ホントのワタシは、誠に何これ珍百景的な有り様であった。
絶対デビューすべきじゃない。

いや、しかしこれが本当にホントのワタシなのだろうか?
てかこんな顔だっけ?あれ?どうだっけ?

中学以来ずっと眼鏡なので、眼鏡を取り去った姿を視認するのは十何年ぶりだ。もはやホントのワタシがどんな顔だったのかもわからなくなっているのかもしれない。

いや、しかしそもそも本当の自己などというものが存在するのだろうか?

人は誰しも、心に仮面をつけているという。誰しもが己の作り出した自分を演じているのだと。

確かに我々は、外に見せている己の姿と己の内面の姿に少なからずギャップを抱いて生きている。

本当の自分はもっと暗くて、弱くて、ろくでもない人間だと、そういう自分を仮面の下に隠して生きているのだと、そんな感覚を持っている。

しかし、仮面をひとつひとつ剥ぎ取って、その全てを取り去った先に、本当に確固たる真の自己というものが存在するのか?

そこには何もないのではないか?

人間は、本質的に清濁を併せ持っている。矛盾を抱えて生きている。

綺麗な部分も汚い部分も本当にあって、それが矛盾するものだとしても、その両方が、その矛盾そのものこそが、本当の自分の姿なのではないか?

うんぬんかんぬん。


そんな取り留めのない思索に耽りつつ、僕は独りラーメン屋でビールを飲みながら、その日一日の出来事を思い返していた。

その日、僕は代休であった。

課長が必ず休めとおっしゃるのでムリクリ休んでみたわけだが、案の定やることが皆無である。

なのでウチでダラダラ過ごそうと思っていたのだが、弟が風邪を引いて家でゴホゴホ咳を撒き散らしていたので、このまま一日一緒にいたらさすがにうつると思い、とりあえず外出することにした。

普段は時間がない時間がないと不満をたれまくっている僕だが、元来の遊び下手のために、こうやって時間ができてみるとやりたいことが全く思い浮かばない。

途方に暮れるとはまさにこのことである。

そんなわけで近くの公園を何の目的もなくぶらぶら歩いていたら、以前眼医者さんで「コンタクト作ってみたらどうですか」と勧められたことを思い出した。

そこで、他にやることも思いつかないので早速眼医者さんに行ってコンタクトレンズをつけてみたわけなのだ。

本当は眼医者さんまでの時間をつぶすために、引き続き公園をぶらぶらしたり、本屋をぶらぶらしたり、近くのショッピングモールをぶらぶらしたり、喫茶店でニーチェを読み耽ったり、意味もなく一駅分歩いたり、なんかいろいろしたわけだが、ほんとに語るに値しないほど収穫がなかったので割愛する。


さてコンタクト装着が完了したとき、時刻は午後6時前となっていた。

ホントのワタシが十数年ぶりに晴れてお披露目となったわけである。

アイブサキは眼鏡をかけてたほうが可愛いと僕は思うが、眼鏡っ娘→眼鏡はずす→美人という方程式は一般的な公式として広く活用されているので、ヒゲメガネ→眼鏡はずす→モテダンディという公式も成り立つに違いないと僕は考えていた。

そう、僕は気付かなかったのだ。
ヒゲメガネから眼鏡を取ったらヒゲしか残らないということに。


ウキウキしながら立ち寄った近くのショッピングモールでトイレに入り、いよいよホントのワタシと対面する。

しかし、そこに立っていたのは、なんともとらえどころのない無味乾燥な顔をした、ヒゲの濃い男であった。

ヒゲメガネがただのヒゲになった瞬間である。

眼鏡を失った僕には特徴らしい特徴がなく、それでいてどこか間抜けな面長狸といった様相で、印象が薄い割にはヒゲはすこぶる濃い。

僕は愕然とした。

僕の特徴は、ほんとにヒゲとメガネだけだったということか。

「ジーゲスゾイレの半分はメガネでできています(もう半分はヒゲ)」ということなのか。

馬鹿な、そんな馬鹿な。もういやだ。ああ、彼女ほしい。ああしんどい。

もういいや、帰ろう。帰って寝よう。


しかしそう思って帰途に就こうとしたとき、僕の脳裏にはまた恐ろしい事実がよぎった。

あれ?俺って今日、眼医者行った以外なんもしてなくね?

