ大體の形勢に徴し、未だ同方面附近に於て怪むべき蕃情を認めざりしを以て、徒に之が爲の部隊の進行を遅緩せしむる策の得たる者にあらずとし、指揮者は警笛を鳴らし各犬に復歸を命じたり。
彼等は此の聲を聞くや平時の練習を忘却せず復歸し來りて指揮者に随從せり。
然るに連絡地點を距る約一千米突の所に達したるの時、蕃路の左方森林中に當り猛烈なる吠聲を聞く。隊員は注意を拂ひ路を挟んで散開す。
吠聲次第に渓底を降る。
藤山巡査は(犬の指揮者)警笛を鳴らし犬に復歸を命じ、員隊係として進行し、捜索犬の吠聲を揚げたる地點は目通り直徑一尺位の樹木の皮を削りたる新しき形跡と、其の附近の細木を蕃刀にて薙ぎ倒したる形跡ありたり。
是等に徴するとき捜索犬の吠聲に先だち該附近にて何事か作業しつゝありし蕃人を發見して突然吠へ掛りたるものならんか。
時既に日は没し、月輪天空に懸るも、密林深く閉され四圍を物色すべからず。
而も尚ほ未だ南投隊の所在地に達するならんと推斷せられたるの稜線は實に此の臺中部隊の進みつゝある一稜線あるのみにて、又蕃路も其の方面に通ずるの感あり。
隊員何れも連絡を取らざれば已まざるを期すると同時に、一層捜索犬を劇勵して索進するの時、通路の前方に當り突然烈しき吠聲起りたるを以て、本郷部隊長は直ちに前へ駈け足の號令を下した。
吠聲又左方の渓谷に落ち、犬又復歸して急を先頭者に告ぐるものゝ如くして再び闖入索進を續行した。又々猛烈なる吠聲は進路の前方に向つて起りたるを以て、之の方向を觀察すれば、その進路の山地には十數軒の蕃屋が點在するのを發見した。此の小屋を點檢するに前記記載の如く焚火したる儘、或は飯を炊きたる儘の鍋等あり。又家財什器は凡て遺棄してあつた。尚附近には堆積した籾が高さ六尺に垂々たる者數箇所にあり。
尚進むにつれ路傍には蕃人の脊負籠に苧麻(からむし)を入れたるもの十數個を發見した。
此の狼狽の限りを盡して遁走した情況を見た隊員は、異口同音に犬の猛烈に追撃したる功績を賞すると共に、全軍の意氣將にハイハラ蕃を壓するの概があつたのである。
又犬を捜索せしめたるに、漸く一の展開せる地點に進出し、遥に前方に一高地を望むを得たる爲め、直に音響信號は臺中隊より送られるに至り、又高地よりも信號があつた。
それによれば、下方の鞍部には既に臺中隊を待つ南投隊があると云ふ。
依つて一同衆口一斉に萬歳を叫ぶと、下方の南投隊も又之に應じて萬歳を叫びて喊聲が山谷を震撼した。捜索犬と音響信號の應用は豫て研究中のものであつたが、蕃隊に行はれたのは今回を以て嚆矢とする處である。
其の成績は臺中隊前進行動に於て實驗せられ、而も二つながら殆ど遺憾なきの一大良成績を得たのは臺中隊の前進行動の成功と共に永久に賞揚して祝福すべきものであつて、今後の討蕃上に裨益する所が少くないであらう。
 
中央獸醫25‐4號『蕃人捜索犬實地應用』より
 

この作戦で警察犬の能力を評価した佐久間台湾総督は、さらなる配備拡大を決定。警視庁が2頭の警察犬「バフレー」「リリー」を配備した大正元年、台湾警察犬の数は16頭に増加しています。

大正2年になると、神戸から猟犬訓練士の田丸亭之助を招いて本格的な警察犬訓練が始まりました。
ヨーロッパで猟犬の訓練法を学んだ田丸氏は、台湾総督府での取り組みを下記のように述べています。

 

大正2年、故佐久間臺灣總督の招きで渡臺し、臺中県東勢角支庁牛欄抗隘勇線に於て、係りの警部二名と共に討蕃犬の養成に努めたことがある。當時討蕃に際して最も困難を感じたのは、蕃族が密林中に隠れて討蕃隊の通過するを待ち受け、巧みに之れを射撃する事であつたから、之れに對し警察犬を採用しようといふ總督の意見に基いたのであるが、警察犬といふものゝ、半ば軍用斥候犬の性質を帶びたものであつた。

