此のラジオ物語「物言はぬ戰士」は、宮本佐市作の臺灣の生んだ高橋部隊の名傳令犬フアルコー號の物語をJFAK文藝部の新人志馬陸平氏が脚色されたもので、去る七月十七日(日曜日)の夜九時三十分から壬生武也に依つてJFAK(臺北放送局)より臺湾は勿論、那南洋にまで放送されたものであります。
伴奏は臺北ラヂオ・オーケストラ。
犬の啼き聲は西川氏のナナ號と陳來發氏のルイゼー號でありました。
練習二、三回、狭い演奏室の中で犬はシツポで太鼓や樂器のボツクスなどを叩いて怒れない失策を演じましたが、本出演の時は擬音の鐡砲聲や音楽にも兵器で實に緊張し、ラヂオですから視符だけで吠える時にのみ吠え、啼く時に啼き(可愛さうに耳をつねられて)熱演してくれました。
此の放送を聞いてフアルコーの爲に泣いて下さつた方も決して尠なくなかつたことと信じて居ります。

 

『ラヂオ物語 物言はぬ戰士(昭和13年)』より

 

犬
JFAKに出演した壬生武也氏と西川氏愛犬ナチ(昭和13年)

 

日本統治時代の台湾は、日本の戦争に巻き込まれました。

当初は志願制だったものの、戦争末期の昭和20年には徴兵制度がスタート。高砂義勇隊などから3万人もの犠牲者を出しています。

それは台湾の犬も同じでした。

台湾からは多数の犬が戦地へ送り込まれ、犠牲となったのです。

 

【台湾の軍用犬】

 

台湾に「近代的な軍用犬」が登場した時期は不明。

おそらく理蕃政策をルールとしたようで、台湾総督府蕃務本署が警察犬(蕃人捜索犬)を配備した明治43年以降に登場したのでしょう。

当時は台湾の警察犬も山岳民族の鎮圧作戦に投入されており、「警察犬と軍用犬」の境は曖昧でした。

明治43年に警察犬を配備した台湾総督府蕃務本署は、大正2年から配備を拡大。神戸から猟犬ハンドラーの田丸亭之助を招いて調教にあたらせます。

 

余は大正二年一月、臺灣總督府の嘱託により、臺中東勢郡内の斗欄抗に軍犬訓練養成所を設けた。その時の軍犬なるものは臺灣在來の犬を始め、ポインタやセタの雑種、或は日本犬に類したもの、狆紛ひなど種々雑多なものを集め、一頭として純血のものはなかつた。

それは當時の臺灣ではどうしても、その様なものしか手に入れる事が出來なかつたからであつた。軍犬訓練所は斯る劣惡なる犬種を集め、その數無慮三百餘頭を収容して、一頭につき使丁、即ち今で云へば犬ボーイが一人つく。從つて其數も數百人を雇ひ、外に獸醫が一人と云ふ大規模なもので、余の部下には別に警部一人、信號兵交代にて四五人も居て、犬の食料には毎日黄牛又は水牛を一二頭宛屠つて、それにあてると云ふ始末であつた。
訓練は總て實地訓練で、毎日午前七時出發して山林地帶に入るのであるが、その隊は犬一頭に付き歸順蕃(※日本側に従った山岳民族)一名、兵士一名、巡査一名を以て一組とし、それ等の組を數十組つくつて、各組は標識旗を掲げて嶮阻なる山をよじ登り、密林中に分け入つて活動するのである。

訓練は先づ最初に、犬に蕃人の足跡追及を教へる。但し、訓練の時の相手の蕃人は歸順蕃であるから、犬が彼等を猛烈に襲撃する時は恐れをなして逃げ出すので、訓練手たる巡査や兵士が適當の時犬の襲撃を止める。
即ち二、三分鬪へば呼子を吹いて犬を呼び戻すのである。
犬が手許に戻つて來たならば、腰に下げた竹筒の中から肉片を取出して犬に與へるのである。犬は常に空腹にしてあるので、その呼子が鳴ると一散に駆け戻るのである。
斯くして數十組の犬隊が同様の訓練を行ひ、足跡追及が成功すれば次ぎの訓練にかゝる。次ぎは、蕃人を變つた場所に潜伏せしめ、足跡が無くとも、その蕃人を探し出す訓練をなすのである。
これは恰度雉子の飛込みを獵犬に探さす様なもので、犬は嗅覺を極度に働かせて、隠れた蕃人を探すのである。

ところがこの訓練に都合のよい事には、蕃人は赤い着物を着、臭氣の強い煙草を喫むので、犬はかなり早く彼等を發見する。そして犬は蕃人に向つて猛烈に襲ひかゝる。訓練手は犬に追付きて四五十間手前で呼子を吹く。
しかしその間、相當の時間を費すが、潜伏する蕃人は犬の襲撃を懸命に防いで、呼子の鳴る迄は決してそれを止めない。
この訓練は午前に一回と午後に一回で止めるが、何分犬が野良犬であるから、これだけの訓練に二、三ケ月の日數を要する。
そして、いくら訓練しても見込みのない犬は、どし〃逐放して、新たの犬を訓練にかゝる。尤も犬を逐放するには非常な困難が伴ふ。それはいくら逐放しても四五日の中には犬の本能によつて、訓練所へ戻つて來るからである。
そして新たな犬を召集する時は、各地から巡査が犬を連れて應召して來る。犬が訓練所に入ると、何れもそれを空腹にして置き、訓練の時肉を少しづゝ與へて、餌で釣つて訓練するのである。
訓練を終了した犬隊は實戰に加はり、軍隊の先頭にて蕃人の攻撃を防ぐ。その後方では數臺の機關銃隊がこれを援護し、後續部隊はその後方でどし〃道路を開拓して行く。道路を拓けば戰はこちらの勝利である。
この理蕃には當時一千二百萬圓の豫算が通過し、五箇年間に一千万圓を費したが、餘り成績擧らずして戰は屢々不利であつた。それは、何分蕃人は密林中を自在に出没して、前軍が攻撃に成功したと思つても、後續の部隊が襲撃されて、身首處を異りにして居ると云ふ事も度々であつた。
また或時の如きは、生蕃の襲撃に備へて數十里の間鐵條網を張りめぐらし、それに強力の電流が通じて居たが、生蕃等はどうして覺へたか、それに枯竹の梯子を渡して乗越えて來た事があつた。
そして肝心な生蕃がそれに掛らず、時々野猪が電流にふれて死んで居る事があつた。しかし或時、生蕃が鐵條網の張つてある、川の中を潜つて忍び込まんとして、その生蕃の頭髪が電流に触れて死んで居るのを見た事があつた。

 

田丸亭之助『回顧録(昭和11年)』より

 

田丸氏の訓練対象は警察犬でしたが、時を同じくして日本軍と共に行動する犬の姿が記録されるようになりました。

 

台湾軍用犬

大正3年5月17日、バトラン蕃地討伐作戦のため台北停車場を出発する台湾守備歩兵第一連隊本部第五及び第六中隊。
この犬は偶然写った野良犬かペットだと思っていたら……。
 