代休の貴重な一日を、ただヒゲメガネからヒゲへの退化現象を経験するためだけに費消したとあっては、絶対に後悔する。

だめだ。このまま帰っては駄目だ。

猛烈になにかせねばならないという衝動につきうごかされた僕は、ショッピングモールに併設された観覧車に飛び乗った。

平日の午後7時過ぎ。外には雨が降っている。

こんなタイミングで観覧車に乗ろうとする人間は僕だけであった。

雨の夜に独りで観覧車に乗ろうとする男を前にしても、訝しむ表情ひとつ見せずに応対した係の青年は立派である。

僕自身でさえ、己の行動を訝しんでいたのだから。


さて、独りきりで観覧車に乗ると、どんな気持ちになるか。
皆さんはご存知だろうか。

こればかりは、やってみた者でなければわかるまい。

可愛い彼女と一緒だったらうんぬんとか、そういう気持ちになるものと僕自身も想像していたのだが、事実はそうではなかった。

意外なことに僕が感じたのは、死の恐怖であった。

ああ、いまここでこのゴンドラが落下したら、僕は独りぼっちで死ぬことになるのか。

こんな雨の夜に独り観覧車のなかで死んだら、僕を知る人々は何を思うだろう。

ああ、いやだ、死にたくない。

観覧車が一周するのに20分。どうか地震だけは起こらないでくれ。

こんな気持ちになったのは自分でも思い掛けぬことであったが、おそらく狭いゴンドラの中に独り閉じ込められる孤独がそれを強く意識させたのだろう。

それは、死こそが孤独の究極であるからかもしれない。

幸い、僕を乗せたゴンドラは無事に地上に舞い戻った。

係の青年は相変わらず愛想よく僕を迎えてくれたが、そんな彼に笑い返す気力は、僕には残っていなかった。


…。


その後、僕はラーメン屋に入り、ラーメンとからあげと瓶ビール一本を注文した。

コップに注いだビールをあおりながら振り返る一日は、やはり虚しい影を僕の上に落としていたが、しかしながら三つの教訓を僕に齎してくれた。

一、眼鏡は己の特徴の半分を規定するものと心得、その選定には慎重を期すべし。
一、観覧車には必ず二人以上で乗るべし。
一、死は誰にとっても孤独であるが、死の間際に孤独であるのは恐るべくある。後半生を共に生きる伴侶を見つけるべし。

代休の夜は、こうして更けていった。
こないだの日曜は、たまきくんとサカスくんと一緒に、北浦和の某弓具店まで赴いた。

春まっさかりである。
空の青も、風のにおいも、みずみずしい草花も、犬も、猫も、小鳥も、アスファルトでさえ、溢れんばかりに春である。


そんな春めく街々の空気に包まれながら電車に揺られて往く北浦和までの道程で、僕の胸にはある強い想いが湧き上がってきたのであった。

それはすなわち、「すげえ美人多いな。さすが春だな。にもかかわらずなぜ俺には可愛い彼女がいないのか。到底承服できぬ。オブジェクション、オブジェクション。私は断固拒絶する。」ということである。

春なのに、お別れどころか出会ってもいない。

春なのに、涙が零れるどころか傷心のきっかけすら見出だせない。

無である。

我が感情に揺らぎを与えるものは、もはや業務上の闘争のみである。

私は断固拒絶する。
我が青春はこんなものではないはずだ。

こんなにも殺伐とした、そこに戦いしか見いだせぬようなものが僕の青春であろうはずがないではないか。

…いや、まてよ。
しかしながら人生の本質は闘争だ。

いつ死んでも何ら不思議のない中で、不断に死に勝利し続けることが生であるとするならば、人生というものはひとえに闘いなのだ。

しからば彼女とくっちゃくっちゃして幸せとか、そういう人生のうるおい的なもののほうが実は幻想で、僕が生きているこの荒野こそが現実の生なのではあるまいか。

いやでもそうだとするならもう幻でもいいから彼女ほしい。うんぬんかんぬん。


さて、そんな想いを胸に秘めながら、待ち合わせのために北浦和駅の改札前でボーッとしていたところ、実にきゃわゆい女の子が僕の前を横切り、出口のほうに向かって歩いていった。

