今回のテーマも60年前の話..
”スロットカー”最初の営業サーキットはどこか?
ひとつ、S40(1965)年2月神戸は明石だとの記事を見たが..
日本初のスロットカー? | 「模型探偵団」明石小五郎.. (ameblo.jp)
実際は、それ以前 S39(1964)年、都内に多数存在していた。
人様の地元記事を否定して恐縮だが、都内のサーキットは
エビデンスも多い。
前回のモーターレストア記の通り、マブチがスロット用モーターの販売開始
(輸出)したのはS38(1963)年の夏。
Ref.⇒ モーターレストア<レッドライン7000> (ameblo.jp)
翌S39(1964)年、国内販売直後に神谷町や後楽園* など、いくつも
サーキットが営業していた。
明石が開業した翌月(=3月)には後楽園でもう全日本大会も開催
されているのだ(詳細写真等後述)。
また、外資系メーカーの拠点や工場等が多い静岡は御殿場**でも
かなり早くから”モデルカーサーキット”が存在していたと聞いた。
(昔の同僚、カツマタ氏**に教わった)
ところで、私が最初に行ったのは、神谷町=フィスコクラブ。
父方の末弟の叔父がクルマで色々と遊びに連れて行ってくれていた。
当時、覚えてるのは 神谷町ソレルのホットドック、新橋登亭のウナ丼、
数寄屋橋は不二家で2枚のパンケーキの間に、苺がタップリ挟まったヤツ***
木場のオムライス、etc.
食べ物ばかりでなく実車のレース場や、 私より年長(小中学生が憧れるような)
<Boys&Gals>が集まる”はじっこクラブ”..
どれも ”ボーイズライフ”のようなキラキラの世界は昭和のいい思い出だ。
一方、当時 小学生の自分にとって同級生の友人と(=叔父や親の保護なしに)
遊べたのは、神谷町よりも飯倉小から道一本隔てた東京タワーだった。
東京タワーサーキットは、むしろ後発で銀座や有楽町にもサーキットはあったが、
ご存じの方は 当時の様子ご教示下されば重畳この上ない。
ニチモがFT-16搭載のフォーミュラ2台(又は1/32のムスタング)付ホームコースを
発売(63年クリスマス?)、その後営業サーキットができる前はエアフィックスや
スケーレクス等、輸入モノのホームコースで遊ばれた方も多く聞く。
..往年の名レーサー 生沢徹氏も 一時”モデルカーレーシング”に凝られたそうで、
63(S38)年頃、「レース仲間の式場壮吉、浮谷東次郎など」 名立たる方々と
コースを組んで遊ばれ、その後ミッキーカーチスが品川に開いたコースに
通われたとの事。
初期に 1/32スケールから始まった日本のスロットカーが1/24フルサイズと
となった事や営業サーキットがオープンしたのもマブチの市販が契機と
なったのは論を得ないが、東京科学(現在のマブチモーター)が自社内に
テスト走行用に作ったのが本格的な最初のコースとも言える。
実際、東京科学社内に用意した走行コースに、サーキット設営や経営を
考えていた起業家を案内していたとの由。
下のマブチ社内バンク付コースは後年のもので、プレゼンをしたのは
フラットな平面コース(S38)だったそうな。
もし写真等お持ちの方はご提供下さればありがたい。
このバンク付き ”マブチサーキット”は「あかね製作所」が作ったもので、
後楽園*や神谷町の他に、中野*、武蔵小山****、西武デパート、木場、
ハタボウル*****、なども手掛けられていた。
しかし黎明期のスロットカーと釣り堀は ”雨後の竹の子”と言われた位、
ひと儲けしようとした輩がベニヤで急ごしらえされたりもしていたようだ。
(..木製サーキットは懐かしいものだが、水の漏れる釣り堀では大変だったろう。)
また、浅草でも”松竹サーキット”がS39年11月営業していた情報と
後楽園サーキットも既に開いていた旨の記事もあった。
↑S40(1965)年3月 後楽園の第一回全日本大会(報知新聞主催)、
優勝した野村正博氏の記事。(S39年10月からサーキットに通い始めたとある)
後楽園は私が行く前にツブレてしまい、神谷町も早くに閉店したので、
自分は東京タワーサーキットに通うようになった。
タワーの麓、我が飯倉小近隣は学区域を越えた”モデルカーレーシング”
交流があった。