台湾軍用犬
5月25日、山岳地帯を踏破してバトラン蕃地奇莱主山南峰に到着した歩兵第一連隊と軍旗。月末より、同連隊とサカヘン社との間で激戦が展開されました。

何と、この作戦にワンコがついてきてます。

 

台湾軍用犬

6月、バトラン蕃サカヘン及びマヘヤン社、タロコ蕃シカヘン社と交戦後、セラオカフニの渓底で露営する第2守備深水大隊及び鈴木隊。ここでも犬が行動を共にしていますね(これらの犬が軍用犬なのかは不明)。

同連隊はその後も各地を転戦し、台北に戻ったのは8月23日でした。

 

帝國ノ犬達-台湾

遥か向うの山腹に建設された軍用道路を眺める、台湾第一聯隊タケジン支隊員とワンコ(大正2年の山岳民族討伐作戦にて)

 

日本陸軍歩兵学校の軍用犬研究は大正8年度スタートですから、これらの犬は台湾の部隊が独自で運用していたのでしょう。台湾の軍用犬たちが、蕃務署の警察犬と訓練ノウハウを共有していたのかどうかは分かりません。

明治~大正期の記録は蕃人捜索犬が中心であり、台湾の軍用犬に関する記録は見当たらないのです。

 

【帝国軍用犬協会の台湾進出】

 



台湾犬界の発展と共に、「マラリアは在ってもフィラリアが無い」台湾は、軍用犬の繁殖地として注目されるようになりました。
台湾にシェパードが移入され始めたのは昭和7年頃のこと。台湾へ赴任する陸軍歩兵学校軍用犬班出身者などが、シェパードを連れてきたのが始まりと言われています。
昭和8年、鈴木菊一大尉が台湾歩兵第一聯隊内に軍犬班を設立しました。昭和10年2月23日には、台湾軍用犬同好会(会員数40名)が発足。この同好会は、6月になって社団法人帝国軍用犬協会(KV)に合併し、KV台湾支部となりました。
翌年4月29日より台湾軍用犬展覧会が始まり、本土のKVとの連携も強化。KV台湾支部は、島内各地に在郷軍用犬を普及させるべく軍犬報国運動に邁進します。

 

始政四十周年記念台湾大博覧会における、KV台湾支部の軍用犬出陳会場(昭和10年)
 

台湾のシェパード飼育頭数が増えたことは、陸軍にとって調達資源母体の確立を意味しました。

「シェパードを買いたい陸軍」「愛犬を売りたい飼主」「両者を仲介する帝国軍用犬協会」が揃ったことで、台湾においても軍犬購買会がスタート。

こうして、台湾のシェパードたちも戦地へ出征するようになります。

 

出征軍犬
昭和13年7月31日、台湾での軍用犬購買審査会風景

 

台湾軍用犬
翌8月1日、入営が決まった台湾の第4回出征軍用犬たち。向かって左より福知部隊長副官、藤重邦彦中佐。右端は宮本佐市獣医。
同じく献納犬は
陳猛喜氏愛犬 アリベルト・フォン・ツィビルポリツァイ
三巻俊夫氏愛犬 フロット・フォン・イチラクソーKZ9
顔徳潤氏愛犬 ムツ 未登録犬
幾島富太郎氏愛犬 スター・フォン・ハウス・タナカKZ10201★
金藤孝淳氏愛犬 バルダ・フォン・ハウス・センコウKZ5211★ 
武田常男氏愛犬 アイリー・フォン・ハウス・林城KZ15749
林華馥氏愛犬 セロープ・フォム・ハウス・ワダKZ24016
陳来発氏愛犬 ルイゼイ・フォム・ハウス・ナカジマKZ5211★ 
李水添氏愛犬 チス 未登録犬 
西牟田國彦氏愛犬 テツ 未登録犬 
笹原高國氏愛犬 ドルフ 未登録犬 
矢野重之氏愛犬 ピロー 未登録犬 

 

これら出征犬のうち、アイリー・フォン・ハウス林城については戦地での消息が伝えられています。

 

揚子江を快速をもつて西進しつつある石本部隊には今廿一頭の軍犬が最前線に出て敵情偵察に、或は傳令に血みどろの活躍をして ゐる。

記者は武山々麓の軍犬班を訪れ、これらの物いはぬ勇士達の手柄話を聞いた。

軍犬手の梶原勝次(佐賀縣藤津郡吉岡村)、牧尾正夫(宮崎縣都城市)、久賀哲二(鹿兒島縣日置郡市來町)、名溝文次(佐賀市神野町)、大塚清(臺北市榮町)の五氏は愛犬の頭を撫でながら軍犬の奮戰を次のやうに語つた。

「この軍犬班にはジヤツクス號(四歳)臺北市昭和町陸軍中佐藤重邦彦氏の愛犬を初め、アイリー號(二歳)、ロースー號(三歳、大阪生れ)、アンゴー號(三歳、臺灣生れ)、アレス號(二歳、臺北生れ)の五頭がゐます。

湖口攻略戰ではわが部隊が敵の重圍に陥り、本部との聯絡が絶えた時、傳令の大役に當つたのがジヤツクス號でした。首輪に傳令書を入れ本部に向つて走り出した時、敵はジヤクス號に十字火を浴びせたがジヤツクス號はこれを巧みに避けて匍伏前進をやつたり草かげに姿をかくしたりして走り續けました。

部隊長以下將兵は感謝の眼ざしでジツとこれを見守つたものです。

前線では食物不自由で自分達は鹽と水だけでよいから、軍犬にだけは腹いつぱい食はしたいと思ふことが幾度もありました」

「軍犬殊勲の傳令・武山々麓軍犬班を訪ふ(昭和13年)」より


台湾における軍犬報国運動の成果は大きく、僅か数年の間にシェパードの飼育頭数は700頭に増加。これから終戦に至るまで、台湾は青島・朝鮮に続くシェパードの一大繁殖地となります。
昭和12年に日中戦争が始まると、台湾の軍犬たちも大陸の戦線へと赴きました。しかし相手は満州事変当時のような抗日ゲリラではなく、近代兵器を装備した中国軍だったのです。

第二次上海事変から南京侵攻へと戦線は急拡大。まだ緒戦の段階で日本陸海軍の軍犬班は消耗し、素人軍犬兵による即席軍犬班が乱立する惨状へ陥りました。

広大な戦線へ多数の軍犬が送り込まれ、その犠牲も激増していきます。

 

【台湾軍用犬の戦い】


帝國ノ犬達-台湾軍用犬
昭和13年、香口鎮鳥渓山攻防戦直後の台湾高橋部隊軍犬班。
前列右より、戦闘を生き残った伝令犬ドルフ號と北垣上等兵、戦死したギンベル號の遺骨を抱く金田一等兵。
後列右よりアルドー號の遺骨を抱く北条上等兵、浦部・石井両上等兵の遺骨を抱く原軍曹(軍犬班長)、トッパ號の遺骨を抱く村岡上等兵、ビービー號の遺骨を抱く田代一等兵。