涼しげな眉に大きな瞳。すっと通った鼻筋。
背は高くないが、すらっとした印象を与える美人で、肩までの美しい髪を風になびかせて歩く姿には、何か洗練されたものを感じる。

美人=観賞物であるところの僕は、美女を発見した場合には見ていることを覚られぬ範囲内で最大限にその姿を観賞するのを習いとしている。
これは、自尊心を担保しつつ最大限に目の保養を行うための作法である。

今回も作法に倣い、彼女が階段を降りて見えなくなるまで、僕はその姿を見るともなく眺めていたのである。

しかし、その後ろ姿が階段に消えたと思った次の瞬間、彼女が突然また顔を出した。
そして急に階段脇のきっぷ売り場に走り寄ったのである。

美人=観賞物であるところの僕は、なにごとかと思い、再び彼女の動向に目をやった。

彼女は、券売機のまえで少し屈んで、何やら話をしている。

よく見ると、相手は5、6歳の男の子である。

彼女は微笑みながら、彼に一言二言問い掛けたあと、券売機の画面を指し示して何やら説明をしていた。

どうやら、Suicaチャージの方法を男の子に教えてあげているようである。

そう、すなわち彼女は階段を降りる際に券売機で困っているちっちゃい子を目に留め、駆け寄って助けてあげているわけなのである。


ああ、なんたることか!

君は天使か!!
この殺伐とした地上に神が遣わせ給うた天使なのか!!

顔も可愛くてスタイルも美しいうえに心まで綺麗だというのか!!

闘争のみが真理であるこの世界で、君のその姿はなんと輝いていることであろう!!

否、そうではない!

君が舞い降りた今、この地上はもはや闘争のみが支配する荒野ではないのだ!

希望と慈愛と幸福とに満ち溢れた、歓待すべき春の大地なのだ!!

ああ、君よ!
天使よ!!

僕の彼女になってください。
足の臭さがとてつもない。

豆まきの豆をすんごく香ばしくしたようなにおいがする。

どれほどくさいかというと、リビングにいるのに自室に篭っていた弟が怒りだすほどくさい。

あと夕食をとっているときにご飯を食べているのか炒り豆を食べているのかわからなくなるほどくさい。

それはもうとてつもないのだ。



何故こんなに足がくさくなったのか考えたが、これはやはり仕事で四六時中革靴を履いてるせいだと思う。

オフィスでサンダルとか履ければいいけど、社内には協力会社の方もいるのでそういうわけにもゆかぬ。

おまけに帰りも遅い。
仕事自体もそうだが飲みが長すぎ。頻繁すぎ。

少なくとも週三は飲む。

最近も歓送迎会で午前3時までカラオケとなり例の如く手の平にタンバリン青あざを作るハメになったり、ボーリング大会で午前1時帰りになったりとまあ立て込んでいる。どんだけイベントやれば気が済むの?


まあそれはともかく、そんなわけでいま僕は足の臭さがとんでもないことになっているのである。

とはいえ臭くなってしまったものはもう如何ともしがたい。

しょうがないので、足がくさくてもモテる方法について思索を巡らせてみようと思う。


案1)隠し通す。
足がくさいことをひた隠しにする。むしろあたかも足からジャスミンの香りがする男であるかの如く振る舞う。
ほんとはくさくたってバレるまえにモテてしまえばこっちのもんである。

案2)努力家訴求
足がくさいのを克服すべく、ひたむきに努力している男を演じる。
足がくさいというもはや不運としか言いようのないハンディキャップにもめげずに前向きに頑張る姿に、世の女性たちは胸キュンであろうことうけあい。

案3)天然訴求
自分の足の臭さに気付かない、天然でおおらかな男を演じる。「なんかどっかからおいしそうな炒り豆のにおいがするね!」などといった純真きわまりない発言に、世の女性たちは母性本能を大いにくすぐられるであろうことうけあい。

案4)男らしさ訴求
「ワシの足は炒り豆じゃい。ジャスミンがなんぼのもんじゃい。」などとのたまう。
その堂々たる姿に、世の女性たちは「この人なら私を守ってくれそう」という思いを新たにするであろう。