予は此の訓練に着手するに當り、先ず第一に生蕃特有の体質と、彼等が常用する一種厭ふべき煙草の臭氣が衣類に沁み込んでゐる事に着目した。
依つて生蕃の着用してゐた例の赤い衣類を、隘勇に着せて化装生蕃を拵へ、第一にその足跡を追はして見た。これに成功して次はその化装生蕃を密林中に隠して着衣の臭氣により捜索せしめた處、之れも容易に發見することが出來た。
今度は歸順蕃の捜索にかゝらし、愈可能と認めたので、最後に討蕃隊に連行して眞物の生蕃を豫知するに至つたのである。目下其等の犬は彼の地で飯島警部が専ら使用して、相當の成績を擧げてゐると聞いている。

 

田丸亭之助『畜犬標準書(大正4年)』より

 

明治34年、長谷場純孝衆議院議員との狩猟に出かけた田丸亭之助。ヨーロッパで猟犬訓練法を学んだ彼は、大正時代に台湾警察犬の指導にあたりました。
 
16頭だった警察犬も300頭へ激増。高価なポインターやビーグルではなく野良犬を調達することで大量配備へ対応しています。
 

そこで私の發案で付近の野良犬を三百頭も集め、日々牛を何頭か殺して食物に與へ、そしてこの犬達に生蕃の服装をさせた熟蕃に矢鱈に噛付かせることを教へ、その犬を警戒線に引率する事にした。生蕃は射撃に妙を得てゐるけれども、蕃銃は十間位しか届かない。そこで如何に上手にかくれてゐても、直に犬に發見されて、その後は殆んど被害がなくなつたものである。この時私の貰つた辞令は、『捜索犬調教事務を託す』であつた。
田丸亭之助(昭和9年) 

 

田丸氏は警察犬の訓練も再検討。猟犬と同じく山野での捜索方法へ転換します。

昭和5年の霧社事件を最後に抗日蜂起は鎮静化へ向かい、警察斥候犬たちは対ゲリラ任務を離れて本来の犯罪捜査に就きました。

 

蕃界捜索犬訓練の爲め、臺灣蕃務本署の招聘に依り渡臺したる田丸亭之助氏が臺地銃獵界諸氏の爲に、自ら訓練せる獵犬の使用法を示し、且つこれが訓練の要旨を語るべく二月廿一日午後五時より臺北新公園に於て之を實施したるが、氏の連れ行ける獵犬はポインター種二頭にして何れも其の訓練の行届けると、犬の敏捷なるとに驚嘆せしが、此實演了りて有志者二十餘名は氏を「ライオン」に招きて晩餐會を開き、席上に於て獵犬訓練談を乞ひ、何れも熱心に耳を傾けたるが、氏の談は最も懇切にして質問に對し一々解答を與へ出席者一同滿足感謝の意を表したりと。

目下牛欄坑には廿五頭の捜索犬を飼養し、是まで隘勇をして蕃人に假装せしめ、捜索方法を訓練し來りたるが、田丸氏は之では蕃人の匂を嗅させるに遺憾ありとて、線内蕃人(※山岳民族のうち、台湾総督府に従う勢力は隘勇線の内側に居住していました)六名を五ヶ所に潜伏せしめ、試みに捜索せしめたる。二ヶ所の蕃人は之を發見したるも、其餘の三ヶ所は發見するに至らで成績十分ならざりき。

田丸氏は評して曰く、斯る劣等なる犬を斯の程度迄に訓練したるは餘程骨の折れたる事なるべしと。

また潜伏者と爲りし蕃人は曰く、日本犬は鼻が利かぬと見え、自分が隠れ場より約二間の處まで來て遂に發見する能はざりき。

斯くては鹿の上を飛び越へても鹿を發見し能はざる可し。

而かも捜索する時の勢は頗ぶる猛烈なれば、臭覺作用鋭敏とならば偉大の効を奏す可し云々。

 

『蕃人捜索犬の訓練(大正2年)』より

 

【台中の警察犬】

 

明治時代に蕃人捜索犬を採用した後、台湾警察犬の運用状況はよく分かりません。

台湾へ遠征する日本人ハンターが増え、猟犬訓練法も普及した昭和期に入ると警察犬の記録が増えはじめます。

 

 

臺中を中心とする中部臺灣に於けるシエパード犬界は、ニクセー號を移入して彰化に犬の學校を創立した林清經氏以外に、遺憾ながら小生の頭にはないのである。其の犬の學校も昨年(※昭和11年)の春だつたか創立の知らせを頂いたが、其後同校の様子は筆者の寡聞之れを知らざる状態である。

併し北斗郡海豊崙の高木巡査は、僻地に有つて愛犬の訓練に寧日なしとか、員林街の張金隆、林川兩氏は共同訓練所を設けて、同地方に於ける愛犬家に對し啓蒙活動を始めるとか云ふ快ニユースがないでもない。

何れにせよ中部臺灣に於けるシエパード犬界は飛躍の前か、一般に沈黙を守つてゐるが、山田、林碧梧兩氏などの熱心家もあり、大いに發展の將來性を有するものと思はれる(宮本佐市)