六月二十六日、香口鎮に於て敵大軍の包圍を受けた瀧澤部隊救出の爲め其聯絡任務に當つたが、敵の猛攻に犬友アルド號倒れ、トッパー號戰死し、ビービー號また狙撃され……(昭和15年)

 

個人用携帯無線機が普及していなかった当時、戦場の通信手段はとても貧弱でした。

通信機器の進化により「伝令犬や軍鳩の時代は終わる」と予言されたものの、第一次世界大戦がはじまると張り巡らせた野戦電話網は猛烈な砲撃で断線、砲煙や悪天候で発光信号も視認できず、大型の通信機器を携行するにも限界がありました。

結局、伝書鳩や伝令犬は「戦場の通信使」として用いられ続けたのです。

日中戦争でも状況は変わらず、中国軍の包囲網を突破しようとする日本軍伝令犬が次々に戦死します(伝令犬は決まった「臭いの伝令ルート」を往復するため、狙撃されやすかったのです)。その中には、台湾から出征したシェパードたちも含まれていました。

幾らかの脚色が加えられていますが、彼らの戦いを報道記録から辿ってみましょう。

 

・軍犬エリックの記録

 

臺歩一軍犬班秘蔵の古参軍犬エリツク號が、或る日の午後、臺灣劇場に坂本龍馬の映畫をタツタ獨りで見物に出かけたと云ふ犬界前古未曾有の明朗な實話がある。
師走六日の日曜日、基隆の李煌村幹事が第一回の臺灣支部展で臺灣産優秀犬の折紙をつけられた愛犬のフロツト・フオン・ハウスタナカを一聯隊に依託訓練する爲に一家總動員で來北されたので、一緒にお供して軍犬班を訪れた丁度其の日の出來事であつた。
犬も毎日訓練を受けて、六、七歳にもなれば全く人間化してしまふ。
人間の趣味、嗜好と云ふ様な畜生離れのした感情も注入されて、うらゝかな日曜日にはハイキングもしたいだらうし、陰鬱な日曜などには一つ氣晴しに映畫でも見様と云ふ様なことになるのかも知れない。
題がミリタリストの血を沸かす、勤王の志士坂本龍馬だ。古参上等兵振りのエリツクが見たくてたまらなかつたのも無理もない話である。當のエリツクは、お隣の住居の榛名やハリーを誘つたのかどうか解らないが、無斷犬舎を離れて、只獨り營門の歩哨を尻目に掛けて目指すは島都の盛り場新起町の映畫街。
と、こんな書出しでは實話らしくないが話の筋はかうである。
當日午前の軍犬班勤務を終へたエリツク號の取扱兵持原君は、エリツクを犬舎に納めて中隊に歸り、外出着に着換へて午後の外出と洒落た譯である。
外出先は兵營より約三粁を離れた臺灣劇場だつた。持原君が觀覧席に納まり、暫くして例の坂本龍馬に夢中になつてゐる頃、エリツクは犬舎を離れて盛んに主人の足跡を辿つてゐた譯である。
次第に映畫は進められ、スクリンのチヤンバラが觀衆を熱叫せしめる頃、M君も思はず送つた拍手の手を休めて傍を見ると、意外にも戰友のエリツクが「僕も來たよ」と云はんばかりに幽かな声で鼻を鳴らしながら座つてゐると言ふのである。
色々調べて見ると、エリツクは持原君が外出してから約三十分後犬舎を脱走して持原君の臭氣線を辿つて行つた事が判明した。
師走の始めとは言ひ暮の街は各所に歳の市が立ち、日曜故に人通りも多く、兵營から盛り場まで三粁余の間は全く舗装された商店街の道路であつたのである。
いくら最愛の主人が残した臭氣線とは言へ、アスフアルトの上に殘された臭氣線は大部分が繁華な師走の日曜の商店街だけに自動車や澤山の行人によつて目茶苦茶に破潰されてゐる筈だ。
犬は其處を完全にパスしてあらゆる人間の臭氣が錯雑する活動館の中に主人を探し出したと云ふ實話を拝聞して、名傳令犬の價値をしみ〃と味つた様な次第である。
宮本佐市『台湾犬界雑記(昭和12年)』より

翌年、台湾歩兵第一連隊と共に戦地へ出征したエリックは、苛酷な伝令任務で体力が尽き果ててしまいました。
消耗しきったエリックを休ませて伝令へ出発した田村一等兵は、敵弾を受けて戦死します。

 

・軍犬ドルフ號の記録

 

帝國ノ犬達-ドルフ
台湾から戦地へ出征するドルフ

 

去る五月十四日、臺灣日報三面の三段抜きトツプニユースに初號活字で「高雄が産んだ名犬ドルフ、元氣で奮鬪中との消息に、献納主の感激」と云ふ記事が出て、私共を非常に喜ばした。
その名犬ドルフとは高雄萩原重安氏の愛犬ドルフ號である。
ドルフは體型は優級、軍犬候補檢査も優秀な成績でパスし、訓練競技會では第一席と云ふ實戰向きの犬である。
〇〇軍〇〇と共に私共の頭に浮んだ「あれならと云ふ民間軍用犬の中」最初に頭に浮んだのが萩原氏のドルフであつた。
此の犬は確か七歳位ではなからうか。實に圓熟した技の持主で、資格こそ持たないが、近頃では獨逸本場のメルデフンド(伝令犬資格犬)やポリツアイフンド(警察犬資格犬)であつた。臺灣全島で名訓練犬ドルフの名を知らない者はない。斯様な犬をポンと軍に提供する萩原さんも素晴らしいものであるが、これを使役する高橋部隊の軍犬班は實に幸福である。
兎に角、今度の臺灣部隊の軍犬はドルフはじめ名犬揃いである。

 

〇〇上陸以來、一昨日まで〇〇粁餘の里程を突破して今〇〇に來て居ります。
其間數次の戰鬪に不眠不休の行軍にもドルフは常に大變元氣にやつて來ました。〇月〇〇日の戰鬪、同〇〇日戰鬪に参加、出征後初めて彈の下で働いて見ました。
先づ〇〇戰鬪の模様を申上げます。
四五日前からの追撃戰で〇〇日の夕刻からの雨は翌朝一層烈しさを加へ、行軍にも泥濘膝を没し休むことも出来ず本當に困りました。
日は暮れかゝる雨は止まず、寒氣益々加はり、暗さは増し、小さい道をヌかる足を引き抜き〃八粁の道を五時間以上もかゝり、クリークを廻り廻つて目的地に着いた時は最早午後の三時。燃やすに木なく、莚や屋根は勿論なし。
寒くはあるし、藁を被つてドルフと二人で(二人でとある)夜明けまで寝ました。
身體は泥まみれで、夜明けから別の組の犬が傳令をやりましたが、犬が疲れて思ふやうに出來ず、我ドルフの組と換はりました。
里程は六粁。午前六時より正午までピス(我組はドルフとピスです)は二回で止め、ドルフ獨りで任務に就きました。
道は惡い、クリークを廻り廻つて支那部落を通り抜け、山から山を越へ、其の奮鬪振りは實に何とも言ひやうのない氣持でした。
「前進(マヘエ)」の命令一下、後を見ずに驀らに進み、歸つて來るときは二、三十米突先から尾を振つて來る様子、殊に彈の下を潜つて来る時の様子。
何とも言ひ様もないドルフです。