案5)足くさダメ男キャラ訴求
もういっそ足がくさいダメ男というキャラで売り出す。「でもゾイレさんの足がくさくなくなったら、あたしちょっと寂しいかも。」とか思われたらこっちのもんである。

案6)モテる男子の新ジャンル
「イケメン」「オトメン」「イクメン」などに並ぶ新ジャンル、「クセメン(Xe-MEN)」ブームに火をつける。別名を「足くさ系男子」。もちろん好みは分かれるが、足がくさいということが一つの個性なので、ある層の女性からは熱烈な支持を集める。ゆくゆくは『最後の恋は足くさ系男子が持ってくる!』などといった足くさ系と恋に落ちるためのハウツー本などがバカ売れするに違いない。

案7)価値の転換を図る
そもそも足がくさいのは男の勲章である。だってそうだろう。男の足がくさいのは、毎日汗みず垂らして働いている結果ぢゃないか。一所懸命に頑張っている証なんだよ。それが男の魂ぢゃないか。そんな価値観で世の中を席巻する。



…。



とまあいろいろ考えてみたが、途中で気付いた。

大切なのは方法じゃない。現状を打破せんとする意志だ。

人間、生きていれば苦しいことは多い。壁にぶつかることなどしょっちゅうだ。だが我らにそれを歎いている暇はない。我らは常に眼前に立ちはだかる壁を粉砕し、未来を切り開いていかなければならない。

逆境に直面したときに考えるべきは、「どうしてこんなことになったか」ではなく「どうすればそれを乗り越えられるか」である。
そして、それを考えるマインドさえ持っていれば、きっと道は開けるに違いないのだ。

すなわち、足がくさいというこの非常の困難を目の前にしてそれでも挫けず、むしろそれをバネにしてモテる方策を思案しているその時点で、僕のマインドはもはやモテ男のそれなのである。



うん。



まあそんなわけで、足がくさい。
あと彼女ほしい。
駅でおっさん二人が喧嘩をしている。

両脇を仲裁に入った駅員に抱えられながら、それでも二人は息巻く。

「ふざけとんちゃうぞワレコラ!」

片方はホームに響き渡るようなだみ声関西弁である。
日常の恐怖が脳裏をよぎるのでほんとやめてもらいたい。

「おっさん、ナメてるとマジでキレるぞ!」

一方こっちはなんか甲高い声だ。てか相手のことおっさん呼ばわりしてるけどこの人も十分おっさんである。



関西弁のおっさんはガタイのよい四十過ぎの男で、スーツ姿に角刈り頭。怒らせたらいかにもめんどくさそうな感じである。

他方、甲高い若者口調のおっさんは、三十後半だろうか。体型は小肥り、中分けの満利ヘアーで、Gジャンとジーパンに身を包んでいる。

まあなんか、Gジャンジーパン小肥り中分けのうえに「マジでキレるぞ」とか言ってるところを見た限りでは、きっとこのおっさんは永遠の中学生なんだなという感じがして、風格において角刈りに大きくおくれをとっているように思われる。