 

警察犬の運用が本格化したことで、青森県、大阪府、徳島県、香川県、福岡県、そして台湾でも警察犬団体が組織されました。
台湾警察犬界の中心となったのが高雄州です。
 
三月廿九日、高雄州警察犬協會發會式を午前九時より西子湾グラウンドに於て會長宮尾警務部長、橋本刑事課長及び萩原、中野、陳啓清、李明道の諸氏と官民愛犬家多數並に警察犬四十數頭も参加し、盛大に擧行。
終つて訓練競技大會に移り、州下各地の代表犬十四頭出場し、午後一時過ぎ散會したが、快晴と休日に恵まれ一般市民の觀覧多く大賑ひであつた。
 
高雄州警察犬協会(昭和11年)
 
 
高雄警察犬協会のもと、台湾南部では警察犬の配備が拡大。
その数は昭和11年の協会設立時点で14頭にまで増加しており、僅か数頭だった警視庁直轄警察犬(昭和12年に再配備)の規模を凌駕していました。
 
其頃(※昭和9年)臺灣の各新聞にシエパード犬のお手柄が再三報道され、三面の好話題として人眼をひいた。話題の主は、高雄州刑事課の警察犬ビロー號であつた。
ビロー號は十年前よりシエパード犬に心を惹かれて熱を上げた屏東の李明家氏が、刑事課に獻納した森内章介ケンネル産のカールの仔である。
昭和七年の春頃より同刑事課の竹野巡査は、此のビロー號を入手して警察犬としての課目を十二分に注入し、犯人逮捕、捜査に應用し、實用上の眞價を發揮して上司を感激せしめ、高雄警察部長宮尾五郎、刑事課長橋本九八の兩氏は昭和九年十一月一日其の陣容を整へ、鞏固健實なる基礎と人材を有する高雄警察犬協會(T.P.H.V)の施設を確立し、更に多數の新犬を移入して、竹野、大野兩氏は之れが訓練に當り、昭和十一年に至りて愛犬家の高橋警務部長、清原刑事課長の代となり、本格的に高雄州管内各郡警察課及警察署に訓練犬を配備したのである。
現在高雄洲に於ける警察勤務犬の總數は、高雄警務部長のブルノー號を始め左の十四頭である。
 
高雄州警察刑事課所属警察犬
ブルノー號 牡(高橋警務部長飼育)
同 
ケンフエル號 牡(清原刑事課長飼育)
アレツクス號 牡(竹野巡査飼育)
マリー號 牝(竹野巡査飼育)
潮號 牝(蕃殖の爲民間貸下中)
 
高雄警察署所属警察犬
グリフ號 牡(工藤巡査飼育)
 
岡山郡警察課所属警察犬
カスター號 牡(堀越刑事飼育)
エルフエ號 牝(膝山巡査飼育)
 
鳳山郡警察課所属警察犬
バロン號 牡(邱刑事飼育)
 
旗山郡警察課所属警察犬
シユツツ號 牡(中村刑事飼育)
 
屏東郡警察課 同
エイチ號 牝(緒方刑事飼育)
屏東警察署 同
ゼツト號 牡(山越刑事飼育)
 
潮州郡警察課 同
ビロー號 牡(元祖犬 現在七歳)(吉原巡査飼育)
 
東港郡警察課 同
メリー號 牝(余田巡査飼育)
 
以上、警察官の管理するシエパード犬は、現在日夜警察官の助手として職場に就き、常に良好なる成績を収めつゝあるのである。
高雄警察犬協會に於ては、本年度(※昭和12年)は更に訓練の達成を期すると共に、優秀なる警察犬の蕃殖計劃を樹て、州下警察官の希望者に其の仔犬を配布する豫定であると云ふから、鞏固なる我が高雄警察犬界の陣容は益々擴大される譯である(宮本佐市)
 

帝國ノ犬達-カール 

台湾警察犬ビロー號の父犬・カールと飼主の森内章介氏。昭和9年、兵庫県神戸市立第一高女の火災で犠牲者の捜索活動に従事し、遺体発見現場にて撮影された写真です(『あつ晴れカール號のお手柄』より)

 

組織上に警察犬係が配属されるのではなく、個々の警察官が捜査任務に犬を帯同していたようですね。

その訓練や警察犬の調達を支えたのが高雄警察犬協会だったのでしょう。内地の警察犬協会のように、民間の愛犬家が警察を積極支援していたのかどうかは不明です。

やがて戦時体制への移行とともに台湾警察犬の報道は減り、かわって軍犬武勇伝が喧伝されるようになりました。

ゆえに、日本側では断片的な記録をつなぎ合わせるしかないのです。