 

次に〇〇日の戰鬪は〇〇〇〇に着き、我ドルフ組だけが〇日の豫定で〇〇から〇〇に行きました。
其時〇日目に〇〇に歸るに道は遠く、途中一泊を山間に夜營、午後〇時夕食の準備中、敵襲です。其夜は寝もせずうち續けです。夜が明けて〇〇〇日朝から〇〇〇〇本部と〇〇部隊〇〇〇〇との連絡に當り、連絡路をつくりました。
小銃彈は雨あられ、砲彈さへ近くに落下して來ます。
連絡兵は負傷するし、此時頼むは唯ドルフだけです。朝の〇時から午後〇時まで休む暇もなく、途中川あり、川幅は七米突位ですが、とても急流です。
此間は約二千米突、此時程彈の來たことはありません。敵は〇〇聯隊、我は〇〇〇〇前夜からの交戰で彈は無くなる、米無く糧食缺乏、敵も良くうつて来る、戰は益々盛です。
ドルフは張り切つて居ます。進め!の一言、一度一寸後を見て、一目散に前進。足元に彈が來れば耳をピンと立て、前方を見据えて低い處に入つて走つて行く様子は人間以上です。
夜の集結命令も〇〇〇〇に傳達、無事終了せしめ、苦しい様子も見せず任務達成に努力する様は何とも言へませんでした。
〇〇〇〇副官殿がとても喜ばれ、御誉の言葉を頂戴、ドルフ〃と可愛がつて下さる様を、私は萩原様に見せたく、何とも言へない喜びで一杯でした。
〇〇の地にも春の訪れと共に、ドルフも益々元氣で丸々と肥つて今後の目的に進まんと張切つて居りますから御安心下さい。


以上、竹野伍長の陣中手記より(昭和13年)

 

高雄の萩原重安氏明日(九月四日)一寸内地へダグラスで渡洋爆撃?に行つて来ると云つて、只今台北に依託してある愛馬と愛犬を見に來て記者の家に立寄られたが、萩原氏の渡洋爆撃は商用だから内地の方々よ警報の必要はない譯だ。
軍需工業で寧日のない同氏の愛犬ドルフ號は戰線にあつて部隊と共に各地に轉戰、最近の陣中便りによれば、七粁の長距離を傳令して我が國傳令犬否世界傳令犬の最高記録を作つたと云はれてゐる。
―臺灣の南端高雄の犬が戰線にあつて此の活躍、記者などは自慢の言葉に苦む程である―萩原氏もこれでこそ献納の甲斐ありと實に満足して居られるが、台湾軍犬界の至宝ドルフよ、お前の生れは昭和九年九月五日だから明後日が第四回目の誕生日だ。武運長久をシツカリ祈つてやるからお前だけは最後まで鐡砲玉に命中つてはならないぞ。
今日僕の手許にお前の部隊は漢口まであと○十里だと云ふ便りが届いた。
またシツカリやつて、六月廿六日の戰闘で戰死したお前の戰友ギンペル、トツパ、ビービー、アルドー號のうらみを思ふ存分晴らしてはくれないか。

 

宮本佐市『臺灣犬界戦時雑記(昭和13年)』

 

・軍犬ハリー號の記録

 

冷たい雨の日だ。
記者は〇〇部隊の名誉の戰傷者の一人である〇〇部隊軍犬班の正木貞夫一等兵を〇〇陸軍病院に訪ねて心から白衣の戰士正木君を慰めた。
正木君は左手の上膊部に敵彈を受けてから二ヶ月にもなるが、未だ五指の自由が全く利かない。併し意外に朗かな態度で記者に戰地の様子を語られた。
「私がやられたのは九月十九日と廿日の戰闘を終つて廿一日の午前五時に〇〇でやられたのです。それから二里も後方の野戰病院に後送されたので、その後は全くベツドの上でこんな生活です。
〇〇部隊の軍犬班は、上海上陸前二組に別れました。森軍曹を班長とするハリー、快、速(はや)、ナナ、ハツの組と、持原上等兵を班長とするエリツク、榛名、クマ、クロの組で、私は川竹君とハリーの受持だつたのです。
最初の頃ハツとナナは機關銃の音を恐れましたが―平時演習に恐れなかつた―ハリーはよく傳令をやりました。
ハリーは私の負傷後に戰死したそうですネ。病院のベツドの上でそれを知つた時私は泣きました。川竹君もキツト泣いたでせう。
犬は皆元氣だつたのです。クリークの泥水をうまさうに飲み、クリークの泥水で炊いた飯盒の飯を、それも半煮えの飯を私共と一緒にうまさうに食べてよく働きました。時々味噌汁が渡りますが、平時味噌汁なんて食べない犬もよく食べました。兎に角犬は戰地で喜ばれてゐますから、性能のいい犬を澤山送る方法はないものでせうか」と。
痛々しい左手の戰傷をも打忘れて、正木君は戰地に於ける軍犬の働きを語り、その補充のことまでも考へてゐるのだ。
宮本佐市『臺灣犬界戰時日記(昭和13年)』より

 

・軍犬トッパ(突破)號の記録

※トッパが戦死した15分後、同部隊軍犬アルドー号も永井部隊への傳令から戻る途中、左肩・左腰部を撃たれて戦死しました。

 

それは十一月三日の明治節の佳き日であつた。
晴れ着をつけて式に臨んだ楠梓公學校の兒童達の間には、「トツパが戰争に行くんだ」と云ふ話が賑はつた。
「僕等の蓖麻を番してくれたトツパが、いよ〃戰争に行くから」と云つて、突破の爲に千人力を作る者。
「私達のトツパが出征するから」と云つて、千人針を拵へるものもあつたのである。
突破號出征の當日は「トツパよシツカリ働いて來いよ」と云ふ可憐な楠梓公學校の少年や少女達で、ちいさな楠梓の驛は將兵を見送る時の様に賑やかだつた。
〇月〇日〇〇部隊の精鋭と共に勇躍征途に上つた突破號は、〇〇に上陸と同時に石井賢上等兵が係となり、最初他犬に比較して體格の小さな此の犬は其の能力を疑はれた程であつたが、流石は仔犬時代より軍隊仕込みの犬だけあつて、どんな難コースでも必ず使命を果して非常に望みをかけられた。
暖かい臺湾の南端から急に寒い戰場へ来た突破の體を案じて、石井上等兵は任務のない夜など互に相擁して塹壕内に露営の夢を結び、犬は冷たい星夜にも遠い故郷楠梓を思ひ出して働きの鈍る様なことは全くなかつた。
が時々文恵さんから突破係の石井上等兵に送られる乙女心に愛犬の身を案ずる優しい手紙を、石井上等兵は傍らの突破に「オイ!トツパ。またお前の大好きな文恵さんから手紙が來たぞ」と言ひながら其の鼻先につきつけると、犬は鋭い嗅覚で遠い故里の懐しい主人の香を感知するかの様に、突破には喜びの色が窺はれたと云ふことである。
其の年も暮れ、櫻咲く母國の春を外に明け暮れ、戰塵にまみれて奮闘する兵士達の塹壕にも何時の間にか緑の初夏が訪れ、踏みにじられた新戰場の草木にも新緑の香が漂ふ様になつた。
無敵高橋部隊の軍犬班も部隊と共に転戦すること一年近くにも及び、其の間重要なる傳令の任務は軍犬達に幾度與へられたか知れない程であつた。