子供達が営業サーキットの中だけでなく、公園でも空き地でも遊べる所に
自慢のモデルカーを持ち寄るものだった。
例えば、ニチモのフェラーリvsポルシェに始まり、タミヤのジャガー(GOSENのOEM)や、
そのタミヤもダイキャストシャーシ(ロータス30/フォードスパイダー)を経て、安定の良い
真ちゅうシャーシのエルバが流行り出したある時、当時の郵政省近くの空き地
”がけ下”で同世代の子がよく集まった。
他校の少年がランチアフェラーリを持ってくると、皆んな珍しそうに手に取って
見せてもらった。他にもニチモ製マンタレイの衝撃的な左右非対称ボディや
ドラッグスターなど登場すると、もう大騒ぎ。
ワイワイガヤガヤ、サーキットでなくても楽しめたものだ。
東京タワー<スロットカーがモデルカーレーシングだった頃> (ameblo.jp)
タワーにはフィスコクラブみたいなマニアックな雰囲気は薄かったが、
4階南側にあった(勿論、ビル内にカフェやゲーセンなどもあったが)サーキットは
ガラス張りで採光よくエアコンも快適、雰囲気も明るい健全な所だった。
学校が近かったので、PTAの帰りなど母と一緒に行ったこともあった。
残念な事に当時はどこも同様らしいが、PTAの圧力等で長くは続かなかった。
(世間のカーレース熱も冷めつつあったのだろうが、 PTA的論調が(エネルギー問題だけでなく)
当時のカーレースさえも衰退させたきっかけとも、逆に言えないだろうか?..トヨタや日産が
日本カンナムで終わらず、本場のCan-Amに出たら、と思ったのは私だけではないハズだ。)
グランプリ野郎/横山光輝(その①) (ameblo.jp)
グランプリ野郎 (その②)とマッハ号 (ameblo.jp)
そんな当時を思う度、PTAスケープゴート的偏見のなかった母には感謝している。
↑近所にあったデイトナコブラ。当時ならカレラ6もナンバーとって走れただろうか?
<P.S./2023.12.14>
テーマ ”日本初”の結論を記さずにいたが、早速貴重な情報を頂いた。
US先輩(その速さとミスない事から私はスロット界のクラークかスチュワートと思ってる)から
1964年10月末、後楽園サーキット開場の 「数日前に京都・八瀬遊園が
オープンした(ようだ)」 とのこと。
私の持つ数少ない資料でも窺えるのは ;
65年11月7日の京都ロマン大会は既に”第5回関西GP”と謳っている。
一方、同じ11月 中野で行われた オール関東選手権は未だ第1回。
(”サーキット対抗オール関東” は65年8月に皇居近くの科学技術館で行われたが)
昔の話で、硬鋼線を㍍単位で買ってシャフトを作ったとかセルロイド
の下敷きからガイドシューを作った事など聞いたが、都心エリアでは、
63年頃に生沢選手が ご友人達とエアフィクス等で遊ばれていたように、
ホームコースを更に進めてベニヤ張りや電関のトランス設備や技術で
クラブマン的なサーキットを作っても後楽園以前に堂々と営業されて
なかった様子は窺える。
早くに無くなった神谷町コースも、”フィスコクラブ”と名乗ったのは後のこと、
実車関係のノベルティをショップに置くようになってからではないだろうか。
(名称が先か、グッズビジネスが先か、今となっては不明だが)
つまり、サーキットを楽しそうだから始めた方もビジネスとして考えた方も
メジャーな後楽園で全日本が催されるまで何かを冠した”大会”までは
思わなかったのだろう。
ちなみに”第6回関西GP”は66年2月大阪のサンコーボーリングで行われたが、
その関西GPとは別に”京都GP”が前月(1月)行われている。
推測できるのは、京都の八瀬サーキットでは64年のオープン後、隔月でGPを
開催していたので65年11月が第5回関西GPとなったこと。
それ以降はスロットレーシングのポピュレーションセンターが大阪に移ったので、名称も
京都GPと変えたのではなかろうか。
(第7回関西GPも大阪のボールコンパ)
先日、京都の方が「東京も大阪も都会ですから..京都は古いだけの田舎どす」
(≒都会は目まぐるしいが、古くからの歴史は京都には敵わない) と言われたのを聞いて
(勝手失礼な裏読みだが)スロットカーの歴史でも先達になりたかったのだろうか..
