「なんでやねん」と胸に大書されたTシャツを着た外人さんを見かけた。





…。






お前こそなんでだよ。
なんでそんなことになっちゃったんだよ。

と、僕は心の中で関東式につっこんだ。


だがその言葉の響きは僕の胸中に虚しくこだまし、何故か僕の大脳の言語野に違和感を覚えさせた。

それが何か、借り物の言葉であるような、「なんでやねん」を標準語に翻訳しただけの言葉であるような、そんな感覚である。


もとより僕は生粋の関東人であり、都心へのアクセス1時間という大都会に生まれ育った完全なるシチーボーイである。

今思えば祖父には江戸訛りがあったが、それはただ口が悪いだけだろうと思っていた僕にとっては、大学に入るまで方言を遣う人々との接触はほぼ皆無であったと言える。

すなわち、僕は言わば言語的箱入り息子状態で育ったわけで、まさしく標準語を使うことにおけるネイティブ・スピーカーであると思って頂いて間違いない。

そんな僕が関東式の「なんでだよ」に違和感を覚えるのは如何にもおかしな話だが、それはおそらく、この数ヶ月の間に僕を襲った劇的な環境の変化によるものであろうと思う。


というのも、勤め先に関西出身者が多いのだ。

我が社は元来関西系の企業である。そのため、社員に占める関西人の割合も比較的多い。

というかベテランの方々は概ね関西人だと言っても過言ではない。

入社して四ヶ月、関西出身の人と触れ合う頻度は格段に増えた。

彼らは、関西弁に何か強烈な自信のようなものを持ち合わせている。

それゆえ、彼らはそれはもう混じりっけなしの関西弁を徹底的に遣う。

その結果、僕はいつのまにか「なんでだよ」よりも「なんでやねん」に耳が馴れてしまったのだと思う。

そして確かに、あの関西弁という言語の持つテンポは、なんとも小気味がよいのだ。


以前から思っていたことだが、方言があるというのは羨ましい。

方言はアイデンティティとなる。

方言は帰属意識となる。

方言は仲間意識となる。

方言と標準語の両方を遣えれば日本語界のバイリンガルである。

それに、標準語圏の人間がエセ関西弁とかエセ東北弁を喋っていたら間違いなく本場の関西人や東北人に本気で忌み嫌われるが、関西人や東北人が標準語を完璧に話していたらむしろ「標準語うまいね」的な評価となるだろう。

つまり元々方言を話していた人々は標準語を練習すればしただけ「えらい」ということになるが、元々標準語を話していた人々はどんなに血の滲むような訓練の末に流暢な方言を身につけたとしても、単に「うざい」という評価しか得られないのである。

努力が公平に評価されないなんて、こんな理不尽なことがあろうか。

あー方言羨ましい。ほんともう方言羨ましい。

でも、残念ながら方言というものの存在せぬ地域に生まれ育った僕には、もはや何もかもがどうしようもないのだ。

すなわち、僕の方言への憧れは叶わぬ恋のようなもので、求めても求めても、それは僕の気持ちに答えてくれることはなく、むしろ僕を苦しめるだけなのだ。


そんな満たされぬ想いはいつしか変質をきたし、僕にある屈折した願望を抱かせるようになった。

そうだ、偉くなればいいのだ。

偉くなって、生れつきの方言なんかなくったってお腹いっぱい方言をつかいまくれる世の中を僕が作ればいい。


そんなわけで、僕は出世して偉くなったら、語尾に「モジャ」をつける方言を創始しようと考えた。

直属の部下を皮切りに徐々に社内に流行らせ、モジャ弁つかう人同士で心地よい連帯感を味わおうと思う。

そしたらそのオシャレなイントネーションが話題になって、モジャ弁は関東を渦心として次第に全国的な流行を見せるだろう。

そして30年もすると、生まれた時からモジャ弁を聞いて育った世代が社会で活躍し始める。

いまや上方漫才ならぬモジャ方漫才は大変ポピュラーなエンターテインメントとなっており、モジャ弁はテレビ・ラジオ・インターネットを通じて日常的に全国に配信されている。

