Twitterで拾った記事
 
「ウイルス拡散防止に役立つなら、自分の人権をある程度犠牲にしても構わない」と答える人の割合が日本がぶっちぎりで低いというの。
個人主義や人権意識の高さというより、現状の自粛見れば日本人が人権が広範な権利・概念ということを知らないだけじゃねえか感が強い

https://twitter.com/dragoner_JP/status/1253847008013455360/photo/1

 

その通りだと思う。

個人と法人の人権では違いがあるし、経済的利益を求める人権は、個人の基本的人権とは一線を画すものであり、個人の人権より抑制れるのは力学関係からも妥当であるという「二重の基準論」は憲法学では通説である。

 

そして個人の人権が最重要とするならば、相反する個人の人権が競合するときは?

 

公序良俗、公共の利益、公共の安全を勘案した上で判断される。

 

つまり、公共の安全、公共の利益の為には、個人の人権が抑制されるのは当然なのであるという教育がなされていないのは、マスコミが自分たちの権利を個人の人権と同等のものとして、個人の人権を踏みにじるのは、自分たちの権利が優先されることを正当化している結果の副次的弊害と言っても良いのではないだろうか?

 

憲法における基本的人権とは、公共の安全、公共の利益の為に抑制される可能性があり、企業などの経済的利益を求める法人の人権は、個人の人権を守るためには抑制されることもあるという順列があるということを、子供の頃から教育するためにも、憲法を改正して人権の序列を明文化する必要がある。

 

マスコミが憲法改正を反対する理由は、ここにあり、9条反対を最前面に押し出しているのは、自分達が守ろうとしている既得権益を知られないようにするためなのではないかと、私は推測せざるを得ない。

こういう話は、どちらの側に立つかで議論が二分される。

 

コロナ対策か経済対策かは二分してはならない議論であり、如何に高いところに妥協点を見い出すかという話だから、あらゆることを考えて一つ一つ形にしていくしかない。

 

だが、この話は、帰省出産はハードルが高く、現在の状況では自制して欲しいという前提があり、それに対して強行すれば、それなりに自身がリスクを背負うことになるのは、ある意味自己責任となるはずである。

千葉から「里帰り出産」妊婦の救急搬送、岩手の2病院が受け入れ断る

4/23(木) 21:09配信

読売新聞オンライン

千葉県から岩手県に帰省した30歳代の妊婦に対し、同県立の2病院が救急搬送の受け入れを断っていたことが23日、県医療局などへの取材でわかった。

 同局によると、帰省した女性は今月17日、同県一関市内に滞在中、破水しそうになったため救急車を要請。消防が市内の県立磐井病院に受け入れを依頼したが、女性は帰省して3~4日後だったため断られたという。同様に北上市の県立中部病院にも断られ、その時には女性はすでに破水していたという。その後民間病院に搬送され、無事出産した。

 2病院は里帰り出産の受け入れに際し、来県して2週間は実家などでの待機を求めていた。女性に発熱などの症状はなく、PCR検査でも陰性だったという。

 読売新聞の取材に磐井病院の千田了(さとる)事務局長は「重大なことと受け止めている」と話し、中部病院の海沼建司事務局長は「院内感染のリスクを考え、やむを得ず断った。手術室に陰圧装置を設けるなど、受け入れ環境を整備したい」と語った。

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200423-00050261-yom-soci

 

この記事は、搬送を拒否した病院を責めるのでは無く、現況では里帰り出産は大きなリスクを伴うという戒めとして報道されるべきであると思う。

 

今は、コロナを筆頭とした病から命を守ることを最優先としているのだから、医療機関の機能維持を第一義としなければならない。

 

しかし、経済にって命を失う人がコロナよりも被害が大きくなるというのならば、施策の方向転換は不可避となるが、その際は高度な妥協点を見いだすことは不可能であることは想像に難くない。

 

何故ならば、経済優先に舵を切っても、新型コロナによる景気減速は流行が終息しなければ、深刻な影響を与えることは否めないからである。

 

結局のところ、新型コロナによる犠牲も、経済による犠牲も、受け入れながら、緩やかな着地点を見いだしていくしかないというのが現状であり、その際に自粛自制を守れなければ、そのリスクは自分で背負うということを自覚させるべきなのではないだろうか?

 

 

軽症者として自宅待機の男性死亡

4/22(水) 20:22配信

共同通信

 埼玉県は22日、軽症者として入院せずに自宅待機していた県内の50代男性の容体が悪化し、21日に死亡したと明らかにした。

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200422-00000154-kyodonews-soci

トリアージで対応するということは、こういうこも想定しなければならないことを、どれだけの人が理解しているのだろうか?

 

トリアージという災害時の対処方法は、命の選別とも言えるものであることは、これまでも記事の中で何度も述べてきたが、これからも何度も伝えていこうと思う。

 

こぼれる命を無くすというのが理想の医療であるが、災害等で一気に患者が医療リソースに対し許容量を超えるような人数に及んだ場合、リソースで助けられる命の最大数を目指すものであり、それは、生きていても手の施しようが無い人を治療から外すだけでは無く、通常ならば、余裕のある医療リソースをフル活用して例え数パーセントでも可能性があるなら治療する患者を一人治療から外すことで、二人以上の人を助けられる可能性があるならば、そちらの治療を優先するということである。

 

その点が「命の選別」と言われる所以であるが、それは予想外の急変や、入院できなかった人が亡くなることも想定内であり、それでも、より多くの命を救うことを第一義として対応することであり、それは自分の家族よりも助かる可能性のある人を優先するという不文律の下に成立している行為である。

 

「自分の家族なら同じ事が出来たのか?」と、非難する人を見かけるが、それを行うのがトリアージであり、心を鬼にしても、やり遂げなければならない医師にとっても、地獄の業火に身を置くような行為なのである。

 

トリアージは既に行われており、有事における「命の選別」が行われなければ、数多くの命を救えない状況になっていることを日本人全てが理解するべきだと思う。

 

平和ぼけした日本人が、医療の最前線にいる人達、そこに対応する立場にある行政機関を非難することに終始していると感じる時が多々あるが、今は国家存亡の危機であり有事なのだという意識を持ち、最大限の協力を惜しまないことが重要なのだと伝えたい。

 

経済的窮地に追い込まれている人達の命と新型コロナによって

失われる命の、どちらが多いのか?

 

これも、事実上のトリアージなのではないだろうか?

 

経済が再開されるとき、発展途上国のように新型コロナで失われる命を想定内になる可能性があることも伝えておかねばなるまい。

 

国に期待している人も多いが、国にも限界があるし、国が国民を守ると同時に、国民も国を守るという相互関係があって、国家に期待できるのではないだろうか?

 

鶏と卵、どちらが先か?ではないが、経済を無視することは出来ないが、新型コロナが蔓延しても経済は崩壊するということも多くの人は理解出来ていると思う。

 

少ない救済支援であっても、何とか持ちこたえるしかない・・・としか、今は、言えないもが残念である。