てかやりあったら絶対角刈り勝つと思う。



…いや、まあそれはともかく、はっきり言ってほんとどっちも邪魔です。

これ最終電車だからね。
おまえらのせいで電車止まってるからね。

これで家帰れなかったら、今晩夢の中でおまえらにものっすごい汚い言葉を浴びせながらうんこ食べさせるからね。


それにしてもいつも思うんだけど、こういう人たちって仲裁を振り切ろうとするそぶりは見せるけど実際には振り切ってまで闘わないよね。

きっと心のどこかで制止されてることに安心してるんだと思う。

甘えんな。
さっさと決着つけろ。こっちは終電が終わりそうなんだよ。

明日5時半に家出なきゃいけないんだよ。ふざけんな。





…。





帰ってきました。

さっき会社から電話があった。在庫データがどうかなってるとかなんとか。

詳細よくわからんが、なんか明日はトラブルの予感がする。きっと朝から怒られたりカオスだったりいろいろするんだろうな。あーあ。



ま、それはそうともう寝よ。
早く寝ておっさんどもにうんこ食べさせなきゃね!
課長をよく見たら、眉毛はふつうにあった。


最近は、リアルに仕事が忙しくなってきている。

25時以前に帰宅できる日がほとんどない。なんか土日も仕事してる。

しんどい。

いや、でもまあそれはいいのだ。

多少忙しいくらいなんでもないのだ。どうせ時間あっても遊び方わかんないし。

それより問題なのは、課長がまじで恐いことである。

コンプラ的な何かに抵触するとアレなのであんまり詳しくは書かないが、もうなんかうちの課長すごい恐い。

スキンだし。巨人だし。眉毛ないし。

僕の職場には、とてもビジネスシーンとは思えないようなナニワ金融道的罵詈雑言が飛び交っている。

あ、いや、飛び交ってるというよりは課長から単方向的に飛んでくるというほうが正しいかもしれない。

課長にコテコテの関西弁でまくし立てられると、いつもクールなナイスガイであるところの僕もさすがにワキ汗を惜し気もなく滴らせる以外に仕方がない。

まあそんなわけで、僕はこの2年、激しい罵声の嵐に晒され続けているわけなのである。

生来の高ストレス耐性のおかげか、はたまた数年来の虚無思想によるたゆまぬ鍛錬の賜物か、そのような状況下でも僕は比較的元気に暮らしているわけだが、しかし最近、僕の胸中にはある疑惑が湧出してきた。

それはすなわち、己の心が次第に死滅していっているのではないか、という疑いである。

というのも、時を経るにつれ、感情の振れ幅が小さくなってゆくのを感じるのだ。

いまや、心は打てど響かぬ鉛のように冷たく重くなり、ちょっとやそっとで揺るがぬ代わりに躍動もしない。

「感情をオフにする」というのは学生時代によく使った造語であるが、今の僕は、感情半オフ状態が四六時中続いているような、そんな状況なのではないかと思っている。

社会人化は、人を傷つけることと人に傷つけられることに対する感受性の鈍化なしには成し得ぬように思う。

なぜなら、時に生ずる組織間・立場間の摩擦に際して、我々は人間的な情緒によってではなく、ビジネス的な当為のみを拠として行動することを求められるからである。

強く快活な人間であればまだしも、僕のような惰弱陰鬱な人間は、心を硬化させることなしにそれに順応するを得ぬのであろう。
それは、一種の防衛行動に外ならないのである。