 

宮本佐市『臺灣犬界美談(昭和13年)』より

 

突破號も此處が最後ではなからうかと思はれる様な死線を幾度も其の名の如く突破して、時は六月廿四日の夜、永井部隊が主力を挙げて〇〇山の堅陣に夜襲を敢行した時のことである。突破は第一線の〇〇中隊と永井部隊との連絡任務を帶びて二日二晩豪雨の中に全身泥まみれとなつて敵彈の中を駆け巡つた。
六月廿六日の夜明前、突破號の属する中隊は〇〇右方〇粁の地點に移動して、烏畦山上の頑強な敵陣に肉彈を以て突込まんとした時、石井上等兵は突破號の為に永井部隊へ新らしい連絡路を構成しなければならなかつたのである。
前日來の豪雨は止んだが、頑強な敵は雨霰の様に猛射を浴せて來る。
石井上等兵は「トツパ、これからお前の新らしい連絡路を作つてやる」と言つて突破を左側につけて塹壕を離れ、豫め後方部隊への方角を見極めて走り出した。
時に午前四時頃であつた。
眞暗な中に氣味の惡いウナリをたてゝ敵彈は身邊を通過する。時々身近に天地もさかんばかりに炸裂する砲彈はあたりを眞晝の様に照明するのだ。
「トツパ、伏せ!」
石井上等兵は愛犬をかばひながら匍匐前進を続けるのだつた。此の彈雨の中を無事に後方部隊に辿りついても、突破だけは休む間もなく命令を持つて此の連絡路を第一線まで歸らなければならないのだ。
今度こそいよ〃最後であると愛犬の身を思ひ、石井上等兵は此の時突破をシツカリと抱き上げてましらの様に走り續けるのであつた。
己が身の危險をも省ず、強い動物愛と部隊の大事な傳令犬を殺してはならないと云ふ尊い責任感に燃えた石井上等兵の此の行爲に對して、誰か感涙に咽ばないものがあるだらうか。
戰場の夜は幽かに明けはじめた。敵彈は益々激しくなる一方である。約五十米突(メートル)で後方部隊兵の塹壕内に辿りつこうと云ふ刹那だつた。
突如愛犬を抱いた連絡路構成中の主従を襲ふた敵彈は、石井上等兵の右肩より胸部深く向つて入り込んだのだ。
アツ!と叫んで愛犬を抱いたまゝ石井上等兵はその場にドツと倒れたが、重傷にもひるまず「トツパ、トツパ、前へだ。一刻も早く前進だ」と目前の永井部隊の塹壕目指して犬に前進命令を與へるのだつた。併し主人思ひの突破は如何に主人の最後の命令とは云へ、何で此の重傷の主人を見棄てゝ進むことが出來ようか。
人間だつたら「主人よ、目的地まではあと一足だ。しつかりして下さい」と抱き起すことも出來やうが、物言はぬ犬の悲しさ、只重傷の主人の傍により添ふて、悲しげに「ウオーツ!」と一聲遠吠えをしたと云ふことである。そして主人の肩先より流れる鮮血に氣づきそれを舐めて勞るのだつた。
其の時またも敵の一彈は主人の弾創を舐めてゐた突破の背部を貫通してしまつたのである。長い間戰線幾百里を突破した流石の突破號も、其のまゝ主人の傍らにとう〃倒れてしまつたのである。時に六月廿六日の午前五時頃であつた。
間もなく壮烈な最期を遂げた此の主従は戰友によつて塹壕内に収容されたのであるが、其のまゝ静かに息絶へて尊い二つのなきがらは次第に冷たくなつて行つた。
此の有様を眼前にした敵陣突撃の命令を受けて殺氣立つ我が勇士達の眼にも感涙が宿り、いやが上にも勇士の士気を鼓舞せずにおかなつた。幾多の美談の蔭にかうした尊い犠牲者の数々を出した香口攻略戦も、六月廿六日夜明けと同時に烏畦山頂に決死の大山部隊が樹てた日章旗が初夏の朝風にへんぽんとひるがへり、皇軍大捷の凱歌は天地に何時までも〃響いて、聖戰史上に實に偉大な光輝ある戰跡を残すことが出來たのであつた。

 

宮本佐市『臺湾犬界美談(昭和13年)』より

 

トッパ號については、献納者である戸塚文恵氏の話も残されています。

トッパ號は陸軍で訓練を受けた後に飼主宅へ戻され、出征命令が来るまで「自宅待機」を続ける預託軍犬だったとのこと(通常の民間シェパード調達では売買契約成立と同時に軍隊へ送られますが、このような預託犬制度を採用した陸軍部隊も幾つかありました)。

 

時は本年七月廿日の夕景である。
高雄州下楠梓庄のお友達の家で高雄高女三年生の戸塚文恵さんは、「戰場に溶け合ふ軍用犬の主從美談」と云ふ〇〇新聞の三面記事を見せられて
「まあ!トツパが戰死、石井さんまでが」
と言つたきり、その場に泣き伏してしまつたのであつた。
軍犬突破號と石井賢上等兵の壮烈な戰死を知つて戸塚文恵さんが何故泣いたのだらう。
出征前まで、突破號は文恵さんと同じ屋根の下で、兄妹の様に仲良く生活してゐた犬であり、石井賢上等兵は昨年出征以來可愛いトツパの様子を戰地から時折り知らせて下さつた、文恵さんにとつては兄さんの様に思うはれる優しい兵隊さんだつた。
「泣いてはいけない。何で私は泣くのだらう。石井さんも可愛いトツパも御國の爲に笑つて死んだのだ。名誉の戰死ではないか」と自分で自分の心を制したとは云ふものゝ、多感な十五の乙女心で何で泣かずにゐられ様か。
文恵さんはその時涙がとめどなく流れて、其の記事を思ふ様に読むことが出來なかつたと云ふことである。

 