もはや「モジャ」という言葉を聞かない日などない。

モジャ弁の存在しない日本など、考えられぬくらいだ。


その頃には、関西人たちは皆、自らの「なんでやねん」という言葉に違和感を抱きはじめているだろう。

それが何か、借り物の言葉であるような、「なんでだモジャ」を関西弁に翻訳しただけの言葉であるような、そんな感覚を。


その日を思えば、頑張れる。

つらいことにだって、耐えられるさ。













というわけで、相変わらず高いモチベーションを持って仕事に励んでいます。
最近、私が連日酔っ払ってタクシー帰りを続けているのは、私が遊んでいることの証明ではない。

私がよく働いていることの証である。

最近、私が女装してポリリズムを全力で踊ったのは、私が職場ではしゃいでいることの証明ではない。

私が新入社員の使命をわきまえていることの証である。


時の流れは早い。

前回の日記更新から、もう一ヶ月の月日が過ぎ去った。

多くの人々と出会い、様々な出来事が私の上を通り過ぎた。

それに伴って、私の心も右へ左へと移ろった。

その変遷を誰かに聞いてもらいたいという気持ちもないではないが、もとより移ろいやすい人の心のことでもあるし、なによりめんどくさいので、この一ヶ月のことをここに記すことはしない。


ただ、今このとき、私が伝えたい想いは一つである。

パフュームへの尊崇の念。

そう、それのみだ。

いや、あいつらは踊り上手い。

自ら踊ってみてはじめて、奴らの踊りが思いのほか難しいことを知った。

なめてた。

なんかヲタクウケのするアイドルだろうと思ってなめてた。

最初は全然かわいくないと思ってたのに、踊りの練習のために彼女達の動画を見続けていたら、だんだんかわいく見えてきた。

ちなみに私はノッチ派である。


余談だが私の女装は、「パンチが効いてる」「すごいモテるかすごい嫌われるかどっちか」「海からあがってきた妖怪」「コメントできない」「お前はお前」「脚がほんと汚い」「ムリ」「キャー」などの評価を賜った。

「カワイイ」という感想が一件もなかったことには少々驚いた。

だが写真を見せてもらうと、たしかに驚くほどかわいくなかった。

というか女の子っぽくすらなかった。

踊ってる間は、女装によってすごいかわいい女の子になってると思い込んでいたので、まったくかわいくないばかりか女の子にすら見えないという結果になっていたことには些か衝撃を受けた。

しかし、それはきっと、私が男の中の男だからだと信じることにした。


そんなわけで今日も私は、不断に流転を続ける心と共にある。
経理研修を受けるべく浜松町を飛び出してお台場へと向かう道すがら、鳩の喧嘩を目撃した。


…いや、あれは喧嘩などという生易しいものではない。


それはまさしく死闘であった。


翼をバッサバッサと言わせながら、互いの喉元をめがけてクチバシを突き立てる。


そんな姿は、平和の象徴としてのハトのイメージからも、甘くて美味しいサブレ的なハトのイメージからも大きくかけ離れていた。


クルッポクルッポ言いながら生涯をただ漫然と生きているだけだと思っていた鳩どもが、己の生命を燃やしながら必死で闘う様は、僕にある種の衝撃を与えたのであった。


うんこを投下すること以外はいささかも我らの脅威となりえないのに、彼らがこんなにも凄絶な格闘を繰り広げているだなんて。


しかし温厚なはずの彼らが、どうしてこんなにも必死で闘っているのだろうか。


しばらくして、はっとした。


死闘を繰り広げる二羽の鳩の姿を、傍らでじっと見守るもう一羽の鳩の存在に気付いたからである。


そうか。そうだったのか。


つまり、この闘いは一羽のメスを二羽のオスが奪い合う青春の闘争であったのだ。





鳩A「のぶ子は俺のモンだ!てめえなんかに渡さねえぞ!バサッ」


鳩B「僕だって、のっちゃんのことが大好きなんだ!昔から、ずっとずっと、愛してたんだ!!バササッ」


のぶ子「ツヨシもナオちゃんも、もうやめて!アタシのために争わないで!」


ツヨシ「うるせえ、のぶ子は黙ってろ!これは俺達の問題なんだ!口出しすんな!ガブッ」


ナオちゃん「そうだよ、危ないから、のっちゃんは下がってて!グサッ」


ガブッ

バササッ

グッサー

バサバサーッ





観戦に熱中して経理研修に遅刻しそうになったため、僕は焦ってその場を離れ、闘いの結末を知らない。


どちらがあの闘いに勝利したのだろうか。
のぶ子は、どちらと結ばれたのだろうか。
ツヨシとナオちゃんは、再びあの頃のような、兄弟みたいに仲の良い二人に戻れたのだろうか。