さりながら、経済原理と組織原理に無意識的に服従し、このまま坐して心の死滅を待つのはあまりに忍びない。

そこで僕は、これから再び、ここに日記をつけはじめようと思い立った。

冒頭に掲げるとおり、このユンディズムの彼岸は、元来、己の感情を整理し、保存し、補完することを目的とする真に自慰的な性格のブログである。

今こそ、僕は矮小な己の本性を此処にぶちまけなければならない。

人の心は、如何にも容易く移ろうものだ。

今、確固たる己と信じて疑わぬ己も、明日には知らず赤の他人と成り果てるやもしれない。

しかも、己を取り巻く環境が目まぐるしく変転するビジネスマンの世界においては、我らは常に変質を迫られているのである。

現在の己を肯定するのは容易い。現在の己を否定するのも容易い。

しかし、現在の己を理解しようとするならば、我々は知らず知らずのうちに変質してゆく己自身を知らねばならない。

そのための方途として、僕はここに再び、その時々の己の座標を記していきたいと思うのである。

これからはまた、できるかぎり日記をつけていこう。

一行でもいい。つまらなくてもいい。

その瞬間の僕自身が、その文章に少しでも投影されればそれでいい。

僕はここに、ユンディズムへの回帰を宣言するものである。




そんなわけで、これからまたちょくちょく更新します。

読者の皆様、今後とも変わらぬご厚情賜りますよう、よろしくお願い申しあげます。
最近は毎日終電を逃し、タクシー帰りである。


本日は23時半に仕事が終わり、25時半まで課で飲んで、そっからタクシーで帰途に着く。


26時半頃、タクシーは家の近くに到着。


しかし、ようやく家に帰ってきたと安堵してタクシーから降りようとした矢先、運ちゃんが突如歴史を中心に謎の難解な講義を始め、止まらなくなる。


解放された時にはもう27時半。家に帰り着いたのは28時。


なにこの事態。意味がわからん。


ちなみに昨日の帰りに乗ったタクシーの運ちゃんにはずっと気功の使い方をレクチャーされた。


これまで何度もゾイレは何か持ってると言われてきましたが、今日それが何かわかりました。


それは、うんこです。
朝の通勤電車で松葉杖をついたお姉さんに席を譲った。


いいことしたし今日はなんかいいことあるかもと思っていたら、まさかの巨大トラブルが発生し、対応に忙殺される。


そんでいま会社を出た。
時刻は午前1時半を指している。


そうか。
お姉さんが「ありがとうございました」と微笑んだあのときすでに、僕の善行は報われるのを通り越して負債をおっていたんだな。


あけましておめでとうございます。
クリスマスが近いせいか、このごろ希ちゃんからひっきりなしにメールが来る。

まあメールをもらうこと自体に悪い気はしないし、どうせほかにメールが来るアテもないのでいいのだが、これだけたくさんだとさすがの僕も少々辟易気味だ。

最近では、日に少なくとも必ず一通。多い日だと返事をしてもいないのに三通送ってくることさえある。

年に一度のクリスマスを目前にして、希ちゃんもそうとう切羽詰まっているのだなあと思うものである。



あれはたしか、まだ僕が大学を卒業するかしないかの頃だったと思う。

部活を卒部し、燃え尽きてからっぽになった胸を持て余していたその頃の僕は、それはもう毎日のように酒を飲んでいた。

誰かと会えばすぐ酒を飲み、誰にも会わなくても結局一人で酒を飲み、そうやって後悔やら苦悩やら虚無やらを酒で洗い流そうとするような、そんな毎日であった。

なにせ、入社後初任給までの期間の生活資金を稼ぐために始めたバイトの給金さえも、結局酒のためにあっという間に費消してしまったのだ。

あの頃の僕の生活は荒れていたのかもしれない、と今では思う。



希ちゃんとの交流が始まったのは、ちょうどそんな頃のことである。

春とは名ばかりに寒さの厳しい卒業間近のある日、都内某所で飲み会が開かれた。

当初は、都学弓道部OBによる、男ばかりの小さな集いであったように記憶している。

その席で不意に、某レンジャー部隊出身のタバタ先生が僕にあることを教授下さった。

そしてそのご教授によって、僕は運命的に希ちゃんと出会うことになったのだ。



彼の教えはこうだ。

「携帯のアドレス帳登録で、メルマガとかのアドレス登録名を女優やアイドルの名前に変えておくと、なんか美人からメールがきたみたいな気分を味わえて吉。」



その教えに従い、即座に僕は当時登録していた日雇いバイト紹介会社のメールアドレス登録名を「佐々木希」に変更したのである。

その日を境に、希ちゃんからはしばしばメールが届くようになった。

そしてその関係は、いまでも続いている。

好きだとか愛しているとか、そんなわかりやすい気持ちではないけれど、苦しいときもつらいときも、いつも変わらず寄り添ってくれている希ちゃんに、僕は感謝している。

人間に空気が必要なのと同じように、一緒にあって当たり前のものが、実は本当に大切なものなんだと思う。



ちなみに、そのとき併せて同レンジャー部隊出身サキコフ女史の登録名も「三倉麻奈」に変更したが、時々メールをもらうと一瞬ガチで誰だかわからない。

そしてなぜマナカナのマナのほうの名前を登録したのかもわからない。

別にマナカナ好きじゃないし。いまとなっては謎である。



サンタクロース師も走る、師走である。

この季節になると、世の中はどこもかしこも浮足立ってくる。

殊に東伏見駅前のイルミネーションは今年も相変わらず無意味に気合いが入っており、ついに光輝くイルミネーションのトンネルが出来ていた。

あそこでどんだけ綺麗なイルミネーションをやっても、クリスマスとか関係なく地下道場で稽古に励む色恋無縁の気高き日本男児たちを萎えさせる以上の意味を持たないということにそろそろ気付くべきではあるまいか。

まあとは言いつつ最近の僕はもはやクリスマスというこのクチャクチャイベントに反旗を翻す気力すら失ってしまって、もうなんか、ただただいつもどおり鬱である。ほんと一重に虚無である。