突破號の生れは遠い滿洲だつた。
昭和十年十二月廿日に優秀な滿鐡鐡路警備犬の血を受けて新京に生れ、翌年四月の可愛い盛りに高雄楠梓公學校戸塚記十氏の宅に移入された本年三歳のシエパードの牡犬であつた。
其の年の六月に臺南〇〇聯隊軍犬班に入營して訓練を受けることになり、原軍曹などよりは「小柄ではあるがとても敏捷な犬だと言つて特に目をかけられ、約一ヶ年近くも訓練を受けて、これから他の犬は訓練に取りかゝらうと云ふ年頃には軍用犬としての課目を立派に終了し、〇〇聯隊在郷軍用犬(※民間飼育の軍用犬)第四號として戸塚氏の家庭にあつて愛育された犬である。

 

高雄州楠梓公學校と云へば、支那事變勃發以來全島的に栽培されることになつた我が荒鷲の活躍に必要なる滑油の原料、菎麻(※ヒマ・ひまし油の原料)栽培が生んだ、彼の病を押して登校し、臨終まで「菎麻に水を」と云つて息絶えた有名な愛國少年林君を生んだ學校である。
菎麻樹の栽培が全島の小公學校に奨励された時、兒童は児童達に「君等の小さな手で直接國家の御役に立つ仕事が出來たぞ。皆心を合せて立派に菎麻を育てゝ貰ひたい」と國を思ふ道に二つは、の御製を説いて播種地の除草整地作業や播種を學科の餘暇に命じたのであつた。
各自兒童には受持區域が與へられ、播種後の給水、雑草の除去に少年達は懸命に働いたのであつたが、何しろ廣大な栽培地に完全な柵を施すことが出來なかつた爲、人家近くのヒマ園には臺灣名物である放飼された鶏の大群が侵入して蓖麻の種子をあばき、兒童達の苦心をメチヤ〃にしてしまふのであつた。
純情な兒童達は未だ芽を出さない蓖麻園を鶏に荒されることが心配で、授業中にも學校近くの蓖麻園のことが頭に浮かんでならなかつたのである。

 

其處で戸塚氏は蓖麻園の番を此の突破號にさせて見ようと考へられ、蓖麻が完全に芽を出し伸びて鶏の害を受けない様になるまで、突破に番をさせることになつたのである。
立派に訓練されてゐる突破號は廣大な蓖麻園に一羽の鶏すらよせつけなかつた。
「トツパが蓖麻園の番をしてくれる。鶏が一羽も來なくなつた」と云ふので全校兒童の人氣はトツパに集り、病躯を押して登校してゐた林少年が播種後廿日目の十月六日に「姉さん、私の蓖麻に水をやつて下さい」と云つて息絶えた頃には兒童達の眞心こもれる蓖麻の芽は青々と伸び、鶏の被害もない様になり、兒童達は喜びの中にも突破號への感謝も忘れてはゐなかつた。

 

殘暑の夏もまた秋も過ぎ、會て突破が焼かれる様な熱帶九月の殘暑の中で、種をあばき双葉を啄む、放飼鶏の番をして見事に育つた蓖麻の樹に小さな青い金平糖の様な實を結ぶ頃、突破號には待ちに待つた應召の知らせが〇〇部隊より届けられたのである。
それは十一月三日の明治節の佳き日であつた。
晴れ着をつけて式に臨んだ楠梓公學校の兒童達の間には、「トツパが戰爭に行くんだ」と云ふ話が賑はつた。
「僕等の蓖麻を番してくれたトツパが、いよ〃戰爭に行くから」と云つて、突破の爲に千人力を作る者、「私達のトツパが出征するから」と云つて、千人針を拵へるものもあつたのである。
突破號出征の當日は「トツパよシツカリ働いて來いよ」と云ふ可憐な楠梓公學校の少年や少女達で、ちいさな楠梓の驛は將兵を見送る時の様に賑やかだつた。

〇月〇日〇〇部隊の精鋭と共に勇躍征途に上つた突破號は、〇〇に上陸と同時に石井賢上等兵が係となり、最初他犬に比較して體格の小さな此の犬は其の能力を疑はれた程であつたが、流石は仔犬時代より軍隊仕込みの犬だけあつて、どんな難コースでも必ず使命を果して非常に望みをかけられた。
暖かい臺灣の南端から急に寒い戰場へ來た突破の體を案じて、石井上等兵は任務のない夜など互に相擁して塹壕内に露營の夢を結び、犬は冷たい星夜にも遠い故郷楠梓を思ひ出して働きの鈍る様なことは全くなかつた。

が時々文恵さんから突破係の石井上等兵に送られる乙女心に愛犬の身を案ずる優しい手紙を、石井上等兵は傍らの突破に「オイ!トツパ。またお前の大好きな文恵さんから手紙が來たぞ」と言ひながら其の鼻先につきつけると、犬は鋭い嗅覺で遠い故里の懐しい主人の香を感知するかの様に、突破には喜びの色が窺はれたと云ふことである。
其の年も暮れ、櫻咲く母國の春を外に明け暮れ、戰塵にまみれて奮鬪する兵士達の塹壕にも何時の間にか緑の初夏が訪れ、踏みにじられた新戰場の草木にも新緑の香が漂ふ様になつた。
無敵高橋部隊の軍犬班も部隊と共に轉戰すること一年近くにも及び、其の間重要なる傳令の任務は軍犬達に幾度與へられたか知れない程であつた。

 

突破號も此處が最後ではなからうかと思はれる様な死線を幾度も其の名の如く突破して、時は六月廿四日の夜、永井部隊が主力を挙げて〇〇山の堅陣に夜襲を敢行した時のことである。
突破は第一線の〇〇中隊と永井部隊との連絡任務を帯びて二日二晩豪雨の中に全身泥まみれとなつて敵彈の中を駆け巡つた。
六月廿六日の夜明前、突破號の属する中隊は〇〇右方〇粁の地點に移動して、烏畦山上の頑強な敵陣に肉彈を以て突込まんとした時、石井上等兵は突破號の爲に永井部隊へ新らしい連絡路を構成しなければならなかつたのである。
前日來の豪雨は止んだが、頑強な敵は雨霰の様に猛射を浴せて來る。
石井上等兵は「トツパ、これからお前の新らしい連絡路を作つてやる」と言つて突破を左側につけて塹壕を離れ、豫め後方部隊への方角を見極めて走り出した。
時に午前四時頃であつた。
眞暗な中に氣味の惡いウナリをたてゝ敵彈は身邊を通過する。時々身近に天地もさかんばかりに炸裂する砲彈はあたりを眞晝の様に照明するのだ。
「トツパ、伏せ!」
石井上等兵は愛犬をかばひながら匍匐前進を續けるのだつた。
此の彈雨の中を無事に後方部隊に辿りついても、突破だけは休む間もなく命令を持つて此の連絡路を第一線まで歸らなければならないのだ。
今度こそいよ〃最後であると愛犬の身を思ひ、石井上等兵は此の時突破をシツカリと抱き上げてましらの様に走り續けるのであつた。
己が身の危險をも省ず、強い動物愛と部隊の大事な傳令犬を殺してはならないと云ふ尊い責任感に燃えた石井上等兵の此の行爲に對して、誰か感涙に咽ばないものがあるだらうか。
戰場の夜は幽かに明けはじめた。敵彈は益々激しくなる一方である。
約五十米突(メートル)で後方部隊兵の塹壕内に辿りつこうと云ふ刹那だつた。
突如愛犬を抱いた連絡路構成中の主従を襲ふた敵彈は、石井上等兵の右肩より胸部深く向つて入り込んだのだ。
アツ!と叫んで愛犬を抱いたまゝ石井上等兵はその場にドツと倒れたが、重傷にもひるまず「トツパ、トツパ、前へだ。一刻も早く前進だ」と目前の永井部隊の塹壕目指して犬に前進命令を與へるのだつた。
併し主人思ひの突破は如何に主人の最後の命令とは云へ、何で此の重傷の主人を見棄てゝ進むことが出來ようか。