まあそれはともかくとして、一人の女をめぐって仲のよかった二人の男が争う。


なんともクサさ最高潮の展開ではないか。


僕はこれまで、誰かを蹴落としてでも一人のおなごを自分のものにしたいとは思ったことがないので、ツヨシとナオちゃんの気持ちはよくわからない。


しかし、そうまでするほど人を愛せるということは、うらやましい限りである。


ツヨシだってナオちゃんだって、どちらも同じくらいのぶ子を愛しているはずで、そんなことは、冷静になればお互い手に取るようにわかるはずのことであろう。


それでもなお、自分が一番のぶ子を愛していると信じている。


いや、より厳密に言えば、彼らの気持ちは「自分には絶対にのぶ子が必要」という信仰に終始していて、それならば、競合相手がどんなやつであろうと、あらゆる手段を尽くしてのぶ子を手に入れなければならない。


思索の土台の段階で目標物の存在を「あったほうがいいもの」と設定すれば、どちらがよりそれを欲しがっているかという発想にもなろうが、「なくてはならぬもの」と設定すれば、そのような相対性はもとより問題の外となる。


よく考れば、恋人がいないと生きていけないなどということはあるはずがないのだから、それはどこまでいっても「あったほうがいいもの」の範疇にとどまるものであるはずだが、ツヨシとナオちゃんにはそこのところが全く見えなくなっている。


その妄信を可能にする力こそが、恋愛における幸福の根源であると言うことができるかもしれない。


あの仲の良かった幼なじみの三人に、恋心という名の魔性のそれがもたらしたものは、何であったろう。


それは、愛であったか。


それは、欺瞞であったか。


いずれにせよ、げに罪深きは、恋である。

昨日はOB総会、ホームカミングデーに参加した。

「総会」っていうくらいだからOBみーんな来るのかと思っていたら、僕以外の同期は誰ひとり参加していなかった。

大先輩の皆様と共に、立食パーチー。

そのあと、様々な面で大変お世話になり頭の上がらない某大先輩ゴールデンワン氏に、なんだかとっても高級な感じのお店に連れていってもらう。

さらにその後、若手OBの先輩方の集いに合流し、お腹いっぱい射術論を聞きまくり、語りまくる。

またまたその後、その若手OBの中のさらに若手で飲み直すという形になり、さかえ通りで引き続き弓の話でお腹いっぱいになる。

昨日は会社の先輩ともお約束があったのだが、部の諸先輩方のお誘いを断るわけにはゆかぬので、そっちのほうは遅刻を決意する。

9時になり、部の諸先輩方とお別れし、会社の先輩の命に従い渋谷へと急ぐ。

飲み会だとは聞いているが、何ら詳細を教えてもらっていない。

「とりあえず来い」という感じである。

会社の先輩方も体育会系が多いので、このあたりのノリは気持ちがよい。

しかし案の定、渋谷で迷う。

迷いまくり、ついには先輩に迎えにきてもらう。

遅れてきてその上先輩に迎えに来させるなんて、かなりの粗相である。

でも、酔っ払ってたし、気にしない。

迎えに来て下さった先輩がお店に向かう道すがら、こんなことを言う。


先輩「お前、アサノタダノブ似ってことになってるから。」


へ?

