…。
お前こそなんでだよ。
なんでそんなことになっちゃったんだよ。
と、僕は心の中で関東式につっこんだ。
だがその言葉の響きは僕の胸中に虚しくこだまし、何故か僕の大脳の言語野に違和感を覚えさせた。
それが何か、借り物の言葉であるような、「なんでやねん」を標準語に翻訳しただけの言葉であるような、そんな感覚である。
もとより僕は生粋の関東人であり、都心へのアクセス1時間という大都会に生まれ育った完全なるシチーボーイである。
今思えば祖父には江戸訛りがあったが、それはただ口が悪いだけだろうと思っていた僕にとっては、大学に入るまで方言を遣う人々との接触はほぼ皆無であったと言える。
すなわち、僕は言わば言語的箱入り息子状態で育ったわけで、まさしく標準語を使うことにおけるネイティブ・スピーカーであると思って頂いて間違いない。
そんな僕が関東式の「なんでだよ」に違和感を覚えるのは如何にもおかしな話だが、それはおそらく、この数ヶ月の間に僕を襲った劇的な環境の変化によるものであろうと思う。
というのも、勤め先に関西出身者が多いのだ。
我が社は元来関西系の企業である。そのため、社員に占める関西人の割合も比較的多い。
というかベテランの方々は概ね関西人だと言っても過言ではない。
入社して四ヶ月、関西出身の人と触れ合う頻度は格段に増えた。
彼らは、関西弁に何か強烈な自信のようなものを持ち合わせている。
それゆえ、彼らはそれはもう混じりっけなしの関西弁を徹底的に遣う。
その結果、僕はいつのまにか「なんでだよ」よりも「なんでやねん」に耳が馴れてしまったのだと思う。
そして確かに、あの関西弁という言語の持つテンポは、なんとも小気味がよいのだ。
以前から思っていたことだが、方言があるというのは羨ましい。
方言はアイデンティティとなる。
方言は帰属意識となる。
方言は仲間意識となる。
方言と標準語の両方を遣えれば日本語界のバイリンガルである。
それに、標準語圏の人間がエセ関西弁とかエセ東北弁を喋っていたら間違いなく本場の関西人や東北人に本気で忌み嫌われるが、関西人や東北人が標準語を完璧に話していたらむしろ「標準語うまいね」的な評価となるだろう。
つまり元々方言を話していた人々は標準語を練習すればしただけ「えらい」ということになるが、元々標準語を話していた人々はどんなに血の滲むような訓練の末に流暢な方言を身につけたとしても、単に「うざい」という評価しか得られないのである。
努力が公平に評価されないなんて、こんな理不尽なことがあろうか。
あー方言羨ましい。ほんともう方言羨ましい。
でも、残念ながら方言というものの存在せぬ地域に生まれ育った僕には、もはや何もかもがどうしようもないのだ。
すなわち、僕の方言への憧れは叶わぬ恋のようなもので、求めても求めても、それは僕の気持ちに答えてくれることはなく、むしろ僕を苦しめるだけなのだ。
そんな満たされぬ想いはいつしか変質をきたし、僕にある屈折した願望を抱かせるようになった。
そうだ、偉くなればいいのだ。
偉くなって、生れつきの方言なんかなくったってお腹いっぱい方言をつかいまくれる世の中を僕が作ればいい。
そんなわけで、僕は出世して偉くなったら、語尾に「モジャ」をつける方言を創始しようと考えた。
直属の部下を皮切りに徐々に社内に流行らせ、モジャ弁つかう人同士で心地よい連帯感を味わおうと思う。
そしたらそのオシャレなイントネーションが話題になって、モジャ弁は関東を渦心として次第に全国的な流行を見せるだろう。
そして30年もすると、生まれた時からモジャ弁を聞いて育った世代が社会で活躍し始める。
いまや上方漫才ならぬモジャ方漫才は大変ポピュラーなエンターテインメントとなっており、モジャ弁はテレビ・ラジオ・インターネットを通じて日常的に全国に配信されている。
もはや「モジャ」という言葉を聞かない日などない。
モジャ弁の存在しない日本など、考えられぬくらいだ。
その頃には、関西人たちは皆、自らの「なんでやねん」という言葉に違和感を抱きはじめているだろう。
それが何か、借り物の言葉であるような、「なんでだモジャ」を関西弁に翻訳しただけの言葉であるような、そんな感覚を。
その日を思えば、頑張れる。
つらいことにだって、耐えられるさ。
というわけで、相変わらず高いモチベーションを持って仕事に励んでいます。