ホントのワタシは、誠に何これ珍百景的な有り様であった。
絶対デビューすべきじゃない。

いや、しかしこれが本当にホントのワタシなのだろうか?
てかこんな顔だっけ?あれ?どうだっけ?

中学以来ずっと眼鏡なので、眼鏡を取り去った姿を視認するのは十何年ぶりだ。もはやホントのワタシがどんな顔だったのかもわからなくなっているのかもしれない。

いや、しかしそもそも本当の自己などというものが存在するのだろうか?

人は誰しも、心に仮面をつけているという。誰しもが己の作り出した自分を演じているのだと。

確かに我々は、外に見せている己の姿と己の内面の姿に少なからずギャップを抱いて生きている。

本当の自分はもっと暗くて、弱くて、ろくでもない人間だと、そういう自分を仮面の下に隠して生きているのだと、そんな感覚を持っている。

しかし、仮面をひとつひとつ剥ぎ取って、その全てを取り去った先に、本当に確固たる真の自己というものが存在するのか?

そこには何もないのではないか?

人間は、本質的に清濁を併せ持っている。矛盾を抱えて生きている。

綺麗な部分も汚い部分も本当にあって、それが矛盾するものだとしても、その両方が、その矛盾そのものこそが、本当の自分の姿なのではないか?

うんぬんかんぬん。


そんな取り留めのない思索に耽りつつ、僕は独りラーメン屋でビールを飲みながら、その日一日の出来事を思い返していた。

その日、僕は代休であった。

課長が必ず休めとおっしゃるのでムリクリ休んでみたわけだが、案の定やることが皆無である。

なのでウチでダラダラ過ごそうと思っていたのだが、弟が風邪を引いて家でゴホゴホ咳を撒き散らしていたので、このまま一日一緒にいたらさすがにうつると思い、とりあえず外出することにした。

普段は時間がない時間がないと不満をたれまくっている僕だが、元来の遊び下手のために、こうやって時間ができてみるとやりたいことが全く思い浮かばない。

途方に暮れるとはまさにこのことである。

そんなわけで近くの公園を何の目的もなくぶらぶら歩いていたら、以前眼医者さんで「コンタクト作ってみたらどうですか」と勧められたことを思い出した。

そこで、他にやることも思いつかないので早速眼医者さんに行ってコンタクトレンズをつけてみたわけなのだ。

本当は眼医者さんまでの時間をつぶすために、引き続き公園をぶらぶらしたり、本屋をぶらぶらしたり、近くのショッピングモールをぶらぶらしたり、喫茶店でニーチェを読み耽ったり、意味もなく一駅分歩いたり、なんかいろいろしたわけだが、ほんとに語るに値しないほど収穫がなかったので割愛する。


さてコンタクト装着が完了したとき、時刻は午後6時前となっていた。

ホントのワタシが十数年ぶりに晴れてお披露目となったわけである。

アイブサキは眼鏡をかけてたほうが可愛いと僕は思うが、眼鏡っ娘→眼鏡はずす→美人という方程式は一般的な公式として広く活用されているので、ヒゲメガネ→眼鏡はずす→モテダンディという公式も成り立つに違いないと僕は考えていた。

そう、僕は気付かなかったのだ。
ヒゲメガネから眼鏡を取ったらヒゲしか残らないということに。


ウキウキしながら立ち寄った近くのショッピングモールでトイレに入り、いよいよホントのワタシと対面する。

しかし、そこに立っていたのは、なんともとらえどころのない無味乾燥な顔をした、ヒゲの濃い男であった。

ヒゲメガネがただのヒゲになった瞬間である。

眼鏡を失った僕には特徴らしい特徴がなく、それでいてどこか間抜けな面長狸といった様相で、印象が薄い割にはヒゲはすこぶる濃い。

僕は愕然とした。

僕の特徴は、ほんとにヒゲとメガネだけだったということか。

「ジーゲスゾイレの半分はメガネでできています(もう半分はヒゲ)」ということなのか。

馬鹿な、そんな馬鹿な。もういやだ。ああ、彼女ほしい。ああしんどい。

もういいや、帰ろう。帰って寝よう。


しかしそう思って帰途に就こうとしたとき、僕の脳裏にはまた恐ろしい事実がよぎった。

あれ?俺って今日、眼医者行った以外なんもしてなくね?

代休の貴重な一日を、ただヒゲメガネからヒゲへの退化現象を経験するためだけに費消したとあっては、絶対に後悔する。

だめだ。このまま帰っては駄目だ。

猛烈になにかせねばならないという衝動につきうごかされた僕は、ショッピングモールに併設された観覧車に飛び乗った。

平日の午後7時過ぎ。外には雨が降っている。

こんなタイミングで観覧車に乗ろうとする人間は僕だけであった。

雨の夜に独りで観覧車に乗ろうとする男を前にしても、訝しむ表情ひとつ見せずに応対した係の青年は立派である。

僕自身でさえ、己の行動を訝しんでいたのだから。


さて、独りきりで観覧車に乗ると、どんな気持ちになるか。
皆さんはご存知だろうか。

こればかりは、やってみた者でなければわかるまい。

可愛い彼女と一緒だったらうんぬんとか、そういう気持ちになるものと僕自身も想像していたのだが、事実はそうではなかった。

意外なことに僕が感じたのは、死の恐怖であった。

ああ、いまここでこのゴンドラが落下したら、僕は独りぼっちで死ぬことになるのか。

こんな雨の夜に独り観覧車のなかで死んだら、僕を知る人々は何を思うだろう。

ああ、いやだ、死にたくない。

観覧車が一周するのに20分。どうか地震だけは起こらないでくれ。

こんな気持ちになったのは自分でも思い掛けぬことであったが、おそらく狭いゴンドラの中に独り閉じ込められる孤独がそれを強く意識させたのだろう。

それは、死こそが孤独の究極であるからかもしれない。

幸い、僕を乗せたゴンドラは無事に地上に舞い戻った。

係の青年は相変わらず愛想よく僕を迎えてくれたが、そんな彼に笑い返す気力は、僕には残っていなかった。


…。


その後、僕はラーメン屋に入り、ラーメンとからあげと瓶ビール一本を注文した。

コップに注いだビールをあおりながら振り返る一日は、やはり虚しい影を僕の上に落としていたが、しかしながら三つの教訓を僕に齎してくれた。

一、眼鏡は己の特徴の半分を規定するものと心得、その選定には慎重を期すべし。
一、観覧車には必ず二人以上で乗るべし。
一、死は誰にとっても孤独であるが、死の間際に孤独であるのは恐るべくある。後半生を共に生きる伴侶を見つけるべし。

代休の夜は、こうして更けていった。