と思ったが、酔っ払っていたので気にしない。

お店は、バーのような居酒屋のような、オサレなところであった。

座敷につくと、先輩は僕の顔を手ぬぐいで隠し、こう言った。


先輩「はーい、アサノタダノブ到着しました~!!」

黄色い声「キャー!」


僕は、今更ながら異変を察知し始めた。

僕の顔を隠す手ぬぐいの隙間から、座敷の様子がちらちらと見え隠れする。

座敷の手前に先輩が二人、見知らぬ女性が奥に三人。

あ、合コンだ。これ。

三対三の合コンだこれ。


先輩「はい、それでは手ぬぐい除幕致しますよ!」

女性方「キャーキャー」

先輩「スリー!トゥー!ワン!ご対面!!」


僕の顔を隠していた手ぬぐいが、取り払われる。


女性方「…」

一同「…」

弓手師「…どうも!横浜のアサノタダノブこと、弓手師と申します。宜しくお願い致します。」

女性方「…」


女性方は皆さん年上だったが、大変レベルの高い美人揃いであった。

その後、先輩は体育会気質を発揮して僕にたくさんのモスコミュールを頼んで下さり、僕はそれらを残さず美味しく頂いた。

そもそもなんの獲得目標も下心もなくこの合コンという名の酒宴に参加することになった僕であるから、もとよりかっこつける必要は全くない。

僕は、酔いにまかせて「蟻地獄」と題する、スネ全体をアリンコだらけにする秘技を披露するなど様々な面でその変態ぶりを遺憾無く発揮し、見事に地位を確立したのであった。

先輩がしきりに「矢田亜希子に似ている」と言っていた姉さんはほんとに矢田亜希子に似ている気もする美人であったが、酔っ払った僕にとっては絶世の美女すらカボチャと変わらぬ。

僕はかつてヲカ女史から頂いた助言に従い、先輩方と姉さん方に蟻地獄から捕まえたアリンコをひとつひとつ丁寧にプレゼントする気配りを見せたのであった。



まさしく暴走である。

まあ、世の中酔ったもん勝ちということだ。




そんなこんなで、昨日は大変忙しい一日であった。

一転、今日は暇。ほんとなあんもやることない。暇。

誰か一緒に浜松町にあるという噂の道場に弓を引きに行かないか?


ウルフ先生「えーそれじゃあ放送委員の次は、私の彼女を決めていきたいと思います。誰か、立候補する人はいませんか?」


クラス「……。」


ウルフ先生「なんだ、誰もおらんのか?立候補がないようなら、推薦がある人はいませんか?」


クラス「……。」


ウルフ先生「うーん、困ったな。これ決まらないとホームルームいつまでたっても終わらんぞ。さあ、他の委員にまだ就いてない人、誰かやってもいいっていう人いないか?」


クラス「……。」


学級委員「先生、その係の仕事はどんなものがあるんですか?」


ウルフ先生「そうだなあ。基本的には私と愛を育むのが仕事だな。他むずかしいことはあまりないと思うよ。たぶん他の委員との兼任もできるくらい楽な仕事だけど、まあ不公平になっちゃうからなるべく何の委員にも就いてない人がなってくれるといいんだけどなあ。さあ、誰かやってもいいっていう人いないか~?」