などと想像してしまった。
いずれにしても、京都八瀬遊園のオープンが後楽園より数日間先なだけでなく、
スロットフィーバーも京都/関西エリアが早かったとは言えるだろう。
<n.B.>
* 当時活躍された我らがレジェンド、鳥海志郎さんのお名前は後楽園のリザルトに
ないが、65年のオール関東戦以降の快進撃は誰も知るところ。
また中野サーキット(旧、氷川町)と別に”中野モケイ”(大和町)では ユニークな
ツインモーターキットなど、独特の製品を作っていた。
’60年代は独特のアイディアが沢山あって、今こうして振り返っても楽いものだ。
**御殿場は昔から いろいろな機械メーカーの工場があり、またポジティブな教育方針か、
学校内にサーキットを設けた所もあったとの事。
また教えて頂いた方の漢字を失念してしまったが、現地でメジャーな異口同音の人名 :
勝又、勝俣、勝間田、勝亦(=現地ではアカマタやヒトマタと分けてる模様)いずれかなので
失礼してカナで表記させてもらう。
*** 不二家は40年代から銀座に本店が移った(発祥は横浜)キャラのペコ/ポコは
50/51年生まれなので親近感を持ったご同輩は多いはずだ。
(写真は63年の四丁目交差点)
**** 武蔵小山は住宅街の一画にある小さなサーキット(23M)、私は64年に
行ったのが最初だった。
箱詰のプラボディキットが詰まれた玩具屋のような他のサーキットと違う感じ、
それでいてスロットカー独特の雰囲気ある所だった。
薄暗さ(ガラス戸は道路に面しているのだが東京タワーのような採光ないため)、
壁にGOSENのシャーシ、AYKパーツが掛かりキットにないスパルタンなムード、
ツヤもしっとり少しオイリーな板張コース独特の香りなど懐かしいものだ。
”寅さんのおばちゃん”的な リネンエプロンをした方がオーナーだったようで、不在の時は
色白のお嬢さんが店に出てくれた個人商店的乍らマニアックな印象だった。
おばちゃんの情熱のお陰で、武蔵小山は黎明期から70年代まで続き、73年には当時の
各サーキットの1~3位獲得者を集め”チャンピオン大会”なるものが開催されたりもした。
当時、白金 - 武蔵小山 -等々力..と少ない乍らまさにサーキット(転戦競技)ができた。
白金レースウェイ<スロットカーがモデルカーレーシングだった頃> (ameblo.jp)
***** ハタボウルは1963年12月開館。こちらも明石サーキットより早い事になる。
サーキット閉鎖後も友人と卓球やスカッシュも楽しんだが、2011年全面閉館。
また大宮のハタプラザには、オーナーの趣味であろうクラシックカー博物館
(ブガッティから200GTまで、高価で貴重なクルマが沢山あった)ばかりか
”OLD LOCO RACING CIRCUIT & SHOP”が併設されていた。
大宮勤務時代の仕事中、偶々立寄ったハタプラザの中に見つけたのは何ともレトロな
フルサイズスロットカーコース。
正にキツネにつつまれた?タイムスリップでもしたか?錯覚ではないか?と思いつつ、
後日ビジネスバックにスロットカーを詰込んで仕事終わりに再訪、夢ではない!
サーキットスペースに他の客はいなかったがカウンターには女性のコンシェルジュが
立っていて背後にはレンタルコントローラもある。
フィラメント電球にキラキラと照らされた木製のコースは美しくも妖しい迄の雰囲気。
そこで会社の同僚と一度走ることが出来たが、2006年惜しくも閉館してしまった。
⇒ My Funny Valentine’s Day (ameblo.jp)
今や跡地は何の特徴もない高層マンションになっている。
業者は再開発して売れて儲かれば何でもいいのだろうが、アチコチで施設が潰れると
その後にできるのは、大抵が高層住宅。
そんな人口も需要もあるのだろうか?日本はどんどんつまらなくなってしまう気がする。
<P.S./2024.01.03>
ハタボウル最初のコースは8レーン33㍍だったが、1965年のデータでは8レーン43㍍と
6レーン37㍍のダブルキャストになっている。
もし大宮のハタプラザのコースが板橋のハタボウルから移設したものであったとしたら
40年以上使われた事になる。
走らせて頂いた2004(H16)年頃は(サーキットエリアには)他に客の居ない閑散とした
状態だったし使用頻度は低かったと思える。
それにしても、深谷シャパラルといい、桶川サーキット(会員制)*6、だるまや*7等々
埼玉県内には神奈川とは別のニュアンスでスロットカーマニアが多い
*6 : 会員制だが、2008~2010(H20~22)頃お世話になりました。m(_ _)m
プラキチ氏のHP ⇒ www2u.biglobe.ne.jp/ (桶川サーキット)
*7: だるまやは1Fが駐車場、2Fが1/24用コース、3Fが1/32用コースのマニアックさ。
同じくHP ⇒ www2u.biglobe.ne.jp/ (だるまやサーキット)
🏁60年代の夢よ、どうか覚めないでくれ..