人間だつたら「主人よ、目的地まではあと一足だ。しつかりして下さい」と抱き起すことも出來やうが、物言はぬ犬の悲しさ、只重傷の主人の傍により添ふて、悲しげに「ウオーツ!」と一聲遠吠えをしたと云ふことである。
そして主人の肩先より流れる鮮血に気づきそれを舐めて勞るのだつた。
其の時またも敵の一彈は主人の彈創を舐めてゐた突破の背部を貫通してしまつたのである。長い間戰線幾百里を突破した流石の突破號も、其のまゝ主人の傍らにとう〃倒れてしまつたのである。
時に六月廿六日の午前五時頃であつた。
間もなく壮烈な最期を遂げた此の主従は戰友によつて塹壕内に収容されたのであるが、其のまゝ静かに息絶へて尊い二つのなきがらは次第に冷たくなつて行つた。
此の有様を眼前にした敵陣突撃の命令を受けて殺氣立つ我が勇士達の眼にも感涙が宿り、いやが上にも勇士の士気を鼓舞せずにおかなつた。
幾多の美談の蔭にかうした尊い犠牲者の數々を出した香口攻略戰も、六月廿六日夜明けと同時に烏畦山頂に決死の大山部隊が樹てた日章旗が初夏の朝風にへんぽんとひるがへり、皇軍大捷の凱歌は天地に何時までも〃響いて、聖戰史上に實に偉大な光輝ある戰跡を残すことが出來たのであつた。

宮本佐市『臺灣犬界美談(昭和13年)』より

 

・軍犬ゴール號の記録

 

今次事變に皇軍大捷の蔭に咲いた傳令犬は、犬がこれ程迄に人類に貢献すると今まで私共が夢想だにしなかつた實に偉大な武勲の數々を樹てゝ銃後の世人を感激せしめてゐるのであるが、完全に射界が清掃され身を遮る地物は何ものもない敵前至近の第一線塹壕より闇に乗じて後方部隊へ、或は後方部隊より第一線へ愛犬を身を以て守りながら、或は單獨にて新らしい犬の連絡路(※酪酸希釈液などの臭気剤で構築された連絡ルート)を構成する軍犬取扱兵の決死的な尊い行爲は一般に認識されてゐないのではなからうか。
軍犬兵が死を賭して構成した此の連絡路が、傳令活躍の導火線である。
犬は一度主人の設置した連絡路上を晝夜の別なく彈雨を侵して幾回となく傳令の重任を敢行し、高橋部隊のゴール號(※台湾から出征したエアデールテリア)の如きは昨年十月ニ粁の傳令路を一日平均五回、二十九日の長きに亘つて連絡し、二百數十何回目かの連絡中、遂に壮烈な戰死を遂げたことは嘗て記述したことがある。
去る六月廿四日より廿六日の未明にかけて行はれた高橋部隊〇〇陣地攻略の激戰の蔭には、こうした重要なる連絡路を身を以て構成中、浦部時雄上等兵の如きは愛犬ビービー(高雄・今吉陸夫氏の献納犬)の死骸をシツカリと抱いた儘、連絡路上に壮烈な戰死を遂げ、同部隊の石井賢上等兵も突破號と共に連絡路構成中、連絡路上に散華した。
此の時突破號は悲壮な態度で主人石井上等兵の肩に受けた彈創を舐めてゐたが、其の際身に敵彈を受けて主人と共に壮烈な最期を遂げたのであつた。

 

・軍犬ナナ號とハツ號の記録

 

森軍曹の話
傳令兵を何回出しても犠牲者を出して〇〇〇が困りぬいてゐた時、―魔の傳令路とでも云ふ可き其處を―佐藤部隊の軍犬ナナ號(牝四歳シエパード)が立派に連絡した。 然も其の時ナナは耳のつけ根に敵彈の爲に大きな孔をあけられ瀕死の重傷を負ひ、其處からフキ出す血で頭を眞紅にして〇〇〇〇に馳せつけたと云ふ森軍曹の血なまぐさい陣中手記が過日小生宛届けられた。
原文のまゝ此處に掲げる。

前略
敵の退路遮斷並に〇〇の為に〇〇〇〇地點に第二回の敵前上陸を行つたのが〇〇月〇〇日、敗退する敵を猛追撃して〇〇日には常熱城〇粁の地點まで進出しました。
敵は常熱城防備の最後の抵抗線として却々頑強に抵抗し、こゝに上陸以來の激戰となりました。
是より前ナナとハツ(ドーベルマン牡、岡本義則氏の献納犬)は第一線と〇〇へ傳令をやり相當奮鬪しました。なにしろ追撃々々で大行李などは續かず相當困つてゐました。
〇〇日午後第一線と〇〇の連絡がどうにもつかず、傳令兵を何回出しても必ず犠牲者を出して〇〇〇も随分困つてゐられましたが、やつと一名が報告に歸つて來ました。
距離は〇〇〇米位ですが、約二時間も掛つて來た様でした。
この時私は此處が軍犬を使用する絶好の時機だと思ひ、直ちに構成を命じました。併し考へて見れば無謀と云へば無謀かも知れません。
傳令兵一名でさへ容易に来られぬ處を犬を連れて行く兵の身を思へば堪へられない氣になりますが、流石は軍犬兵です。勇躍クリークに沿ふて匍ひながら前進して行きました。
犬を一時伏せさせて數十米突前進をして「ヨシ來い」と呼びながら非常な苦心をして連絡路を作つて行く、果して第一線まで着いてくれたかと思ふ私の心をお察し下さい。
時は早や一時間半も經過し、敵彈は物凄く飛來する。
併しこの心配も打消された。
ナナ號は向ふから一生懸命飛んで來る。「早く〃」と思はず叫びました。
ナナの頭が眞紅に見えるのです。
あゝやられたなと思ひ到着したナナ號をよく見ると、右の耳のツケ根に大きな穴があき血潮が吹き出してゐる。
其の時の私の氣持、イヤ之れを見た總てのものが思つたであらう。
「可哀相だ」と思ふより重傷を忘れて自分の任務を果さんが爲めの崇高なナナ號の姿は、何かしら目頭が無性に熱くなるのを禁じ得なかつた。
直ちに獸醫の手當を受け休養させましたが、一時は出血多量の爲心配でした。
其後次々の戰鬪にて随分奮鬪し、或る時〇隊長や〇〇〇隊長なぞがナナの行動は功勞章に値すると云つて居られたのを聞いた時は、自分の事以上に嬉しくてたまりませんでした。
それから早四十日、傷も今では治癒して、ひまの時は部隊の愛嬌者として現在では戰鬪になくてはならない存在となりました。