クラス「……。」


まさよ「はい、じゃあ私やります。」


クラス「おぉ~…」


ウルフ先生「おぉ~、はい、立候補が出ました。では私の彼女はまさよさんでいいと思う人は、拍手をして下さい!」


クラス「パチパチパチパチ…!!!」


ウルフ先生「はい、では私の彼女はまさよさんに決定です。偉いぞ、まさよ。頑張ってな。それでは、全ての委員が決まったので、今日のホームルームはこれで終わります。」


学級委員「起立、礼、着席。」



眠い。

平均的に朝9時くらいまで寝られてたあの頃が懐かしい。

図書館で課題をやろうとしてそのまま3時間くらい爆睡してた頃が懐かしい。

つまらない授業にノートをよだれだらけにしてた頃が懐かしい。



やはりさすがに会社で寝たら怒られちゃうし、そもそも寝るスキがない。

会社にも保育園みたいに、「おひるねのじかん」というのがあればいいのに。










保母さん「はーい、みんな、おひるねのじかんですよー」


社員「は~い。」


新人「わーい、おひるねだおひるねだー」


五年目「ぼくこのおふとんー!」


三年目「ぼくこっちー」


労務さん「あーそのおふとん、僕が寝たかったのー!」


派遣さん「僕だってそこがいいー」


保母さん「こーら!けんかしないの。みんなでなかよくおひるねしなきゃだめでしょ。」


十七年目「あのねーぼくなんかねーぼくなんかねー、ぜんぜん眠くないんだよ!」





10分後。





社員「スヤスヤ…」


保母さん「(起きてるときは悪魔みたいだけど、みんな、寝顔は天使ね。うふふ。)」


部長「うーん。」


保母さん「あら、まーくん、どうしたの?眠れないのかな?」


部長「うん、ねむくないの。」


保母さん「じゃ、せんせいが子守唄うたってあげようか」


部長「うん!」


保母さん「はい、じゃあ目をつぶって。…ねーんねーんーころーりーよーおこぉろーりーよー、まーくんはー、よいーこーだー、ねんーねーしーなー…」


部長「せんせ。」


保母さん「ん?なあに?」


部長「ありがと。」


保母さん「まーくん…。いいのよ、せんせいはかいしゃのみんなのことが、だあいすきなんだから。」


部長「…」


保母さん「…まーくん?あ。」


部長「…スー…スー」


保母さん「…寝ちゃった。ふふふ、ありがとうね、まーくん。」










的な。
主将をはじめとする弓道部員諸氏が大殊勲をあげてくれた。

そのおかげで、僕はひさかたぶりに大変美味しいお酒を飲むことができた。

まさに欣快である。

そのうえ帰りの田園都市線は渋谷始発だったおかげでガラガラで、なんと座ることができた。

もはや僥倖というほかない。

こんないい日もあるんだなあ。

そんな好い気分で携帯をいじりながら、幸福なる酩酊に身を委ねつつ、僕は帰途についた。

人生に幸せというものがあるとすれば、それはきっと、「これこそが幸せだ」と断定できるようなものではなくて、「これって幸せなのかもしれない」と、そんなふうに思える一瞬間そのもののことを言うのだろう。

そしてそんなささやかなな幸せがたくさん積み重なった人生を、人は幸福なる人生として振り返るのだろう。

今このときの気分は、そんな幸せのひとつかもしれないと、そんなことを考えながら、僕は電車の揺れに身を任せていた。



しかし、憂き世を統べるまがまがしきものを少なからずこの背に負っている呪われし我が身である。

幸運や歓喜をほんのひとときのあいだ得ることができたとしても、それを享受し続けることを、天が許すはずもない。

たとえそれが、渋谷から自宅までの、ほんの一時間足らずのことであろうとも。



異変は、すぐに起こった。



僕の隣には、アーティスト風のいでたちをした五十代後半と思われるおっさんが座っていた。

白髪まじりの長髪は中分けにされて肩まで垂れ、額に黒のバンダナを巻いている。

服装はジーパンにGジャン。

他人のポリシーにとやかく言うつもりはないが、一見して時代錯誤の自称ミュージシャンといった感じである。


そのおっさんが突如話しかけてきたのは、電車が池尻大橋を出発したあたりのことだ。


おっさんは僕の携帯を見て、こう尋ねた。


おっさん「それ、なんかとってんの?」

弓手師「…はい?」


別に僕の携帯は新機種でもなければ変わった機種でもない。それどころかストラップすらついていない。

故に見ず知らずのおっさんに興味を持たれるいわれはどこにもない。

なんだ。なんなんだ。なんの用だ。


おっさんは繰り返す。


おっさん「それ、なんかとってんの?」

弓手師「え?なんですか?」


おっさんは僕の携帯の画面を覗き込むようにしながらボソボソと喋る。

とってる?とってるって、え?何を?


おっさん「それ、なんか撮ってんの?」


三度目で、ようやく合点がいった。

どうやらこのおっさんは、僕が何かを隠し撮りしているのではないかと言っているようなのだ。


僕は、あまりに唐突な出来事に絶句した。


あほか。あほなのか。

ケータイのカメラというもんがどこについてるのかわかってんのか。
こんな角度じゃ撮ろうと思っても自分の脚しか撮れんわ。

おまけに周りおっさんばっかじゃないか。何を撮るというのだ。隠し撮りしてまで撮りたいものがここのどこにあるというのだ。

ぶぁかか。ぶわぁかなのか。

僕はあまりの心外っぷりに思わず語気をあらげた。


弓手師「は?なにも撮ってませんよ。見せましょうか?お見せしますよ、どうぞ。見て下さい。」


僕は、携帯の画面をおっさんの眼前に突き付けて読んでいた弓道掲示板の記事を見せつけた。


どうだこの野郎。
人をマーシー扱いするとは無礼にも程があるぞ。

この俺がそんなくだらねえことで人生を棒にふるような人間に見えるのか。

さあどうだ。謝れこの野郎。このGジャンおじさんめ!バンダナおじさんめ!!