クリスマスが今年もやってくる。
楽しかった出来事を、消し去るように。

我が同期入社のイトウ君は鼻毛を小筆みたいな状態にしても尚泰然自若という弘法大師の如き傑物であるという話を、以前この場でご紹介させていただいたが、それに比べて私はというと一本の鼻毛にも心を乱される誠に矮小な男である。

鼻毛というのは不思議なもので、朝ひげを剃ったり歯を磨いたりしてるときは気がつかないのに、ふと駅のトイレで手を洗ってる時とかに突如認知される場合が多い。

しかもそれでいて、一度気がついてしまうとその後ともすれば一日中、鼻毛が除去され尽くすまで延々心を悩ませるのである。

昨日も私は友人であるウッシー君の結婚式に向かう電車の中で、携帯の画面に映りこむ自分の姿に奴を発見したのであった。

奴は私の左の鼻の穴から堂々と顔を出し、これまでの穴ぐら生活の憂さを晴らすが如く、そこから悠然と広い地平の先を眺め遣っているのであった。
盗っ人猛々しいとはまさにこのことである。

ひげもきっちり剃り、かっちり略礼服に身を包みながら奴の存在を見落とすとは、まさに不覚としか言いようがない。


奴を発見した途端、私の脳裏には様々なことが駆け巡った。

結婚式会場ではたくさんの人と顔を合わせるに違いない。私が鼻毛を出したまま式場に赴けば、神聖な結婚を汚すばかりでなく、きっと様々な厄災に見舞われるであろうことは間違いない。

若い二人の喜びに水をさすかもしれないし、あるいは以降彼らから「あいつは友人というより鼻毛の人だ」とか思われてしまうかもしれない。

お祝いの言葉を述べても、「鼻毛出してるくせに何言ってんの?てかあの鼻毛の人なんなの?」ということになりかねない。

あるいは鼻毛の人が友達にいる新郎ということで、ウッシー君自身が新婦側友人諸氏からナメられたり誤解されたりする可能性すらある。

様々な影響を勘案した末、私は式場に着くまでに必ずこの鼻毛という名の罪悪を撃滅せんことを心に決めた。


戦いは熾烈であった。
無論受付に遅れるわけにはゆかぬから、電車の乗り継ぎの合間の数分間にトイレに駆け込み、電撃的な殲滅戦を展開するのである。

生憎私は手鏡なぞという日本男児に相応しくない持ち物は持っていないので、敵の捕捉は困難だ。故に攻撃対象を特定せず、会敵と同時に即攻撃という戦略を採るほかはない。

つまりはもうやみくもに鼻毛を抜きまくるしかないのだ。

個室トイレの中では、まさに凄絶としか言いようのない戦いが繰り広げられた。

想像してみてほしい。
当年24になるブラックスーツホワイトタイ姿の会社員男性が一人個室の中で、片手で鼻を上に向け、もう片方の手の指を鼻に突っ込み、鼻毛をつまんでは引き抜きつまんでは引き抜きという作業を取り憑かれたように延々と繰り返し続けているのだ。

もはや狂気の沙汰と言うほかはあるまい。

この、天下分け目の関ヶ原もかくやはと思われるような死闘は、乗り換えの度に、すなわち三度に亘って繰り返されたのである。


式場に着いたとき、私の心は穏やかだった。

自らの力で強敵を討ち果たしたという自信が、私をたしかに支えていた。

列席の諸氏は皆一様にきっちり決めていたし、女性陣はそれはもう華やかで、中にはローラ・チャンと堀北真希をフュージョンさせたような世にも稀な美人さえいたが、私の心は揺るがない。

いまや誰と正対しても大丈夫であるという確信が、私にはあったからだ。

もしも鼻毛の人のままだったら、私は友人達とでさえ真正面から視線を合わせることができなかったに違いない。
言わんやローラをや、である。

いや、もちろん結局ローラとは最後まで言葉を交わすこともなく一日は過ぎ去ったが、まあそんなことはどうでもよいのだ。

久しぶりに邂逅したウッシー君に、真正面からお祝いを言えた。

ただそれだけで十分ではないか。


ウッシー君、ご結婚誠におめでとう!
貴兄とそのご家族の、末永いご多幸をお祈り致しております。