宮本佐市『臺湾軍犬界のきのう・けふ(昭和13年)』より

 

・軍犬ファルコ―號の事例

 

フアルコーは敵弾彈身に受けて數歩走っては倒れ、また起きては走ると云ふ實に涙ぐましい力走を續けてゐる。

『ファルコーもとう〃やられてしまつたか』と 中山一等兵は唇を噛みながら血走つた眼で敵陣を睨みつけ、塹壕を飛び出して走り寄り傷ついた愛犬を抱き上げたい心で胸が一ぱいであるが、雨の様激しい敵彈下ではどうすることも出來なかつた。

次第に第一線に近づくフアルコーは此の重任を果たすまで倒れてはならないと堅い決意を抱いてゐるかの様にこけつまろびつ走り續けて數刻後に中山一等兵が塹壕内より差し出した兩手の中に血だらけの體でころげ込んだのである。
『フアルコー、シツカリしろ』と叫びながら犬の體を見れば、敵彈の爲めに右の前肢を根本より奪はれ、血管の斷端よりは興奮しきつた心臓の搏動と共に鮮血が 吹き出してゐる。更に左腹部には盲貫銃創を負ひ、尾端まで切斷されて犬の首輪にまで銃彈がめり込んでゐたのである(昭和14年)

 

台湾から出征した軍犬たちの記録は、銃後の台湾で盛んに報道されます。

これがKV台湾支部における軍犬報国運動(陸軍省の指導による軍用犬の宣伝、シェパードの普及運動)であり、更に多くの犬を戦場へ送り込むための宣伝活動でもありました。

 

帝犬臺灣支部に於ては〇〇部隊と共に從軍出征した臺灣の名物男、講談家の後藤方泉氏に委嘱し、戰線に於ける軍用犬の活躍状況其他を調査して之れを銃後の臺灣犬界に報道し、大いに軍用犬の認識を一般人に深め様と云ふ計畫も立てた。
其の後藤氏が本日盛り澤山の戰線土産話を持つて歸臺。
驛頭には支部旗を立てゝ十數名の臺北犬界人有志が迎へたのである。
戰地に於て敵前二百米突の塹壕内で敵兵に聞へる様な慰問激励の熱弁を揮ひ、全部隊の將兵に多大の感銘を與へたと云ふ後藤方泉氏は、戰線に於ける軍用犬の活躍振りには全く感激の外はありません。
只今臺灣軍犬の生みの親である鈴木少佐と台湾軍犬と云ふ様な題の講談をものにしやうと思つてゐますが、話の材料が多過ぎる程軍用犬の美談を拾つて來ましたから、今後は大いにやると元氣一杯で語られた。

 

宮本佐市『臺灣犬界戰時日記(昭和13年)』より

 

【犠牲の成果とは】

 

戦後の我々は、軍犬の犠牲を悲劇と捉え、戦争に犬を巻き込んだ時代への怒りを抱きます。

もちろん戦時中の人々も、軍犬の犠牲を悲劇と捉えました。

しかし、そこから先は違いました。盛んに報じられる軍犬武勇伝に感化され、愛犬家たちは更なる軍犬報国運動に邁進したのです。

誰かが強制したワケではありません。民間の愛犬家は自発的にシェパードの繁殖訓練に注力し、地域社会や学校への軍犬宣伝活動に努め、「もっと多くの犬を戦場へ送れ」と叫んだのです。

この情況は台湾犬界においても同じでした。

 

小沼さんは三里も先から自轉車で私の家まで犬を連れて來られた。實に熱心な愛犬家である。
三里ゆけば酒屋があり、二里の先には豆腐屋もあるが、宮本さんあなた見た様な犬好きはこの村近くにめつたに來ないから話に來たと云ふのである。
犬を見ればホーランドの仔の鄙には稀な特良級の犬である。
軍犬候補もパスしたノーランといふ犬で、今回の本部展にも出陳申込をしてゐると云ふことであつた。
早速小沼さんと二人で校長はじめ十數名の村人の前で訓練を見せてやらうじゃないかと云ふことになり、小生が説明役、小沼さんは愛犬のノーランを訓練した。
校長先生はじめ生れて初めて軍用犬の訓練を見る村人の前で、ノーランは非常によくやつた。彼の狼には神様がのりうつゝてゐるのだと云つて驚いた村人もあつた。
うちの新宅のセガレは南京で傳令途中戰死したと云ふが、ふんに、あんな犬に傳令をやらせたら戰死者は少くなんべいと感激した村人もあつた。
特に初めて軍用犬の訓練を見た校長や役場の収入役などはスツカリ感心し、しまひ、更に日を改め全校生の前で小沼先生に訓練を見せて貰ふことになつた。
小沼さんは私と別れる時に「あなたが校長さんによく説明してくれましたので、私は明日から思ふ存分犬と遊べます」と私に感謝して下さつた。

宮本佐市『臺灣から(昭和14年)』より

 

戦時を通して、台湾から何頭の犬が出征し、どれだけ犠牲になったのでしょうか。

軍馬補充部を介して調達された軍馬と違い、各陸軍部隊が独自に調達していた日本軍犬の総数は把握できていません(徹底的な史料考証で知られる歴史家・秦郁彦氏ですら「日本軍犬の総数はわからない」と匙を投げています)。

台湾軍犬の統計データも、もちろん残っていません。

 

中国戦線や満州国に展開していた日本の軍用動物は、敗戦とともに「次の主人」へ引き継がれます。利用価値のある日本軍馬は返納式を経て国民党軍へ引き渡されましたが、意思の通じる台湾出身の国民党軍兵士に愛馬を託した日本兵もいたそうです。

日本軍犬に関しては、英軍や人民解放軍が接収したという記録が僅かに残っている程度。大部分の犬は混乱の中で姿を消していきました。

 

戦争初期には日本列島へ帰国した軍馬や軍犬がいたものの、敗戦時には戦地から一頭も帰国できませんでした。

いっぽう台湾から出征した犬の場合、「帰国」の概念がややこしくなります。昭和20年10月以降は中華民国が台湾を統治したことで、台湾軍犬たちの帰属も曖昧になってしまったのです。

戦後に日本へ引き揚げた後、かつて台湾で飼っていた愛犬の身を案じる人々もいました。しかし、その行方を知る術などありません。毛沢東に敗れた蒋介石が1949年に台湾へ遷都すると、中華人民共和国と中華民国の対立が激化。

その狭間で日治時代の軍用犬史は忘れ去られ、犬たちの犠牲も「無かったこと」となりました。

それは外国の統治に翻弄され続けた台湾の、悲劇の一頁でもあるのです。