まあ僕からしてみれば最初から負けるはずのない勝負だから、携帯画面を突き付けた瞬間に勝利は我が手中におさまるはずであった。

すなわち、奴が我が弱点と見た携帯画面は、そのまま奴を返り討つ我が剣であったのである。

おっさんの顔がみるみる青ざめ、己の犯したあやまちに震える姿が目に浮かぶようであった。

しかし、おっさんの反応は僕の予想とは異なるものであった。

決定的な敗北の証拠を突き付けられても、おっさんは依然にやにやと不敵な笑みを浮かべて黙っているのである。

おっさんのその反応を見て、僕が恐怖を禁じ得なかったのは言うまでもない。

その笑顔を見た途端、僕は判然と悟ったのである。



…あ、これはあれだ。やばい人だ。



やばい人に対しては如何なる正攻法も無効である。

無効どころか、真っ向勝負をすればしただけこちらが損害を被るのは目に見えている。

なぜならば、彼らにとっては勝負を規定する土俵でさえ、なんらの意味も成さないからである。

無理が通れば道理引っ込む。

我らの道理の鉄槌は彼らの無理を打ち砕くことはできないが、彼らの無理は我らの道理をたやすく破壊し得るのである。

ましてや、やばい人というのはその存在自体が無理そのもの。言わば生きる出鱈目。ウォーキング不条理なのである。

ルールの世界に生まれ、ルールを武器とする我々に、もとより勝機はないのだ。


一度黙りはしたものの、おっさんは依然として不快きわまる動きで僕の携帯を覗き込んでくる。

周りの乗客たちは、そんな僕らのやりとりを訝しげに眺めている。

おっさんの不審さは明らかだが、しかし見ようによっては、ほんとに僕がなんか悪いことをしたみたいに見えないこともないかもしれない。

結局、僕はなんとなく居づらくなり、折よく停車した三軒茶屋駅で電車を降りて次の電車に乗り換えることにした。

逃げるように電車を降りる。

次の電車が来るまでは、七分待たねばならない。

こんな下らんことでせっかく座れてた電車を降りて一本遅らせなければならないなんて、屈辱以外のなにものでもない。

こんなことが許されてよいのだろうか。

三軒茶屋のホームで出発してゆく電車を見送ったときの、あのおっさんの顔を、僕は忘れない。

ゆっくりと動き出す電車の中から僕を見いだし、にやにやと笑みを浮かべるあの顔を。

この野郎。なんだその笑いは。

勝ったつもりか。

貴様はまだ俺がマーシーだと信じているというわけか。

ふざけるな!

てかそもそもお前のほうがよっぽど変質者っぽいだろうが!

もうお前うんこまみれになれ!うんこ踏んだり漏らしたり誤って食べたり色々しろ!

このあほ!じじい!うんこ!バンダナ!エセミュージシャン!デフォルト変顔!ぶわぁーか、ぶわぁーーか!!



七分後にやってきた次の電車は、普通にガッサリ混んでいた。


心地よい電車の揺れに身を委ねながら、「あ、これって幸せなのかも。」などと夢見る少女のようなことを考えていたのは、もはやはるか昔の話である。


弓手師史上二度目の冤罪。


僕は、青春の輝かしい世界を離れるごとに着実に背後から這い寄ってくる混沌の気配におののきながら、一転して冷酷に感じられる電車の揺れによろめかぬように、あざみ野に着くまでの時間をただただ辛抱することとなったのであった。

ちなみに、あざみ野に着くと地下鉄の電車はすでに終わっており、僕は、その後の道のりを歩いて帰ることとなった。


今は、なんだか、無性に淋しい。





でも、そんなことは置いといて、ハヤシ君、コダマ君、コミネ君、本当におめでとう!

弓道部のみんな!つらいことも多いだろうと思うけど、みんな、頑張れよ!

おもいっきり、頑張れよ!
射会があった関係で久々に早稲田の地に降り立った。

三ヶ月ぶりとは言え、久々にお会いしたOBの先輩方と共に久々の弓に興ずるのは非常に楽しい時間であった。

そんで射会が終わってキャンパスを散歩してたら、ゼミの先生にばったりお会いした。相変わらず仏のような慈愛に満ちたお顔であった。

なんだか色々と懐かしい気分になり、猛烈にすたどんと酒が欲しくなった。

そこで都内にいるはずの弓道部同期達に声をかけて酒をかっくらおうかと思ったが、少し風邪気味なのでみんなにうつしたら悪いと思い、やめた。

そんなわけで、一人ですたどんを食べ、一人で酒を飲んでいる。

こんなに同期愛に満ち溢れた人も稀だと思う。

こんなに愛に溢れた人にどうして彼女がいないのか不思議でならない。

それにしてもすたどんも酒も、なんと美味しいのだろうか。

この世に弓と酒とすたどんに勝る幸福はないと思う。